第6話 優しい夫

 直帰した芙季子は、自宅に着いた途端ぐたっとへたりこみ、玄関から動けなかった。


 体は正直だった。産後2週間はほとんど体を動かせなかったが、最近は普段通りの生活ができていると思っていた。いざ復帰してみると、1ヶ月間あまり体を動かせなかったブランクを実感した。


 一日中歩き回った脚は鉛のように重く、靴を脱ぐとほっとした。

 しばらく玄関でぼんやりした後、ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。

 頭からシャワーを浴びる。さっぱりすると、身体の疲れが少し癒された。


 夕飯を作らないと、と冷蔵庫を開く。

 昨日スーパーに行ったから、食材はある。だが何を見ても、作る気力が湧かない。

 食べたい物も思い浮かばない。

 昨日、何を作ろうと思って買い物をしたのだろう。

 何か買ってくればよかったのに、そこまで気が回らなかった。


 とりあえず、ご飯を炊こう。

 米を洗って炊飯ボタンを押して、ソファーで横になった。

 冷蔵庫にあるものを思い出し、食材検索をする。時間が短くて手順が楽で美味しそうな物――。


 はっと気がついた。全灯にしていたリビングの明かりが、柔らかいオレンジ色になっている。

 カチャカチャと遠慮気味の音が聞こえて芙季子は体を起こした。

 体にはかけた覚えのない羽毛布団がかけられている。


「起きた? 食べる?」

 崇史が台所に立っていた。

 時刻を見て、一時間半もソファーで眠っていたと気がつく。


「何度か連絡したんだけど、返事がないから仕事だろうと思ってた」

「何を買ってきてくれたの?」


 ワクワクしながらカウンターキッチンのイスに腰掛ける。

 崇史は洗ったレタスの水を切り、サラダボウルに盛っていた。


「豚丼。ジャンクなものが食べたくなってさ」

 大学入学から都内で一人暮らしをしていた崇史は、よく牛丼を食べていた。最近は豚丼が好みらしい。


 ランチョンマットの上にサラダと漬物、味噌汁とメインの丼が並ぶ。芙季子の胃が空腹を訴えた。お腹は空いていたらしい。


「さあ、食べよう」

 うきうきした声で崇史も隣に座った。


「いただきます」

 人が用意してくれたご飯は、なぜだかとても美味しい。手作り、テイクアウトに関わらず。


「取材、久しぶりで疲れたろう」

「うん。疲れた。足ぱんぱん」


「だろうな。体は大丈夫か」

「うん。平気」


「今日はベッドで寝たら?」

「ううん。大丈夫、自分の部屋で寝る。慣れてる布団のほうがいいから」


 普通の夫婦は、食事をしながら仕事の会話をするのだろうか。咀嚼しながら考える。


 芙季子は週刊誌の記者。

 崇史は新聞社の記者。


 今は政治部だから、仕事内容はかぶらない。それでも互いの仕事の話はしない。

 結婚時にした約束事だった。


 付き合っているときは、崇史は地方にいたし、芙季子は旅行誌やグルメ誌だったから、他社であることを意識しなかった。だが芙季子が週刊誌に異動になり、情報は身内であっても他社に渡してはいけないと気がついた。そして仕事の話は互いにしないことにした。


 媒体が違うとはいえ、記者が汗水を垂らし、体を酷使して掴んできた情報を、そう易々とは漏らせない。


 崇史も同じ考えだった。

 価値観が同じであれば、ぎすぎすすることはない。結婚して3年、それが普通になっていた。


 崇史が風呂に入っている間に洗い物をすませ、芙季子は自室で横になった。

 まだ11時になっていないが、ひととき眠ったとはいえ疲れは残っていた。

 吸い込まれるように布団に潜り込み、考え事をする間もなく眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る