Another Morning

光佑助

第1話

 

 薄暗い部屋の中、一人の若い女性が小さなガラス瓶を握りしめていた。中には透明な液体が揺れる。


 彼女のその手は震えていたが、その瞳には何かを決意した光が宿っていた。


 恐る恐る瓶の蓋を開け、ゆっくりと口元へ運ぶ。その瞬間、彼女の頭にいくつもの顔がよぎる――母、妹、中学時代の友人、担任、そして彼女を嘲笑うクラスメイトたち。


 液体が喉を通ると、彼女は一瞬息を詰めた。そして、静寂が訪れた。


 数ヶ月前。

 朝の駅のホーム。

 新学期が始まったばかりの春の朝、学生服に身を包んだ生徒たちや、スーツ姿の通勤客でごった返していた。その中で、ひとりの女子高生が視線を落とし、静かに身を縮めていた。


 女子高生はホームの白線の内側に立ちながら無意識に髪を触った。それは黒髪のショートボブウィッグ。地毛ではないことが、自分を見抜かれるのではないかという不安を煽っていた。


 周囲の目が刺さる気がする。隣を通り過ぎた中年の男性が、一瞬こちらを振り返った気がした。「おかしい」と思われているのだろうか――そう考えると、手足が冷たくなっていく。


 女子高生は鞄からマスクを取り出し、顔を隠した。伊達メガネの縁を軽く押さえ、心臓の音を聞きながら短いスカートを風が揺らす感覚に耐えていた。


 その女子高生、新垣日向(あらかきひなた)の年齢は二十五歳だった。


 彼女はセーラー服を着た二十五歳だと気づかれはしないか――その思いが心臓を早鐘のように打たせていたのだ。


「――自分の人生を生きる」


 そう自分に言い聞かせる。けれど、その約束を交わした日のことを思い出すたび、胸が苦しくなった。


 それは――十二年前、母と交わした最後の約束。


 十二年前、日向が中学一年生の頃のことだった。

 突然、母が職場で倒れたと連絡が来た。


「ちょっと疲れが溜まっていただけよ。大丈夫だから心配しないで」


 母はそう笑っていたが、病院の診断は冷酷だった。余命わずか――治療をしても完治の見込みはないと告げられたのだ。


 母はシングルマザーとして、日向と六歳の妹・風華(ふうか)を育てるために必死だった。その必死さゆえに、自分の体調を顧みる余裕すらなかったのだろう。


 その後、母は「家族と一緒に過ごしたい」と自宅療養を選んだ。


 ある日の午後、日向が風華とニンテンドーDSで遊んでいると、扉のノック音が響いた。母がふらふらと部屋に入ってくる。顔色は悪く、足取りは頼りなかった。


「お母さん! ダメだよ、寝てなきゃ!」


 驚いた日向は慌てて母を支えようとしたが、母は小さく首を振る。


「今日は少しだけ調子がいいの……だから、大丈夫よ」


 そう言いながらも、母の声は掠れており、時折咳き込む姿に、その言葉が嘘であることは明らかだった。


「日向、ちょっと一緒に来てくれる?」


 母の瞳はどこか真剣で、日向は妹の頭を軽く撫でて「すぐ戻るから待っててね」と声をかけた。


 母に連れられた先は、クローゼットの前だった。

 母はその中から、セーラー服をそっと取り出した。清楚でクラシカルなその制服は、時ヶ台高校のもので可愛いと評判だった。それは母自身が通っていた高校時代の制服でもある。

 母は制服を両手で包むように撫でながら、日向に言った。


「これ、着てみてくれる?」


「え……? なんで急に……」


 驚いた日向は母の顔を見上げた。以前、小学校低学年の頃、「お母さんの制服、着てみたい!」とせがんだことがあった。だがその時、母は「まだあなたには早い。日向がもう少しお姉さんになったらね」と笑って受け流したのだ。


 なぜ今――そんな疑問が心の中で膨らむ。


「お願い……」


 母の声には、何か切実なものが込められていた。

言葉の意味を測りかねながらも、日向は母の手伝いを受け、セーラー服の袖を通した。


 鏡に映った自分の姿を見ると、制服は少し大きめで、小柄な日向には少しブカブカだった。小学生の女の子が大人びた服を着ているような、不思議な違和感があった。


「まだ、私には似合わないよ……」


 日向は制服の裾をそっとつまみながら、苦笑いした。


 母はその姿をじっと見つめ、微笑みを浮かべた。


「そんなことないわ。すごく似合ってる……私の夢が、少し叶ったみたい」


「夢?」


 首を傾げる日向の肩に、母は優しく手を置いた。


「娘である日向が、この制服を着て、高校に通う姿を見たかった……それが、母としての願いだったの」


 その後に、「そう……ずっと見たかったのよ……」と絞り出すような声で続けた。


 その言葉に、日向は困ったように笑った。


「やめてよ、そんな……なんか、お母さん死んじゃうみたいなこと言わないでよ」


 冗談めかして笑ったつもりだったが、母は何も答えず、ただ静かに日向を後ろから抱きしめた。


「もしも私がいなくなっても、あなたには自分の人生を生きてほしい」


 囁く声が震えていた。


「……うん」


 日向は小さく頷いた。その時、何かを約束した気がした。

 それからすぐに母はこの世を旅立った。


 あれから十二年が経ち、母との約束は果たされなかった。


 高校どころか、生きることに精一杯の日々が続いた。それでも今――駅の電車の窓に映る自分の姿を見つめながら、この選択が間違いではないと信じたかった。


 そう、今のこの選択さえも。


 「自分の人生を生きる」。その言葉を胸に刻み、日向は深呼吸をして高校の最寄駅に停まった電車を降りた。

 赤いスカーフタイにそっと手を触れ、母の形見であるセーラー服を身にまとったまま、大きな一歩を踏み出した。


 ふと、電車の窓に何かが映った。日向と同じ制服を着た少女が、彼女を見守るように微笑んでいる。しかしその少女の姿は、静かに揺らめきながら、亡霊のようにふっと消えていった。

 その顔は――日向の母親に酷似していた。

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