刻々

6

 あらゆるものが停滞したままで、けれど夏は進んでいく。

 憂花との関係も、夕希の記憶についても、何も状況は好転しないままで夏はもう半分を過ぎていた。僕たちは変わり映えのない日常を浪費し続けている。

 前進をしないことは、罪なのだろうか。後退を――墜落を厭い、せめて幸福な今に甘んじ続けることは、停滞は、悪なのだろうか。過ぎていく時間を見送ることしか出来ないままで、賭けの期限は刻一刻と近付いて行く。

 このままいけば、僕は賭けに勝つ。夏が始まった頃から、もう何年も前から変わらず、僕は嵯峨夕希に恋し続けている。この感情は呪いのようにいつまでも僕の心の中で燻ぶり続けている。

 いつになったら、僕は彼女に対して好きだと言えるのだろうかと思う。甦り、再び彼女が隣に居ても尚、僕はその言葉を告げられないままでいる。今ではないという繰り返しは、単なる先延ばしの言い訳に過ぎないのだろうか。

 記憶のない、頼るものが僕の他にない彼女に好きだと伝えることを不純だと思うのであれば、いつになれば伝えて良いと言えるのだろうか。夏が終われば、一か月後、一年後。結局そんなものは曖昧な匙加減でしかない。いつになれば、ではないのだろう。どのようなきっかけを得ることが出来れば、僕は彼女に対して好意を伝える自分を許すことが出来るようになるのだろうか。

 僕はずっと、それを待っている。探しても、見つからないものだと分かっているから待つしかないけれど、そもそも訪れるものなのかすら確かではないのに。

「廉は準備出来た?」

 閉鎖的な思考は夕希の声によって打ち止められた。斜陽だけが差し込むリビングは薄暗く、一度個人的な世界に入り込むとそこは迷宮のようで、なかなか抜け出すことが出来なくなる。

「元から準備することなんてそんなにないんだ」と笑うと彼女は「まあそうだよね」と笑い返した。かく言う彼女も、出会った時に来ていたワンピースへと着替えたくらいで大層な用意はしていない。ただ、改まって見せられたその白い姿は、夕闇の中で特に映えて見えた。月並みな表現をするのであれば、天使のようだと思う。

「行こうか」と惚けたような態度を振り切るように言い立ち上がると、外から祭囃子が聞こえてくる。陽は落ち、けれど街が眠るような様子はなく喧騒と灯りが神社の方から漏れている。

 何年振りのことだろう、夏祭りに赴くのは。三人で行くことも度々あったけれど、金銭的な余裕のない子供からしてみれば毎年行くほど愉快なものでもないわけで、夕希が死ぬ前の数年は行かないことが殆どだった。

 夏を持て余した僕の、祭りへ行かないかという提案に彼女は食い気味に返答した。何気なくした提案への反応がそれほど良いものだとは思っておらず、僕は喜び「行こう」と決定をする。そうして、今に至る。

 外に出ると夕闇が孕む印象とは対照的な熱がそこら中に満ちていた。真夏と言えるような時期に差し掛かり、真夏であろうともじっとりとした熱気が肌に纏わりつく。五月蠅い蝉時雨の中に、蜩の声を見つける。真夏へと差し掛かったということはつまり、これからは終わっていくだけなのだろう。

 夏は嫌いだ。それでも終わっていくという事実に直面すると仄かな、寂しさに限りなく近いものが胸の内を掠める。どれほど嫌いなものであったとしても、終わるという不可逆的な事象には、幾ばくかの寂しさが含まれているのだろうか。あるいは、夏を最も嫌っていた原因が払拭されたことによって、僕が夏のことを好きになっているのか。

 階段を降りると、祭りの方向へと歩いて行く着物姿の人々がまばらに見えた。僕が知らなかっただけで、塞ぎ込んでいただけで、空白だった何年かの間もこうして人々は祭りへと向かって行っていたのだろう。僕が知らないところでも、社会というシステムは駆動を続けている。世界は進み続けている。当たり前のことのはずなのに、目の当たりにすると不思議な気分になることだった。息をしていることを自覚すると、息苦しくなるように。

 徐々に人の気配が濃くなっていく。祭り、というよりも喧騒の中に身を投じること自体が久しぶりかもしれないと気が付く。どこかに行くような気力もなく、人も嫌いであれば人混みの中に紛れずとも案外生きていけるものだ。

 人混みの中に入ると、自分が世界に馴染むことが出来ないことを痛感する時がある。日常の延長として、人の波の中に埋没をすることが出来る彼らと、拭えない違和感を抱きながら歩いている彼らとの間には、誤魔化すことの出来ない違いがあるように思えてしまう。孤独が浮き彫りになる。

 今だって、僕が彼らと違うことには変わりがない。けれど、僕と隣には夕希が居た。彼女のお陰で、僕は世界と繋がることが出来ているような気がした。ただ一人でも良い、誰かが傍に居てくれるということは、それだけで人を救いうるのだろう。

