萌~匿名企画参加作品集~

戸松秋茄子

匿名青春小説企画

狼は見ていた(3位)

 二億五〇〇〇万年前の事だった。

 その頃、地球はペルム紀の大量絶滅の真っ最中で、地下深くから噴き出した溶岩が地上の生き物を焼き尽くし、海を酸化させ、大気を温室効果ガスで満たし、地球上のあらゆる生き物をゆっくりと嬲り殺しにしていた。

 だからきっと、その星﹅﹅﹅の誕生は、この地上の生き物にとっては関心の埒外だったに違いない。八光年も離れた星の事を気にかける余裕などある筈がない。たとえその星がどれだけ明るく、太古の星空でも一際輝いていたとしても。

 時代は下り、大量絶滅を生き残った種が進化の果てに、現生人類として産声を上げる。神話と物語の時代の始まりだ。人類は夜空の星々にあらゆる物語を見出し、そして名を与えた。

 地球の夜空で最も明るいその星は、洋の東西を問わず、古くから人々の関心を引いたらしい。それぞれの地域で、それぞれの名前で、文献に記録されてきた。


 シリウス。


 ギリシャ語で「焼き焦がすもの」を意味する名を冠した一等星。冬の大三角の一角にして、おおいぬ座のα星。またの名を天狼星、ドッグスター。

 その輝きは、都会の空であっても陰る事はない。夏の早朝、冬の夜。見上げればそこにあの星が輝いている。その青白い煌きからは、どこに行っても逃げられない。

 シリウスはどこまでも追ってくる。忘れる事を許さない。

 あの日――犬を捨てた日からずっと。


『バイバイ』


 何も知らない犬に、私は告げた。東京の家であなたは飼えないのだと説明したが、おそらく理解はしていないだろう。母が私に犬を捨てて来いと命じた事も、きっと。

 愛嬌のある、雑種の雄犬だった。父が生きていた時にどこからか貰ってきて以来、一人っ子の私にとっては兄弟のような存在だった。餌をあげるのも、散歩に行くのも、私が率先して手を挙げた。犬も、家族では私に最も懐いていたと思う。

 だからきっと、これから自分が捨てられるなんて思いもしなかったろう。山に入って行ったのだって、少し新鮮な散歩道くらいの感覚でしかなかった筈だ。


 あの時、私は十歳で、みんなと一緒だった。

 琴乃。

 辰。

 明良。

 黎斗。

 私が犬を捨てるのに付き合ってくれた幼馴染たち。

 あれから、彼らとは一度も会っていない。故郷を離れて六年。私は東京で新しい友人たちに囲まれ、新しい父と、新しい家に住み、新しい犬を飼っている。あの時捨てた犬と違う、血統書付きのジャーマンシェパードを。

 犬の散歩で早朝や夕方の街を歩く時、私は頭上にもう一匹の犬を感じる。あの時捨てた犬が、いつもどこかから見ている様な気がしてならない。たとえば、空の星となって。

『ほら、あれ。シリウス』

 故郷では、幼馴染とよく星空を見上げたものだった。秩父の空はこの都会よりもずっと暗く、そして多くの星々に彩られていた。地上で散った命の数だけ星があると言われても信じてしまいそうなくらいに。

『シリウスが誕生したのは約二億五〇〇〇万年前。その頃の地球は――』

 都会の空で孤独に輝く星を見上げていると、犬は先を促す様に小さく吠える。おっとりとした大型犬の彼が吠える事は余りない。こうしておねだりする時くらいだ。尻尾をぶんぶんと振り回す彼の頭をそっと撫でてやり、散歩を再開する。もう一匹の犬の視線を感じたまま。

 いつか忘れるものだと思っていた。都会で暮らすうちに、いつか頭上の犬など気にかけなくなるものだと。だけど、運命がそれを許さなかった。

 一六歳の冬、私は故郷に戻る事になったのだ。



 一人だけ電車で移動する事になったのは、家族の車に空きがなかったからだった。二列シートのSUVに、両親と妹、そして大型犬が同乗するのだ。後は荷物でいっぱいになる。

『荷物なんて送ればいいだろ?』

 父が言う。母の再婚相手で、私にとっては義理の父親だ。彼は新しい家族の中で明らかに浮いている私をいつも気遣ってくれた。

『いいよ』私は言った。『私は一人で大丈夫』

 父は尚も私と母を説得しようとしたが、無駄骨に終わった。いつものパターンだ。母は私に興味がないし、私もこの新しい家族の一家団欒に水を差すつもりはない。

 引っ越しの日、私は名残惜しそうにこちらを振り向く犬の頭を撫でてやり、家族の出発を見送った。少し遅れて、私も駅へと向かう。池袋で乗り換え飯能駅へ、そして西武秩父線で故郷を目指す。

