傑作の悪魔
生來 哲学
傑作は君のために
「頼もう! 傑作を一つ頂戴! ……って誰も居ないっ!
真っ暗で広くって、完全に廃墟だ、ここっ! 人がいるのかな。いや、悪魔なら居るのかもしれないけど」
「ケーケッケッ、元気が良いね」
「わぁ! なんか声聞こえてきた! はい、元気ってよく言われます!」
「そうか、帰んな」
「嫌です!」
「我が儘だねぇ」
「そうかも!」
「なーんでまたこんなトコに? 傑作なんてどこにでもあるだろう?」
「分かんない! ボクは傑作なんて読んだことない。世の中どれもこれも似たような話ばっかり! だから教えてよ。ここに来れば悪魔が傑作を教えてくれる。そう聞いたよ、傑作の悪魔さん」
「傑作の悪魔ぁ?」
「そう。怪談だよ。最果ての図書館に行けば、傑作の悪魔に会えるってね」
傑作の悪魔
暗がりの廃墟には幾つもの棚がパルテノン古代神殿の柱のように立ち並んでいた。
それらの棚には幾つもの紙束が収められている。ファンタジーアニメや歴史ドラマで見たことがある。あれらの紙束一つ一つには書籍データが印刷されているのだ。
――まるでサーバールームみたい。
最果ての図書館に並ぶ棚の数々を見て少女はそんなことを思った。もっとも、紙束に詰まった情報はせいぜい100MB足らずに過ぎず、同じ体積のサーバーマシンの何兆分の一にも届かない。
「ケッサクだねぇ。最果ての図書館? そんな場所へはるばるお嬢ちゃんは来たのかい?」
「うん。ボクも最果てに住んでるからね」
「ええぇ? 地元民なの? それでそんなトレジャーハンターみたいな格好して来たの?」
少女は短い黒髪にゴーグルをカチューシャのようにかけ、白いクロップトップスとジーンズという格好で背中には小さなリュックを背負っている。全身から宝探しに来ましたというオーラに溢れているが、よく見るとどれも汚れ一つ付いてない新品だ。
「でも苦労したよ。この図書館、駅の横にあるのにシステムのガイドアシストがルートナビしてくれないからね」
地元民達も大通りにあるのに誰も行き方が分からない遺失地点<ロストポイント>として不審に思っており、この街の七不思議の一つとして数えられているほどである。
「ケーケッケッ。ケッサクだねぇ。機械の案内した道しか歩けないのかい?」
「そうだよ? 学校で習わなかったの?」
悪魔の言葉に少女がきょとんとする。
「――そうかい。今時の子はそうなんだねえ」
「システムの整備された今の時代、交通事故なんてそうそう起きないけど、それでも起きた時の理由の八割はガイドナビの指示した以外の道を進んだ時だよ。決まりは守らなきゃ」
「ほーう。ではお嬢ちゃんはどうしてこの場所に来れたんだい? ここはサーチエンジンやマップアプリにも登録してない、電子的空白地点<デジタルデッドポイント>なのに?」
「まあ、そこは若いので」
「自由なのか窮屈なのかよく分からない子だねえ」
「てへっ」
「誉めてはいないねえ」
「そうなの?」
「ああ、絶対にだ」
悪魔の言葉に少女はしょぼんとする。
「さて、改めて警告しよう。ここにはお嬢ちゃんの望むモノはない。早々に立ち去りな」
「そんなぁ」
「合理的な判断だよ。今の世の中、電子の海に幾らでも傑作は転がってるし、それこそ、AIで幾らでも生成できる。こんな廃墟で探すことはないってね」
少女は大きく首を振る。
「宝探しをするには海は広大すぎるよ。電子の海はあまりにも玉石混淆でさ。
幾つもの名作と、無限にも近い駄作に満ちてる。
こうしている間にも生成AI達が無限に吐き出し続ける駄作の海の中からどうして傑作が見つけられるっていうの?」
「なら、傑作と周りに呼ばれている話を読めば良い」
「ランキングにある話はどれも似たり寄ったり。流行のジャンルのバリエーション違いばかり。そりゃ面白いのかもしれないけれど、今の流行のジャンルはボクの好みじゃない」
「なら過去の傑作を読めば良い」
「うーん、昔の名作を読んでも遠い昔の他人事って感じでいまいちで。人間がネットに接続してない時代の話は実感が湧かないし」
「だったらなおさらだ。こんな廃墟にお嬢ちゃんの探すものはないよ」
「でも、ここには悪魔さんが居るじゃない」
少女はぱんっと手を叩く。古びた図書館に低く、残響がこだました。
「悪魔さんならきっとボクの欲しい本を、ボクが面白さを感じられる傑作を教えてくれる。そういう話でしょ?」
「そりゃ勝手に作られた都市伝説<クリスピィパスタ>だねぇ。アタシの知るところじゃあない」
「うえぇええ? そうなの?」
「そーなの」
たしなめるような悪魔の声。
「再度警告をしよう。ここから立ち去りたまえ。君の言う『最果ての図書館』は限られた者にしか門戸を開いていない。電子の海で浴びるほど駄作を読んでたら、そのうち傑作に辿り着くだろうよ」
だが、少女は納得しない。
「それじゃここに来た意味がない!」