「廉?」という声に顔を向けると、夕希はいつの間にか僕の方を覗き込むように見ていた。

「どうかしたか?」

「いや、ちょっとぼうっとしてたからどうしたのかなって」

「ん、ちょっとした考え事。癖なんだ、悪い」

 現実を置き去りにして一人の世界に入ってしまうのは、昔から治らない悪癖だった。

「悪いことじゃないよ。ただ、深刻そうな顔をしてたから心配になってさ」

「大丈夫だよ、何でもない。気にしないでくれ」

「そう?」

 我ながらあからさまで情けない取り繕いだったけれど、他に適した言葉を見つけることが出来なかった。

 僕にとって、目を逸らすべきではない、大切な問題ではある。ただ、憂花との問題は夕希が関係するものではないし、何より折角の祭りの日にまで持ち越す必要はない。今はただ、彼女に楽しんでもらえれば、僕にはそれで良かった。

「夕希は、祭りで何かしたいことはあるのか? ほら、射的とか金魚掬いとかさ」

 そう話を転換させると夕希は不思議そうな顔をした。どうやら、射的や金魚掬いというものもいまひとつ分からないままらしい。であれば、したいことも思いつかないだろう。

「分からないなら、見ながら取り敢えずやってみたいものを片端からやってみればいいさ」

「でも、いいの? 私、ずっと何もかも廉に頼り切りで、何も返せてないままなんだけど」

「いいんだよ、これまでに夕希には色々借りがあるからさ」

 それに、あの時助けられなかった償いがしたいから。

 夕希は僕の言葉にぎこちなく頷いた。彼女からすれば、一方的に僕に貸しがあるようで納得が出来ないのだろうけれど、事実として僕は彼女に助けられてばかりだったのだからそれ以上の言いようはない。

 人の波が濃くなっていることに気が付くと、視線の先には連なった屋台と人工的な光で眩く照らされた境内が見えた。じっとりと汗ばむような気温と喧騒、屋台で作られた食べ物の香りと空の鮮やかな黒。それらを肌で感じて、夏祭りに来たのだと実感する。ここはやはり、日常とは切り離された空間なのだと痛感する。

 夕希が息を飲んだことが伝わる。今まで人混みに向かわなかったこともあり、こうした場所に訪れたことは大きな衝撃なのだろう。どのような場所であるかということは伝えていたけれど、想定と実感には埋めることの出来ない大きな乖離が存在している。

「こういうところだけど、大丈夫そうか?」

 ただの喧騒ではない、一種の仄かな熱狂を纏った祭りのような場所は、嫌いという人も居る。人間には、合う場所と合わない場所があって、それを無理に合わせようとする必要はない。

「大丈夫。というか、こういう場所めちゃくちゃ好き」

 そういうところは昔から変わりがないらしいと思いながら「なら良かったよ」と答えつつ進んで行く。道々には早速輪投げや籤引きの屋台が見え、子供たちがそこに群がっている。ああしたものを遊ぶのは子供が多いのに、祭り全体を俯瞰すると大人の数は子供の数よりも多いようにすら思える。彼らにとって祭りは屋台で遊ぶ場所というよりも、日常から離れ、非日常を楽しむ空間なのだろう。そこでは必ずしも屋台で遊ぶ必要はない。ただそこに居て、その空気を他者と共有するだけで十分なのだ。

 停滞している人混みの中を掻き分けながら、僕たちは進んで行く。人混みの中を一人で歩くと、自分は他人と比べて歩く速度が速いと思う。それはきっと、抱えるようなものが何もないからだろう。背負う物のない人間は不安定さと引き換えに、その足取りは軽い。どうせ、希望なんてないのだ。足取りが軽くなるならそれでいいだろうと、思っていた。重石になるくらいであれば、他人なんて要らないのだと思っていた。

 しかし、誰かと共に居ることで感じる重みは、束縛は、想像をしていたよりもずっと軽く、心地の良いものだった。人間関係の全てがそうした心地の良いものだというわけではないのだろう。他者の全てを厭うわけではなく、単に僕がそうした能力に欠如をしているがゆえに、僕は変わらず他者との関係を上手に構築することが出来ない。

 僕に必要なのは、受動的に誰かを待ち続けることではなく、能動的に他者と関わり合うことだったのだろう。分かり合うことの出来る誰かが突然現れるような都合のいい展開は、ないのだ。

 一度染み付いた思考は既にアイデンティティの一部であり、剥がれてはくれない。気付いたところで、孤独に慣れ切った僕にはもう手遅れなのだろうが。

 夕希は興味深そうに周囲を見回しながら進んで行くけれど、足を止めることはない。それは、まず何かをするというよりも全てを見て回りたいと思ったのかもしれないし、足を止めるほど興味のあるものはなかっただけなのかもしれない。しかし、気を遣っているのではないかと思ってしまう。

 僕が彼女の立場に立ったとして考えて、気を遣うことは仕方のないことだろうけれど、それでも僕は何かがしたかった。

 歩いて食べることが出来るものでも買おうか、と思っていると林檎飴の屋台が見えて目を留める。懐かしい。昔、夕希が買い、その食べづらさに愚痴を零していたことを思い出す。僕もひと口貰ったけれど、あの食べづらさは確かに酷いものだった。きっと歩きながら食べるように設計されたものではない。

