後編: 白虎を背負う男

心臓が騒がしい。鼓膜のすぐ向こうで心臓が落ち着きを無くして鳴っている。



「音海 由理恵、狭山の女が遺体で発見された」



現実をまだ飲み込めずにいる俺の後ろから、葵の声が聞こえた。振り向くと葵は鋭い目つきで俺を見ている。こいつ……。葵を見ると怒りがあっという間に体を支配する。



「女が最後に電話を掛けた相手は狭山だった。女のマンション近くの防犯カメラには狭山が映っていた。死亡時刻と重なる時間帯だった」



「任意同行じゃねぇのかよ」



「お前らヤクザに任意同行なんていらねぇだろ」



拳を握った。ここで殴ってしまえば終いだ。外からあいつを助けてやる事ができなくなるからと、俺は深く息を吸い、深く吐いた。



「………葵、もう終いだ」



葵は何も答えなかった。表情も崩さない。



「もう二度と俺の人生に関わるな」



「他にコネのねぇお前が出来るわけねぇだろ」



「情報の為にお前と関係を持った事が間違いだった」



葵の表情は見ずに俺はすぐにその場を立ち去り、お抱えの弁護士へと連絡を取った。涼司は無実を主張しているようだが、女が涼司を呼び出していた事は間違いなく、そしてその時間帯、女のマンション近くの防犯カメラに映っている事も涼司にとっては不利な証拠だった。


だが涼司は会っていないと否定し続ける。その証拠にマンションへの出入り用カメラにはその時刻、涼司の姿は映っていないとの事だった。ならば、なぜ。


警察が涼司だけを犯人に仕立て上げる事に対して納得出来なかったが、どうやらそのマンションには裏口があり、そこのカメラはその前日に壊されていたらしい事を知る。涼司なら場所を知っていて壊せるだろうと踏まれたらしいが、どれもこれも涼司が殺したという確証にはならないはずだった。


それでも警察があいつを疑うには十分だった。焦りに苛立ちを抱いていると、弁護士は付け加えるように言った。



「実際、涼司君と話していて思ったんですが、彼、無実だと思います。彼はそもそもその被害者女性である音海さんと関係を持っていなかったと答えていますし、当日の防犯カメラに映っていたのも、あの先に風俗街があり、そのケツモチとして顔を出す為だったようです」



「……それなら、なぜ」



あまりにも不可解な事が多いと、俺は眉間に皺を寄せた。



「被害者の音海さんが涼司君に電話をしていた事は間違いありません。そして、涼司君と昔付き合っていた事も。ただ彼がこの組に入る少し前の数ヶ月間だけで、もちろん別れています。今は関係がありません。涼司君曰く、彼女との再会は一ヶ月ほど前、葉山組で抱えているソープランドで彼女は働いているそうでそこで再会したと」



「そう、でしたか…」



「彼女は精神的に不安定で、何度か涼司君に死を仄めかすような事を漏らしていたようですが、彼女自身にはその気が全くないようだったと、彼は言ってました。彼の話しを聞く限り、彼女は彼に振り向いてもらう為だったのではないかと思います。しかし彼女が殺される数日前、彼女から留守番電話が何十件と入っていたようで、最初はいつもと同じ自殺を仄めかす内容だったようですが、彼が電話に出ないと判断すると、殺されるかもしれない、助けて、という内容に変わっていたようです。もし、本当に彼女が誰かに命を狙われていたのだとしたら」



「真犯人がいるという事ですね。であれば警察は何をしてるんです」



「鋭意捜査中と言っていますが、少しおかしいと思いました。涼司君に容疑を固めすぎだと」



「管轄は捜査一課、でしょうか」



「えぇ」



葵は管轄が違うはずなのに、どうして…。いや、もうよそう。考えたところで答えは出ないと俺は落胆した。そこから数日、何の進展もなかった。弁護士は根気強く無実を主張する方向で話を進め、涼司と俺とのパイプを担った。葵からの連絡はあれから無かった。不気味なほど音沙汰がなかった。脳なしの警察共は涼司を犯人として動き回り、俺の焦りや不安は日々募るばかりだった。



