秩序の裂け目

林檎無双

序章

 都市は、透明な殻の中で生命のように律動していた。

 中枢「アーカイブ」は、オートバランシング・マトリクスやR-05適合値の基準を無音の調律で満たし、あらゆる機能を一つの「存在」として結びつけている。水路の流量、微細なエネルギー配分、ドローン輸送ノード、医療サービスのフィード割り当て――これら全てが指先で弾いたように滑らかに噛み合い、都市は自動制御の秩序を呼吸しているかのようだった。市民たちはこの恩恵を疑わず、日常を漂うだけで事足りる。彼らにとって、都市の隅々まで張り巡らされた調整プロトコルは空気同然であり、アーカイブへの「依頼」は単なる習慣的操作にすぎない。


 ケイは都市管理部署の一員であり、執務室の椅子に腰掛けると同僚たちも同様に端末へ視線を落としていた。巨大な統合パネルは部屋全体を淡い放射光で包み、ミニマムな曲線や数列が絶えず更新されていく。低層ウォーターバイパスの微振動、サブグリッド電力ラインの軽い変動——スクリーン上を流れる無数のチャートは、まるで有機的な神経網が微笑むような調和を見せていた。


 もっとも、軽微な誤差や逸脱値は日常茶飯事だ。たとえば二次バイパスラインの出力変動や、配送ドローン群のキャリブレーション不調を示すフラックス・バリエーションが端末に点滅し、まるで電子の波が掠れるような軌跡を描いていた。それらは「R-07規格接合がわずかに逸れた」「フェイズシフトが基準から一ミリ浮いた」といった程度の問題で、管理者がアーカイブへ依頼を一つ送信すれば、すぐに元に戻る。彼らは緊張感を失って久しく、その儀式的行為が完璧な安定を担保する事実も疑われることはない。


 この朝、ケイがいつも通り着席すると、端末にはいくつかの微小な報告が跳ね上がった。隣のデスクでも同僚が同様の依頼を淡々と送る。水圧制御モジュールのカレント値が標準誤差範囲ぎりぎりで揺らいだらしい。ケイは何も考えずにプロトコル通りの依頼を投げる。C-アダプタのバックアップルーチンが応答し、速やかに補正が行われる——いつも通りだ。数秒後、統合パネル上のラインは滑らかさを取り戻し、光の波が揺蕩うように流れていく。


 管理者たちは、これを疑問に思わない。何故なら、少々の誤差が日々生じ、それが消される流れは常識になって久しいからだ。淡々と「依頼」を出し続けるだけで都市は均衡を保ち、誰一人として深く潜る必要がなかった。アーカイブは常に完璧な答えを用意し、管理者たちはそれをただ承認して送信するだけの歯車。個々のモニタリングは、精巧な歯車群を少し撫でて整える程度で、その向こうにある全体像は、もはや無意識のうちに呑み込まれている。


 だが、この日の昼前あたりから、ケイはわずかな引っかかりを感じ始める。同じような誤差報告が、依頼を出してもまた少しずつ戻ってくるのだ。形は微妙に変わり、確かに補正は効くのだが、ほとんど同じパターンの揺らぎが繰り返される。隣席の同僚が「今日は揺れが多いな」と軽くぼやくが、それ以上の詮索はしない。

 ケイもまた、不安というよりは妙な違和感を覚えるだけだった。表面上の完璧な均衡。その裏側に、目には見えない何かがひそやかに爪を立てている。心の奥で警鐘が鳴るが、それをどう言葉にすればいいのかケイには分からなかった。けれどそんな思考は、光の中へ溶け込む。そして彼は、いつも通り依頼を送る。透明な殻の中で都市は脈打ち続け、彼らの認識は薄い膜のように表層を撫でているに過ぎなかった。

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