 持ち歩き続けるには邪魔で、憂花も協力をしながらなんとか食べきっていた。「もう二度と買わない」と言った夕希の、不貞腐れたような表情は今でも鮮明に記憶の中に刻み付けられている。

「何か良い物でもあった?」と夕希は僕が見ていた方を見た後で「何あれ」と林檎飴を眺めながら呟いた。

「林檎飴だよ」

「美味しい?」

「美味しくはある」

「含みのある言い方だね」

「食べづらいんだ、とても」

 球状をした形はどこから食べても硬く、まず最初のひと口にありつくまでが難しい。最初のひと口を食べ、柔らかい林檎の部分が露出したとしても大きな球形をした食べ物の食べにくさに苦心することになる。

 怒られるだろうけれど、あの時必死に林檎飴を食べようとしていた夕希の姿には滑稽なところがあった。実際、憂花は夕希の姿を見て笑い、怒られていた。

 昔の光景を思い出すと、今ここに憂花が居ないことに寂しさを感じる。僕にとって、夕希が大切な人であることには変わりがなかった。恋をしている相手を他の友人より特別な存在だと位置づけてしまうことは、何も異常なことではないはずだ。

 けれど、僕にとって憂花もまた欠かすことの出来ない人間であることには変わりがなかったのだ。失って初めて、その人がどれほど大切だったのかを知るなんていうことは夕希の時に痛いほど感じたはずなのに、僕は何も出来ないままで、憂花さえも失ってしまった。失ってしまったと過去形にするのは、まだ早いのだろうか。そう、思いたい。

「でも私、食べてみたいかも」

 林檎飴の屋台を見ながらそう言った夕希に、僕は思わず笑ってしまった。今の夕希にはあの時の記憶はない。食べることに苦心をしたことも、笑われて怒ったことも、何も覚えていないのだろう。だからこそ、同じような光景が繰り返されることが想像出来て、可笑しかった。

「何か変なこと言った?」

「いや、何でもない。そうだな、じゃあ買おうか」

 人だかりを掻き分けて屋台の方へと近付く。前を歩いていた、浴衣を着た女性が買うのを見届けると他に並んでいるような人はおらずすぐに回って来る。

「林檎飴ひとつください」

「はいよ」

 どちらかと言えば愛想のない店員に百円硬貨を三枚渡し、代わりに林檎飴をひとつ貰う。軽くはないだろうとは想定をしていたけれど、手にしてみると想像をしていたよりも重かった。確かに、これを持ったままでは祭りは周りにくいだろう。

 埃がつかないようにかけられていたビニールを剥がし、林檎飴を夕希に渡す。彼女はまるで宝石でも貰ったかのような目をそれに向けながら受け取る。

 人通りの少ない、道の端に避け、ビニールを近くにあったゴミ箱に捨ててくると丁度今齧りつこうとしているところだった。大きな口を開けて林檎飴を食べようとするが、林檎を覆った飴は硬く、文字通りなかなか歯が立たない。

「最初から齧ろうとしても硬くて上手くいかないんだよ。取り敢えずは舐めて、食べることが出来そうな部分を作った方がいい」

「ああ、そっか。飴だもんね」

「ただ、あんまり長く放っておくと飴が溶けてべたつくから悠長にしているわけにもいかないんだ」

「えっ、何それ。すごい食べづらいじゃん」

「だから言っただろ、食べづらいんだって」

 夕希は少しばかり不服そうな顔をしてから飴を舐めた。食べづらいとは言っても、ここまで食べづらいとは思わなかったのだろう。昔の夕希もそう言っていた。

「折角来たのにこれを舐めてばっかになりそう」

「齧れるようになれば案外時間はかからないよ。歩きながら食べても問題ないと思うけど、そうするか?」

「ううん、いいや。落っことしたり、人にぶつけても嫌だしさ。待っててもらってもいい?」

「ああ」

 誰かを待つということは、僕にとって酷く久しぶりのことだったけれど、昔から待つということは嫌いではなかった。それは知らない誰かを途方もない時間というわけではなくて、信頼している相手を必ず訪れると信じて、という前提があってこそだけれども。

 今、こうして夕希を待っていることも、僕にとっては仄かな喜びを感じることの出来るものだった。好きな相手と時間を共有している時、温かな感情が背骨を伝っていることが分かる。何を話さずとも、間に存在するものが沈黙であったとしても、それこそが良いのだと思える。

 彼女の顔を見つめることは何故だかいけないような気がして、人の流れを路傍から俯瞰する。彼らの表情は等しく、無邪気な喜びに溢れたものだった。だからといって、世界を楽観的に見るわけにはいかないのだろう。祭りに来られるような人間はそもそも、隠すことの出来ない哀しみを背負っているはずがない。彼らは祭りに来られるからこそ精神的健康を有しているわけではない。そうした状態だからこそ、祭りに来れたのだから。

 しかし、そうして楽し気に笑っている人間が世界には溢れていることもまた確かなことだった。見えない哀しみを存在しないのだと言うつもりはない。けれど、目の前に存在する笑顔もまた確かなもので、世界を棄てたものだと悲観するのはそれもまた間違っているのだろう。世界は、人間が期待しているほど希望的でもなければ絶望的でもないのだ。

