10
その日もまた、平凡な日々の延長だった。
肌を刺すような陽射しと、纏わりつく空気。蜩の声が耳朶を打ち、涼しくなり始めた風が肌を撫でる。
いつだって、日常は呆気なく、日常的に終わる。劇的なカタルシスなんていうものはなくて、砂糖がコーヒーに溶けていくように相は移ろう。僕たちの終わりもまた、ありふれた一日の終わりだった。
どちらからそこへ行こうと言ったのかは分からない。あるいは、どちらも言わず暗黙のうちに行くことに決めたのかもしれない。夏の終わりが、八月三十一日の終わりが近付くと僕たちは夜の街へと降りて行った。
彼女が夕希ではないのだと知ってからも、彼女に好きだったのだと言われてからも、僕たちは会話を続けていた。沈黙を貫くには、僕たちの物理的な距離は近すぎたし、僕は彼女に対して敵意や嫌悪感を抱いているというわけではなかったのだ。その会話が以前と比べて質の違うものへと変わっていることは確かだったけれど、それでも僕たちは話し続けた。
けれど、こうして終わりへと近付く中にあるのは沈黙だけだ。何かを言ってしまえば、聞いてしまえば、それは訪れる結末に対して不純なものを混ぜてしまうようで、僕たちは静謐を携えていた。幼子が、初めて貰った鍵を握りしめるように。
情けないけれど正直なことを言うなら、未だ実感も、覚悟も、何もなかった。もうすぐ、僕の中から何かが失われるという変わらない未来が魂と呼ばれるような僕の核となる部分に虚のような穴を開けているだけで、あらゆる感情は全てそこに投棄される。
夏の始まりを思い出す。あの頃、僕は無邪気に希望的な未来を期待していた。僕が彼女を愛さなくなるなんていう可能性は有り得ないのだと信じ、夕希が甦るただそれだけを願って賭けに乗った。
その結果が、現状だ。何かを得る代わりに何かを失うということは当然のことなのかもしれないけれど、そうして得られたものが失われたものの代わりになるはずはない。例えどのような結果になろうとも、傷は癒えず僕の中に確かなものとして残り続けるのだ。
再び失うことになるくらいなら、希望なんて見せないで欲しかった。
僕が痛みを覚えるだけなら、後悔を背負うだけなら、好きにすればいい。どうせ、元より価値のない人間だ。何を損なわれたって変わりはない。何でも、好きなものをチップの代わりにすればいい。
けれど、違う。僕がこれから損ねようとしているものは、失おうとしているものは僕にとって大切だった記憶であり、僕のことを大切だと思ってくれていた人だ。僕には、誰かの命を賭けられるような価値なんてないのに、重みはどんどんと増えて行って、進める足は泥濘の中に沈んでいく。
風が彼女の髪を揺らした。潮の香りが鼻腔をくすぐる。果てが近付いていることを知る。
口の中がやけに乾いているような気がして、水が飲みたくなったけれど、ポケットの中には自動販売機に使えるような小銭は入っていない。唾を飲み込み、気分を誤魔化す。
国道を渡って、その先に見えた海は世界を飲み込む巨大な暗闇であるかのように、黒々としていた。その中でも、月明かりは水面に一筋の光芒を作り出す。それは、希望への道筋なのか、あるいは。
僕たちは砂浜に下りて、波打ち際を歩き始める。夏の始まり、僕はこの場所を独りで歩いていた。そこに一切の希望はなく、それが贖いであるかのように絶望だけを引き摺って、歩き続けていた。
失うもののない孤独の巡礼と、失うことしか出来ない二人の道のりは、どちらの方が苦痛なのだろうか。今はまだ、何も言えない。それを判断することが出来るのは、全てを終えた後に俯瞰をした人間しかいない。
遊泳禁止と書かれた看板を追い抜く。以前は目にも入らなかったものに目がいくのは、余裕があるからこそなのか、ないからこそなのか。
ここより先は、潮の流れの危険性を鑑みて遊泳が禁止されている。夕希が溺れたのは、そのような場所だった。彼女は死にゆく中で、何を思ったのだろうか。自分が死ぬ原因となった子供を、自分が消えたことにすら気が付かなかった愚かな幼馴染を、恨んでいただろうか。死体すら見つからなかった彼女は夢の中ですらも何も語らない。