「涼司君へ、何か伝える事はありますか」



時間だけが過ぎ、弁護士の彼にそう問われるが言葉に詰まった。あいつは俺に嵌められたと思っていてもおかしくはない。何を言っても今のあいつの信頼を取り戻せる気がしない俺は、俺がやるべき事は真犯人を見つける事だけだと考えていた。それが唯一、涼司を助けてやれる方法だと。だから俺は、「いえ、ありません」と首を横に振る。



「そう、ですか」



「はい」



頷くと、彼は「出過ぎた事かもしれませんが、」と前置きをして無表情に言葉を並べる。



「斉藤組長は涼司君が連行されたのは自分の責任だと思っていますよね。しかし涼司君はそんな事、微塵も思っていませんので、一応伝えておきます。会う度、会う度、あなたはどうしているか、食べれているか、元気にしてるか、大丈夫かと、そればかりです。………何か、言葉を掛けてあげても良いのではないでしょうか」



心臓がやけに煩かった。拳を握り、目を伏せる。



「…いえ」



「そう、ですか。では、これからまた面会に行って来ますので、何かあれば連絡を」



「分かりました。あいつをどうぞ、宜しくお願いします」



彼が頭を下げて部屋を離れた後、俺は深い溜息をついた。俺に何が出来るのだろう。どうしろと、言うのだろう。邦仁さんだったら、どうしたろうか。その時、ふと松葉のカシラが思い浮かんだ。あの人は邦仁さんと同じくらいコネがあり、各方面に情報網がある。だとするなら、今回の一件も何か知っているのではないかと、俺は居ても立っても居られず、一か八かで松葉のカシラに電話をする。松葉のカシラは電話に出ると食い気味に「涼司の件ですか」と訊ね、何か知っているのだろうと咄嗟に感じ取った。



「ご存じ、だったんですか…」



「えぇ、まぁ。丁度連絡をしようとしていたところでした」



「もし、何か知っていれば教えて頂きたいのですが…、タダではないですね?」



「ふふ、今回はタダで良いですよ」



「タダほど高いものはないと思っています」



あの松葉のカシラがタダで情報を渡すわけがないのだが、松葉のカシラは電話越しでくすっと笑うと「タダです」と再び答える。



「でも理由はあります。それは後ほど」



なるほど。そうだな、理由もなくタダなわけがないよなと納得した。



「分かりました」



「で、これね、かなり厄介な事件ですよ。涼司君が拘束されるほどの確証はないはずですが、彼はずっと捕まったまま。それで被害者女性について少し調べてみて、分かった事があります」



「被害者女性について、ですか? え、どうやって…」



「まぁ、俺のコネで色々と。そこは伏せておきます。で、実は彼女には関係を持っている男が三人いたようなんです。ひとりは涼司君、…とは言っても彼は実際には付き合ってないようですが、ただ彼女が周りにヤクザの彼氏がいると、昔の写真を見せていたようです。それで、思い出したのですが、前に彼が繁華街で歩いていた女も彼女だったと思うんです。腕を組んでいたのでつい恋人かと勘繰りましたが、違ったようです」



「あー…確かにそんな事、言ってましたね」



処理なら浮気じゃないよなと思う反面、涼司を独り占めしたいと、身勝手な独占欲に駆られて涼司を煽った日の事をふと思い出した。結局、あいつは真剣に俺と向き合ってたって事だよな。今でも好きです、という言葉もあいつの本音だ。



「彼女にとっては元彼を忘れられないといったところでしょう。で、他の男というのが、ひとりはベンチャー企業の社長、そして最後は、ある政治家の息子です」



「……政治家の息子、ですか」



途端にきな臭くなってきた。



「しかもその政治家の馬鹿息子とはしょっちゅう喧嘩していたようですよ。男はキレると手がつけられないタイプで、別れる、別れないで揉めていたようです。何度か別れてはまた復縁してを繰り返しています。彼女も彼女で、男が離れそうになると嫉妬を煽るように他の男の影をチラつかせていたようですが、今回はそれが上手くいかなかったのかもしれません」