「成果のないことに無意味を感じるのは人間の悪い癖だ。この世のすべての出来事には意味がある。神がそうお造りになった。無意味に感じるのは人間がその意味をくみ取れてないだけにすぎない」
「じゃあ悪魔さんはここで何をしているのさ!」
「アタシかい? そりゃ勿論――物語を愉しんでるさ。ここには幾らでも、読み切れないほどの傑作が溢れてるからね。蔵書を管理しながら楽しい読書ライフさ」
「ずるい! じゃあボクにも教えてくれてもいいじゃない!」
「言っておくが――この図書館には秘蔵の傑作なんてものはないよ。ネット上には幾らでも同じ内容のデータが溢れてる。本を読むだけならネットに接続するだけで充分だ」
「ならどうして――」
「本が好きだからだよ。データの物語を読むのも好きだけどね」
「なんてうらやましい」
不意に会話が途切れた。
なにか気に障ったことでも言ったのかと少女は不安になる。
「――意味が分からないね。お嬢ちゃんは、物語が好きじゃないのかい?」
聞こえてきたのはややかたい声。
「ボクは面白い物語というものが分からない。だから、知りたいんだ」
古びた図書館は再び静寂に包まれた。
それ以上、少女は何も言わない。
悪魔も何も言わない。
やがて、薄暗い図書館の床にぽつり、ぽつり、と淡い光が灯った。それは幾つもの列を成し、光の道を暗闇に作り出す。
「少し興が乗った。中に来ると良い」
「急だね」
「悪魔は気まぐれだからね」
「ありがとう、悪魔さん」
「お嬢ちゃん、あんたの名前は?」
悪魔の声に少女は喜びを持って名乗る。
「桜井ルイザ」
「良いだろう。書の悪魔ダンタリオンが傑作の一端を君に開示しよう」
灯りの落ちた図書館の廊下に出来た光の道を辿るとやがて最奥の小部屋に辿り着いた。司書室のネームプレートがかろうじて印字されている。
「お邪魔しまーす」
少女――ルイザが扉に触れると扉が左右に開き、ぶわっ、と明るい光が飛び込んできた。
そこにあったのはやはり紙束にまみれた部屋だった。ただし、部屋の外は棚に紙束が整然と並べているのに対し、司書室は横置きされた紙束が幾つも縦に積み重なり、不格好なタワーをあちらこちらに形成している。
そんな紙束のタワー群まみれの部屋の中央へ目をやると執務机の奥に巨大な椅子に座るよれよれのスーツを着た長身痩躯の女性がいた。座っていると言うのに座高は二メートルを超えそうなほど高い。
座っている人間を見上げるのは幼少期以来の体験だった。
若いようにも見えるし、年を重ねているようにも見える。
だが、不思議と老いた印象は受けなかった。
床につきそうなほど長い黒髪、切れ長の鋭い垂れ目、高い鼻、ギザギザの歯、細長い手足、そして充満するコーヒーの匂い。
年代物の木製の椅子に窮屈そうに腰掛け、こちらを見下ろすその姿はまさに悪魔のそれに見えた。ルイザにとって、垂れ目なのに目つきが悪い人を見るのは初めてのことだ。
「どうも、ダンタリオンさん」
「悪魔でいい」
「分かりましたタリオさん」
「あ、分かってないな、お前」
「どうでしょう?」
「生意気なガキだね」
「お子様は嫌い?」
「好きだったら、こんな嫌々中に入れたりはしない」
苦虫を潰したような顔で書悪魔は長い手を伸ばし、執務机の上に置いてあるコーヒーを手に取り、静かに啜った。
「……どうした?」
「思ったより人の姿してるな、て」
「そんなことを言われたのは初めてだねえ。生まれてこの方、背がでかいだけでバケモン扱いされてたんだが」
「背がでかいだけじゃないですか」
特注の椅子に座るその姿は確かに大きい。おそらく立ち上がれば身長三メートルには届きそうだが、それでも角や尻尾が生えている訳ではない。
「背がでかいだけで、だよ。仕方ないからこうして書を読んで、余生を過ごしてる」
「……やっぱり人間なんですね」
「さてね、今も人間かどうかは諸説ある」
少しがっかりした顔の少女に書悪魔は意味ありげに笑う。
途端に少女は目を輝かせる。
「じゃあ、今は違うんだ?」
「守秘義務があってね。その辺のガキには言えないね」
「ケチ」
「ケチじゃなくて悪魔だよ」
書悪魔は細長い手を伸ばし、対面の席を指差した。
「座りな。コーヒーは好きか?」
少女――ルイザは座りながら首を振る。
「飲んだことない」
「じゃあ、初体験だ」
書悪魔が手を鳴らすと遠くでゴウンゴウンと何かが震える音がした。
やがて、濃密な匂いと共に天井が割れ、コーヒーカップがゆるゆると降りてきた。
「悪魔の割に現代的な召喚ですね」
「魔力の節約だよ」
「ちなみにこの部屋以外真っ暗なのは?」
「光熱費の節約だよ」
「やっぱりケチでしょ」
「いいや、ケチじゃなくて悪魔だね」
どうでもいいことを聞くなと書悪魔が手を振った。それと共に風がながれてルイザにコーヒーの香りが届いた。
「なんかとてもコーヒーって感じの匂い」
「飲んだことはないのに匂いは知ってるんだな」
悪魔は少女の語彙のなさを責めない。
「お爺ちゃんがよく飲む人だったから」
「なるほど、趣味のいい爺さんだったんだな」