泥濘んだ地面は足音すらも消し去ってしまう。僕たちの歩みは、世界から隠されたものであるかのように密やかに刻まれていく。二つの足跡は、波に攫われれば消えてしまうような果敢ないものであるはずなのに、僕自身の中には化石のようにいつまでも残り続ける気がした。風化して、形を変えても消えることのないものとして、呪いのように。
永遠の中を彷徨っていたような気がした。沈黙は死のように底のない無限として存在していて、いつまでも、この道が続くように思えた。しかし、現実はあまりにも早く、いとも容易く僕たちに追いつく。終着点は、訪れる。
そこは、終わりの場所であり、始まりの場所だった。夕希が死に、魔女と出合い、そして僕たちが終わる場所。特別なシンボルがあるわけでもないのに、迷うこともなく足を止める。あるべきものが、あるべき場所へと収まるように。
魔女の姿は見えない。どこからか、今の僕たちを見て、いつものようににたにたとした気味の悪い笑みを浮かべているのだろうか。恐らくは事実であるその想像が不快であることには変わりがなかったけれど、不思議と今はもう気にならなかった。
僕は彼女を見る。彼女は僕を見る。夕希は、どんな目をしていたのだろうか。既に思い出すことは出来なくて、今目の前にある現実にぼやけた思い出は塗り潰されていく。
「夏が終わるね」
「そうだな。終わる」
終わりを先延ばしにして欲しいという願いと、ようやく終わるのかという安堵がないまぜになる。何を求めているのかが、自分でも分からない。求めているものなんていうのは幻想の中にしか存在しないということなのかもしれない。
彼女は舞踏のような足取りを持って、海の方へと足を進める。彼女の足首が、打ち寄せた波に沈んだ。それが、夕希ではないことは分かっている。それでも、夕希の姿をした彼女が海の中へと這入っていくと息が苦しくなる。
月明かりが彼女を照らす。海も、月も、世界そのものが、まるで彼女のために用意された舞台のようだった。一瞬だけ、何もかもを忘れて見惚れてしまうくらい、彼女は美しかった。
「本当はさ、全部あなたに任せるつもりだったんだ。嘘を吐いて、それでも愛されようとするのは不純なことのように感じたから、好きじゃないって言われたらしょうがないんだって諦めるつもりだった。でも、私は狡いから、そんな潔くなれない」
彼女は笑った。人は、時として泣いている時よりも笑っている時の方が寂しい表情をする。その笑顔は、感傷的にならないための、いつも通りの彼女でいるための、精一杯の抵抗のように見えた。
「私は君から好きだって言われたい。愛されたい。死にたくない。だから、お願い」
そう言って、手が差し伸べられる。白く美しい、欠落なんていう言葉から最も離れたような手は魔的な力学を持っていた。思わず惹かれ、衝動的に取ってしまいそうな引力が、そこにはあった。
「私のことを受け入れて。好きだって言って。今はまだ、それが私ではない人に向けられるものでもいいから」
彼女の言葉に、僕の意志は曳かれていく。強く、激しい言葉に抗うだけの力を、僕は持っていなかったというのが、正しいのかもしれない。
最後の選択くらい、考え抜いて、自分で決めろと言われるかもしれない。しかし、誰が決められるというのだろうか。大切な物を失うしかないのならば、何を選んだとしても正解なんていうものがないのであれば、僕に出来ることなんてない。あるのだとしても、それを行うには疲れ過ぎていた。
彼女のことが好きなのかは、未だに分からない。そもそも好きとはどのような感情だったのかも、もう忘れてしまった。だから、この選択が良いものなのかは分からない。正しさという意味でも、誠実さという意味でも、この選択はどうしようもなく誤ったものなのかもしれない。
僕の中にあるものは、せめて目の前の彼女を取り零したくないという、失いたくないという祈りだった。
夕希を裏切り、殺すことは僕自身を殺すことでもあった。嵯峨夕希という人間は、彼女に向けた感情は、不可分的に深見廉という人間を構成する一部分になっているのだから。
