第3話
六月の陽射しが、ベランダの小さなトマトの苗を照らしている。香織は水やりの終わった手を拭いながら、スマートフォンの通知を確認した。先週投稿した環境問題に関する記事へのコメントが、また増えていた。
今度は逃げなかった。香織の投稿は、自身の翻訳に対する批判への回答として書かれた。単なる反論ではなく、環境問題を巡る様々な立場の人々の声に耳を傾けながら、翻訳者として何を伝えようとしたのか。その真意を、自分の言葉で表現した。
「やっぱり炎上しちゃいましたね」
背後から声がして、香織は振り返った。美月が、自室のベランダから身を乗り出している。
「炎上...かもしれないけど」
香織は空を見上げた。
「でも、その中で対話が生まれている気がするの」
実際、コメント欄では建設的な議論が展開されていた。環境保護と経済発展の両立について。技術革新の可能性について。企業の責任と個人の役割について。
「村井さんの言葉が、橋を架けたんですよ」
美月の言葉に、香織は首を傾げる。
「私の投稿を見て、何人かの方が地域の環境活動に興味を持ってくれて...」
美月が差し出したスマートフォンには、週末の清掃活動への参加を申し出る人々のメッセージが並んでいた。それは、SNS上での議論が、現実の行動へと変化していく小さな、しかし確かな証だった。
その夜遅く、香織のスマートフォンが震えた。海外の環境保護団体から、新しい記事の翻訳依頼が届いていた。差出人の名前に見覚えがある。以前、彼女の翻訳に批判的なコメントを投稿していた人物だ。
添えられたメッセージには、こうあった。
「あなたの翻訳と、その後の対話から多くを学びました。この記事は、ぜひあなたに担当してほしい」
香織は深く息を吐き、ゆっくりとノートPCを開いた。画面に映る自分の投稿を見つめ直す。そこには、長年自分の周りに築いていた透明な壁が、少しずつ溶けていく様が記されていた。
窓の外では、夜風がトマトの苗を揺らしていた。まだ実はなっていないが、確かな生命の気配を感じる。香織はメールの返信を書き始めた。今度は、迷うことなく。
「お引き受けいたします」
送信ボタンを押した瞬間、廊下に足音が響く。美月が帰ってきたのだろう。かつては気にならなかった物音が、今は確かな繋がりを感じさせる。香織は立ち上がり、ドアに向かった。今夜は、翻訳の構想について話し合ってみようと思う。
透明な壁の向こう側へ、一歩を踏み出すように。
透明な壁 ソコニ @mi33x
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