第5話


 曇りの夜なのに黄金の月の周りだけ雲が一切ない。

 こんなにおかしな世界の中で人間の作り上げた文明の利器であるバイクがまだ動くなんてこと自体が不思議だった。

 崩れ行く世界に二つのエンジン音が空しく響き渡る。


「うぉお‼」

 道のど真ん中で何かのグロテスクな死体を発見して急ブレーキをかける。不気味なのは、その死体がぐちゃぐちゃと音を立てていることだ。


「高島……?」

 そこで解体されていたのは豚だった。そばに王冠が落ちている。この場所で何かに殺されたのだ。


「知り合い?」


「いや、別に……────!」

 犯人は高島の臓物の中に埋もれていたのだ。けたたましい笑い声を上げながら血の中から飛び出してきたのは、4歳位の黒い帽子を被った少女だった。

 豚野郎、お前子供に殺されたのかよ────なんて突っ込んでいる暇もない。


「きゃはは────‼」

 少女が玩具のように引きずり出した腸が見る見るうちに固まって銀色の大剣になった。

 幼稚園児が木の枝を振り回すように、身の丈に合わない剣をぶん回すと直線上の家が真っ二つに斬れ雲まで裂けた。


「逃げろ‼」

 害意しかない視線が二人を射抜く。大剣が振り上げられる前にバイクを転回させて大急ぎで逃げる。

 分かってはいたことだが、もうこの世界に安全な場所などどこにもない。

 それなのに華怜は顔面蒼白の竣と違って割と平気そうな顔のまま竣を先導し霊九守邸に向かった。



 冗談みたいな大きさの家。小さい頃からこの道を通っては、こんな家に住む人ってどんなんだろうと思ったものだ。

 まさか自分がその家に足を踏み入れることになるなんて。


「これね、父」


「父って……」

 玄関の入り口に素人目にも純金だと分かる狸の像があった。父どころか生物ですらないじゃないか、と言う前に華怜が像を小突いて倒してしまった。


「…………」

 だが、像は竣がまばたきをした瞬間にまた無言のまま直立していた。

 最早生き物なんだか無機物なんだかすら分からない。だが竣が靴を脱いで上がると目玉だけは竣を追っていた。


「燈はね、なんか脚が三本あるカラスになってどっか飛んでっちゃったし、使用人はみんなおかしくなっていなくなっちゃった」

 そんな────家族ってもっとお互いを尊重して大切にするものじゃないのか。こんな淡々と変わってしまった家族のことを語れるものなのか。動揺しながらも廊下を行く華怜に着いていく。


「ここ、あたしの部屋」


「……和室なんだ。意外……いっ⁉」 

 本棚の前の座布団の上でゴン太が鼻提灯を揺らして寝ている。

 だが、明らかにおかしいのはあの日2本だった尻尾がどう数えても7本あることだ。


「なんだ⁉ ゴン太⁉ お前も変身しちまったのか?」

 大騒ぎする竣を片目だけ開いたゴン太がうるさいな、と言いたげな目で見てくる。

 獣にこんなことを言うのも変だが、理性の光がある。眠たげに歩いてきたゴン太はもう小学校卒業直前の子供くらいの大きさになっていた。この前まで赤ん坊だったのに。


「おいで……どうしたんだ一体……⁉ ない! ちんちんがない⁉」

 そして抱き上げてまた衝撃を受ける。ちんちんがない、と言ったが性器そのものがないのだ。先天的に無いなどではなく、白く輝くこの獣はまるで神のような無性別に思えた。


「……その上、ゴン太は排便もしない。なんでもよく食べるけどね」


「あ……?」

 今の口ぶりはこの世界が変わる前からそうだった、と言っているかのように聞こえた。

 だとするならば、ゴン太は変身するまでもなく化生の者だったということになる。


「ねぇ、竣。ここ一週間くらいでいいんだけど。お腹は空いた? 喉は乾いた?」


「あれ…………?」

 訊ねられて初めて思い返す。最後に食事をしたのは一昨日のたこ焼きじゃなかったか?

 水なんかその日に帰ってうがいをしてから口にしていない。


「病院であれだけ寝てたのにトイレに行こうともしなかったよね」


「……知っていたのか」

 学校で小便をさせる行為の前に言っていた言葉。

 あれは勘などではなく、自分もそうだから、そして竣がそうなったのも知っていたからこその言葉だったのだ。


「あたしは三日前から何も食べてない。死んだはずの燈の母がいつの間にかこの世界にいた、平然といた」

 食事も水分補給も排便も必要ない。死んだ人間もこの世にいて、根本的なルールが捻じ曲がっている。

 この世界を包み込む混沌が一つのゴールにたどり着いてしまったのだ。


「生死の境目が……」


「ぶっ壊れたのね」

 まさか龍に願わずとも不死を手に入れられるなんて。不死、というよりは死すればあの世に行くはずの魂がそのまま地上に残り、また姿を変えるということなのだろう。

 死人は蘇りこの世の者は変身し、天国地獄現世が混じり合ったカオスの世界が生まれた。


「……狐憑きって知っている?」

 当然、そんな言葉を聞けば視線はゴン太に誘導される。緊張感の無い奴だな────座布団の上で腕枕をして寝息を立て始めたゴン太を見てそんなことを思ってしまう。

 視線を戻すと華怜はコートを脱いでいた。いや、それは自室なのだから当然だ。

 だがその下は下着だと分かっているのだろうか。破けてしまったタイツをゴミ箱に捨てて、5秒もあれば裸にひん剥ける姿になってしまった華怜から視線を外す。


「狐に憑かれた人のこと……だよな」


「そう。霊九守の家に生まれた女は更に厄介な体質……狐寄せと言われた。それ、机の上のやつ読んでおいて」


「狐寄せ? 読んでおいて?」

 言葉のまま狐を寄せ付けてしまう人間のことだ、と示すように襖を開いた華怜にゴン太が着いていく。

 そんな格好で何処へ行くんだろう。


「お風呂入ってくる。身体汚れちゃったし」


「ちょっとそんなことしてる場合────…………マイペースだな……」

 絶対自分の反応の方が正しいと思うのに、どうしてああものん気というか無為自然でいられるのだろう。

 ゴン太と一緒に風呂に行ったのだろうが、足音が聞こえなくなってしまった。どれだけ広い家なんだ。


(…………)

