第24話 お断りだ

 始まりのホームルームが鳴り出す五分前。生徒たちは忙しなく、しかし優雅に教室へと滑り込んでいく、そんな慌ただしい朝のこと。

 横一直線に切り揃えた彼の横髪は、ふわふわと涼しい風に揺れていた。


「まさか御伽が朝から不在とはな……おかげで遅刻寸前だ、全く」


 走りゆく生徒たちに見つめられながら、犬上真黒は我が道のように長い廊下を歩く。彼にとって遅刻は恐れるものじゃない。最悪、持ち前の美しさでなんとか誤魔化せばいいのだから。


「……む」

 そんな真黒の前に、それは狙いすましたかのように正面からやってきた。赤い頭髪、活発な足取り、我が物顔で廊下を歩く二年生の姿。それは――


「……グロッサムぶりだな、一条烈」

「ふん、こんなところで会ってしまうとはな!」


 露骨に嫌そうな顔に、笑みは今もこびりついている。生来の癖は抜けないのか、一条烈は先日会った時と変わらない、どこか気に食わない美少年のままだった。


「君は二年だろう? この階は一年の教室しかないはずだが」

「……ちょっとサボってるだけだ。たまたま通りがかっただけで何もやましいことはないさ!」


 それでも、真黒は依然として確かめるような視線をやめない。その瞳の意味を一条は薄々察していた。


「気にしてるのかい? グロッサムの約束守らなかったこと」

「『膝舐め』のことならどうだっていい。アレは弾みで言っただけだ」

「はっは、どんな弾み方だよ!」


 あの日、グロッサムに勝利した真黒が叶えた望みは二つ。

 一つは生徒会から茶道部へ、今後二度と廃部勧告を行わないこと。

 もう一つは犬上真黒と三宝界御伽の茶道部への入部を許可すること。


 生徒会はあくまで威信を維持したいらしく、認めるはずだった一条の落書きの罪は証拠不十分として半ば迷宮入り扱いとなっている。元より目立たない茶道部の部室玄関での出来事――誰もそのことについて論じる者はおらず、これに憤慨する者も茶道部副部長の侘村一人だけだった。

 最も、誰もがその真実には気付いているだろうことを真黒は期待している。


「……取り決めは充分に為されただろう」

「俺たちが怪我で気を失っている間に、だがな!」

「……互いに遺恨は消えたはずだ」

「ああ、きれいさっぱりな!」

 じろり、と真黒は睨みつけた。


「……なのに、君は何が不満なんだ?」

 はっとして、一条が顔を上げる。

 彼の確かめるような視線。それは自身の嫌味や当てこすりに対する苦言ではない。彼の言葉は自分の態度にではなく、この心に向けられているのだと、一条はその鋭い目つきから感じ取った。


「な、なんだよ」

「何か聞きたいことがあるんだろう。狙いすましたように一年の廊下を歩いてまで……二年生なら用がなきゃ通らんだろう普通」

「だ、だからそれはサボりだと……っ!」


 まるで被っていた仮面を無理やり剥がされるような――本当にやりづらい。一条は再びあの時の心地に戻っていた。何を言っても見透かされるような、教師や親などの大人たちに諭される時のような、そんな居心地の悪さが自身を襲う。


「まあ、何もないのならそれで良い」

 真黒は一条の隣を素通りした。ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴って、廊下には彼の足音だけが響く。

 気に入らない、そんな余裕そうな素振りさえも。


「ああいいさ! だったら聞いてやる!」

 やけくそになって、一条は乱暴に振り返った。


「……お前は何を思って、俺が臆病だなんて思ったんだ」

「またそれか……」

 呆れた溜め息で振り返る。分かり切っているだろうと言わんばかりに。一条はそれでも噛みついた。自分にはそれが分からないのだと、答えを求める子供のように訴える。


「言っちゃあなんだけど、俺はまあまあ不良なんだぞ! 入学早々に風紀委員をボコしたこともあったし、あの獅子羽ともやり合ったし、歯向かう奴は全員この力で理解わからせてきた! なのに、お前はそんな俺をどうして臆病だとんだ!」

 誰も俺のことを見てこなかったから。だから自分でも自分が臆病だなんて信じられなかった。そうだと言い切れる彼が不思議で仕方なかった。


「ははっ、そんなことか」

 だが、彼はどこか安心したような調子でそう零すと、嬉しそうに言ってのけた。

 あどけない笑みは廊下に差した朝日で美しく照らされている。


「……俺は時々人に期待しすぎるきらいがある。性善説みたいに、そいつがどれだけ醜く見えても、必ずしもそうではないと突き返せる可能性を信じたくて仕方がないんだ」

「俺のこともそうだと……」

 その美少年は酷く真っ直ぐな瞳で頷く。


「なんだよそれ。馬鹿だろ、お前……」

「ああ。だが今回も信じた甲斐があった。なにせ君のしていることは、な」

「っ……!」


 一条は思わず言葉を失った。

 虚を突かれたような一言。猛進と妄信のあまりこれまで全く気が付かなかった事実。だが言われてみれば確かに、この男と自身には重なる部分が多かった。


「それでも俺は君の悩みを矮小化するつもりはない。下らないものだと一蹴できないからこそ今も悩んでいるのだろう。だったら同じ穴のムジナ同士、語れることもあると思うんだ」

「……」

 彼は優しく語るが、しかし一条は拒否するように被りを振った。


『その言葉の重さこそ、俺とアンタの距離を遠ざけている要因だってことに気付いていないのか。そう思えるだけで、アンタは既に俺とは次元が違うんだってことが――それとも、それも性善説の為せる業なのか』