「そうだったのかも。よく知らないけど」
「まあいい、ちびちびと子犬のように少しずつ飲むのがコツだ」
「犬ってそんな飲み方するんです?」
「後で調べるといいさ」
「うわっ、ここパブリックネットワークの圏外だ。信じられない」
「たまには電波の届かない場所でのティータイムもいいだろう」
「本の墓場みたいになってますけど?」
部屋中に積み重なった紙束のタワー達を見渡しながら首を傾げるルイザ
「あれはこの子達はアタシに読まれるのを順番待ちしてるだけさ。そのうち読むよ」
「完了の予定は?」
「神にしか知り得ないよ。そんなことより、飲んでみな」
書悪魔は執務机に置かれたティーカップを指差し、飲むように促す。
ルイザはコーヒーカップに軽く指を触れ、すぐに引っ込めた。まだ熱がある。
「触れないほどじゃない。無理ならハンカチでも貸そうか?」
「いいです。飲みます」
確かに握れないほどじゃない。カップの持ち手を掴み、ほんの少し口に含んだ。熱が喉の奥を通っていく。
「味はどうだい?」
「苦い?」
「なんでまた疑問系?」
「ボクの感想、ずれてるってよく言われるから」
「他人と同じ感想である必要は無い。苦いなら苦いって言えばいい。飲むのが辛いか?」
「別に。日本茶と似たようなもんでしょ」
「おっと、その感想は怒る人が出るかもだな」
失言をとがめるような口ぶりだが不思議と書悪魔は楽しそうに笑う。
「爺さんが死んだのはいつだ?」
「数年前かな」
「仲は良かった?」
「うん」
「死んだ時、泣いたり悲しかったりした?」
「うーん、特には。年に二回くらい会うだけの遠い親戚だったし。そっかぁ、死んだかぁ、ていう」
「なるほどなるほど」
書悪魔は薄く笑いながら、静かに頷く。
「だいたい分かった」
「何が?」
「お嬢ちゃんの世界に対する解像度だよ」
何が楽しいのか書悪魔はこちらを見下ろしながら不敵に笑う。
「それが傑作と何の関係が?」
「あるさ。傑作とは、読者が感じるモノだからね」
頬杖をつきながら、書悪魔はいつの間にか取り出していた赤いメガネをかける。
「なら一つの傑作を挙げよう。『ピノキオ』を知ってるかい?」
「知ってますね」
「読んだことは?」
「嘘ついたら鼻が伸びる変な人形がやたらと人間になりたがる話?」
「まあだいたい合ってるか」
「その嘘つき人形の話がどうしたんです?」
書悪魔は薄く笑った。
「あれは傑作だよ」
「えっと、子供向けの話なのに?」
「子供向けの話は傑作にならないのかい? そんなルールはないだろう?」
書悪魔がにたぁ、とギザギザな歯を見せて笑う。それはまさに悪魔らしい笑みだった。
「アタシは子供の頃、ピノキオがとても好きだったよ。ピノキオ以上に面白い話なんて存在しないと思ってた。絵本データをダウンロードしては何度も何度も読み返した。正直文字もまだ読めなかったけど、内容は覚えてたからね。色んな絵本をダウンロードしてはキャッキャッ笑ってたし、アニメデータもダウンロードしてはキャッキャと笑ってたよ」
ルイザは眉をひそめ、うーーん、と首を傾げる。
「ピノキオって、そんなに面白いですか?」
「面白いさ。なんてったって、嘘をついたら鼻が伸びるんだぞ。絵的にも面白い。嘘をつく度にどんどんどんどんピノキオの鼻が伸びてって、そのたびにゲラゲラ笑ったものさ。
子供の頃、本当にピノキオ以上の傑作はまず存在しない、そう思ってたよ」
「それってタリオさんがピノキオ好きなだけでしょ」
「そうだが?」
ルイザが心底がっかりした顔をする。
「じゃ、傑作じゃないですよね。それは個人の感想でしょう」
「いやいやいやいや、何をおっしゃるウサギさん。誰か一人でも傑作と認めればそれは傑作だよ」
「ウサギさん?」
「あ、知らないならいい。忘れてくれ」
「えー気になる!」
「元ネタは童謡の歌詞だよ。身内ミームで喋るのはオタクの悪い癖だ」
「悪魔ってオタクの集まりなの?」
「似たようなものさ。それはともかく、アタシの個人の感想が気にくわないなら、そもそもこの図書館にくるべきじゃあないね。お薦めの本、てのは多くの場合『個人選』だよ。
人数だけが正義なら、他の人は知らないここだけの傑作も成立しない」
「そっか。ならピノキオは傑作かー」
「ああ、もちろん傑作だよ。まあピノキオに関してはアタシだけじゃなく古今東西評価されてるメジャー作だけどね。でなければこんなに長い間愛されないよ」
「じゃあ今でもピノキオが好きなんです?」
「ああ。とはいえ、今と子供の頃ではまったく意味合いが違ってくるがね。
幼児の頃はデジタルデータが摩耗してしまうんじゃないかってほどピノキオに狂ってた私も小学校に上がる頃には見向きもしなくなったよ。あんなに好きだったのにね」
書悪魔とルイザの前でピノキオの絵本データの表紙が浮かび上がる。
「傑作なのに、読まなくなったんですね。じゃあ傑作じゃないのでは?」
「なんなんだい、その執拗な傑作に対する否定欲は?