その言い方だとまるで、その政治家息子が犯人のようじゃないかと俺は眉間に皺を寄せる。



「ではその政治家の息子が犯人だと?」



「えぇ」



松葉のカシラはあっさりと肯定する。



「そ、そうなんですか? で、でも証拠がなければ…」



「ありますよ」



「は? え、ほ、本当ですか…?」



松葉のカシラがあまりにも淡々としているから俺は動揺し、拍子抜けしてしまう。



「ただその政治家は大物です。警察OBの鎌原衆議院議員、ご存知ですか?」



「クリーンな政治を、で有名な方ですね。そいつの息子ですか」



「えぇ。組織犯罪対策課の課長がそいつの甥っ子みたいで、今でもかなり警察にも顔が効くため相当厄介です」



もしかして葵が動いたのは、圧が掛かったからなのだろうか。



「それで、斉藤君。ひとつ、聞きます」



「は、はい…」



松葉のカシラに改まってひとつ聞きます、なんて言われれば、何だろうかと身構えてしまう。



「緒原 葵、ご存知ですね」



その名前が出てくるとは思いもよらなかった。ひやりとした。なぜ、葵の名前を…。嫌な緊張感に喉が引っ付きそうになり、一瞬言葉が出なかった。咳払いをして、「知っていますが…」と恐る恐る答えると、「彼は君のコネですね?」と返ってくる。否定はもうできないだろう。



「…えぇ、でもなぜそれを」



「俺が今、話した内容は全て、その彼から教えられたものです」



「……え?」



あいつが松葉のカシラに、涼司は犯人ではなく、真犯人がいる、と? 到底信じられなかった。でも、松葉のカシラが嘘をつくとも思えない。



「だから情報料はタダと伝えました。本当は彼からあなたに直接流れる予定のものだったのでしょうから。でも、それは出来なくなったと言ってました。何があったのかは分かりませんが、彼は上司の目を盗んで情報を掻き集めたようです。そして決定的な証拠を見つけてしまった。警察が動かなければならないほどの証拠を。でも、それを公開すれば彼の首は飛びます。警察共が隠そうとした事を表に出し、彼は無断で上司のパソコンからその情報を抜き取ったのですから、お咎めなしとはいきません。つまりあなたは警察のコネを無くす、という事です」



「ま、待ってください…あいつは、涼司を捕まえたひとりです。そんなはずは…」



「彼は最初、純粋に涼司を犯人だと思っていたようですよ。上司がそう思うように情報を流していたのですから、そう考えてしまうのも仕方のない事かと思います。ただ彼自身、違和感を感じたそうです。調べれば調べるほどおかしいと。それでその政治家の息子は上司にとっては甥っ子にあたると知り、上司の元に送られて来たある動画を見つけてしまった。…見つけてしまっては黙っておくという事が出来なかったのでしょう」



「動画…? 動画って何ですか」



「涼司を救う為の動画、ですよ。俺にはあなた達の関係がよく分かりませんので、あまり口出しはしませんが、彼は証拠となるその動画を俺に送ってきました。その動画で何もかもが変わります。警察も動かざるを得なくなります。その彼、『楓に渡して下さい』と言って俺に動画を託しました。…斉藤君、下の名前は楓って言うんですね」



頭が真っ白になる。何だよそれ。トドメを刺せと言ってるようなもんじゃねぇかよ。



「あいつが、本当に、そう言ったんですか…」



「えぇ。今からその動画を送ります」



送られてきた動画は数分程度の動画だった。隠し撮りされていたのか、何の為の動画で誰が撮ったのかは分からなかったが、その政治家の馬鹿息子の自供だった。酒を飲み、キャバクラの女の子相手にベラベラと自分の罪を吐き出している愚かな動画だ。



『…バカ女殺してやったよ。これで俺も晴れて自由よ、自由! あのバカ女には飽き飽きしててよ、高級品強請るだけ強請って、他に男がいるって言い出しやがって。何様だってんだよ』



