少女呪殺

成田紘(皐月あやめ)

少女

「すまないが、後にしてくれないかな。今から一年生が質問に来るんだ」


 数学科教員室で、いつもの窓辺に佇みながら先生が言った。


 教員室は校舎の四階にあって、窓の真下は中庭になっている。そこで自由にお昼休みを過ごしている生徒たちの明るい笑い声が、開いた窓から爽やかな風に乗って室内に届いていた。


 不意に先生がその窓を閉める。

 鍵を施錠する無機質な音が、ふたりきりの室内に小さく響いた。

 室内に流れ込んでいた風の動きが止んだ途端に、珈琲の香ばしい香りが際立った。


 先生はあたしが一年の頃からの担任で、数学が苦手なあたしはよく相談にのってもらっていたのだけれど、最近は全然だった。


 まだ若くて清潔感のある独身教師。銀縁眼鏡が似合っていて、いかにも理数系って感じの先生は、見た目も相まって年齢の割に落ち着いているところなんかが保護者に受けている。

 もちろん女子生徒にもすごく人気がある。


 あたしは先生に相談があって、先生がひとりになるところを見計らって教員室を尋ねて来たのだけれど、どうやら先約があるらしい。

 少し高級そうなスーツを着こなした先生が目線で退室を促しながら、コーヒーカップに口をつける。

 その時、遠慮がちに教員室の扉がノックされた。


「どうぞ」


 低くて甘い声音。

 その声に導かれるように扉が小さく開き、ひとりの女子生徒が顔をのぞかせた。

 まだ新しい制服。胸に教科書やノートを大事そうに抱えて、「し、失礼します」と挨拶をしながら、おどおどした様子で入室して来る。


「——また、来ます」


 あたしは先生に視線を戻し、そうひと言だけ告げた。

 けれど先生とは視線が合わなかった。

 後ろ髪を惹かれる想いで踵を返し、女子生徒と入れ違いに廊下に出る。

 すれ違う時に盗み見たその子は頬を赤らめ、期待で瞳をきらめかせていた。


 後ろ手に扉を閉めるとあたしはそのまま扉に背中を預け、大きなため息をついた。

 正面に開いた廊下の窓を見上げる。

 水色の空に刷毛で引いたような白い雲が、嫌になるくらい穏やかに流れていた。


 去年のあたしも、あんな瞳で先生を見つめていたのかな――


 あたしは冷えた掌をお腹の前で交差させて、背中を滑らせながら廊下にしゃがみこんだ。

 そんなあたしの前を、幾人かの生徒たちが興味なさそうに行き来する。

 校舎のあちこちから溢れる楽し気なざわめき。軽やかな上履きの音。いつもと変わらない学校の音に紛れるように、教員室からの会話がところどころ漏れ聞こえてくる。

 あたしはその声に聴力のすべてを傾けた。


「……次の試験……大丈夫、僕の……」


 先生の声を捉えた瞬間、あたしは大きな音を立てて扉を開き、教員室に飛び込んだ。

 そこであたしが目にしたものは、椅子に深く腰掛けた先生が神経質そうな指先を伸ばし、傍らに立つ女子生徒の華奢な指先を弄ぶシーン。


 あたしはそんな光景に動揺することもなく大股で二人に近づくと、自らの身に何が起ころうとしていたのかも理解できずに、羞恥と驚愕で顔を真っ赤に染めて固まっている女子生徒を、背中に庇うようにして押しのける。