そもそも、世間一般の人は傑作だろうが駄作だろうが一つの作品を何度も読んだり視聴したりはしないよ。一回見たら充分。短期間に何度もそういうことするのはオタク仕草だねぇ」
書悪魔はコーヒーを啜った。
「で、だ。大人になったら、またピノキオが好きになったよ。人形が人間になるという変身譚。神への祈り、嘘に対する罰、見所満載だ。さらには人間の被造物の人形が人間になろうとするのは様々な物語モチーフになってて、ピノキオを元にした様々な後世の作品と併せて読むととても味わいが出てくる。SF作品でもアンドロイドが人間になろうと努力する話はピノキオを下敷きにしてたり……なんてね。論文だって幾らでも書ける。
偽物が本物になろうとする話ってのも一大ジャンルだ」
書悪魔がパチンと指を鳴らすと浮かび上がっていたピノキオのデータファイルが非表示になる。
「言いたいことが分かるか?」
「――傑作は誰かの思い込み?」
「言葉が悪いねぇ」
「だって、そんなの何でも傑作になるし、どんな傑作も読者次第で駄作になるでしょ? そんなの傑作って決められない!」
ルイザの言葉に書悪魔はにたりと笑う。
「その通りだ」
「え?」
ルイザの表情が強ぱる。
「それこそ、同じ読者であっても、年齢やその時々の気分によって変わってくる。三歳児にとっちゃダンテの神曲よりもそこらの絵本の方が傑作さ。犬猫が書いてる一枚絵にすら劣るかもしれない。
そしてなにより、読者のコンディションにも左右される。
悲しい時に、嬉しい時に、雨の日に、晴れた日に、子供が生まれた時に、恋人が出来た時に、親が死んだ時に、結婚した時に、友人が死んだ時に、好きな推しが出来た時に、子が死んだ時に、老いて歩けなくなった時に、読者の人生の数だけ傑作があるんだよ」
書悪魔の言葉にルイザは何も言わず神妙な面持ちで耳を傾けていた。
やがて、書悪魔の言葉が途切れると共に口を開く。
「それは、読者の問題であって、作品側の特性じゃないですよね。感動屋の人が読んだらなんでも傑作になっちゃうじゃないですか」
「そうだよ。ゲラの人にとっては何でも笑い話なようにね」
「えぇー? それはつまんない。もっと読者に左右されず、誰もがこれだ、て思える最高傑作ってないんですか?」
ルイザが椅子の上でじたばたと足を振る。相当気に入らないらしい。
「すべての人を感動させる『透明な傑作』がお望みかい? そんなのはどだい無理な話だよ。あえて言うなら、商業的な傑作ってのは多少のお金を持ってて文字が読める十代後半から認知症の始まってない老人までが楽しめるやつ、てレギュレーションは組まれてるな。
でもまぁ、そんな人達すべてを満足させるのは無理な話だ。商業レギュレーションならその年代の二割から三割に刺されば傑作って感じだな。半分以上に刺されば、大傑作だ」
「じゃあそれでいいや。その大傑作を――」
「ただし」
口を開こうとするルイザを書悪魔は制する。
「そんな商業的な大傑作も、五年もすれば古くさくなって、楽しめる読者も半減する。その時代に売れる大傑作は、その時代の人々に刺さるように創られている。だから、数年もすればその時代性は薄れて色あせるものだよ。
そもそも、君はそんな大傑作がつまらないからここに来たんじゃあないのかい?」
「むむぅ」
ルイザはハムスターのように口を膨らませ、額にしわを寄せて黙り込む。
書悪魔の傑作読者依存説が気に入らなかったらしい。
「ケーケッケッ、ケッサクだねぇ。お嬢ちゃんにとっては面白くないんだろうけれど、君の不満顔はあたしにとっちゃあ面白いことこの上ないよ。結局は、そういうことだ。面白さは、味覚と同じだ。人による」
「そっか。じゃあボクはもう、誰ともわかり合えないのか」
ぼんやりとルイザは呟く。
そこに悲観はなく、ただ事実を確認しただけ、という無感動な虚ろさがあった。
「なんだいそりゃ。また飛躍したねぇ。若い子はすぐ飛躍する」
「仕方ないよ。ボクは面白さが分からない。誰かと歓びを共有出来ない。
ずっと一人なんだ。これまでも、これからも」
一つの事実確認が終わった、と言うルイザの顔。
それこそ、全人類を見限った、みたいな顔をしていて書悪魔は思わずにやけてしまう。青い悩みだ。
「ケーケッケッ、ケッサクだねぇ。そんなことはある訳がない」
「どうして?」
ルイザの諦観を書悪魔はあざ笑う。
「お嬢ちゃんは神の創りたまいし世界の豊かさを知らなすぎる。悪魔とたかだか一度雑談した程度で世界を断ずるなど一笑に付すしかないよ」