 机の上の汚い紙とA4の紙数枚なんかよりも、華怜が脱ぎ捨ててまだ温かいはずのタイツに目が行ってしまうのは年頃の男子だから仕方のないことだ。

 こんな世界だが、こんな世界だからこそまだ理性があるうちに。手にとってみたい。匂いを嗅いでみたい。顔を埋めてみたい。

 洗って破けたなんていうB級品ではなく、一日穿き倒して汗と愛液に濡れたS級品だとこの目で確かめた。

 だがそんなことをすれば間違いなく華怜に即座にばれるだろう。華怜のことだ、自室で竣が悶々と悩むことすらも想定しているのかもしれない。

 もしもこのタイツを手にとったことが知られた時、どんな顔をするのか────


「……やめておこう」

 華怜は自分をどちらの意味でも信頼している。ならば、人間的にマシな方の信頼に答えたかった。

 やっぱり変態じゃないか、なんてこんな状況で言われたら逃げ場所もない。

 それよりもやれと言われたことを華怜が風呂から上がるまでにすべきだ。


「……霊九守一族の歴史……か?」

 古典は得意な方だが、それでも読み辛いのは中々教科書や問題で出てこない単語が使われているからだ。

 だが華怜の走り書きのメモのおかげで何が書いてあるか大筋は掴める。


「なるほど……狐寄せ……」

 昔、霊九守という名前でなかった頃から一族に生まれた女児は全員狐に取り憑かれて発狂の果てに死んだという。

 獣憑きというのは狂犬病の別名だとどこかで読んだ記憶があるが、こうまで世代を超えて女児ばかりが死ぬならばなるほど、そう結論付ける理由も分かる。


(……何故昔の人間はこんなにも……)

 怪奇の存在を当然のものとして受け入れているのだろう。神事はまだしも、妖怪や呪いの話までもしれっと書いてある。

 源氏物語にすら恋のライバルを呪い殺した人間が普通に出てくるあたりに科学の発展以上の何かを感じてしまう。

 そして実際に、世界はおかしくなっているのだから、間違っているのは────あるいは何も分かっていなかったのは科学の方で、正しかったのは今の人間には見えないものを見ていた昔の人間なのだろう。

 考えてみれば当たり前のような気もする。科学が全てを解き明かしたなんて傲慢だ。宇宙の95%は人間に観測できていない物質とエネルギーで満たされているのだから。


「……絶へず出ずる災ひ世を惑わしたり…………」

 怪奇怪異、そして災いと呪いはこの星最大の生き物である地球から止めどなく吹き出していたのだという。

 『続日本紀』に由来するという大雑把な日本地図の絵もある。華怜のメモ書きを見ると元号は延暦と書かれていた。つまり軽く1000年以上前の地図だ。

 そこにいくつもの小さなバツ印と巨大なバツ印が一つある。


(! この街じゃないか……?)

 雑な日本地図にグラウンド・ゼロだと言わんばかりに記された大きなバツ印は、気のせいでなければ丁度この街がある場所に置かれている。

 一体何を示しているマークなのだろう────なんて悩まなくてもすぐに分かった。


「溢れる混沌か!」

 書かれていることをそのまま読むならば、民を惑わすあやかしに対抗するため、後の征夷大将軍である源頼朝に時の天皇が己の名の下に命じたのだという。

 世に安定もたらすべし、と。そして場所も老若男女も問わず、今でいう霊能力のある人間は動員され、地球のヒビとも言うべき災厄の溢れ出る穴を塞がせたのだという。

 時には異国から運んできた封魔の道具で。時には高僧百人の命を捧げた封印の札で。

 記されている道具の中には草薙の剣など、竣でも聞いたことのある道具の名まである。

 だがそこまでしても、一番巨大な穴はどうしても塞がらなかったのだという。


(……おとぎ話だな)

 華怜と全く同じ感想を抱きながら読み進めていく。

 曰く、最早地獄そのものであるその穴は、普通の人間はおろか相当の霊能力を持った人間でも近付くだけで発狂し変身してしまったのだという。

 他の穴を封印できたとしても、そこをなんとかしなければ結局溢れた混沌は日本全土に広がっていくのだから意味がない。

 世代を超えて受け継がれる禁忌の地は歴代の征夷大将軍及び天皇の悩みの種であった。

 このままではどれだけ上手く国を治めようと、待ち受けるのは羅刹国なのだから。

 そして時は流れ崇徳天皇の呪いが日本に襲いかかり、ある時を境に消えて無くなる。

 讃岐に確認に行った坊主の見たものは────


「……ああ……そんな……」

 荒れ果てた貴族の流刑地に孤独な王のように座す、白い毛皮と九本の尾を持つ狐だった。

 どこからやってきたのか、その狐は崇徳天皇の生み出した瘴気をもただそこにいるだけで吸い込み、大地から這い出た亡者を触れることもなく浄化させていた。

 人間を脅かすあらゆる怪異怪奇を触れただけで打ち砕き、好んで食す。

 神話の時代から求められていた絶対的な退魔の力はあやかしが持っていたのだ。災厄を打ち払うためになんとしても、なんとしても人間が手に入れたい力が‼ 

 ────狐寄せの体質を持つ娘がその場に送られた。


「…………」

 竣の想像の中で、会ったこともないその娘が華怜の姿をしているのは仕方のないことだった。

 たった八歳の娘は世界で一番信頼していたであろう親に命じられて一人、異形のモノ渦巻く山へと九尾を連れて入っていき地獄の穴へと身を投げた。

 そして一族はこの地に移り住み、『九尾の霊を守る一族』────霊九守の姓を時の天皇より授かった。

 九尾の妖狐は現代でも語られ、数多くの作品で最強の妖怪として登場している。だが事実は、人を脅かす存在とは真逆の救世の神だったのだ。

 またまたこんな作り話を、なんて言えるはずがない。首元を伝う汗を拭うと乾いた華怜の唾液が粘ついていた。

 さらに読み進めると物語はいよいよ江戸時代に入った。


「浅野内匠頭、江戸城内で吉良上野介を斬りつける……。吉良って……忠臣蔵か……?」

 と、17歳の竣でも知っているくらいには、有名な物語である『忠臣蔵』の登場人物の名がまず目に入った。

 発端は浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介を斬りつけたこと。浅野は切腹となったが、家臣である四十七士が吉良邸に討ち入り主君の無念を晴らした忠義の物語である。

