第3話 戦場の天使の所以
日が暮れ、戦場に夜が訪れましたね。アストレア王国とノイグリア帝国の境界線にあたるこの場所で、私は今日も負傷者を治療していました。月明かりが薄く地面を照らし、遠くで響く砲声が静寂を切り裂きます。風が冷たくローブを揺らし、銀髪が顔にかかるのを手で払う。戦場の空気はいつも重いけれど、夜になるとさらに命の儚さが感じられる気がします。
「これで……最後ですね」
最後の一人の治療を終えた後、私は周囲を見回しました。大けがを負った一団を癒し終えて、血と泥にまみれた彼らの顔に安堵が浮かぶのを見届けたのです。私は次の負傷者を探すために立ち上がります。暗くなったとしても、戦場は騒がしいまま。昼夜問わず争う人々で溢れていて、静けさなんてどこにもありません。私はスカイ
ブルーのローブの裾を軽く整え、次の命を探す準備を整えました。
「さて、次の負傷者は……」
周囲を見回していると、突然後ろから声がかけられました。振り返ると、そこには一人の女性が立っています。月明かりに照らされて輝く金色の髪と褐色の肌……ノイグリア帝国の遊牧民族でしょうか。彼女の姿が夜の闇に浮かび上がり、どこか異国的な雰囲気が漂っています。
「こんばんは、貴女がメアリーですね?」
「……貴女は?」
「私はアマンダです。今日は貴女に話があって参りました」
「私に……ですか? 何でしょう?」
突然話しかけてきたアマンダという女性は、私より少し年上に見えますね。彼女は私の目をじっと見つめながら口を開きました。その視線に、何か強い意志を感じて、少しだけ胸がざわつきます。
「単刀直入に言います。貴女を帝国側に勧誘しに来ました」
「またですか……私はどちらの軍にも属しません。私は誰かを傷つける人間に加担しませんよ」
私は決して誰かを傷つけたいわけではありません。苦しんでいる人を救いたい。だからこそ、軍属なんてもってのほかです。私はそう思うけれど、人間にはその気持ちが伝わりにくいみたいですね。
「おかしいですね……貴女は王国軍も帝国軍も見境なく治療する。治療が趣味の方なのかとも思いましたが……」
「私は……私の信念に従っているだけです」
「信念?」
「はい、戦場で苦しむ人を救うのが私の使命。だから、私は貴女方と協力することはできません」
そう言い切る私に、アマンダさんは突然笑い出しました。その笑い声に、私は少し不快に感じる。戦場の夜に響くその音が、どこか場違いに感じられたのです。
「何が可笑しいのですか?」
「いえ……ただ、貴女の信念は貴女の行動と一致しているとは思えませんね」
「……何が言いたいんですか?」
治療行為による苦痛からの解放。苦しむ人たちへの救済。私がやっていることが間違っている? そういえば以前、私を悪魔と呼ぶ王国兵もいましたね。彼女もまた、私を悪魔呼ばわりすることで心の拠り所にしているのだろう。私は彼女の言葉に、少し首を傾げました。
「貴女が治療した兵たちが今、何をしているのかわかっていますか?」
「せっかく傷が癒えたのですから、苦しみから逃れるべく戦場を離れるのではないでしょうか?」
「本当にそう思っていますか?」
「ええ、そう信じております」
私がそう答えると、アマンダさんは頭を抱えてため息を吐きました。どうやら、私の見解は現実と乖離しているようです。人間の行動って、私には理解しにくいことが多いですね。
「貴女は聖女を気取った阿呆だったってことですね」
「聖女? 名乗ったことありませんね。私は天使ですから」
「……もっと阿呆だったかもしれません」
彼女は呆れたように呟くと、不意に私の前から姿を消しました。辺りを見回しても彼女の姿はなく、まるで幻に惑わされたかのように感じます。……私は何か間違えたことを言ってしまったのでしょうか? 少し考えてみるけど、よくわかりませんね。
「もういいです。治療がしたいだけなら好きなだけさせてあげるつもりだったけど、貴女はただいたずらに戦場を荒らしているだけ……だから消えてください」
「っ!?」
突然、私の背後から声が聞こえました。慌てて振り返ると、そこにはアマンダさんが立っています。彼女は冷たい目で私を見つめていました。素早いですね。アサシン系のスキルか何かでしょうか。魔法使いは少ないですが、いないわけではない。私は杖を握り直し、彼女の動きに備えます。
「……私はただ……苦しみから人々を救うだけです」
「貴女が救えるのはほんの一瞬だけなのが何故わからない!!」
彼女の感情的な叫びと共に、無数の投げナイフが私に向かって飛んできました。私は杖をかざして防御結界を展開し、それを防ぎます。光の膜がナイフを弾き返す中、彼女はその隙に私の懐まで飛び込んできました。そして、そのまま足払いを仕掛けてきます。私は少し驚きましたね。
「……わかりませんね。苦痛を知ったのに、何故戦場に戻る必要があるのですか?」
「それが!! 戦争でしょうが!!」
私はアマンダさんの足払いを躱し、逆に彼女を押し倒しました。そのまま馬乗りになり、杖を突きつけます。彼女はそれでもなお、抵抗をやめません。地面に押さえつけられた彼女の金髪が泥に混じり、息が荒くなっています。
「戦争が……なんだというのですか?」
「っ!! 貴女こそ!! 痛みも知らずに戦争に参加する莫迦なんていないんですよ!!」
……?