「まさか。これはボクのこれまでの人生を通した結論だよ」
「人生を賭けた結論がそんなにもちんけだなんて笑わせるね。十数年程度で世界の何が分かるっていうんだい?」
「ボクはいつだって変な子って呼ばれてきた。みんなの言う面白いことが分からなかった。だから誰でも楽しめる完璧な傑作を求めてきたのにそれがないって言うのなら、もうボクは誰ともわかり合えないに決まってる」
「暴論だね。完璧ほどつまらないことはないよ。
傑作ってのはね。欠作なんだよ。どこか欠けてた、欠落のある作品なのさ。でもね、その欠落こそが傑作が傑作たる由縁だよ」
「欠落と面白さのどこに関係が?」
「いいや、欠落があるからこそ面白さは生まれる。
金持ちが大金を手に入れるよりも、貧乏人が大金を手に入れる方がすごいと感じるだろう? 恋を知らない乙女が恋を知ることが劇的であるように、愛を知らない化け物が愛を知ることが尊いように、戦乱の世が平和になることが幸せなように、死ぬはずの運命を回避することが感動的なように、不幸と幸福の落差がカタルシスを産み、感動を呼ぶ」
それは当たり前の、初歩的な物語論。
ルイザだってそれくらい聞いたことはある。だがこれだけ説明されてもやはりぴんとこない。実感が伴わない。
「人間は、不完全な生き物だ。神がそうお創り遊ばされた。
欠落のない人間はない。欠落のない傑作がないようにね。
そして、その欠落が互いにはまった時に――人は心を震わせるんだよ」
「答えになってない」
「世界には星数ほどの物語がある。君の欠落に合う物語はきっと世界のどこかにあるさ」
「どこかっ、てどこさ? ボクに合う物語を今すぐ此処に持ってきてよ」
苛立つルイザを前に書悪魔は青いねぇ、とほくそ笑みながらゆっくりゆっくりと時間をかけてコーヒーをすすった。
刺すようなルイザの視線を軽く受け流しながら指を三つ立てる。
「傑作を楽しめない理由は多くの場合は三つ。
一つ目は、読者側がその物語を読み込む力がない場合。
幼稚園児にダンテの神曲は通じないようにね。複雑な物語は複雑な知識を読み込む力と、感受性が必要になる。歴史小説は時代背景を知った方が面白いし、当たり前だけどヘブライ語の聖書はヘブライ語を知らないと読めない。お節介な誰かが英語とか現代語訳してくれないとね。
二つ目は、読者の心に物語を受け止める気持ちがない場合。家族が死んだ時、あるいは大災害に遭った後、似たような物語を楽しめなくなるのはよくあることだねぇ。時と場合によるけど、殺人事件の遺族に殺人ミステリーを薦めるのはデリカシーに欠ける。
三つ目は、読者の趣味趣向。当たり前だが読者にだって好き嫌いはある。お嬢ちゃんはここに問題があると思っている。自分の好きな物語がないと嘆いている。他の人は物語を楽しんでいるのに、自分だけは楽しめていない、てね」
「うん。だから――」
「けれどね、おそらくは問題は逆だよ、お嬢ちゃん。
お嬢ちゃんは、世界をぼんやり眺めている。日々に対する世界の解像度が低い。感受性の問題だとあたしは思うね」
「見透かしたようなことを」
「見透かす悪魔だからね」
「書の悪魔じゃなかったの?」
「人間の心をくみ取り、智慧を授けるのが悪魔さ」
「屁理屈の悪魔の間違いじゃない?」
「ざんねーん、悪魔はみんな屁理屈が大好きさ」
ケーケッケッと笑う書悪魔にルイザはため息をつく。
「……解像度。ボクは鈍いってこと?」
「ああ。でも別にそれは特別なことじゃない。お嬢ちゃんくらいの鈍い人間は幾らでもいるよ。珍しいことじゃない。特に子供の頃はね。
感度ってのは、育てていくものさ。
豪雪地帯に住むエスキモー達は雪の種類を何十個も見分けるという。それは日常的に沢山の雪を見続けてきたからだ。毎日雪ばかり見てたら、いつの間にか雪の種類の見分けがついてくる。犬を沢山飼えば犬の見分けもつくようになる。
お嬢ちゃんはどうだろう。一年前と比べて自分はどう変わったと思う?」
「うーん、少し大きくなった?」
「おそらくは、身長が伸びて、体重が増えて、あるいは少しくらい胸が大きくなったりしたんじゃないかい?」
「それが大きくなったってことでしょ。同じじゃない?」
「同じだけど、違う。細かさがね」
「細かいところまで気にすれば、何が分かるの?」
「神を感じられる」
書悪魔はどこか恍惚とした顔で言い放つ。
「神を?」
「ああそうさ。世界には神の愛が満ちている。細部には神が宿ると言うだろう?