 夕希が甦って、僕は世界を少しだけまともに見ることが出来るようになった気がする。世界を覗くためにあるレンズは、そこにあることすら気が付くことが出来ない。外れた時に、ようやく自分が見ていた世界がいかに歪だったのかを知ることが出来る。それはつまり、そう思っている現在ですらも歪んでいる可能性を孕んでいるのだから堪らないけれど。

 特撮ヒーローの仮面を被った子供が、僕たちの前を駆けて行った。傍から見れば、本当に前が見えているのかと不安になるような見た目だったけれど、人を避けながらあっという間にまた人混みの中へと消えて行った様子を見るに視認性は悪くないのだろう。

 あれくらい、幼かった頃に戻りたいものだと思う。我ながら可愛げのない子供だったことは自覚していて、きっとあの頃に戻れたとしてもあの子供のように仮面を被りながら駆けまわることは出来なかったのだろうけれど、それでも。今よりは自然に、そうあるべきものとして世界を素晴らしいものだと受け入れることが出来たのだろうから。その視界が狭いものであったとしても、それの何が悪いのだろうか。どれほどの知識があったとしても、どれほど遠くまで世界を見渡すことが出来たとしても、幸福になることが出来ないのであれば、そんなものに意味なんてないのだろうから。

 夕希の方を見ると、彼女は僕と同じように祭りを俯瞰しながら物言わずに林檎飴を舐めていた。その視線はどこか、冷たさを感じるものだった。突き放しているような能動性はなく、人が海猫を眺めるような、そういった無機質さが彼女の瞳にはあった。

 憂花の言葉が頭を過った。彼女は、嵯峨夕希ではないという言葉が。今往来を俯瞰している彼女の目は、確かに夕希のものとは思えなかった。物体としては、確かに夕希のそれと全く同じように見えるのに、中に存在している色彩が、輝きが、夕希のものとはどうしても思えなかった。

 記憶の欠落は人をここまで変えるのか。あるいは、本当に彼女は――

 思考を打ち止める。違う。こんなことを考えたところで意味はないし、きりもない。懐疑はいつまでも続けることが出来る、無為な行為に過ぎない。僕がするべきは、信じることだけだ。

「ん、どうかした?」と彼女は僕が見つめていることに気が付いて面をこちらに向ける。

「いや、何でもないよ。ただ、美味しそうだなと思っただけ」

「ひと口食べる?」

「なら、貰おうかな」

 彼女が食べ進め、飴の中から林檎が露わになった部分を齧る。口に含んだそれは飴よりも林檎が多く、想像をしていたよりも酸っぱい味がした。ただ、美味しいことは確かだった。

「美味しいな」と言うと、夕希は「でしょ」と笑った。

「もう少し食べる? 私だけで食べるには、大きすぎるから」

 いつかの時と同じだ、と思う。違うのは、一緒に食べる役回りをさせられるのが憂花から僕へと変わったことだろうか。

 あの頃、僕たちは表面上は変わらない関係を続けていた。しかし、僕が夕希に恋をしていたように、少なからず互いのことを異性だと意識をし始めていたのだろう。自然と、僕ではなく憂花が共に食べるような流れになったのも、そういった水面下の揺らぎによるものだったのだと、僕は思う。

 今、彼女が林檎飴を何食わぬ顔で差し出しているのは、今の彼女がそういったものに対して頓着がないのか、あるいは。

 微かに湧いた期待は、薄汚れたものであるような気がして切り捨てた。僕が夕希に恋していて、その果てとして付き合うことが出来ればと願っていたことは、願っていることは変わりがない事実だけれども、やはり僕たちの関係の間にそういったべたついた感情を差し込むことは、禁忌的なものである気がしたのだ。

 断ることも不自然なようで、意識をしていることを表すようで、僕は何食わぬ顔をしたまま「なら貰うよ」と言って差し出された林檎飴を再び齧る。口内に広がった味は相変わらず酸っぱいままだった。

 二人して林檎飴を消化していると、思いのほか早く林檎飴はなくなった。彼女との間に存在する沈黙は嫌いではないのに、同じ食べ物を二人して食べるという行為はどこか気恥ずかしく感じられて、それを誤魔化すために、沈黙が降りるよりも早く食べようとしていたことが原因だったのだろうけれど。

「美味しかったね」と彼女は役目を果たした棒を捨てながら言った。「ああ」と僕は言う。林檎飴は、特別美味しいというわけでもなければ、それでなければならない食べ物だとも思わなかった。しかし、林檎飴は夏の祭りの間でもなければ食べることが出来ない。買うことが出来ない。そういった、非日常を、人々は買い、咀嚼しているのだろう。きっとあの食べづらさも含めてこその、非日常なのだ。

「じゃあ、また歩こっか」という言葉に頷き、僕たちは雑踏の中へと混じっていく。幾ら遅い歩みとはいえど、境内はそれほど大きな場所ではない。少し進むと果てへと辿り着き、来た道を折り返すことになる。とはいえ、屋台は道の両側に立っていて、帰りは行きに見ることの出来なかった方の屋台を見ることが出来て退屈をすることはなかった。