『えー、ゆりちゃん殺したんすか。可愛いかったのに』



『首絞めたら死んだねぇ。あっという間だな。でもそれだけじゃ不安になるんだよなぁ。ナイフで何度も刺しちまってよ、血だらけよ。無駄なことしたー』



『……え、じょ、冗談ですよね?』



『アハハハ、当たり前じゃん。冗談冗談』



馬鹿息子とその舎弟のような後輩の男、そして馬鹿息子の発言に顔を引き攣らせる女の子が映し出されていた。冗談と笑って動画は終わっているが、馬鹿息子が口にした殺害の手口は犯人しか知り得ない事で非公開の情報だった。警察が捜査に入ればこれが冗談か否かは一発で分かるだろう。松葉のカシラの言う通り、これを流せば間違いなく警察は動かざるを得ない。



「…松葉のカシラ、この件、俺に預からせて下さい」



「えぇ、斉藤君の好きなようにして下さい」



「ありがとうございます」



「いえ。また近いうちに飯でも行きましょう。涼司も連れて、ね」



「はい」



松葉のカシラと話を終えた俺は、深呼吸をして携帯に向き合った。着信ボタンを押す。男は3コールで出た。



「はい」



俺がどうして電話をしたか、男には分かっているようだった。



「どういうつもりだよ」



「もう受け取ったのか。早いな。で、狭山 涼司を救いたいなら公開するしかないんじゃねぇの?」



「でもそしたらお前…」



「辞めざるを得ないだろうな。……でも、最後くらい正義を突き通したいだろ。汚職警官だけどよ」



葵は自嘲するようにはらはらと笑っている。胸が、途端に苦しくなる。



「……お前、」



俺が拳を握ると、少しの間を置いて葵は口を開く。



「お前の背中のそれ、獬豸って言うんだろ」



「…調べたのかよ」



「獬豸って、善悪を見極められんだろ。悪の親玉みたいな存在のお前が何でそんなもんを背負ってんのか甚だ疑問だったけどさ、なんか思ったんだよな。それを背負ってるやつに動画託してぇなって」



その言葉を聞いて俺は唇を噛み締めた。俺が、こいつをこっちの世界に巻き込んだ。こいつの純粋な感情を利用して振り回した。もっと早く手離してやれば、いや、最初からこいつに連絡なんてしなければ。



「葵…」



「ん?」



葵を救えないなら、俺も地獄行きだ。



「…動画に関しては待ってくれ」



「は? 何を今更躊躇してんだよ」



「お前は上司のパソコンから動画は盗んでないし、そんなものは知らない。良いな?」



「は?」



「良いな?」



「言ってる意味が分からねぇよ…」



「良いから、任せろ。お前は何も知らない。…今までの事も。俺とはただの同級生、そう他の連中には言え。どうせ俺との関係を詰められてんだろ。だったら、知らぬ存ぜぬを突き通せ。俺に情報を流した事はないし、これからもない。もう二度と俺たちは会わない。お前は刑事として真っ当に生きろよ」



「待てって…」



葵の動揺を察知しながら俺は口を開く。



「葵、俺が獬豸を背負ってるのは、邦仁さんにとって善いもの、悪いものを見分けられる存在になりたかったから。あの人の目になりたかったから。俺はどうしたってこっち側の人間で、足を洗う事は死ぬまでない。だから、…だからさ、もうこれっきりにしよう」



「どうしたってお前は極道として生きて死にたいのかよ」



電話の向こうで葵の溜息が聞こえた。それは落胆したような重い溜息だったが、その落胆は俺が極道を辞めないという覚悟を知ったからか、それとも俺との縁を切る事に対して、か。「あぁ」と頷くと、葵は静かに訊ねる。