 しかし忠臣蔵もとい赤穂事件には、多くの日本人が見て見ぬふりをしている大きな謎がある。浅野が吉良を斬りつけたそもそもの理由がわかっていないのだ。

 そして討ち入り後、なぜか吉良家はお家取り潰しのうえ断絶となり、一方の浅野家はいったんお家取り潰しとなるものの、後に幕府の恩赦により再興している。

 おかしな話ではないか。江戸城内での刃傷沙汰など現代人でも分かるくらいの大狼藉なのに、被害者が消されて加害者が英雄として語り継がれているなんて。

 吉良家は足利幕府が滅んだ後も朝廷との繋がりが強く、朝廷と徳川家を仲介して家康を征夷大将軍に任命させたいわば立役者だ。徳川家も吉良家を高家の筆頭とし、明確に特別扱いしていたのに。


「四十七士、家康公の創建した泉岳寺に……。埋葬される……⁉ なんで……⁉」

 なぜそんな犯罪者集団を徳川家にとって大事な寺に埋葬しているのか。どう見ても被害者より加害者を丁重に扱っている。

 理由を探すために改めてざっと読み直すと『吉良上野介の庶子が霊九守家の三男と姦通』とはっきりと書いてあった。

 頭の中で全ての点が繋がり線となる。


(鍵を作ろうとしたのか‼)

 朝廷との距離が近かった吉良家は霊九守家の忌み子の話をどこかで知ったのだろう。そして頭に浮かんだのだ。鍵さえ操れれば吉良家は────と。

 きっと『生まれてしまった』のだろう。そうなると、お家取り潰しは当然の処分のようにも思えた。浅野内匠頭はそのきっかけとなることを徳川家から内々に命じられたのだ。

 となればその後の浅野家の扱いにも合点がいく。


(続きは……)

 もしも穴を放置したのならば、際限なく出続ける混沌は世界を包み込み人々も動物もあるべき姿になり、心を忘れやがて白痴を迎えただろう────と、あくまで予想で書いていたらしいが、今の世界を見るに当たっている。

 日本だけの話しか書いてなかったが古紙の後半、1800年代に入ってからは世界の似たような事実についても少しだけ書かれていた。 

 中国で、エジプトで、アメリカで、イギリスで、ありとあらゆる場所で人間の作り出す秩序と自然のもたらす混沌との戦いがあり、人は勝利し混沌は封じ込められたと。

 そして人間は地上に取り残された化物共を狩り尽くし、文明の光が世界を照らした。


「やがてって……あっという間になっちまったじゃねえか……」

 数百年抑え込んでいたのが一気に飛び出したのだからそうなるのも当たり前か。

 今にも爆発しそうな量の毒液の入ったボンベにいくつもの穴が空いていたとしよう。

 中に入っている毒液は次から次へと気化して毒ガスとなり溢れ出てくる。

 そのボンベにガムテープをぺたぺたと貼り付けて修繕し、外に漏れ出した毒ガスを浄化して部屋は綺麗になった。だが一箇所のガムテープが剥がれるだけで全てのテープは無意味になる。

 むしろ今まで抑えられていた分、そこから強烈に噴出することになるだろう。


「なんて、こんな話をどう信じろって────」


「信じられない? でも世界中に言葉が生まれる前からも、たとえば壁画や像として人は残してきた」

 襖の開く音が聞こえなかった。頭からほくほくと湯気を出す下着姿の華怜と、やっぱり眠たげなゴン太がいつの間にか後ろにいた。

 白と桃色の清楚なイメージが先行するような下着なのに、華怜が身に着けているとそれだけで極限まで色気が溢れている────なんでまた普通に下着で戻ってくるんだ。


「空想の産物だとされていた彼らは本当に全て人間の妄想が生み出した物だったの? 世界中にあんなにあるのに全て? それこそあり得ない。消されて、忘れ去られたんだ。本当の禁忌は語られずに人々の記憶から消えていくものなのね」


「だとしてもこんな、混沌の溢れ出る穴を塞いだなんて話────」


「よく記憶を探ってみなさい。世界中の至る所にそんなおとぎ話や伝説があったはず」

 いやこんな話初めて聞いたよ、と言葉を返す前に落ち着いて考えてみる。華怜がそう言うからにはデタラメではないはずだ。

 押し込められた災厄。開いて飛び出すのは混沌。そんな話なんて────


「パンドラの匣……!」

 ○○はパンドラの匣だ。彼はパンドラの匣を開いてしまった。なんて、島国の日本人でも好んで使う表現なくらいに知られている。

 神話の全てが本当だとは思わないとしても、事実を元に肉付けした話だとしたら。


「開けちゃったみたいね。あたしが。……結構簡単な鍵なのね」


(簡単なもんか!)

 確かに華怜にとっては山に入っただけで封じられていた妖狐を呼び寄せてしまったのだから、簡単どころか勝手にという感想だろう。

 だが、女児は生まれ次第殺されていたのが事実ならば、17年前までその鍵は存在すらしなかったのだから、簡単なはずがない。

 今ここにいる『霊九守家の女』を手に入れようとして歴史の闇に葬られた血生臭い真実まであったのに。

 家や国を傾けるのは常に女であると賢者は言った。だが、ここにいるのは傾国の美女をも超えた世界を崩壊させる者なのだ。


「……穴の奥深くにあった九尾の魂はあたしに引き寄せられ、転生体が生まれた……」

 毛の奥にまだ残っている水分が気になるのか、身体をぶるぶると振っているゴン太は確かにまだ子供だ。

 だが、他でもないこの幼狐の影響で自分たちは避らぬ変身を免れ、あまつさえ変わりゆく世界に気が付いているのだから、その力は伝承と違わず本物だろう。


「ま、結局そこまでして封印に成功しても、その後人間同士が争っているんだから無意味って話よね」

 敷きっぱなしにしてあった布団に身を投げた華怜の無防備さを極力頭から追い払い、言葉の真意を考える。

 理性ある人間を変身させて化物共が出てくる穴をなんとか全部塞いだ鎌倉時代。地上に残ったあやかしも徐々に徐々に駆除されていき日本は人間の国になった。

 しかし訪れるのは南北朝時代、戦国時代────誰もが知る日本全土で血が流れた時代は、他でもない人間の手によってもたらされたのだ。

 平和を求めて混沌を消し去ったはずの人間の手で。


「そうなんだろうな、きっと……」

 どの国もそうだろう。たとえば魔術なんてものがあったのかどうかは知ったことではないが、魔女狩りで平和は訪れただろうか。

 正義と平和を求めて戦うという矛盾にどうして人間はいつまでも気が付かないフリをしているのか。

 こんな終わってしまった世界の上で少年が考えても仕方のないことだった。


「あんたもお風呂入ってきたら? 身体汚れているでしょう」


「そんなのんびりしていていいの?」


「何を慌てることあるの? 誰か急かす人でもいる? 水道なんていつまで使えるか分からないんだから」 


「……たしかに」


「出て左に行けば電気付けっぱなしのところあるから分かると思う」

 華怜は話を打ち切りタンスを開いた。服を着ていると細身に見えるのに、前かがみになるとやはり女の子だからかお尻が大きい。

 白地に桃色の刺繍が入った下着が尻の形を強調するかのように皺が入っているのが生々しい。

 衝動的な欲望を努めて抑える。どうしてこうも────まるで竣は絶対に手を出さないと確信しているかのように無防備だ。

 着替えるからさっさと出て行け、と言いたげな目で睨まれた竣は逃げるようにして廊下に飛び出ていった。

 


