第36話 美しさこそが
「ほう……」
デスクライトと月光のみが照らす書斎室は、薄暗がりの男を妖しい青で彩る。
口ひげを蓄え、真紅のスーツを着こなした壮年の男は、くつくつと笑っていた。
デスクの上にあるのは、『犬上真黒』という名前の書かれた一枚の資料。容姿以外ほとんどの記述は『不明』のままだった。
「まさか、こんな形で出会うとはね……」
ブリリアント学園から車で一時間。
六甲の山に差し掛かる、地元でも少し小高い坂道の上。神戸の街並みを眺望できる場所に男の豪邸は建っていた。
「じーーーー」
「むーーーー」
「プリマ、ヴェーラ。何を見てるんだい」
書斎室の窓辺――中学生ほどで青と水色の髪をした、メイド姿の二人の少女が張り付くようにして外界を見つめていた。男が優しく尋ねる。
「亜門先生。もうすぐ蓮太郎様が帰ってきます、御着替えの準備をしなくては……」
「帰ってくるぞう。晩飯の時間だ、古人おじちゃん!」
青い髪の少女がそう言うと、もう一人の水色髪の少女も続けて喋った。見た目からして双子の二人は、話す言葉も似通っている。
その時、小さな足音が遠くから聞こえた。それは徐々に大きくなり、間もなくして書斎室の扉が開けられると、足音の正体が姿を現す。
「おかえりなさいませ、獅子羽様」
「おかえり、蓮太郎ぉ!」
「……ただいま父さん、プリマ、ヴェーラ」
現れたのはブリリアント学園の生徒会長、獅子羽蓮太郎。少年は俯き気味にその男――亜門古人を見つめた。
「父さん、ごめん。今日学校サボっちゃった」
普段の振る舞いとは真逆の、内気で年相応の様子に亜門古人は驚かない。やれやれ、と小さなため息をついて手招きをした。
「何があったんだい」
「なんでも……ただなんとなく休みたくなっただけ」
「蓮太郎、君は美少年たちの模範となる生徒会長だろう。息抜きも必要だけど、サボりだなんて良くないな」
でも、と口を尖らせる獅子羽。珍しくしおらしい様子の彼を見て、亜門古人は少し考えた後優しくはにかんだ。
「……そうだ。再来週の日曜の昼、遊園地にいこう」
「……ほんとっ!? ジェイのほう? それともランド?」
「関東のランドは今も復興中だから、行くならジェイだね。もちろん当日は貸切だ」
「ぃやった!」
獅子羽はガッツポーズをして喜びを表現する。
やりとりする二人を、メイド服の少女たちは壁際にもたれながら眺めた。微笑んで見守る姿は保護者然としている。
「絶対だよ、絶対だからね!?」
「勿論だ。明日にでも連絡をつけておこう」
「では、留守番は私たちにお任せください」
クリスマスプレゼントを与えられた子供のように、獅子羽は小走りで書斎室を去った。小さな足音は次第に遠ざかっていく。
「やさしいですね、亜門先生」
「優しすぎるぞ、古人おじちゃん!」
再び静かになった書斎室で、双子の少女は頬を膨らませる。
「たまには構ってやらないと……あの子もまだ十四歳だろう」
「ですが、仕事は大丈夫ですか。その日の前後には政財界の重役との会合があるのですよ」
「アプロディアとかいう奴らが異議書を送ってきたんだろ、早く応じないとまたやっかみ言われるぞ!」
亜門はひらひらと手を振った。優雅ながらも、そのうんざりとした様子はどこか幼げだ。
「会合なんて形だけだ、適当に話を合わせて彼らには美味い汁を吸わせてやればいい――アプロディアにはまだ触れるつもりはないよ。ああいう手合いはいずれ連中の方からボロを出す」
「分かりました、では学園理事の仕事は……」
「まあまあまあ! そんなことより今は――」
ぱんっ、と両の手を合わせて、男は無邪気に笑った。
「再会を楽しもう! あの男が帰ってきたんだからね!」
書斎室の窓辺に差し込む月光を、両手を広げて一身に受ける亜門。
「二十五年前の最強の美少年だ! 漆黒の刀を携えて、猟犬の如き鋭い目で、我がブリリアント学園を睨みつけている! ああ、彼の狙いはきっと私だろうなぁ……! だがまだだ、彼を迎えるには準備が足りない……!」
亜門は壁の前に立つと、壁面の小さな出っ張りに触れ、そして数秒待った。
やがて機械音が鳴り響き、壁面から四角い溝が露わになる。
それは豪邸の地下へと続く隠し扉だった。
亜門が階段を降り、双子も続いてその背中を追う。
長い階段を降りると、辿り着いた先には薄暗い地下室が広がっていた。
すん、と鼻の奥を突く薬品の匂い。冷たい空気も相まって、そこは生気のない不気味な空間である。
亜門は仄かに青く照らされた、部屋の中央の大きなガラス筒の前に立った。
その筒の中に見えるのは――青白い肌の少年。
「……次にドクターが来るのはいつだ」
「明後日の昼間です」
「あいつ、僕たちのこといやらしい目で見るから嫌いだぞぅ」
亜門はたしなめるような目でヴェーラを見つめた。
「ドクターはこの計画の要だ。あまり邪険にしてはいけないよ」
「……はぁい」
やりとりの最中、コポン、とくぐもった水音が鳴る。
巨大な試験管の中で眠るソレは、薄目を開け、微笑む男の姿をガラス越しに認めていた。
「おお、我が太陽、我が善美、我が主……どうか、どうか今しばらくお待ちください」
高鳴る胸を抑えながら、亜門は撫でるようにして試験管に指を這わせる。その恍惚の表情はおよそ子供に向けるものではなかった。まるで神でも仰ぐような仕草で、彼は告げる。
「……美しさこそが正義だと、貴方が体現するのです」
試験管の中――白髪の美少年は、ゆっくりと瞼を下ろした。
ビューティフル・ブラック 泡森なつ @awamori
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