「なんでそこまで極道に拘るんだよ。理由、聞かせてくれないか」



俺がこの世界にいる理由を誰にも言った事は無かったが、たったひとつだけ理由はあった。



「……邦仁さんに捧げた命だから、この世界で散りたい。これが理由だよ」



葵は電話の向こうでしばらく何も答えなかった。何を答えて良いのか分からないのかもしれない。少しの沈黙の後、葵はそうか、とぽつりと呟いた。



「お前にとっては赤澤 邦仁が何よりも大切なんだな。…それは死んだ今でも、想い続けるほどに」



「それは永遠と変わらない」



「辛く、ねぇのかよ」



「辛い?」



「死んだ人を思い続けて同じ世界にいるなんて。いっそ、何もかも投げ出して、こっちの世界に戻れば楽なんじゃねぇの」



「俺にとっては極道である事が全てなんだよ。極道を辞めた時は、もう、俺じゃねぇんだ」



「……なんだよ、それ」



「葵、今まで悪かった。…でも、もうこれで最後にしよう」



「本当に死ぬほど勝手だよなぁ」



葵の深い溜息がまた聞こえたが、葵は何だかふっきれたように「分かったよ」と付け加える。



「そうだな。これっきりだ。これっきり」



葵の声色はあまりにも清々しく聞こえた。電話の向こうで深呼吸が聞こえた後、ぽつりと最後に漏らす。



「………楓、好きだったよ。本当に」



拳を強く握る。爪が食い込む程に。



「じゃ、さようなら、だな。元気でいろよ」



「………あぁ。お前もな、葵」



幼馴染で昔は一緒に馬鹿をしでかした。学生の頃はずっと一緒にいて、結局、同じ大学に進学した。くだらない事で笑って、喧嘩もたくさんした。思い出は嫌というほど無数にあった。あいつの目を細めて笑う顔が好きだった。無駄に正義を信じているところは暑苦しいが、好きだった。


そうだな。


あいつを巻き込んだ責任はきっちりと取らなければならない。俺はお前と共には生きられないけど、少なくとも、お前への責任は果たさなければならない。これが俺に出来る唯一の償いだから。俺はそう決意した。


数日間、死に物狂いである男を探した。男を見つけた時には、もうかなりの金を使い、松葉のカシラには返せない恩も借りも作ってしまったが、ようやく見つけたひとりの男は今の俺にとって、その価値は計り知れないものだった。


あの動画をこっそり回していたあの部下。それが俺が探していた男だった。男は早口に理由を述べた。馬鹿息子が動画外でもずっと海音さんの殺しを自慢するような口振りで、それに腹が立ち、隠し撮りしていつか公開してやろうと思った、と。馬鹿息子に対する日々の鬱憤もあったのだろう。だが公開してしまえば報復される事を恐れ、何も出来ないのだと。だから俺は彼に申し出た。



「これを公開してくれたら、海外へ逃し、謝礼と当面の資金をお渡しします。偽造パスポートもこちらで用意します。動画のあなたの声は編集で変えますので、どうですか。あの男の息の根を止めませんか」



男は悩んだ末、首を縦に振った。だが妙な事がひとつあった。



「あの、俺、その動画を組織犯罪対策課の課長になんて送ってません。その人のメールアドレスなんて、俺は知りません…」



彼は承諾した後、ぽつりとそう伝えた。訳が分からなかった。こいつが送っていないのであれば、一体、誰が送れると言うのだろう。



「他に送った人や見せた人はいますか」



「見せたのは、ひとりだけ。でも、立ち飲み屋で一緒になっただけの人です…。動画は誰にも送ってませんし、なんで警察なんかに…」



ふと、思う。誰かが正義の鉄槌のようにこの動画を警察に送りつけるのなら、なぜ、組対の課長のメールだったのだろうか。捜査一課の課長ならまだしも、組対。しかも唯一送ってはならない人と言うべき相手に、なぜ。その時俺は、彼と話しながらひとつの仮説を立てた。そして、あぁ、もしそうなら、あいつは俺を使ったんだ、と結論付けた。


もし、あいつが捜一と連帯していたのなら。俺の運転手が涼司だと知っていたあいつなら、自分なら涼司を誘き出せる、そう捜一の刑事達を動かしたのかもしれない。

涼司をわざと逮捕させ、俺の感情を逆撫でし、松葉のカシラを使って、俺の感情をコントロールしたのだ。あいつはきっとこの彼の携帯から動画を課長に送りつけ、後は真実を知ろうと奔走した刑事を演じ、俺が絆され、動画の撮影者を見つけ出して公開させれば終了だったのだ。


涼司の為にも、ここにきて動画を公開しないという手はない。つまり、俺が真相に辿り着こうが辿り着きまいが、あいつにとってはこの動画が自分以外の誰かが公開してくれりゃぁそれで良いのだ。