 色んな液体がかかって乾き、パリパリに固まったパンツを脱いで風呂に入る。

 ワガママを言えば着替えが欲しいが仕方ない。タオルってもしかしてここにかかっている生乾きの────華怜が使ったものを使うのだろうかと悶々としながら風呂場に入る。


「広っ……」

 洗面所だけで竣の部屋より広かったのに、風呂場はその三倍の広さがある。

 シャワーは3つあるし湯船なんか軽く8人は入れそうな上に2つある。


(……ゴン太も風呂に入ったんだな)

 湯船には白い毛と亜麻色の髪の毛が浮いていた。のろのろしていても仕方ないので、軽くシャワーで身体を流してから湯船に一気に入ると華怜の匂いがふわっと広がった。

 この香りに包まれるだけでこれまで華怜にされたことが脳内を駆け巡り、心臓がきゅーっと絞られる感覚がする。

 しかし本能的にお湯を手で掬って鼻を近づけても何のにおいもしなかった。風呂場全体に振りまかれた女の匂いはどこに染み付いたものなのだろう。

 普通なら、女の子がさっきまで入っていた風呂に入っているという事実にいてもたってもいられなくなるが、残念ながら今の状況でははしゃぐこともできない。


「パンドラの匣……」

 開けたら混沌が飛び出す、という意味でよく使われているが、それ以上の詳細を知っている人間は多くない。

 実はギリシア神話においてその匣は既に好奇心旺盛なパンドラの手によって開かれており、中身は一つを除いて飛び出してしまっているのだ。

 開いた途端にこの世のありとあらゆる災厄が飛び出しパンドラは慌てて閉じた。

 では最後に匣の中に残ったものは何なのかという、普通の人は知らないことを竣は偶然にも知っていた。

 そして、古文書に書いてあった通りならば、事態を収束させるには────


「行かなくちゃ……」

 狐寄せの少女と、それに引き寄せられた九尾の妖狐の不完全体が世界を破壊した。

 世界がこうなったのは立入禁止の場所に華怜を連れてしまった自分が原因なのだから。



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 抑え込まれていたモノが解放されて世界が生き生きと脈を打っている。

 全てがあるべき姿に生まれ変わるカーニバルの夜がたけなわを迎えた。


「やばいやばい、あれはやばい……!」

 真っ白い満月に龍が飛んでいく。宇宙にまで飛ぼうというのかと思った時、いきなり中心が裂けた月から伸びた舌が龍を捕まえ飲み込んでしまった。

 そのうえデザートに雲を舐め取って空を綺麗にしている。見ているだけで遠近感まで狂って頭がおかしくなりそうだ。

 世界が脈打つリズムと同調して裂け目の周りに黒い線が浮き上がり、血管のような形になった。誰も慌ててないからいいか、で済ませられる段階はとうに超えてしまった。


「急ぐぞ‼」

 バイクから飛び降りた竣は背中に背負っていたゴン太を地面に降ろし、華怜の手を引き山へと入っていく。

 非常に珍しく自主的に動いている竣に華怜は黙って着いてきていた。


(分かる……クソっ、なんで気が付かなかったんだ)

 ここまで来ると明らかだ。頭が、人間性や理性が引っ張られる感覚がする。

 握っている手を離した瞬間に狂ってしまいそうだ。竣には想像もつかない強力な霊能力を持った人間までもが変わり果ててしまったという地獄の顕現に近付いているのだ。


「……どっちに行けばいいんだこれは」

 とりあえずいつも天体観測している場所まで来たが、そこまでだ。

 ゴン太はこの場所まで華怜に引き寄せられて来たのだから、彼に訊くしかないがもちろん話せない。ただ値踏みするかのような目で竣を見ている。

 スマホの光で照らしても木々が生い茂っているだけで何も分からない。


「こっち」


「こっちだって……?」

 狐寄せとは言うが、それ以外はなんの能力も無いはずなのに迷いなく華怜は進んでいく。

 そこには人が一人通れるくらいの獣道があった。


(……刃物で切った痕跡じゃないか)

 中途半端な長さの枝はよく見ると鋭利な何かでつい最近切られた断面があった。

 となると、華怜は────


(昨日来たの?)

 用事があるから会えないと言っていたのは、ここに来たからか。

 ならばどうして、わざわざその日は引き返して竣を連れてきたのだろう。

 どうしてそこだけは歴史をなぞらないのだろう。確かに竣も原因の一つではあるが。 


「……俺たちが世界をこんなにしてしまったなんて」


「違う。確かに鍵は壊したかもしれないけど……あたしが前に話したこと覚えている?」


「前に話したこと?」

 草木を掻き分け進んでいく。脳みそが引っ張られる感覚がどんどん強くなっていき、もう目を開かなくても方向が分かるくらいだ。


「至高の芸術品もいつかは朽ちて、美しい花は枯れ、星は砕ける。この世界は放っておけば崩壊に向かうのが自然。なぜなら世界は混沌から生まれたから。土から生まれて土に還るように、混沌より生まれて混沌に還ることこそがこの世界の自然であるはず」