この世界の隅々にまで神の愛が満ちている。
世界の素晴らしさが感じられる。
何気ない朝、風、寒さ、暑さ、夕焼け、雨――」
それまでじっと椅子に座っていた書悪魔がその細長い両の手を広げ、熱弁する。
ルイザはぽかんと口を開いてそれを見つめた。
「悪魔なのに神を信じてるんだね」
「当たり前だよ。全知全能の神は反逆者である悪魔ですら愛する者さ」
「うーん、何も分からない。神様については気にしたことがない」
「なんてこった。そりゃもったいないねぇ。では無神論者にも分かるように説明するならば――想像を超えたスケールの何かすごいものを見た時に、とても感動出来るって話さ」
「それが神?」
「今はその解釈でいい。
絵を上手い人を神絵師って言ったり、凄腕の人をゴッドハンドって言ったりするだろう? 世の中にはすごいことがある。すごい人が居る。すごい物語がある。
でもそのすごさを知るには尺度が必要なのさ。そして世界を細やかに見れば見るほど、深く知れば知るほど、そのすさまじさを感じられるようになる」
「そんなこと気にしてたら、世界中神様だらけになってしまうんじゃない?」
「そうだが?」
書悪魔はけろりとした顔で言う。
「神の愛はこの世界の隅々に至までに満ちている。人はそれに気づいてないだけだよ」
「でも物語を作るのは人間では? 人の創った傑作には神は関係ないでしょ?」
「人が素晴らしいのは――神に愛されてるからだよ。そんな人が創りし創造物がすごければ、そこには神の愛がある」
「悪魔なのに神様好きすぎじゃない?」
「神が好きでなければ悪魔などにならないよ。いや、今はそんなことはいい。
大事なのは感度だ。いい音楽は言葉すら通じない相手を感動させる力がある。
けれど、その音楽がどれくらいすごいのかを感じられるかには個人差がある。リズムしか気にしない人、音色や旋律の良さを感じる人、あるいは歴史を感じる人も居る。そのアンテナを伸ばすことが大事なのさ」
「傑作を知るのに勉強が必要ってこと? 人並みには勉強出来るつもりなんだけど」
「知識も必要だけど、君に足りてないのはそうじゃない。感性の話さ」
「また分からなくなった」
「そうか。でも、繰り返すがそれは特別な事じゃあない。
ありふれたことさ。社会の歯車になって、日常に押しつぶされて、視野が狭まっていく人は幾らでもいる。自分の手元のことすら見えない、世界の輝きを知れない人は幾らでもいる。今日が何曜日か、季節すら曖昧で、昼と夜もよく分からなくなっていく――そんなことは、珍しいことじゃあないよ」
「ううーん? つまり何が言いたいの?」
「君は他と少し違うかも知れない。けれども、凡庸なことに変わりないよ。学校で浮いてる存在だとしても、広い人類社会の中じゃよくいる子供の一人さ」
「そんなこと、初めて言われた」
「そうかい? まあアタシは悪魔だからねぇ。サンプル数が多いのさ。田舎の村では珍しいことでも、都会に行けばよくある――みたいなことは幾らでもあるさ。
お嬢ちゃんはね、世界を見つめることに慣れてないんだ。あるいは、知らないだけだよ。まだ蒙が啓いてないだけの話さ」
「蒙?」
「ああ。君はまだ眠ったままだ。多くの人々は、眠ったままだったり、あるいは疲れから眠ってしまっているんだ」
「何かの宗教の話?」
「どうかな? アタシは悪魔だからねぇ。なんにしても、自分が世界で一番の不幸なんじゃあないかって思う必要は何もないんだ」
「別にそんなことは――。ボクはただ、同類を知らない」
「知らないだけだし、幾らでも変わる事が出来る」
「ボクに普通になれってこと?」
ルイザの顔が強ばった。おそらくは、生まれてこの方ずっと言われてきたのだろう。みんなと同じになれ、普通になれ、と。型にはまれ、と。今までで一番の嫌悪感を露わにするルイザ。
だが悪魔は優しく首を振る。
「まさか。そんなつもりもない。かといって、アタシのように悪魔になれ、てことでもない」
「なら」
「変なヤツは変なヤツのまま、パワーアップすればいいんだよ」
「抽象的で、何も具体性がないね。やっぱり煙にまこうとしてる?」
「まさか。でも心の話だからねぇ。あるいは魂の話でもある。そりゃ抽象的な物言いにもなるさ。
だが、安心していい。神は反逆者の存在をも赦す。
異端を赦すだけの広い心を持っている」
「神と悪魔の関係はよく知らないのだけど、悪魔はいずれ滅ぼされるものなんじゃないの」
「悪魔はなくならないさ。完全なる神がそう創られたからね」
「なんでまた?」
「さて、神の意志をアタシ如きが代弁するなどとおこがましい事は出来ないねぇ。ただ、悪魔の役割ははっきりしている」
「どんな悪いことをするの?」
「禁断の果実を、智慧の実を、知識の悦楽を君に差し出すことさ。聖書にも書いてある」
書悪魔が指を鳴らすと天井が割れ、メカニカルアームによって紙束が一つ、二人の間にある執務机に置かれた。
「紙製の本を読んだことは?」
「ない」
「じゃあ、初体験だ。いいね、お嬢ちゃんの初めてを、アタシが貰ってあげよう」
「イヤラシい言い方やめてくれない?」
「そら悪かった」
執務机に置かれたのは、一般的に絵本と呼ばれるようなものだった。
大きな絵に僅かな文字が描かれた、幼児向けの本。
「この本は?」
「――傑作だよ」
書悪魔はさらりと言い放った。