あいつは俺がどう動くかを見透かし、俺を利用し、そして俺の首に首輪を嵌めたのだ。涼司を助け出させてやった。つまりこれは、貸しだ。そう言われている気がして、苛立ちに鼓動が速くなる。あの野郎……。



「その人と飲んでる時、手洗には?」



「行きましたけど」



「携帯は持って行きましたか」



「え、いや、どうだったかな…。テーブルに置きっぱなしだったかもしれません…」



「そうですか。では最後に。その動画を見せた人、右眉に傷、ありませんでしたか」



男は考えた後、ハッとしたように頷いた。



「あ、あったと思います! 帽子を深く被ってましたが、右眉に傷、…あったかと」



俺は舌打ちを鳴らした。まんまとしてやられたのだ。


動画は公開されて数分で話題になった。数日後、馬鹿息子は逮捕され、その日のうちに父親である議員は記者会見を開き、数日後には辞任した。警察内部がどうなったかは分からないが、同時に、風の噂では隠蔽を図ったとして課長は懲戒処分され、葵が組対の新しい課長に抜擢されたと言う。


だが、葵からは、あれから何の連絡もないままだった。俺は頭を掻きながら外を眺めている。仮説は仮説にすぎなかった、という事だろうか。そう考えながら携帯の連絡先をタップし、葵を削除した。


そして涼司はというと、警察署へ迎えに行ったあの日、ブンブンと見えない尻尾を振っていた。



「兄貴…!」



「おかえり」



「迎えに来てくれたんすね」



「来たよ」



大型犬のような涼司は俺の顔をじっと見た後、警察署の前だと言うのに俺を強く抱き締めた。大男にすっぽりと体を包まれるのはなんだか小っ恥ずかしい。



「おい、やめろよ。場所を考えろ」



「……ありがとうございます」



「感謝は松葉のカシラにしろ」



「松葉のカシラにもしますけど、兄貴にも。…あんたがいなかったら、俺はあのまま檻の中かもしれないんすよ」



涼司はそう強く抱き締めるものだから、ポンとその大きな背中を撫でた。こうして抱き締められるのも悪くないが場所が場所。いよいよ視線が気になり、涼司の首根っこを掴んで引き剥がして車の鍵を突き出す。



「もう行くぞ。運転、宜しく」



「どちらに?」



「俺ン家。飯食おう」



「兄貴ン家ですか。ふふ、良いですね」



「にやにやすんな」



涼司の側は何よりも、どこよりも安心できる。どうしてこうも温かいのか、どうしてこいつの側は落ち着いてしまうのか。いつか、その理由は分かるだろうか。いや、もしかしたら一生分かる事はないのかもしれないなと、俺は肩を並べながらそう考えていた。



「何作ってくれるんすか」



「さぁーな? 楽しみに待ってな」



でもひとつだけ。こいつと初めて体を重ねた時、こいつの側が良いと、頭でも体でも確かに感じていた。だからなぜこいつの側が良いのか、なんて難しい事に対して答えはないのかもしれない。


俺は深呼吸をして流れる景色を見ていた。あの夏、こいつが問い掛けた質問に対しての答えを、いい加減、答える時がきたのだろうと思った。



「なぁ、涼司」



「はい」



「俺もお前の事、好きだよ」



「はい、……え?」



涼司がバックミラー越しに俺を見る。その瞳は明らかに動揺していた。



「付き合うか、俺たち」



だからそう視線を合わせて言ってやると、



「え? ……え?」



涼司はあまりにも驚いたようで、視線を後部座席にいる俺に向けた。



「いや、俺を見るな、前見ろ! 赤だぞ、赤!」



涼司の動揺はそのまま運転に直結し、あわや信号を無視して大型トラックと衝突しそうになった。急ブレーキをかけて停車し、殺す気かと怒鳴り付けるが、涼司はそんな事など全く耳に入っていないようだった。