「こうなることが自然……。ならゴン太は一体……?」

 山道で真っ直ぐ進むことすらも難しい哀れな人間を観察しているゴン太は、7つある尻尾で遊びながらも瘴気をどんどんと浄化している。

 自然である混沌に逆らって、人間が数十万年かけてようやく獲得した理性。そんな宝物を最初から持っている存在をなんと呼ぶのだろう。

 あまつさえ己に触れた者にも分け与えてくれるなんて。ああ、なんかそんな話を神話や宗教の伝承で読んだ気がする。

 到達者、開眼者、あるいは────ぞっとしてその先を考えるのをやめてしまう。


「…………。昔の人はこんな世界に何を思ったんだろう」


「恐らくその時はまだ理性や秩序は飲み込まれていなかったから、なんとか食い止めようとしたんでしょうね」

 華怜がぺきっと折った枝を地面に放ると、地面に落ちた枝が細かく震えて小さな蛇になり山奥へと消えてしまった。こうなることに、昔の人間はまだ違和感を持っていた。

 いや、これはおかしいのではないか────と。自分たちのような理性ある人間が生きる世界ではないと。

 だが、封じ込められていた混沌は解放されて爆発的に混じり合い、違和感を感じる前に融合を果たして『自然』となってしまった。


「なら……なら……あの日見たあれが……俺の本当の姿……」

 空を見上げると月に開いた裂け目の中に血管のような山脈が浮かび上がっている。

 あれは眼だ。旧態依然としていた世界の崩壊を見届ける上位者の眼。


 頭が酷く痛み光の中へ引っ張られる感触がする。『感覚』ではなく腕を引っ張られる『感触』だ。

 引っ張られていた腕を見ると、肘より先の皮膚が乾いてひび割れておりとても痒かった。少し剥がれている左手の指の皮膚をめくると血が出てきた。

 右腕はもっと酷い。剥がれた皮膚はまるでゆで卵の殻のように少し浮いてしまっている。もう全て剥がした方がいいに決まっているが、少し間違えば健康な部分まで剥がしてしまい大量に出血するだろう。かといってためらって途中でやめてしまい、壊死した皮膚を千切るのも怖い。放っておけないくらいに痒み傷みが酷い。

 エアダスターが落ちていたので拾い、フロンガスを皮膚の下に吹き付けてなんとか剥がそうとすると、乾燥してガサガサの皮膚が浮いてその下から湿った新しい皮膚が見えた。

 見なれた黒子の位置まで同じだ。やはり剥がさなければならないが、ガスが吹き付けられるだけで痛むこの肌を空気に晒さなければならないなんて。

 それよりも、いつの間に入り込んだのか。壊死した皮膚と新しい皮膚の間にやたらと人工的な何かがある。

 敏感な新しい皮膚に痛みを感じさせないように小指でそっと突っつき、ようやく正体が分かった。それはプラモデルのパーツの枠だった。

 ガキの頃に公園でよその子供が作っていたのを羨ましく見ていた。そのプラモデルの欠片が入り込んで俺を痛め付けていたのか。

 取り出そうとすると目を背けたくなる事実に気が付く。プラスチックのバリには無視できない量の砂が張り付いていたのだ。

 当然、湿った新しい肌にも砂は付着して鋭い痛みを突き付けている。だが痛みが指の細かい動きを失わせて、更に皮膚の奥に潜り込ませてしまった。

 これではもう取れないではないか。嫌な記憶をずっと形として身体に埋め込んでいかなければならないなんて────人生最大級の鳥肌から灰色の毛が生えてくる。

 絶叫し、もはや自分の腕とも思えないその腕を振り回すと大木がへし折れ吹き飛んでいった。


「‼」

 汗ばんだ肌を急速に冷ますような冷たい風が吹いている。

 右手が華怜に掴まれゴン太に触れていた。まるで悪夢のように支離滅裂で自分のコントロールができない世界にいた気がする。

 近付くだけで発狂する────木が折れて遠くにある崖に突き刺さっていた。世界中の人間がこんなことになっているのか。

 自分が自分であることも忘れ、意識は幻の世界に、身体は現実の地獄の世界で彷徨い続けているのだ。


「そりゃ……こんな世界……阻止するわけだな……」

 昔の人々は身近な人間が変身して発狂していくのをずっと見続けてきたのだろう。

 生贄の一人や二人捧げてでも止めなければならないと心に決めるのも当然だ。


「本当にそう思う?」


「だって、こんな……いま俺は自分がどこにいるのかも分からない悪夢の中で暴れていた。誰かがこうなるなら、明日突然隣人が変身してしまうなら、止めるだろう?」

 さてどう説明したものか、と考えているような顔で華怜は竣の手を離した。

 華怜が破滅主義者、半ば狂人であることを竣は知っているが、それ以上に華怜は普通の感覚も知っているからこそ学校で常に無表情で自分を出さなかったのだ。

 説明も何も、こんなの納得させようとする方がおかしい。その間も、山の奥からはざわざわと獣のものとも鳥のものとも分からない本能を刺激する音が届いていた。


「あたしと燈は別に普通の仲だった。小学生の頃には少しだけ一緒に遊んだりもしたわ」


「……そうだったのか」


「チェスをやっている時に燈が言ったの。一番偉いのは誰だ、って。当然あたしはキングを指差したわ」


「なにを当たり前のことを……」

 どちらともなく前へ前へ、地獄穴に向かって進んでいく。

 最早教えられなくてもどこからこの瘴気が来ているのか分かる程に濃かった。


「……でもそれは違った。竣になら分かると思う」

 恐らくは知識の問題を言っているのではない。この生まれや育ちを指して、竣ならば分かると言っているのだろう。

 最悪の生まれ、最悪の育ち、最悪な世界で這いずり回りながらなんとか今日まで生きてきた。富める者は更に富み、貧するものは更に窮し、ぽんと100万円の買い物をする高校生と時給900円のバイトで糊口を凌いでいる高校生が同じ場所で生きている。気持ちが悪くて生きにくい『平和』な世界だった。