 林檎飴を最初に食べたせいで、焼きそばのような主食を食べる口でもなくなっていれば、綿飴のような甘いものをこれ以上食べる気にもなれなかった。これといって食べたいものがあったわけでもないのだから良いのかもしれないけれど、何を食べようかと考える楽しみは失われてしまったような気がする。後先を考えないのは、いつまでも変わらない僕の悪いところだ。

 食べ物の類が候補から外れた結果として、自然と目はより即物的な遊戯の方へと向かっていった。大抵、祭りの遊戯には景品が存在している。ただ、言うまでもなくそれらは大抵割に合わなくて、数百円が数十円の駄菓子に変わることの方が多い。

 無邪気に存在しない可能性を希望している子供だけならともかく、大人ですらもそうした遊びに興じるのは、子供らしいそうした遊びをしたいがためなのだろう。かつて存在した記憶と、あるいは断片的に内在した原風景と、今を重ね合わせようとするがために。遊びとしての純粋な楽しさよりも、ノスタルジアを彼らは買っているように見える。

 夕希が不意に足を止めた。僕もそれに倣い足を止め、彼女の視線の先を見るとそこには金魚掬いがあった。小さな水の流れの中を、赤と黒の斑模様が蠢いている。

 それらは元気にも見えるけれど、実際のところは小さな場所に所せましと置かれているせいでストレスが溜まっているらしい。昔、憂花が持ち帰った金魚がすぐに死んだ時、調べた記憶がある。そんな理由を説明したところで彼女の傷が癒えるわけでもないのに、僕にはそれしか言うことが出来なかった。もっと単純に、慰めの言葉を言えていれば良かったんだろうと、今になれば思う。

 二人の子供と一組の男女が水面と睨みあいながら、金魚を掬うために素早く水面を掘る。殆どポイは金魚の重さに負けてすぐに破けてしまったけれど、片方の子供の持つポイは破けないままで、もう左の手で持った器の中に赤い、小さな金魚が入る。

 その後、ポイが破れた子供は金魚を水とともにビニール袋に入れて貰い、期待を込めたような、うっとりとした表情を手にした金魚に向けながら金魚掬いの屋台を去って行った。例外がないとは言わないけれど、あの金魚も恐らくはそう長く持たないのだろう。そうした未来を知らずに、子供は憂うようなことはなく嬉し気な表情をする。それでいいのだと思う。失われることへの憂いを知らないことは、幸せだ。その特権を行使出来るのは子供だけで、今はまだ、幸福を享受し、浸っているべきだろう。

「やりたい?」と夕希に尋ねると彼女は首を横に振った。

「いや、いいや」と言って、彼女は再び歩き始める。僕はそれを追う。

「あれ、面白いのかな」

「あれって、金魚掬いか?」

「うん」

 面白いのかどうか、という問いに関しては分からない。人によって違うというのが簡単な結論だろうけれど、そもそも金魚掬いを面白いと思ってやっている人は居るのだろうかと考える。林檎飴と同じだ、非日常を楽しむためにそれを行うことはあれど、それ自体の質を求めているのかは分からない。

「ああいうの、嫌いだったか?」

 生物に対して酷い扱いをしているという見方も当然出来るわけで、それを嫌う人が一定数居るということも理解している。彼女もまた、そう思ったのかと思った。

「そういうわけでもなくて、本当に単純な疑問だったんだ。私にはよく分からないことだったからさ。持って帰って、食べたりとかするのかな」

 素朴な疑問に対して僕は思わず笑う。金魚を食べるという発想が僕にはなかったのだ。

「食べはしないんじゃないかな。大抵は家に持ち帰ったら水槽に入れて飼うよ」

「へえ、飼うんだ」

 彼女は冗談を言っているような様子もでもなく、本当に驚いたような声音で言った。つまり、彼女が金魚掬いという行為がどのようなものなのかを理解していなかったということを証明している。

 記憶の境目とは、どのようなものなのだろうか。以前も考えた疑問が、今度は上手く飲み込めないままで蟠った。魚を食べるという文化は知っていても、金魚掬いという文化は知らない。その差異は、何なのだろう。記憶が失われるよりも前の夕希は当然、そのどちらも知っていたはずなのに。

 夕希が記憶を失ったと知った後で、僕は近くにある図書室にある範囲で、自分に理解出来る範囲で記憶について調べた。

 記憶には二種類存在しているらしい。知識や常識といった意味記憶と、その本人にのみ蓄積されているエピソード記憶。記憶喪失に陥った人間であったとしても赤信号を渡ろうとしないのは、基本的に記憶喪失と言われるものによって失われる記憶がエピソード記憶に限られるからだと、その本には書いてあった。

 彼女には、時折意味記憶すら失われているような様子が見られた。彼女自身にあった出来事ではなく、一般的な知識の欠落。それは、魔女によって記憶を消された、イレギュラーな記憶喪失がゆえの弊害なのだと僕は思い込んでいたけれど、本当にそうなのだろうか。それだけで終わらせるべき問題なのだろうか。