 都市部を離れて徐々に自然が豊かになっていく車窓の外を眺めながら、故郷での事を考えていた。

 琴乃には、帰る事を連絡してあった。そうやって連絡を取るのは数年ぶりのことで、相手も驚いた様だった。駅前で待っていてくれるらしい。

 御花畑駅で秩父線に乗り換え、地元の駅に着いたのは午後三時過ぎの事だった。無人の小さな駅舎を抜けると、枯れ木の立ち並ぶ住宅街に対面する。昔と変わらない、田舎の風景だ。

「天音?」

 自分と同年代の少女が声をかけてきた。ダウンコートに身を包んだ、ミディアムボブの少女だ。背格好は変わったが、人のよさそうなたぬき顔に当時の面影がある。

「琴乃?」

 古き友の名を呼ぶと、彼女は「正解!」と勢いよく抱き着いてきた。これでこそ琴乃だ。いつも素直で、感情豊かで。屈託のない明るさに少しホッとする。

「おかえり」

「うん、ただいま」

 それから、お互いの近況やこの六年間の事を話しながら、私の家へと向かった。母の実家で、六年前まで私と母、そして当時はまだ存命だった祖母が住んでいた家だ。私たちが東京に引っ越してからは暫く貸しに出していたが、今は空き家となっている。元々は母の家族が暮らしていた家だ。私たち一家が移り住むにはちょうどいい広さだった。

「他のみんなは元気にしてる?」大通りの歩道を歩きながら尋ねた。「ほら、黎斗とか辰とか」

「ああ。うん、まあだいたいは元気……かな」琴乃は少し間を置き、「もしかして知らないの?」

「何が?」

「辰の事」

「何かあったの」

「あのね、辰は死んだの」



 懐かしき我が家には、私が一番先に着いた。築三〇年になろうかという庭付き二階建ての木造一軒家だ。預かっていた鍵を使って、一足先に敷居を跨ぐ。引っ越し業者が来るのは明日になる。家具ひとつない屋内は、記憶よりもずっと広く感じた。

 大事に使ってもらったらしい。壁や戸、柱に目立った疵はない。しかし、よくよく観察すれば、壁の各所に画鋲の跡があり、祖母の部屋の柱には、幼い私の身長で刻まれた痕があった。

 どこか懐かしい匂いで肺を満たしながら、祖母の部屋の畳の上で仰向けになる。昔はよくこうして昼寝をしたものだ。祖母に見守られながら。犬を抱きながら。


『辰は死んだの』

『どうして』

『動物に襲われたみたい。逃げはしたけど、太腿の大動脈を噛まれて出血多量で……狼に噛まれた、なんて言う人もいる』

『狼?』

『うん。昔からあるでしょ。狼を見たって証言が。ほら、九〇年代にも写真が撮影されてたりするし』

 その写真なら、私も知っている。秩父の山中で撮影された写真だ。一見、雑種の犬にも見えるが、耳と前脚が短く、尻尾が真っ直ぐであるといった特徴は、ニホンオオカミのそれと一致するらしい。かつては日本中の山林に生息し、二〇世紀初頭に最後の個体が確認されて以来、絶滅したとされる種と。