「ここ」


「…………俺が……」

 たどり着いたのは石を蹴飛ばせば転がり落ちていくくらいには急斜面の洞窟だった。何重にも奥に奥にと続いている紙垂のかかった注連縄は全て千切れて朽ち果てている。

 闇、瘴気、狂気がその底では凝縮され冥界のように薄暗く光を放っている。見ているだけで気が狂いそうだ。こんなもの、ちっぽけな人間にはどうすることもできるはずがない。

 圧倒的な絶望、津波や地震も下らないほどの超自然。竣は全身から力が抜けてその場に膝をついていた。

 なんてことをしまったのだろう。普通に犯罪行為に加担し、普通に盗みをして、立入禁止の場所に普通に入って生きてきた。

 やるなと言われていることをし続けたツケがこんなにも大きいなんて。だが仕方が無いじゃないか。

 まともに生きていくことができない人間は、多かれ少なかれルールから逸脱して生きている。

 だってそうでもしないと生きていけないほど、この世界は歪なルールで出来上がっているから────


「……盤の製作者。チェスのルールを作った人」

 生まれた時から感じていたことがそのまま、華怜の質問の答えだった。

 やってはいけないこと、やるべきことを決めた人間は誰なんだって、こんな世界を作ったのは誰なんだってずっと思っていた。


「キングもルールに従っているだけだ。支配者は、ルールを作る者だったんだよ……」

 いかにもこの国の支配者らしい教育ではないか。

 たかがボードゲームを通じてこの世の真理を教えるなんて。

 支配者たるもの、従うのではなくルールと世界を作る側に回るのだと。


「……きっと、その時の当主は泣く泣く世界の為に娘を行かせたんじゃないと思うの」


「秩序が、このままの世界の方が都合がいいから! 殺したんだ‼」


「…………そうね」

 支配する側にとって統治しやすい世界を保つ為に娘を差し出し、生まれる女を全て殺した。

 それが事実かどうかなんて、この国の経済を霊九守一族が支配している今を見れば疑うまでもない。

 気持ちの悪い平和も秩序も、支配者の都合のいい形で意図的に作り出されたものだったのだ。きっとこの国だけでなく、この地球のどこもかしこも。

 本当に平和を求めているならば、何故金を持つ国は己の支援している国に武器を送り紛争を悪化させる? 何故すぐに仲裁せずに介入する企業までも決めて悪化するまで待つ?


「竣」


「…………」 

 洞窟の奥から吹きすさぶ風がまた竣を『自然な形』に作り変えようとする。もう華怜の声も耳に届かない。

 びきびきと身体中の骨と肉が動き、心の中に湖の底から湧く泡のように獣性が湧き上がってくる。もう、それでもいいのかもしれないと思ったのに────


「大好き」

 あまりにも予想していなかった言葉が、悪夢に飲み込まれかけていた竣を現実に引き戻した。人間のまごころの言葉が竣を人間に戻したのだ。

 妄想はずっとしていた。華怜が自分の、自分だけのものになってその言葉を言ってくれたならと。きっと想像もつかないくらいに心は澄みきるだろう────そう思っていたのに竣は困惑するばかりで、振り返って見た華怜は鉄のような無表情だった。


「なに、それ? なんでそんなことを言うの? 華怜? 華怜?」

 まるで最後に言い残したことのように口にした言葉。それもこんな場面、こんな場所、こんな時間に。

 そう、『時間』だった。止まった振り子のように華怜の手にぶら下がっていた腕時計は、シンデレラの魔法が解けたかのように0時ぴったりを指していた。


「三ヶ月」

 華怜の奴隷であった90日は、終わっていた。

 今この瞬間に立場は逆転した。あの短い針が二回りするまでは華怜の全てが竣のもの。

 ここで服を脱げ。愉快に踊れ。笑え。どんな命令だって従うだろう。

 竣が今までそうしてきたのだから。


「どうして……」

 やけにのんびりしているな、という感想は正しかった。このために、この場所に辿り着く時間に0時になるようにしたのだ。

 どうしてそんなことをするの。どうして最後にそんな言葉を渡して全てを丸投げにするの。俺に何をしろと言うんだ。何を求めているんだ。

 この三ヶ月君の命令だけで動いてきたのに、いきなりここからどうすればいいんだ。卑怯じゃないか。話し合う時間はいくらでもあった。こんなの自分の一存で決めていい話じゃない。

 ああ、違う。華怜の全てを24時間竣にあげるという約束が本物だからこそ、彼女は自分に全てを任せたんだ。やっぱり違くない。華怜は本当に卑怯だった。

 分かっているくせに。そんな勇気がある人間なら、自分の全てを捨てても華怜の全てを手に入れたいと思った日に俺はその場で華怜を×××していた‼

 地面に手をついたまま泣きそうな竣を見下ろして、華怜の瞳は闇に冷たく燃えていた。



『ヒーローになりたいと思ったことはある?』



「あ…………」

 どうしてか、いつも突発的な華怜の行動の裏側にある理由が急に理解できてしまった。

 あの日、世界が決定的に崩壊した日に送られてきた意思疎通不可能なメール。

 ヒーローになりたいか。英雄になりたいか。正義の味方になって、闇や悪と戦い世界を救いたいか。


(なりたかった! なりたかったよ‼)

 誰だってまともに生きられるなら生きたい。

 困った人を助けたい。弱い人を守りたいし、愛されて愛したかった。

 だけど世界がそれを許してくれなかったんだ。困っているし弱っていたのにどこまで行っても自分しかいなくて、愛なんかひと欠片も貰ったことが無かった。

 でもようやくそのチャンスが巡ってきたのだ。

 野良犬のような人生に世界の闇を闢く栄光を手に入れる機会が。

 そうだ、何の意味も価値もない人生だったじゃないか。

 ただ蔑まれ、使い倒されて終わるだけの命だと思っていた。

 だが、ここで世界を取り戻せたのなら。

 どんな偉人も敵わない本物の英雄になれる。太陽の下を堂々と歩ける。

 もう誰も恨んだり、嫌ったりしなくていい。

 誰が知らずともこの命に意味はあったのだから。世界に必要とされたのだから‼

 ようやく。ようやく自分を好きになれる。正しい道を選べる。

 目の前にいるのは自分の言うことを本当になんでも聞くこの世界の鍵だ。


 飛び込め。


 そう言うのが『正しい』。

 その化け狐を抱いて飛び降りちまえと言うのが正しいんだ。

 混沌を元に戻すんだ。

 正義のために。

 平和のために。

 秩序のために。

 世界のために。


(世界……)

 ザーザーと止まらない砂嵐が竣の双眸を覆い、一番古い記憶を掘り起こす。

 施設の小さなテレビの前で、色あせた古着を着た子どもたちは身を寄せ合って観た。

 人質になった子供が勇気を出し、みんなを救うために自分に仕掛けられた爆弾ごと崖から飛び降りたんだ。でも、そこに正義のヒーローが飛んできて。

 誰かが犠牲になっていい平和などない、と叫んで爆弾を引きちぎって遠くへ投げて。

 全てが円満に解決した。夕陽をバックにタイトルが流れてきて、俺は気持ち悪さに泣いた。幼心に違和感しか感じなかった、血反吐が出そうなほどの偽善。

 世界、偽善、欺瞞の平和。人は自分の知っている世界だけで生きている。

 俺はいつだってヒーローを待っていたしヒーローになりたかった。

 だけど誰も助けになんか来なかった。人間以下の獣だったから。

 だから魂に鍬を何度も打ち込んだ。周囲に馴染めるように、この世界で生きれるように。

 必死に整えて血塗れで歪な形の魂を、やっぱり世界は見向きもしてくれなかった。

 

 それが俺の知る世界のすべて。普く光はそれでも照らせない者がいた。

 生きることは、自分を殺すことだった。俺も、そして華怜も────砂嵐が止んだ。

 