「な、なんだ君は!今すぐ出て行きなさい。そして扉を閉めるんだ!」


 先生が動揺を隠すように銀縁眼鏡のブリッジを押し上げる。大きな手で顔が隠れてその表情は窺えない。

 あたしが開け放った扉は開きっぱなしで、廊下からは室内が丸見えだった。

 先生の怒声が廊下まで響き渡ったのか、前を通る生徒たちがチラチラと覗いていく。


 あたしはそんな外の様子も先生の怒りも意に介さず、デスクの上のコーヒーカップを手に取ると、その中身を先生の顔にぶちまけた。

 室内に珈琲の匂いが充満する。

 まだ湯気の立つ液体が、先生の完璧にセットされた髪も銀縁眼鏡も、高級スーツもデスクの上に広げられた女子生徒のノートも、みんなみんな茶色い染みで汚していく。


「先生」


 あたしの口から、自分でも驚くくらいに冷静な声が出た。


「先生はこの子にも、あたしにしたのと同じ指導をするつもりですか」


 問われた先生は軽く頭を振ると茶色い飛沫を撒き散らし、眼鏡をはずしながらブランド品のハンカチで顔を拭った。

 一瞬だけ憎悪に燃える目であたしを見たけれど、すぐに視線を逸らし眼鏡をかけ直す。

 先生の手がデスクに置いてあった黒いスマホに伸び、それをゆっくりと持ち上げると、その顔には勝ち誇った笑みが広がっていった。


「君は自分が何をしたのか、分かっているのか」


 底冷えのするようなその声音に、思わず身震いしてしまう。

 あたしは空気の塊を呑み込みながら、けれど気丈に顔をあげ「もちろんです」と笑みを返した。


 もちろん分かっている。

 先生のスマホは凶器だ。

 ナイフや拳銃や、他のどんな恐ろしい武器よりも、確実にあたしを殺せる凶器。


 その黒いスマホの写真フォルダには、あたしの誰にも見られたくない動画や画像が、無数に保存されている。

 まさに狂気の詰まったスマホだった。




 すべての始まりは一年生の最初の試験。

 数学で赤点を取ってしまったあたしは、この数学科教員室に呼び出された。

 かっこいい担任の教科で恥ずかしい点数を取ってしまった羞恥心と、これからどんな説教を受けるのかと戦々恐々とした思いで、あたしの頭はぐちゃぐちゃだった。


 すると先生は、怜悧な笑みを浮かべこう囁いた。


「これから君には特別に、補習授業をしてあげよう」


 先生は緊張で硬くなったあたしの肩を優しくほぐすように撫でると、その手をするりと滑らせて震えるあたしの手を取った。


「大丈夫、僕の言うとおりにしていれば、次の試験では高得点が取れるから」


 神経質そうな先生の指先が、熱を持ったあたしの指を絡め取ると、ほとんど無意識にあたしはこくりと頷いていた。


 あの日、あたしはこの教員室で、先生に純潔を散らされた。

 床に垂れた初めての証を、自ら雑巾で拭った時は、痛みとは違う涙が溢れて止まらなかった。


 それでもあたしは特別なんだ。

 先生の特別になれたんだ。

 そう思えば、こんなことへっちゃらだ。

 先生がいれば、あたしはなんだってできる。


「僕たちのことは、ふたりだけの秘密だよ」


 先生の蠱惑的な瞳と囁きは、甘い毒。


 その日を境に、先生の補習授業が始まった。

 放課後の教員室で。

 無人の保健室で。

 あたしにとって学校は勉強をする所ではなく、先生に身体を開く場になった。


 先生を受け入れる見返りに、あたしは先生が作る試験の解答を手に入れた。

 先生は周到で、すべての答えをくれるわけじゃない。敢えて難しい問題は外し、少し頑張って勉強すれば正答できる問題だけを教えてくれた。

 それならあたしの成績も緩やかに上昇し、誰にも不審がられることはない。

 実際、あたしの成績が上がっても、今日まで誰からも疑われたことなんてなかった。


 先生という甘い毒に犯されたあたしだったけれど、頭の片隅ではこんなことはいつかバレてしまうんじゃないかと、毎日が不安で仕方なかった。

 何より、関係を持つたびに先生の要求がエスカレートしていくことも、次第にあたしを恐怖に陥れた。


 口淫を強制されて先生が吐き出した欲望を飲まされたり、手足の自由を奪われて攻めたてられたり。

 そしてとうとう、行為の最中を動画で撮られた時には、何もかもが手遅れだった。




 あたしは気を抜けば震え出しそうになる膝に意識を集中すると、まるでワルツのステップのような軽い足取りで先生の横を通り過ぎた。


「珈琲クサいんで空気の入れ替えしますね」


 それまで長い脚を組み椅子に踏ん反り返っていた先生が、気味の悪いものを見るような目をあたしに投げて立ち上がり、距離を取る。


「き、君は何を考えている。何をする気だ」


 先生のその動揺を隠しきれていない声音を背中で聞きながら、あたしはさっき先生が施錠した鍵を開け、窓をめいっぱい開け放った。

 爽やかな風が吹き込み、あたしの髪を優しく揺らす。中庭でお昼休みを過ごす生徒たちの声がまた届き始める。


 思えばあたしは、この窓からちゃんと空を眺めたことなんてなかったかもしれない。

 あたしの知ってる窓越しの空は、いつも夕闇色をしていて、そして涙に滲んでいた。


「……なんだ、こっちの空も水色じゃん」


 そんなあたしのつぶやきは、怒気を孕んだ先生の声に搔き消された。


「聞いているのか!ちゃんと答えろ、何のつもりだ」


 あたしはくるりとターンして、腰の高さほどの窓枠に寄りかかると、今まで見たこともないような鬼の形相をした先生と対峙した。

 先生はこれ見よがしにスマホを翳している。

 それは言葉を必要としない脅迫だ。


 デジタルタトゥー。

 それが先生の手にある限り、あたしは先生に逆らえない。


「答えるのは先生の方ですよ」


 先生のスマホは狂気のスマホ。

 社会的にあたしを抹殺できる。

 だからあたしには、あたし自身を守るための武器が必要だった。


 あたしはにっこりと微笑み、そして歌うように先生に告げた。


「これから先生にはテストを受けてもらいます」

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