痛みを知っているのにあえて戦争に参加する? 痛みを知っていてなお、戦地に向かうのは何故? 私は一瞬、言葉を失いました。彼女の目が怒りと悲しみで揺れているのを見て、胸がざわつきます。
「それでも……たとえ私が治療した人が戦地に戻って人を傷つけたとしても!! 戦場の痛みを知った人がいつかは争いをやめてくれる! 長い戦いになっても! どんなに苦しくても! 最後には怪我で苦しむ人を無くせるなら!! 私は救い続けます!!」
私がそう叫んで防御結界で彼女を拘束すると、やっと彼女は落ち着いてくれました。私はそっと彼女を解放し、立ち上がる。彼女はゆっくりと立ち上がり、私を睨みつけました。泥だらけの顔に、どこか疲れた表情が浮かんでいます。
「たとえいつか争いがなくなっても……それまでにどれだけの人が傷つくのですか……」
「……」
「……治療で人は救えないんです。だから貴女は間違っています」
アマンダさんの言葉が……わかりませんね。争うことが理解できない。人を傷つけるということは、誰かから敵意を買うことで、いずれは自分を傷つける行為でしょう。なのに……どうして人は争わなければいけないのでしょうか。私は彼女の言葉を頭の中で繰り返し、考えます。
戦争には理由がある。戦争には目的がある。そんなことはわかっています。でも……実際に戦っている兵士たちのどれだけがその戦争の代償を支払い、支払った代償以上のものを得られるのでしょうね。
「……私には……わかりません」
私はそう答えるのが精一杯でした。治療行為は正しいこと。誰かを救うことはそうあるべきこと。苦しみから解き放つのは救済でしょう……だというのに……。
「なるほどですね……貴女はある意味天使ですよ」
「え? それはどういう?」
「目の前で絶望してください。貴女のすることが無駄であることを……貴女の理解の外から私が教えてあげます。貴女が少しでもその行為を止めようってきっかけになるなら、私はここで!!」
アマンダさんは私の目の前で舌を噛み切って自害しました。
「なっ!?」
私は慌てて治癒魔法をかけます。両手から光を放ち、彼女の傷口に触れる。でも、一気に出血した分の血液は戻せません。治癒魔法はあくまで回復や治療を促進させるに過ぎないのです。彼女の口から溢れる血が地面に染み込み、月明かりに赤く光ります。
「血が足りない……血が……どうすれば……」
とにかく安静にして食事を……それよりも彼女はまだ意識があるのでしょうか? 顔色が悪いのは一目でわかります。私は彼女の脈を探り、冷たくなっていく体に焦ります。
「何故舌を!! 命を!!」
彼女がどうして自らの舌を噛み切ってみせたのかわかりません。でも……死なせるわけにはいかない。死なせてはいけません。しかし……彼女の身体は次第に冷たくなっていく。衰弱する相手を救うことは、治癒魔法ではどうしようもありません。彼女の死を受け入れるしかないのです。やがて彼女の心臓が止まったことを確認した私は、呟きました。
「……仕方ありませんね」
彼女の遺体を土に埋めた後、私は次の負傷者を探すために歩き始めました。さすがに何も感じないわけではありません。胸の奥が重くて、少し息が苦しい。でも、ここで感傷に浸るのは時間の無駄でしょうね。私は負傷者を……彼女がどうしてあの場で自害したかなんてわかりません。でも……。
「ここに負傷はいませんね……壁に耳あり障子に目あり、負傷時に私ここにいます……ここにいる必要はない」
戦場の夜風が私のローブを揺らし、遠くでまた砲声が響きます。私は杖を握り直し、次の命を探して歩き出しました。
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