(華怜が元に戻っちゃった……)

 この三カ月は夢だったのだろうか。

 無言、無表情、同じクラスになってからずっと見てきた顔。自分を殺しているときの顔だろ、俺にはよく分かるよ。

 ああ、思い出した。この子は他にどんな顔をするんだろうって、それが最初だった。

 信じられないかもだけど、三カ月耐えられたのは君の色んな顔を見れたからなんだよ。

 二人でバイクを気の向くまま走らせて、小さな駅で一緒に夜明けを見たあの時の顔。

 違う、これは俺の妄想だ。そんな思い出はないし、そんな日は永遠に来ないんだ。

 この世界に俺たち二人で見れる夜明けなんてなかった。 

 どこにも、どこまで行っても。


『違う世界に行きたかったの』

 俺はただ俺でいたかっただけ。華怜もただ華怜でいたかっただけ。

 だけど、この世界はそれすら許してくれなかった。

 何度も正義は、偽善は、この世界は、俺たちの存在の全てを踏みにじってきてくれた。だからこそ────

 

「あぁ────」

 貼り付いたような無表情は、その手を引くと薄氷がひび割れ中から溶岩が噴き出るような満面の笑みに変わった。熱く、熱く、涙が闇夜にきらりと零れそうなほどに。

 その笑顔の意味を教えられる前に竣は華怜の手を引き穴に背を向けて走り出した。


「行こう! 行こう‼ 新しい世界へ‼」

 どうか華怜は華怜のままでいて。俺も変わらないから。

 この傷を、この苦しみを無視したりしない。抱えたまま生きていく。その果ての選択が誤っていたとしても。


「俺はこのために生まれたんだ‼」

 もう何もいらない。繰り返しやってくる退屈な朝だってもういらない。

 世界がどうなっても変わらない強さを持てたのなら、それが全て。

 犠牲になる必要なんかない。こんなくそったれの世界のために世界でたったひとつしかない『竣』と『華怜』を投げ捨てることなんてないんだから。

 

 竣は走った。つまずいてもまた走った。なんて、なんて清々しいんだろう。

 絶対にしなければならないことから、女の子の手を引いて逃げて逃げて、逃げ出した。

 ひたすら逃げて山を駆け下りた。

 我欲の果ての独善あるいは悪が、眼を見開いたバカデカい月の下に二つ咲いている。

 妖狐は月に向かって遠吠えをしていた。ゴン太の鳴き声を聞くのは初めてだった。

 


*********************************



 全てが空き部屋と表示されているボードのボタンに拳を叩きつけると吐き出されるように鍵が出てきた。

 蠢く木の根がはみ出ている関係者以外立ち入り禁止の部屋の横を通り抜け、エレベーターを無視して階段を駆け上がる。

 一秒でも待つことが嫌だった。たった24時間しか無い。蹴破るように扉を開けて抱いていたゴン太を降ろす。


(ラブホテルって初めて入った……)

 大きなベッドは整えられており、想像していたよりもずっと綺麗な部屋だ。

 もう意味がないと思うが食事や飲み物、服までも注文できるらしく、初めて入った世界にくらくらしてくる。

 天井を見上げると天窓から開眼した満月と目が合った。ああ、本当に逃げてしまった────いきなり華怜にベッドへ突き飛ばされた。


「あたしは死にたくない。あたしは死にたくない! 永遠に‼」

 今にも涙が零れそうな顔で竣の上に乗ってきた華怜は、コートを脱ぎ捨てて竣の学ランも剥ぎ取り理性のように床へ投げ捨ててしまった。

 そりゃ泣きたくもなるだろう。本当にそのままの意味で華怜は先程まで生死の境目にいたのだから。


「好き。好き‼」

 好きってなんだ。好きってそんなに心が引き裂かれるような顔になってしまうものなのか。もっと、幸せそのもののような形をしていると思っていたのに。

 ここまで来ても何をどうすればいいかも分からない竣の心を汲み取るように華怜はたっぷり熱の籠もった唇付けをしてくる。

 夢にまで見たこの瞬間、この時間。俺の人生はこのためにあった。

 舌を伝って口内に直接唾液が流し込まれてくる。美味しい、美味しい!

 今すぐに子供を作れと少年の脳内本能が爆発する。常識も理性もごっそりと削ぎ取るようにぽってりと肉厚の舌が口内を舐め取っていく。

 どうしてか、溶けて消えていく理性の中から小さな戸惑いが出てきた。

 この軽い身体を抱き寄せるためだけにある腕なのに、何故かそれができない。


「……ぷあっ」

 鼻から出る呼吸までも混じり合い、酸欠になりかけたところでようやく唇は銀の橋を架けながら離れていった。

 だが唾液を拭い取ることもせず、ボタンが弾け飛んでいた竣のYシャツを開いて華怜は首筋に甘噛みしてきた。


「うあぁっ」

 噛み付かれている、攻撃されているはずなのになんなんだこの未曾有の快感は。

 激しく痙攣した竣の腕に思い切り力が入り血管が浮かび上がった。

 綺麗なんてくそくらえ、ぐちゃぐちゃのしっちゃめっちゃかにしたいなりたい────華怜の行動に全て感情が表れている。

 もう何もいらない、ただあなただけがほしい、そんな言葉まで伝わってくるようなその表情は、きっと世界一見たかったもの。

 思い切り歯型をつけた華怜は光る唇を肌の上で滑らせながら、傷付いた胸の奥にあるひび割れた心に届けるように熱烈なキスをして真っ赤な印を残した。

 その朱印が押された場所には華怜の名が刻まれている。とろけ顔を隠す気もない華怜は文字の形をひとつひとつ確かめるように舌でなぞり、たっぷり時間をかけて竣の肌をねぶり回した。