けれど、僕の内側にある問題のためだけに、確かに目の前に居る彼女を見捨てることは、殺すことは、僕には出来なかった。記憶の中の夕希を殺すことは恐れるべきことだけれども、それ以上に、目の前の大切な人を助けることが出来ないのはもう嫌だった。
僕は彼女の手を取る。触れてしまえばそのまま砕けてしまいそうな危うさを持つ手は、しかし僕の手を優しく握った。はぐれないように、僕は強く握り返す。一度離れてしまえば、もう握ることが出来ないことを僕は不思議と知っていたから、強く、縋るように掴む。
自らを選んだ僕の方を見て、彼女は喜びと安堵が混ざったような優しい表情をした。彼女は、夕希ではない。そう分かっていても、僕にとってやはりその顔が特別であることには変わりがなかった。その表情を見ることが出来ただけでも、この選択を取った意味があるとさえ思うほどに、僕は未だ嵯峨夕希に恋していた。
彼女は僕の手を引いて、海の方へと進んで行く。水面に出来た光芒をなぞるようにして、暗い底へと進んで行く。靴の中に海水が染みて、ズボンも重たくなっていく。それなのに、足取りはいやに軽いものに感じた。このまま、どこまでも進めそうだと思えるほどに。
「どこに行くつもりなんだ」
「私の生まれたところまで」
彼女の生まれた場所がどのような場所であるかということは、想像がついていた。そこに連れていかれるということが、死か、あるいはそれに近しいものを示しているということも。けれど、僕の中に恐怖はなく、むしろ温かな安堵のようなものが胸の中を伝った。
どうして死のうと思わなかったのか、今になって思えば不思議なことのように思える。生きる希望なんて、ずっとなかったのに、それでも慣性に身を任せるままに僕は生き続けていた。風化し、擦り切れていくような人生に価値はなくて、ただ苦しみを引き延ばしているだけだ。死んでしまえば、それで良かったのに。
死は非日常的な概念だが、内在するそれは遠い場所に隔絶されているわけではなくて、日常に隣接した場所に、地続きで存在している。無意識的に見えない振りを続けていたその境界を越える理由は、彼女が傍に居るという、彼女が手を引いているという、それだけで十分なように思えた。
この先に行けば、果てまで進めば、夕希に会えるのだろうかと思う。彼女を愛した末に沈んでいくのだ、夕希のことを想うことは不誠実なのかもしれないけれど、淡い期待は拭えなかった。
腰までが海水に蝕まれていったことが分かる。このまま、この暗く大きな場所の中に溶けていってしまえればいい。そう思いながら、僕の身体は沈んでいく。彼女と共に深い、光の届かぬ場所へと。
「待ちなよ」
完成されたような静謐に罅を入れたその声と共に、腕を掴まれる。弾かれるようにして足を止め、半身を翻すように振り返ると、そこにはあるはずのない影があった。
「どうして、憂花がここに居るんだ」
「止めに来たに決まってるでしょ、馬鹿」
憂花は肩で息をしながら、焦燥と憤りの滲む険しい表情で僕のことを睨む。彼女の指は傷痕でもつけようとするように、痛いくらい強く、僕の腕を掴んでいた。
「離してくれないか」
「嫌だ」
「もう、疲れたんだよ」
これ以上、僕は人生を前へと進めない。いや、元より前になんて進んではいなかった。現状維持すらも出来ず、緩やかに墜ちて行った先が今というだけなのだろう。
生き続けるということは、戦い続けるということだ。それが嫌なら、世界に迎合し、思考を放棄するよりほかにない。けれど、僕は夕希を殺した世界に迎合する気にはなれなかった。ならば、僕は戦いの果てに死ぬだけだ。英雄的な死ではなく、戦場にありふれた静かで無意味な死として、消えていくだけだ。
「疲れたとか、知らないし、そんなのは言い訳にならない」
「それは、憂花が僕じゃないから知らないだけだろ。僕の痛みを知ったように、偉そうなことを言わないでくれ」
痛みは共有出来ない。傍から見れば、僕の生き様は惨めで、滑稽で、女々しくて、情けないものなんだろう。いつまでも、死んだ人間に囚われて、恋し続けている。頭のおかしい奴だなんて思われることだってあるかもしれないし、それがむしろ自然なのかもしれない。