「君のような蒙の啓いてない子でも分かるように、そして、君の性癖に沿うように、この最果ての図書館の蔵書閲覧をこのアタシが許可しよう」
絵本の表紙は茶色いガマガエルと緑のカエルが向かい合う姿が描かれている。
「『Frog and TIAD are friends―ふたりはともだち―』、どっかで見たことがあるかも」
「有名な話だからね。昔は教科書にも書かれてた。今はどうかしらないけれどね」
初めて手にした書籍の手触りにルイザは目をぱちくりとしていた。よほど物珍しいらしい。
「これが、ほんものの本。予想より、ちょっと重いかも」
「そうさね。意外と紙は重いんだよ。今やデータの閲覧なんて手に何も持たなくても出来たりするもんだけど、本の重みを感じながら読むのも悪くはない」
「これが――ボクにとっての傑作。本当に?」
カエルとガマガエルの絵本の表紙や裏表紙を見たりしながら、どこか疑問に、けれども僅かに興奮気味にルイザが訊いてくる。
「おそらくね。だが、念のため警告しておく。
その一冊は君の人生を変えてしまうかも知れない。新たな喜びを与える代わりに苦しみを与えることになるかもしれない。それでも読む覚悟があるかい?」
「ただ本を読むだけなのに大げさだね」
「悪魔だからねぇ。警告の一つもしておくものさ」
「いいよ。読む。その為にここに来た」
露悪的に笑う書悪魔に対し、ルイザは即答する。そこに迷いはない。
「そうかい。じゃあそのエピソード五の『おてがみ』をここで朗読してくれ」
書悪魔の言葉にルイザは書籍を上下左右に弄る手を止める。
「ろうどく?」
「声にだして読むのさ。なあに、吟遊詩人みたいにしろ、なんて言わない。ただありのままを、書いてあることを読んでくれ」
書悪魔のよく分からない提案にルイザは眉をひそめた。書いてあることを読み上げるなんてことはニュースキャスターや個人の動画配信者くらいしかしないものだ。一般人がすることなんかじゃない。
「何の意味が?」
「さあてね。科学的なことは専門外だ。けれど、不思議なことに本を読む行為の中で、一番頭の中に入るのが声に出して読むってことさ」
「ボクは朗読ってやつの訓練をしたことがないよ」
「なら今日がその初めての日だ。本をめくって、エピソード五を探して」
「検索方法は?」
「最初の二・三ページ目に目次がある。そこに書いてあるページ数を確認して、後はそのページ数までめくればいい。ページ番号は電子書籍と同じで下の方に印刷されてる」
「ああこれか。なるほど」
ルイザは目次を確認し、書籍を無意識にくにっと軽く曲げた。とたん、ぶわわっと紙のページが次々とめくれていく。何の動力も、風が吹いている訳でもないのにぺらぺらとめくれていくページに見とれていたらいつの間にか本の奥付まで辿り着いていた。
「すごい」
「何が?」
「本ってめくれるんだね。誇張表現だと思ってた」
「ケッサクだねぇ、そんなことでセンスオブワンダーを感じてくれるなんて、書籍ロートルとしては嬉しい限りだね」
気を取り直してルイザは本をめくり直し、少し行ったり来たりしながら目的のページに辿り着く。
「『おてがみ』、これか」
「せっかくだ。立って図書館中に響くくらいの大声で読み上げてごらん」
「ええ? 怒られない?」
「この図書館はね、アタシがいいって言ったらいいんだよ」
ルイザは素直に立ち上がり、声を張り上げ、朗読を開始する。
「おてがみ」
その絵本のあらすじはとても簡単なものだ。
ある時、カエルくんはガマガエルのガマくんが自宅の玄関前で悲しそうに座っているのを見つける。どうしたのかと訊くと、手紙を待っているので憂鬱だと言う。
ガマくんは今までの人生で一度も手紙を貰ったことがない。だから空っぽの郵便受けの前で待ち続けるのはずっと悲しいと言う。
しばらくカエルくんはガマくんと二人で悲しく玄関前で腰を下ろす。
が、やがて意を決してカエルくんは自宅に帰り、手紙を書いて知り合いのカタツムリくんに書き上げた手紙を渡す。これをガマくんの郵便受けに入れて欲しい、と。
カタツムリくんが快く引き受けてくれた後、カエルくんはガマくんの家へ向かう。
そこでたどたどしいながらも朗読を続けていたルイザの声が止まる。
「どうした?」
「なんか、普通に喋るよりも疲れちゃって」
「息継ぎのタイミングが分かってないからだな。急がなくていい。ゆっくりと、句読点の所で息継ぎをしなが読んでいくといい」
「分かった」
朗読が再開される。
ガマくんはベッドで昼寝をしていた。
カエルくんはガマくんへ手紙を待つように言う。
だが、ガマくんは嫌だという。
もう待つことに疲れた、と。
もうきっと、誰も自分には手紙をくれないのだと。
しかしカエルくんは言う。
ひょっとしたら、誰かが手紙をくれるかも知れない、と。
そんなことはあるはずがない、と否定するガマくんとカエルくんの押し問答。
やがてガマくんはちらちらと外を見ているカエルくんに気づく。
何をしているのか、とガマくん。
手紙を待ってるんだ、とカエルくん。
自分はもう諦めているというのにまだ手紙を待とうとするカエルくんをガマんくんは否定する。
来る訳がないと。
だが、カエルくんは諦めない。
きっと来るよ、と。
ついにカエルくんは言う。
ぼくがきみに手紙を出したもの、と。
ルイザの本を持つ手が震えていた。