 それだけで終わる問題ではないのであれば――他に何か要因があるのだとすれば、何だと言うのだろうか。失われるべき記憶とそうではない記憶の取捨選択が行われているとでも? 魚を食べることが出来るという記憶と、金魚掬いの知識に、一体どのような差が存在しているというのだろうか。馬鹿馬鹿しい。単に、アトランダムに記憶が失われてしまっただけだ。そこに恣意性は存在しない。するはずがない。

 祭りの喧騒の出口、連なった屋台の端に、飲み物が売っていた。氷を詰められたクーラーボックスに乱雑に放り込まれたお茶やジュース類。その中でも目を惹いたのは、祭りに相応しい瓶のラムネだった。

 絡まり拗れ、嫌な熱を帯びた思考を振り切りたくて、冷たい何かが欲しかった。「ちょっと待ってくれないか」と夕希を呼び止めて、「ラムネを二本ください」と店員に言う。愛想のよい女性は代金と引き換えに冷やされた二本のラムネを僕に手渡した。僕はその片方を彼女の方へと差し出す。

 彼女はペットボトルと同じような要領で開けようとする仕草を見せて、僕は「待って」と彼女の動きを制止させる。

「こうやってあけるんだよ」と言い、プラスチック製の蓋を使ってビー玉を瓶の中へと落とす。涼し気な音とともに、炭酸の弾ける音がした。

「ありがとう。にしても、どうしてこんな変な容器になってるんだろう」

「さあ、なんでだろうな」

 何度も疑問に思ったことだけれども、分かったところでどうなるわけでもなくて、調べもしないままで放っておいている。世の中には、そういった物事が幾つも存在していて、ラムネ瓶のビー玉もそのひとつだ。

 ラムネ瓶の丸みを帯びた飲み口に口をつけて飲むと、冷たい炭酸が心地よく喉を通っていった。鬱屈が多少は紛れるような涼しさ肌の裏側から感じる。あくまでも、こんなものはその場凌ぎに過ぎないのだろうけれど。

「何か、欲しいものとか、やりたいこととか、あったか?」

「ううん、特には。遠慮してるってわけじゃなくて、ほんとに」

「なら、少し外れたところまで歩かないか」

 祭りの喧騒は、灰色の無機質な街で感じるような、表情のない往来よりも好ましいものだけれども、それでもやはり好きにはなれない。例え、夕希が隣に居たとしても、静かな場所の方が好きなことには変わりがなかった。

「うん、分かった」と言って、夕希は歩き始める。僕は少し早く歩いて彼女を追い越し、僕が先導するようなかたちで歩く。今の彼女はこの街のどこがひと気がなく、落ち着ける場所なのか知らないのだから、僕が進まなければならない。

 祭りは未だ続いていて、むしろこれからが盛りなのだろう。音だけは聞こえていた神輿の姿を僕たちは影すら掴めなかったのだから。非日常から抜け出した僕たちは人の波に逆らってひと気のない方向へと、暗闇へと歩いて行く。明かりの中でも美しかった彼女の白い服は、暗闇の中だと尚のこと映えて、美しく見えるものだと思う。

 ラムネを飲みながら、僕たちは進んで行く。世界から乖離していくために、瘡蓋が剥がれていくようにゆっくりと。

 ラムネの中身はサイダーと変わりのないものだと、どこかで読んだことがあった。それでもペットボトルで飲むものと比べて異なった味に感じるのは、美味しく感じるのは単なる気分の問題なのだろうか。ラムネは夏の味がする。そんな気が、事実を知った今でもしている。

 少し歩き、喧騒から離れた先に自動販売機がある。いつか、三人で花火を見上げた場所だった。この街の夏祭りは花火とは別の日に行われるため、どれほど待ったところで、夜空を見上げたところで何も見えない。赤や白の鮮やかな光が空を染めるようなことは、ない。

 それでもこの場所に訪れたのは、自動販売機の傍には石塀があり、かつてそこに腰かけたながら空を眺めたことを思い出したからだった。ベンチでも置いてある場所があれば良かったのだけれども、僕の覚えているベンチと言えばあの伽藍とした公園くらいで、そこに行くのは少しばかり遠いように思えた。久しぶりに人混みの中に入ったからか、名状することの出来ない疲労が身体の底に沈殿していたのだ。

「ここでもいいか?」と尋ねると夕希は「うん」と頷いて石塀に腰を下ろす。僕も、並ぶように隣に腰を下ろす。

 眩しいほどに白く光った自動販売機、ぼんやりとした光を灯す、虫に塗れた街灯。姿の見えない鈴虫の声が充満している暗闇。もう、そんな季節かと思う。夏は終わりに近付いている。夏が始まった頃から、僕は何も進めていないままだ。

 それでいいじゃないかと、何かが囁く。魔女と約束をした時から、そう考えていたじゃないか。現状を維持し続け、その果てに夕希を得ることが、彼女を甦らせることが、お前の望みだろう。変化は要らない。大抵の場合現状維持は緩やかな失墜に過ぎず、現状維持を目的としてそれを本当に果たすことが出来ているのであれば、それで十分じゃないか。