けれど、おかしくなったわけでも妄執に囚われているわけでもなく、これは僕の中にある真実の痛みだった。苦しみだった。
痛みはどこまでも個人的なものだ。共感や同情はあくまでもそれを覚えた人間の自己満足に過ぎなくて、本質的には誰にも理解をされることはない。それなのに、分かったような口をきかれるのは、不快だった。
「……あんたの痛みが分からないことくらい、分かってる。私が何を言ったとしても安っぽい同情にしかならなくて、あんたの傷を癒すことなんて出来やしない。だから、ずっと後悔してたんだ。知ろうと、分かろうとせずに見放したこと、失望したことを」
腕が、更に強く、縋るように握られる。そうして覚えた痛みは、腕から伝ったものではなくて、心に感じたものだった。
「でも、それはあんただって同じだよ。あんたも、私の痛みを知らない。分からない。昔も今も、ずっとそう。分かろうともしないで、一番辛いのは自分だなんていって自責と自罰に酔うだけ。夕希が死んで、あんたまで塞ぎ込んで、失って。そうして独りになった私のことを、考えたことなんてないでしょ」
それは呪詛だった。憎悪と寂しさの入り混じった、叫びだった。
痛みは共有出来ない。けれど、彼女の痛みと似た痛みを、僕は知っていた。かけがえのないものを失い、独りになった時の、静かに自分の一部分が腐り落ちていくような感覚を。だからこそ、自分の醜悪さに嫌気が差す。無自覚に、彼女を突き放していたという事実は、彼女からの宣告は、軽い吐き気すら呼ぶものだった。どこまでも幼稚で、エゴイスティックな自分に気が付くことに、逃げ場はない。未熟さは、原因は、自分の中に帰結するしかないのだから。
せめて逃げるように僕は視線を落とし、暗い水面を見つめる。
「そうだな、憂花の言う通りだよ。僕は、何も考えてなかった。ごめん」
「謝らなくていいから」と彼女は吐き捨てるように言う。
「言った通り、私だって私自身のことしか考えてなかった。多分、それはしょうがないことだったんだよ。大切な人が突然失われることは、いつまでも続くように思えていた日常の崩壊は、人の中の何かを取り返しのつかないほどに壊す。そうした衝撃から耐えるためには、他人のことを考える余裕なんてないんだよ。自分のことで精一杯になるのは自分勝手でも、悪徳でもない」
自らのことを省みるように、彼女は少しの間水面に視線を揺蕩わせた後で「でも」と言葉を継ぐ。
「間違ったのは、その先だったんだよ。自分のことしか考えられなくて、今まであったものを全部壊して。その後に私たちは何も出来なかった。それどころか、離れることを選択してしまった。本当はそういう時こそ支え合わなきゃいけなかったのにね」
僕は、失ってしまったものに目を向けているつもりだった。その後悔と共に生きてきていたつもりだった。それでも、僕が目を向けることが出来ていたのは夕希に対してだけで、どこまでも独りよがりだったのだと痛感する。失ってしまうことの恐ろしさは知っているはずだったのに、今にも零れ落ちそうなものに対して何もすることが出来なかったのだ。
憂花に掴まれた方とは反対の手が引かれる。僕を海へと誘う彼女は、明確な敵意を持った目で憂花のことを見ていた。
「もう、いいでしょ。あなたは、私たちとは関係がない」
「そうだね。あんたは、夕希じゃない。だから、あんたと私は何も関係がない」
「なら――」
「でも、私は廉と関係がある。あんたと廉との間によるものよりもずっと長く、深いものが。私は今、廉と話をしてるんだよ。あんたに対してでも、あんたと廉の二人に対してでもなく、ただ一人、廉に対して。邪魔をしないで」
怯むことなく返した言葉に対して、彼女は僕の方を見る。早く先へ行こうと急かすように。
けれど、僕に憂花の手を払うことは出来ない。夕希が死に、一度振り払ってしまった手を再び見放すことなど出来るはずもなかった。
何も出来ずにいるままでいる僕を、彼女は哀し気な目で見る。それ以上何かを言うこともなく、強く手を引くこともない彼女の優しさに胸が痛くなる。
目を逸らすように憂花の方に向き直る。彼女は僕たちの音のない会話が終わったのを見て、息をひとつ飲み込んでから口を開く。