 一条は少しの沈黙の後、なんだか馬鹿らしくなり、くつくつと笑いが込み上げてきた。

 少しずつ自分の中で何かが軽くなっていくのを感じる。


「冗談だろ、俺とアンタは敵同士だ。殴り合うことはできても分かり合うことなんて出来やしないさ!」

 いつものように、苦しい表情に笑みを貼り付け、明朗な調子で言ってのける。それが空威張りだということは自分でも分かっていた。


「なれないのか、友達に……」

「勿論。君のような変態はお断りだ!」

 踵を返し、残念そうにする真黒を置き去りにして一条は歩き出した。床を蹴る足音が細長い廊下をどこまでも満たしていく。

 少しの間、背後に形容しがたい視線を感じた。だがそれが犬上真黒のものだとは分かっていたので、一条は決して振り返らなかった。せめて、その時だけでも彼の期待を裏切りたかった。




 歩き出し、目的もなくふらふらと流れ着いて、終いに一条が辿り着いたのは南校舎の屋上だった。

 普段は閉め切られている屋上だが、一条がサボるために時々訪れてはその都度つど錠前を破壊するので、ここ数か月は開け放たれたままになっている。

 美少年の為すことに、教師たち大人連中はあまり口出ししない。屋上から落ちたところで少し捻挫をするくらいなので、誰も本気で心配していないのだ。


「同じ、か……」

 彼の言葉を噛み締める。まるで贈り物でも受け取ったかのように、大事そうに思い返す。

 自分がことほか、彼に対して悪くない心象を抱いてしまっていることに一抹の悔しさを覚えながら、一条は屋上の手すりにもたれかかった。

 青い空を見据えて、物思いに耽る。


 ――やはり似ていた。あの男には獅子羽のような、圧倒的な美しさがある。

 それは単に見た目の美醜に収まらない。身勝手な振る舞いも理不尽な思考も、全てどうでもよいと思えるだけの安心感も似ている。

 唯一の違いは、獅子羽には大勢の人間を従わせるだけの圧倒的な『カリスマ』があること。犬上真黒にはそれが少しもない。その点においてあれはただの変態的な個人だ――一条はあっけなく断定する。


 何が二人を差別化するのか。何が二人を近付けるのか。これまで考えもしなかった思考が脳内をやかましく巡っている。きっといつになく自分の頭が晴れやかなせいだ。これも全部、あの男のせいだ。




「――いつまで見てるつもりだ、オカマくん?」

 ふと、一条は屋上の物陰に視線をやった。眉に力を入れて、いつもの調子を戻す。


「要監視対象と呑気に会話してる負け犬ちゃんが居たから、ちょ~っと様子見に来ちゃった」

 ピンクのツインテール。数多の美少年より一層華奢で、美麗な線を誇る身体。どの角度も隙のない、美しく可愛く映るよう神が配置した奇跡の相貌。獅子羽とは別軸の、見目麗しい姿を露わにしたのは、学園アイドル雨寺恵だった。


「って誰がオカマくんだこのヤロー」

「俺たち美少年は期限付きだ。今のうちにあれこれとおめかしを楽しむのは結構だが、君のそれは少々キツいぞ!」

「うっせぇぞ陽キャ気取りのキョロ充が、こちとら国民的美少年アイドルだぞ! ったく、アンタが寝返るのかと期待して見に来たのに、無駄足だったじゃんか」


 悪態と共に物陰から飛び出して、雨寺はずかずかと歩み寄った。仮にもアイドルがそんな仕草で良いのか、と一条は鼻で笑う。


「心配してくれているのか?」

「まっさかぁ! 裏切り者だって分かれば、三竿っちの極悪懲罰ショーが待ってるんだよ? こっちはあんたがすり潰される様を見たくて追いかけてたのよ」

 嫌味がぶつかり、見えない火花が二人の間で散る。

 一条にとって彼との掛け合いはこれが平生だった。自分の露悪的な態度を正直に受け取ってくれる分、最も相手が楽な人物の一人でもある。


「生憎、俺はあんな変態にはなびかない」

「だったら何よ、その涼し気な表情は。いつもみたいに無理して元気っ子ぶってるとこ見せてよぉ」

 ぷぷ、と小馬鹿にする雨寺。一条はふんと鼻を鳴らした。


「何もないさ。ただ、俺は君ほど醜悪な内面を抱えていないのだと、自分に自信が持てただけだ」

「うわ……なによそれ」

 あまりの変わりように驚いて、雨寺は思わず嫌味を打ち返すことを忘れてしまう。こんなに叩き甲斐のない一条の様子は、彼にとって初めて見るものだった。


「やっぱり危険ね、あの男は」

「ああ。奴は必死に見えて、常にどこか心の余裕がある。道すがら誰かを説教して導けるだけの余裕がな」

 想像するだけで一条の背筋に悪寒が走った。それはつまり、他のことが些末に思えるほど巨大な目的を抱えているということではないか。

 そう考えると彼の『学園転覆』という目論見は一気に現実味を帯びてしまう。動機は全く不明だが、きっと簡単に止められるものではないはずだ。

 普段の張り付いたそれとはまた別の、うっすらとした笑みを口元に浮かべる。


「じゃ、次は私が動くわ」

「大丈夫なのか? しばらくは目立った行動は気をつけろと、最近会長から釘を刺されたぞ」

「アプロディアね……それなら紙谷からも聞いたわよ。でも安心して、私はあんたと違って慎重だから」

「……何をする気だ」


 雨寺は屋上の手すりに登り、天性のバランス感覚で微動だにせず立ち続ける。一条に言葉を返す前に、彼はあざとくウィンクを打った。


「あいつを試してやんのよっ」

 空気に迎えられるように、雨寺はふわりと飛び降りて姿を消す。

『試す』――彼の言葉を不審に思いながらも、一条は不機嫌そうにべえっと舌を出して、その去り際を見送った。

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