「おい、聞いてんのかよ」



もう一度問いかけると、ようやく現実に戻ってきた涼司はバックミラー越しに俺を再び見た。



「付き合うかって言いましたか」



「そんなに驚く事かよ」



「驚くでしょうよ……。まじ、すか」



「何、お前はもう冷めてた?」



「馬鹿、そんなわないでしょう。長年の片想い、舐めないで下さい」



「なら良いだろ」



涼司はゆっくりと息を吐いて、後ろを振り向いた。



「……俺はあの人にはなれないすよ」



「馬鹿だな。俺はお前が良いの。…待たせて悪かったな、涼司」



白い歯を見せてにやりと笑って答えると、涼司の眉が下がり、また泣きそうな顔をする。その顔に心臓が鷲掴みされ、やたらと脈が速くなった。



「本当っすよ。…でも待った甲斐がありました」



本当にこいつは可愛い。



「仕事に私情は挟まないからな」



「……事務所でヤんのダメすか」



「ダメに決まってんだろ」



涼司が笑う。こいつが笑うと俺もつられて笑ってしまう。あぁ、何だか妙な心地だった。そうだな。今だったら理解できるかもしれない。邦仁さんが誰かの為にこの世界を捨てた事を。


だって俺も涼司の為なら、きっと……。



真夏日。まだ組に入って一ヶ月、されど一ヶ月。俺が組に入るキッカケを作った男が、組長の車磨きを頼んできた。もちろん男の言う事に従う以外の選択肢はなかったから、炎天下の中で車を洗っていると遠くからこちらを覗く不審な男がいた。派手な柄シャツを着た若い男だった。何だか嫌な予感がした。


数分後、赤澤の若衆頭が外へ出てきた。瞬間、俺はマズイのではと体が勝手に動いていた。チンピラ風な男はドスを手にしていたし、肌蹴た胸元からは立派な紋紋が見えているから、これが俗に言う鉄砲玉だと思った。チンピラを組み敷こうと手を伸ばした俺は、チンピラが握っていたドスによって見事に脇腹を深く裂かれたが、その時、痛みは何も感じなかった。若衆頭の後ろにはいつものように男がいたから必死だった。男に危害が加えられるかもしれないと思うとゾッとした。血をダラダラと流しながらチンピラを組み敷き、背中を膝で押し付けて腕を後ろで固定させると、そいつはジタバタと暴れたが抵抗も虚しく他の組員に連れ去られた。



「涼司、お前…」



俺が出なきゃ、あんたが若衆頭の盾になるつもりだったろう。そう思ったがもちろん口には出さなかった。男は俺を見るなりみるみるうちに青ざめ、視線は俺の脇腹へと下りていた。それを察して若衆頭が男に命令する。



「斉藤、すぐ羽吉さんに電話しろ」



「は、はい」



男はハッとしたように我に返り、近くのお抱えの病院へと電話するが、正直これくらい大丈夫だろうと思った。でも血はだらだらと流れる一方で、地面にも広がっていく。見た目は派手だがそれほど痛みはないし、俺としては平気だった。



「赤澤の兄貴、涼司を送って来ます。戻りましたらすぐに出れるようにしますので…」



「いや、お前はそのまま付き添ってろ」



「え、しかし」



「安心しろ、永井に頼むから。お前は涼司を頼む」



「…分かりました」



男の表情はとても分かりやすい。若衆頭に惚れ込んで心酔しているから一分一秒と離れたくないのだ。俺を病院に送る時間があるなら、カシラの側にいたいと正直に顔に書いてある。



「斉藤の兄貴、病院に連れてって下さい」



「なんだお前、元気そうだな」



兄貴は若衆頭の前だけとても従順で人当たりが良いが、他の組員の前だと口が悪い。多分、人に興味がないのだろうと、その時は思った。


俺は人に興味のないそんな兄貴に連れられて病院に行き、麻酔を打たれて意識を飛ばす。気付いた時にはもう傷はしっかりと縫われていた。暑くて早く帰りたかったが、ベッド横のパイプ椅子に座っていた兄貴の寝顔があまりにも綺麗だったから、起きました、という報告も、帰りたい、という本音も少しの間、堪えて見続けた。しばらくして兄貴は目を覚ました。目が合うと、兄貴の眉間に皺が寄った。