「夕希は死んだ。その事実はもうどうしても変わらない、終わってしまった出来事。でも、私たちの中で夕希の死はまだ終わってないし、これから終わることがあるのかも分からない」
「……ああ、そうだな」
終わってしまった事実に、僕たちは追いついていないし、追いつける気もしない。思い出が薄れても、痛みを忘れても、僕たちの中の形骸化した傷痕が癒えることはないままで、ふとした時に思い出し疼痛のようなものを覚えることになるのだろう。嵯峨夕希という人間が居たということを忘れない以上、それが哀しむべきことなのか喜ぶべきことなのかは分からないままで。
「私たちはその痛みを受け入れなきゃいけないんだよ。哀しくても、耐え難くても。失ってしまったものに対して出来ることは、償いでも贖いでもなくて、背負って生きていくことだけなんだから」
「簡単に、言わないでくれよ。憂花だって分かってるだろ、背負うものの重みを」
その重みを背負って歩き続けるには、耐えられそうにないから、僕は生きることを諦めたのだ。そうした諦観から来る生への執着の喪失の果てが、今だった。
僕たちがどう思おうとも、それこそ魔法のような奇跡にでも縋らない限り、この痛みが消えないことは分かっていた。ゆえに、出来ることは痛みを誤魔化すことではなく、受け入れ、慣れることなのだとも分かっていた。
けれど、理解と実行は等しくない。僕にはそれを行うだけの能力がなかった。
「分かってるよ。とても耐えられないものだなんてことは。私だって、圧し潰されそうなんだから」
「なら――」
「だから、私が傍に居てあげる。一人じゃ耐えられないかもしれないから、私が一緒に背負ってあげる。代わりに、廉は私の傍に居て」
彼女は腕から手を離し、その手で僕の手を握り直す。一方的に捕まえようとするのではなく、僕の力もあってこそ繋がりが保たれるように。
埋まることがないと思っていた虚ろの中に、温かい何かが流し込まれたような気がした。それは、失われたものと同じではない。失われてしまったものは、二度と元に戻らない。空いた穴に紛い物を詰め込んだとしても、虚しいだけだ。
心に出来た空白は、新たなものでゆっくりと埋めていく他にない。そうして出来た姿は継ぎ接ぎのパッチワークかもしれないけれど、その不格好さは悪いことではないのかもしれない。完璧な、傷ひとつない生き方なんて出来ないのだろうから。
しかし、憂花の隣に居ることを選択することは、彼女を見捨てるという結末を示していた。愛していた者を殺すということを、表していた。
僕は確かに夕希に恋していた。けれど、それと同じくらい、別の種類の好意を持って憂花のこともまた、大切に想っていた。再び憂花を見捨てたくはない。あるはずのなかったやり直しの機会が現れたのだから、それに縋りたいと思ってしまう。
ただ、それと同じくらい、一度でも、それが偽物でも、愛したものを殺すことはもうしたくなかった。
得ることの出来ないと思っていた希望を掴むためなら、何でも出来ると思っていた。しかし、そうした奇跡が二つ同時に現れた時、どちらか片方を捨てなければならない時。僕は暗闇の中を彷徨うことになる。目指す場所が分からなくなる。
「私には、これ以上何も言うことなんて出来ない。自分勝手なことを言うなら一緒に帰りたいと思ってるけど、それでもこの先を進むなら私には止められないから。けど、ひとつだけ教えておいてあげる。あんたが忘れてる、大切なことを」
そうして憂花は溜め息のような息をひとつ吐いてから、僕の方を見て言った。ただ、その目は僕の方を見ていても、遠い過去を見ているように思えた。
「夕希は、他人の命を救うために死んだんだよ。顔すらも知らない、赤の他人の命のために死んだんだ。あんたが今、どんな痛みを感じてるのかなんて知らない。でも、どんな痛みだろうと理由だろうと、もし夕希がここに居れば、あんたの選択を許すわけがないと思う」
それは、確かに僕が忘れていたことだった。彼女が死んだという結果だけに気を取られて、考えていなかった彼女の死の意味。