 しかし、本当にそうなのだろうか。夏の焦燥に中てられたせいか、僕は考える。怯懦を貪ったまま、大切なことから目を背けたままで得られたものに意味はあるのだろうか。それは、価値のある、本物なのだろうか。

 本物とは何だ? どのような過程があり、その中でどのような揺らぎがあろうとも、必要なのは結果ではないだろうか。過程に価値を求めることは自己満足に過ぎず、僕がするべきは大切なものを取り零さないようにすることだけではないだろう。ただでさえ、一度取り零してしまったのだから、他の雑念を加えるよりもまずそれだけが必要なのではないだろうか。

 世界に正解はない。ただ、不正解は存在している。取り返しのつかない失態は、どうしようもなく在り続ける。僕にとっての不正解とは何か。それだけを考える。考えたところで、そう簡単に答えが出るものではないのだけれども、僕に出来ることは考え続けることくらいなのだろうから。

 沈黙を持て余していたことに気が付いて、僕は「どうだった?」と夕希に尋ねる。彼女はラムネをひと口飲んでから口を開いた。からん、とビー玉が瓶の中で揺れる音が響く。

「楽しかったよ。何もしてないと言えばそうなんだけど、あの場所に居るだけでも私にとっては新しいことばかりだったし、それに、そうした場所をあなたと並んで歩くことが出来たことが、私にとってはこれ以上ないほど嬉しかったな」

 それだけの言葉が懊悩を掻き消しそうになるのだから、自らの単純さに参る。見事に、馬鹿みたいだ。つくづく実感するけれど、やはり恋愛というのは未だ正式に認可されていないだけの病らしい。

「なら良かったよ。久しぶりに足を運んだ甲斐があった」

「廉は、普段ああいう場所にあんまり行かないの?」

「まあ、そうだな。ひと気のある場所が好きじゃないんだ」

「えっ、そうだったの。ごめん、私に付き合わせちゃって」

「ああ、いや、別にいいんだ。好きじゃないけど、嫌いっていうわけでもなくてさ。自分一人でわざわざ行きたくはないけど、誰かと、それも親しい人と一緒に行くのであればむしろ楽しいさ」

 夕希と同じように、僕も素直になって彼女と並んで歩くことが出来たことを嬉しいと言えれば良かったのに、くだらない恥じらいがそれを拒んだ。やるせなさがじくじくと身体を苛む。

「なら良かった」と夕希は安堵したような声を漏らす。僕はラムネをひと口飲む。ただでさえ容量の少ない瓶の中身は、沈黙を継ぐために口をつけていたせいでもう殆どなくなっていた。

 鈴虫の声だけが響く。今の僕と夕希は、どのような関係なのだろうかと、考える。夕希の中に、過去はない。僕にとって彼女は幼馴染であり恋している人だけれども、彼女にとって僕という人間はどのように映っているのだろうか。関係があったということだけを覚えている、何も知らない他人。そのような人間がどのように映るのかということを、僕は知らないし、これからも知ることは出来ないのだろう。

 僕たちは、確かに夏を共有し、同じ部屋で寝食を共にした。けれど、だから何だというのだろうか。時間を共有することが、物理的な距離の接近が、人間の関係を近付けるということは分かっている。しかし、それはかつて僕たちの間に存在したような、長い時間をかけて育まれた温かな感情を育むとは限らない。夏の暗闇と空白は、僕たちの間に存在している名状し難い距離を浮き彫りにしているようだった。

「あのさ」と夕希は思い出したような調子で口を開いた。ただ、その声色はどこかわざとらしいもので、改まったような空気を微かに感じる。

「前も聞いたけど、廉は私のことをどう思ってるの?」

 不意に心の柔らかい部分を刺されたようで、戸惑う。どう思っているのかという問いに対する答えは決まっていて、けれどそれは言うことが出来ない。衝動的に飛び出そうとする言葉が喉元で暴れていることを自覚して、必死に飲み込む。

「どうしてそんなことを聞くんだ」

 その問いは何かを静かに揺らすような力を持っている気がして、僕は恐れる。今の僕が望んでいるのは、現状の維持だった。不幸への転落は言わずもがな、幸福になることさえも僕は恐れていた。幸福の先にあるのは、限界まで昇った先にあるものは放物線を描いた転落だけなのだから。

 不幸か幸福か、そのいずれかは分からないけれど彼女のその問いは確実に今の僕たちの曖昧な関係に変化を齎すものだった。いずれにしても、現状が破綻し、終わることは決まっていて、だからこそ恐れが身体の中に注がれていく。

 夕希はその目を僕の方に向ける。唾を飲み込んだことが、喉の動きで分かる。離れた場所から差す街灯の光は、強張った彼女の表情を暗闇の中で描き出していた。

「私は、あなたのことが好きだから。好きな人の気持ちが知りたいって思うことは、普通じゃないかな」

 その言葉は、僕が何よりも求めていたものであったはずだった。恋している相手から好きだと言われる以上に価値のある言葉などないと、そう思っていた。

 けれど、想像をしていた自分との乖離に気分が悪くなるほどに、僕は冷静にその言葉を受け止めた。嵯峨夕希が深見廉に対して好意を抱いているという事実を、動揺し、取り乱すことなく咀嚼することが出来てしまった。