果たして何が彼女の心をうったのか。
いつの間にやら彼女の頬から大粒の涙が落ち、首元をびしょびしょに濡らしていた。
書悪魔は何も言わない。急かすことはない。
彼女は今、おそらくは初めて物語に心を動かされているのだから。
何度か目をぬぐった後、ルイザは絵本の続きを読んだ。
カエルくんが手紙を書いたことに驚き、ガマくんは手紙の内容を問う。
そこにはカエルくんがガマくんの親友であることを喜ぶと言う内容が記した、と。これからも友でいてくれと。
それを聞いて、ガマくんはいいお手紙だ、と喜ぶ。
それから二人は玄関に出て手紙を待つ。
それまでの悲しい気持ちとは違い、幸せな気持ちで二人は手紙を待った。
長く長く、二人は待った。
四日後、カタツムリくんがガマくんの家に辿り着き手紙を渡した。
かくてガマくんはとても大喜びをして物語は終える。
ルイザはぐしょぐしょに泣いていた。
それこそ、書悪魔からすれば、そんなに泣くほどの話ではないのだけれども、今この時この場所において、この物語は確かに彼女の心を動かしたのだ。
書悪魔が指示を出すと天井が開いて、タオルが降りてきた。
「ほら顔を拭きなよ、お嬢ちゃん」
無造作に差し出されたタオルを手にしてルイザは自らの顔を拭く。
しばらくは彼女の嗚咽が響く中、書悪魔はただ静かにコーヒーのお代わりを飲んで時間を潰した。
やがて。
「ありがとうございました」
赤い目をしたルイザが絵本を差し出してくる。受け取りながら書悪魔は訊ねる。
「傑作だったかい?」
「分からない」
「感想を共有できそう?」
「……そんなのどうでもよくなっちゃった」
「へぇ」
「この作品がよかった。それだけで。他の人にこの作品がどう思われてても、ボクがおもしろいと思ったらそれでいいや」
読む前はあれほど個別の感想を軽視し、価値観の共有を求めていたルイザがあっさりと掌を返していた。
「そうかい。物語の楽しみ方にも二通りある。一人で噛みしめたいものと、他者と語り合いたいものと、ね」
「なんでも知ってるね」
「なんでもは知り得ない。神ではないからね。だから、本を読むのさ。
なんにしても、本に感動できたのならなによりさ」
ルイザが傑作に出会えたのかは分からない。けれど、人生を変える一冊に出会えたのなら司書としてこれほど嬉しいことはない。
「感動っていうのかな? よかったのはかったんだけど――」
「ケーケッケッ、自分の心の言語化なんて簡単にできることじゃあない。習慣づけして、繰り返してかないとすぐには出来ない。
でも、この本をいいと思ったのなら――お嬢ちゃんにも他者と同じことで感動出来る感性があったてことさ」
「どうしてそんなことを言えるの?」
「そりゃあ、この絵本は百年以上前のもので、『ピノキオ』ほどじゃなくても今もまだ多くの人に愛されてる傑作だからだよ」
「そっか。百年前からの『おてがみ』だったんだ」
「ポエット! いいねぇ。お嬢ちゃんにも詩心が芽生えてきたねぇ。
お嬢ちゃんは人と少し感性が違うのかもしれない。珍しい感覚の持ち主なのかも知れない。でも、世界に一人なんて事はない。
誰かが君を愛してくれる。
神はそのように世界を作っている。
だから――これからもこの図書館に来るといい」
そう言って書悪魔は指をパチンと鳴らした。
中空に図書館の入館証データが浮かび上がる。曰く、『極東紙片図書館入館証』。
「――最果ての図書館じゃなかったんだ」
「都市伝説って言っただろう? まあ極東も最果ても似たようなもんさ。
だからあえて言おう、最果ての図書館は君を歓迎しよう。つまらない人生に、ささやかながら彩りを加えてあげよう」
書悪魔が入館証データを指で押すとルイザの身体に溶け込み、消えた。無事、登録が完了する。
「悪魔なのに親切だね。タリオさん」
「当たり前だよお嬢ちゃん。人を堕落させるために悪魔は人間に親切さ。試練を与えるのは神や御使いの仕事だからね」
書悪魔は笑い、コーヒーを啜る。
「賢くするのが堕落なの?」
「無垢をこそ神は尊ぶのだよ。
なあに、人が楽園を追い出されたのは何千年も前のことだ。今更だね。
天国を追い出されたからといって悪魔になる必要はない。
荒野を楽しく散歩するだけさ」
「――分かったような分からないようなことを」
「悪魔だからねぇ」
「ならタリオさんはいい悪魔だね」
ルイザの言葉に書悪魔はキョトンとする。
「そんなことを言われたのは人生で初めてだ」
「なら、その初体験をボクが頂いたね」
「お嬢ちゃんも言うようになったねぇ」
「別に。ボクはどこにでもいるふつーの女の子らしいからね」
「もしかして根に持ってるのかい? お嬢ちゃんはどこにでもいる、ふつーの『特別な』女の子だよ」
「えらく矛盾してない?」
「悪魔と契約してる女の子なんてそうそういないさ」
「確かに。なら契約分の仕事をして貰おうかな」
「へぇ?」
「他にお勧めの本はある?」
ルイザの言葉にすまし顔でコーヒーを飲んでいた書悪魔がにたりと嬉しそうに笑う。
「分かってるじゃないか。それでこそ書の悪魔冥利に尽きるというものだよ」
かくて最果ての図書館は久々の賑わいを得る。
了
傑作の悪魔 生來 哲学 @tetsugaku
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