突き詰めて考えれば人が生きていることに意味なんていうものはなくて、けれど行動だけが本来無為であったそれに意味を付与することが出来る。夕希の死には、誰かの命を救ったという意味があった。そして、命の価値を伝えるだけの、意味が。
あの経験から、僕は命に価値なんてないのだと思った。そんなものがあるのだとすれば、夕希が死ぬのは道理に合わないのだから。世界は絶対的に不平等で、暴力的に毟り取られる命に同情をしても、どうしようもないのだとそう信じるようになっていた。
しかし、夕希があの時思っていたことは、そんなことじゃないのだろう。ただ、そこにあった命を救いたいという衝動。自分の身すらも顧みなかった、願い。彼女の考えは、僕が抱いていたものとは、正反対だったはずだ。
「……狡いだろ、それは」
絞り出すように呟く。選択を委ねるようなことを言っておいて、彼女はこれを言えば僕が何を選ぶかは分かっていたはずだ。
僕の答えは初めから決まっていた。選択肢になかったからこそ選ぶことが出来なかっただけで、現れたのであれば迷うことは出来なかった。それが、いかに残酷な選択であろうとも。
彼女の方を向く。いつの間にか、繋いでいた手は解けていて、彼女は寂しそうな表情をして僕のことを見ていた。
「ごめん」
「うん」
彼女は短く、凄惨に僕の謝罪を受け入れる。言葉は銃弾のように心を貫いて、鉛のような毒気が身体中に回ったような気がした。
「謝られるようなことじゃないよ、って言いたかったけど、そんな余裕はなかったね。やっぱり振られたことは寂しいし、死ぬことは怖いよ」
その言葉は、決断の責任の重さを増させるものだった。一人の感情を踏み躙り、命を見捨てる選択をしたということを、否応なく突き付けられるものだった。
「最後にひとつだけ、いいかな」
「……ああ」
頷くと、彼女は身をこちらに寄せる。腕は僕の身体を優しく抱きしめ、そして唇には冷たい感触が伝った。
僕は、彼女のことを愛していたんだろう。夕希の面影を恋していただけではなくて、確かにここに居た他でもない彼女として、僕は彼女を愛していたのだ。
それでも、僕は一緒に行くことが出来ない。まだ、生きていなくてはならないから。
唇から死体のような温もりが離れて、彼女は言った。
「これは、呪いだよ。あなたは、一生私のことを思い出しながら生きていくの。私と過ごした夏を、最初で最後だったキスを、忘れることも出来ずに」
「忘れないし、忘れるつもりもない」と僕は答える。
「僕は、君のことを殺すことしか出来なかったけど、愛していたことは本当だったんだから」
そう言うと、彼女は笑った。
「あなたは、酷い人だね」
「ああ、そうだよ」
今更の告白が慰めになんてならないことは分かっていた。むしろ、あったかもしれない可能性を夢に見させるだけの、追い打ちにしかならないかもしれないということも。
けれど、手向けとなる言葉を沈黙や虚偽で誤魔化すことは、この夏を裏切ることになるような気がして、出来なかった。それが偽りの上に成り立っていた歪なものであったとしても、僕たちの夏は確かに存在していたのだから。最後まで、あるいは最後だけでも、美しくありたかった。
「さようなら」
その言葉が確かに響いたものだったのか、僕が潮騒の中に聞いた幻聴だったのかは分からない。ただ蜃気楼のように、彼女は消えていた。
揺らぐ水面の上にある残像に目を凝らし、映る月光に手を伸ばそうとした。届くはずがないなんていうことは分かっていても、何かが掴めるかもしれない、なんていう淡い期待を抱いて。
しかし、その衝動は繋がれたままでいるもう片方の体温を感じて引き留められる。あるはずがないものに縋っても仕方ないのだという、当たり前のことを思い出す。苦しくとも、痛くとも、僕は夢想を掴むことなんてせずに、歩き続けなければならない。進み続けなけらばならない。
夏が終わったのだと思う。もう何年も閉じ込められ続けていた長い夏がようやく、終わったのだと。
「さようなら」と呟く。夏への弔いは海に呑まれ、水底へと掻き消えていった。
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