 恋は必ずしも報われる必要はない。恋に勝ち負けが存在するのだとすれば、それは成功したか失敗したかではなく納得をした終わり方が出来たかどうかなのだろう。しかし、誰だって恋が叶うことを望む。狂おしいほどに、願う。良い終わり方が出来たかどうかなんていうことに拘ることが出来るのは全てが終わってしまったからこそ言えることであって、叶うことに狂気的な喜びを覚えない恋はきっと、恋ではない模造品に過ぎない。

 ゆえに、夕希に好きだと言われたことは嬉しい、はずだ。それなのに、想像をしていたような高揚はないままで思考は黒々としたものに絡め取られたままだった。

 夕希のことが好きだという感情は、僕が僕であることを証明するような大切な一部分だったはずだ。今の僕は、自分を否定していることに変わりがない。だからこそ、異物を魂に混ぜられたかのような気分の悪さを覚える。明確な蟠りを自覚しているならまだしも、どうしてこのような、平衡感覚を壊されたような状態に陥っているのかすらも分からないからこそ尚更に。

 僕の沈黙に対して、夕希は不安げな顔をした。当たり前だ。好きだと伝えることは、自らの最も繊細で柔らかい部分を曝け出すことだ。いっそ、そのまま殺してくれるならまだしも、返答はなく世界に晒されたままでは酷い痛みを伴うに決まっている。

 その場凌ぎでもいい、何か言葉を吐き出すべきだと思い口を開こうとするも、言葉は上手く出てこない。彼女の言葉が大事なものだと分かっているからこそ、適当に答えることはどうしても出来なかった。同じ痛みとは言えずとも、似た痛みを抱えているものとして、その感情を蔑ろにすることは出来なかった。

「分からないんだ」と僕は小さな声で呟く。今の彼女にとって、僕の気持ちは与えるべきものなのか分からない。それでも、好意に対して誠実な態度を取りたかった。

「君のそれが正しいものなのかどうかが」

「どういう、こと? 私は、紛れもなくあなたのことが好きだよ」

「そうかもしれない。嘘を吐いてると言いたいわけじゃない。ただ、君は助けられた恩を好意と勘違いしているだけかもしれない。それが果たして、本当に好きだという気持ちなのか、分からないだろう」

「違うよ。そんなものじゃなくて、私はずっとあなたのことが好きだったんだから」

 夕希の言葉はあくまでも切実な色を帯びていた。僕は、それを信じるべきなのだろう。しかし、彼女の好意の中に少なからず恩義のようなものが内包されていることも恐らくは確かなことで、それを僕はどうしても不純に思ってしまう。肯ずることが出来ない。

 けれど、僕が彼女の好意を受け入れることが出来なかった理由はそれだけではなかった。むしろ、彼女の気持ちに関しては言い訳に過ぎないのかもしれない。尤もらしいことを語るための、偽善者めいた韜晦。

「君の気持ちは分かった。ただ、僕が分からないのは、僕自身の気持ちについてでもあるんだよ」

 僕は今、自分のことが分からない。夕希のことはずっと好きなのに、好きだったはずなのに、言葉にすることの出来ない揺らぎがその感情に疑念を投げかける。お前のそれは本当に恋なのかと、形のない化け物が纏わりつく。

 感情には形がない。僕たちはそれを言葉という容器に閉じ込めて形にすることで、納得しようとしているだけだ。その本質は相変わらず見えないまま、捉えることなど出来ない。だからこそ、分からなくなる。僕が囚われ続けていたのは恋という感情ではなく、恋という言葉だったのではないだろうか。どうして、そうではないと証明出来るのか。今僕の中で蠢いている揺らぎは、その証拠なのではないだろうか。

 そういった懊悩すらも振り切って、今の感情を「好き」という言葉に押し込めて彼女を受け入れることも出来る。ただ、それだけはしたくなかった。それは彼女に対する、僕に対する裏切りなのだから。

「もう少し、時間をくれないか。必ず、答えを出すから」

 僕が持ちうる限りの誠意は、そんな情けない言葉でしかなかった。今から目を逸らすだけの、逃避にすらなっていない言葉。

 それでも、彼女は頷いてくれた。静かに、しかし期待を抱いた目で。約束を裏切ることは、難しいことではない。けれど、その目はこれ以上ないほど僕に対する強制力を持っていた。指切りげんまんも、大層な契約書もなくとも、僕は彼女との約束を破ることが出来なくなる。

「うん、待ってる。でも、もう時間はないよ」

「……ああ、分かってる」

 夏の終わりはもうすぐそこまで来ている。僕に考えるだけの時間は残っていない。その中でも、するべきことは何か。正しい選択肢は、悔いなく納得をすることの出来る選択肢は、何なのか。

 肌を撫でた夜風は既に冷たい、晩夏の匂いを感じさせるもので、嫌になる。あれほど嫌っていた夏が過ぎ去ることが怖い。待ってくれと言いたくなる。けれど、彼はただの時の通過者に過ぎない。僕の意志や言葉に振り返ることすらもなく、去ってゆく姿を見送ることしか出来ない。

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