「起きたなら言えよ」



そう睨まれる。



「すんません」



兄貴は眠そうに欠伸をひとつすると、しばらくじっと俺を見つめて訊ねた。



「で、褒美は何が良い?」



「え?」



「褒美。赤澤の兄貴を守る為に体張ったろ。簡単に出来る事じゃない。だからご褒美、あげるよ。何が良い?」



兄貴は怖いが、怖いだけの人ではない。



「何でも良いんすか」



「俺があげられるものなら」



「兄貴があげられるものなら…」



「何が良い?」



「なら、兄貴が欲しいです。抱かせて下さい」



兄貴の眉間の皺が更に深くなる。殴られるかと思ったが兄貴はふざけるなとか、馬鹿にしてんのかとか、気持ち悪いとか、そんな事は一切言わず、特に声も荒げず、やけに落ち着いていた。きっと俺が向ける好意を感じ取って、薄々は気付いていたのだろう。



「お前、彼女いたんじゃなかった?」



「いました。組に入る前に別れましたが」



「男が好きなの?」



「いえ、男を好きになったのは初めてです」



「……何それ」



「ダメすか。褒美にあんたを強請っちゃ」



「はぁ、…いいよ、分かった。一回だけな」



そう断言されたが、それは二回、三回と回数は重なっていった。兄貴は快楽に弱くて流されやすい。でも回数を重ねて抱かせてくれるのは、少なくとも俺に好意を持ってくれてるからじゃないかと思った。


だから四回目、猛暑日、兄貴に呼ばれて家に行き、酒を飲んで、いつものようにまぐわった。事が終わり、汗を流しながら俺は兄貴に思いの丈を伝える決心をした。兄貴は横になりながら満足そうに笑っていた。



「お前、ヤった後に必ずベッドの端に腰を下ろしてタバコ吸うだろ。そのお前のさ、汗だくの背中を見るの好き」



「何すかそれ」



「良い墨入れてるよな。本当、カッコいいよ」



兄貴はそう言って俺の背中に入っている白虎の線を指先で撫でる。



「虎は縁起物だ」



「ただの虎じゃないすよ」



「え、そうなの?」



「白虎です」



「お前の小麦肌だと絶対に白虎にならないだろ」



「でも白虎です」



「あ、そう。ま、どっちでも良いけど」



「どっちでもは良くないっすよ。自分の君主に良いことを与えられるようにって、白虎にしたんすから」



「君主って…ふふ、親父の事を言ってる?」



「違います。俺にとってはあんたです」



「…俺?」



「あんたの事、好きです。本気です。付き合いませんか、俺達」



兄貴は冷酷な人間だ。兄貴の世界には若衆頭かそれ以外かで成り立っていて、人間に興味がないのではなく、若衆頭以外への興味が皆無なのだ。でも俺は違うよなと、どこかで驕っていた。調子に乗っていた。兄貴は俺の告白を聞くと、大きな溜息を吐いて面倒そうに頭を掻いた。



「…お前、彼女作った方が良いよ。そうしろよ」



兄貴は感情を露わにされるとあっという間に拒絶反応を見せて離れてしまう。どうしてだろう。面倒だからだろうか。



「じゃぁ俺の事、嫌いですか」



「そういう事じゃないだろ。子供かよ。もうやめよう、この話。息が詰まりそう」



兄貴にとって俺はきっと都合の良い相手にすぎなかったのだろう。体の相性は良いし、満足できる。だから体を重ねていただけ。


でも兄貴が追いかけていたいのは若衆頭だけだった。俺じゃない。俺が付け入る隙はそこにはないのだ。そこから兄貴とサシで飯を食う事も、もちろん体を重ねる事もなくなった。


でもいつかまたあんたに触れたい。あわよくば、あんたの隣を陣取りたい。あんたの隣で、あんたのやけに綺麗で屈託のない笑顔を独り占めしたい。なんて夢のまた夢。叶う事のない夢。でも願うだけなら良いよな。


いつか、あんたにとって大切な人になれますように、って………。






獬豸を喰む白虎

END


エピローグはPixivにて公開してます。ふたりのその後の話となります。18禁です。

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獬豸を喰む白虎 Rin @Rin-Lily-Rin

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