『でも、狼なんて……』

『そうだね、実際には野犬に噛まれただけだと思う。山にね、野犬が住み着いてるの。野生化して、もう何代か経つんだろうね、殆ど狼みたいになってるんだって』

『辰は山に入ったって事?』

『たぶん。でも、本人が何も話さなかったのか、詳しい事はよく解らなかったみたい』

 犬と言わずとも、山には熊が出る事もある。理由もなく、立ち入るとは思えなかった。

『野犬ってそのままにされてるの?』

 野犬なら、私が住んでいた頃もいた。だけど、あくまで噂を聞いただけで、実際に見た事はない。ましてや、人を襲ったなんて話は聞いた事がなかった。

『うん。駆除してるって話は聞くけど……でもほら、今はどこも人手が足りないから。未だに目撃する人がいるみたい』

『それって……』

 あの日、私が捨てた犬もその一頭かもしれない。そんな懸念を否定する様にして、琴乃は続けた。『山に犬を捨てる人は昔からいる』

 確かにそうだった。だからこそ、私も山に犬を捨てに行ったのだ。悪しき先人たちに倣って。

『そうだけど、でも……』私は食い下がった。私の犬も、狼に似た雰囲気があった。他の犬と交配すればより狼に似た風貌の個体が生まれても不思議ではない。

『暗い話はもうやめにしない?』琴乃は微笑んだ。『山に入らなければ、大丈夫なんだし』

 有無を言わさぬ口調に思えた。琴乃はこれで頑固だ。彼女が口を閉ざすと決めたなら、梃子でも動かないだろう。

『そうだね』私は引き下がった。『じゃあ、他の子たちはどう?』

『明良は私と同じ学校に通ってる。ちなみに彼女募集中だって』

『そう』相変わらず軽い調子の様だ。『黎斗は?』

 琴乃が言い淀む。

『生きてるよね?』思わず問う。

『うん、そこは安心して』琴乃は言った。『ただ、気軽に会いに行ける様な状態じゃないってだけで』

『引っ越したとか?』

 琴乃はかぶりを振る。

『そうじゃないの。だけど――』


 微睡みを破る様にして、バイクのエンジン音が響いてきた。一つではない。何基ものエンジンが存在を主張する様にしてぶおんぶおんと嘶いている。

 慌ててベランダに飛び出した。既に空が暗い。エンジン音の方を辿ると、少し遠くの道路を横切っていく隊列が見えた。


『黎斗はね』琴乃は言った。『暴走族のリーダーをやってる』

『暴走族?』

 黎斗は、背こそ低いものの大人びた男の子だった。星の名前や逸話に詳しくて、夜空を眺めながら、プラネタリウム顔負けの解説をしてくれたものだ。そんな彼が今は暴走族を率いているという。

 彼ならできるだろう。星の代わりにバイクの素晴らしさや走りの美学を語れるのだろう。だけど、一体どうして――

『そう、確か『ライラプス』ってチームだったかな』

『それって、おおいぬ座の?』

 ライラプス。ギリシャ神話に登場する猟犬の名だ。彼は狙った獲物を決して逃さない運命を持っていた。ある時、彼は作物を荒らし人々を苦しめる狐を追う任務を課せられる。しかし、その狐は、狼とは真逆の運命――何者にも捕まらないという運命を持っていた。

 西洋版の「矛と盾」だ。彼らの運命は二頭を永劫の追いかけっこへと導いた。犬は決して狐を捕まえられず、狐は決して犬から逃げ切れない。

 この終わりなき千日手を見かねたゼウスは両者を石に変えてしまう。そして、これまで人に尽くしてきた功績を称えられ、ライラプスは星座となった。それがおおいぬ座だ。

 黎斗が意味もなく適当な名前を選ぶとは思えない。一体、ライラプスの長たる彼は何を追いかけているのだろう。バイクでも追いつけないくらい素早い獲物とは何だろう。

『そうだね、昔、黎斗が教えてくれたっけ』琴乃は懐かしむ様に言った。『ライラプスのメンバーはみんなバイクに狼のエンブレムを刻んでる。だからきっと、見れば解ると思う』


 隊列とエンジン音が遠のいて行く。バイクのどこかにあるという狼のエンブレムを確認することもできず、私はベランダに一人残される。

「あ、お姉ちゃん」

 下から声をかけられた。漸く到着したらしい。妹と犬が家の前に佇んでいた。母と父は荷物を運び出すところらしい。迎える為に下に降りる事にした。その時、ちらとシリウスが目に入る。故郷の空に煌めく、青白い光。東京で見るよりもずっとはっきりとした――

 あの日、犬を捨てた日に見て以来だった、故郷のシリウス。

『どうすんだよ、これ!』記憶の中で誰かの声がした。辰だ。

『死んじゃったのは仕方ないよ』黎斗の声だ。『僕らのせいじゃない。そうでしょ?』

 眩暈がする。世界が反転して、私は畳の上に倒れ込んだ。記憶の奥底で何か明るい物がちかちかと光る。シリウスとは真逆の赤い光が。血のように鮮烈で真っ赤な光が。

『大丈夫だよ、天音』黎斗が柔らかく微笑む。『きっと誰も彼を探す事はない。だから忘れるんだ。いいね?』

 あの日、何があったの?

 私はもしかしたら重大な事を忘れているのかもしれない。あの日、犬を捨てた日に起こった事を。琴乃が多くを語りたがらなかったのも、その何かのせいかもしれない。

 誰かが死んだ。

 だとしたら、誰が?

 誰にともなく問う。問うべき相手がいるとすれば――

「黎斗」

 彼なら話してくれるだろうか。あの日、本当に起こった事を。私が忘れた死者の名を。赤い光の正体を。

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