「走っちゃったからかな、汗の味がする。でも、どうでもいいよね」


「……!」

 なんであんな状況で風呂なんだろう、とは思っていた。

 時間を潰す目的もあっただろう。だが真の目的はこのためだったのだ。

 0時を回っても自分が生きていたならこの少年と××××するのだから綺麗な身体にしておこう、なんて。

 想像だけで目の前に星がちかちかと散った。


「服、脱がさないの?」


「月が見ている」

 華怜のように欲望のままに服を剥ぎ取る勇気は出てこず、そんな言葉が出てくるばかりだった。本当にどうして勇気が出てこないのだろう。

 華怜に下着姿の写真を送られた日に認識して、徐々に大きくなっていった心の不可侵領域が竣をいつまでも縛り付ける。


「だからなに?」

 最早暴走は止まらない。

 ことごとく、最後の選択までもハズレを選んできた人生。だがそれこそが華怜にとっては正解だった。今までのハズレが全て正解にひっくり返ったのだ。

 さぁ、と手を取られ服に触れさせられる。

 ちらと見たゴン太は脱ぎ捨てられた華怜のコートの上に横になっており、眠そうな目で所詮下等生物である人間のまぐわいを見ている。

 尻尾の数は8本まで増え、白い毛皮には隈取のように赤い模様が浮かび上がっていよいよ神聖な存在になりつつある。


「こんなもん脱がし方分からねえ‼」

 妄想の中でどれだけ思い通りに動けても現実では童貞の竣に、制服ならまだしもこんなやたらめったらボタンが付いた複雑な服などスムーズに脱がせられるわけがなかった。

 夢の中ではなんでもできたのに、現実ではその目で見つめられるだけで身体が痺れて何もできない。


「あはっ」

 何故か嬉しそうに笑った華怜は乱暴に裾を掴んで一気に脱いでしまった。

 弾けそうな程に甘い蜜が詰まった胸も、柔らかな曲線を描く腰も、全部が全部俺の物。


「そう、あなたのもの」

 竣に対する呼び方までも変えて理想の女の子を演じきろうとしている。

 徹底して夢の世界を作り上げている。


「しないの? なにも?」

 腕を広げて待っている。受け止めてあげるから飛び込んでおいでと言っている。

 90倍の濃度で24時間の内に自分の身体を使い切ろうとしている。


「おっぱい見たいなら見せてあげるよ。触っていいし好きにしていい。××××だって○○○だってひろげて中まで見せてあげる」

 綺麗な顔から笑顔で紡がれる卑猥な言葉がこの空間を更に非現実的なものにしていく。

 夢の中ですら、華怜はそんなことを言わなかったのに。


「◎◎◎も好きなだけしてあげる。初めてだからうまくやれるか分からないけど、△△も残さず飲み込む。この日がいつか必ず来るって知ってたから、心の準備はしてきた」

 もはや現実が夢を超えていた。竣の欲望と乱暴を全て受け止めてあげるなんて、あの高貴な華怜が言っているのだ。

 だからこそ、夢と現実の乖離は耐え難く────


「そ────」


「?」


「そんなこと言わないで……」

 竣はベッドの上で項垂れてぼろぼろと大粒の涙を流していた。

 竣が妄想の中で作り上げた華怜は気高く、美しく、完璧で、自分のようなゴミ虫には絶対に振り向かない────のに、現実が竣の閉じこもっていた妄想の殻をぶっ壊してしまった。

 想像の崩壊と淫靡な囁きが心のバランスをおかしくする。華怜はそんなことを言わない、と叫んでしまわないようにするだけでいっぱいいっぱいだ。


「俺、なんの準備もしてないや……この日が来るなんて夢だと思っていたから……」

 信じてはいたが、やはり夢のような話だからどこか現実感がなくて掴めていなかったのかもしれない。

 準備もそうだが、なによりも華怜のこんな姿を想像すらしていなかった。


「準備なんて必要?」

 なんだって演じきってみせると言った華怜の瞳には隠しきれない期待が浮かんでる。

 カタルシスの解放を彼女も望んでる。今までの全ての行いが一日分に凝縮されて己の身に叩きつけられることを。


「お願い、待って」


「どうして? この日のために我慢したんでしょう? お金も時間も一体どれだけ私の為に使った?」


「そうだけど……」


「あなたの上で腰振って淫婦になりきればいいんでしょう?」


「そうだ。そうなってくれって……思ってたんだ……」


「さぁ、なんでも言って。竣は何をしたいの?」

 竣は受動的で華怜は能動的なのは立場が逆転しても変わらなかった。

 竣は自分から願いはなんですか、と聞いたことなどないのに、華怜は今も溶けるほどの情愛を持って肌に触れてくる。

 人生を捨てた実験は成功したのだ。どんな人間も、たとえ悪虐に満ち満ちた女王でも全てを捧げれば手に入れられるのだ。


「したいよ。どろどろに××××がしたい。めちゃくちゃに犯したい。この日のために、この日を待っていたんだ。でもそれと同じくらい華怜を宝物みたいに、夢みたいに大事にしたいんだ……」

 もう自分でも何を言っているのか分からなかった。相反する二つの願望を叶えるなんて神さまでもできるはずがないのに。

 きっと、なんでも言うことを聞くという約束すらも華怜を大事にしたいという欲望から生まれたものなのだろう。

 一心不乱なまでに与え続けられた手加減なしの苛烈な行為は、むしろ全てが純粋な思い出のようにも思えて。

 透明なものには当然透明なものを返したくて。

 触れようとするだけで恐ろしくて震えてしまう。

 自分の透明がなんなのか完全に分からなくなってしまった情けない竣を見て、それでも華怜は全てを受け入れる聖母のように微笑み口を開いた。


「わたしはまぼろしなの」

 歌うように、ではなく本当に歌っている。

 どくんと心臓が揺れる。


「あなたの夢の中にいるの」

 その歌はあの日、禁足地で二人一緒に空を眺めながら聴いた曲だった。

 幼い頃に狂ったように聴いた、人生で一番好きな歌を華怜が細く高い声で歌っている。

 あの日に一発で歌詞を覚えたなんて、そんなはずがないのに。


「触れれば消えてしまうの」

 華怜は本当に竣の理想になりきっている。

 そこに竣への想いが無ければできるはずがない。

 きっとこの曲もあの後慣れないCDショップで一人で買って、聴いてみたのだろう。

 ああ、いい曲だ────彼はこんな曲が好きなんだな、と竣に想いを馳せながら。


「それでもわたしを抱きしめてほしいの」

 触れれば消えてしまう夢の中の幻。きっとそうに違いない。

 今までのことが全部夢で、この瞬間に目が覚めてもただ泣くだけだ。やっぱりって。

 それでも抱きしめてほしいと言っているんだ。もしもこれが夢ならば覚める覚悟で。


「つよく……?」

 頬を伝って雨のように落ちる涙がシーツを濡らす。

 歌と混じり合った華怜の言葉を聞き終わり、竣は聞き返した。


「つよく!」


「つよく……!」

 響き合い交わる心、あらゆる感情を超えた忘我の果て。

 まぼろしでも、消えてしまうとしても構わない。

 ただひたすらに抱きしめたくて、竣は世界の全てを忘れて華怜の身体を抱きしめていた。


「やわらかい……」

 竣の腕が閉じる前に胸に飛び込んできた華怜は、同じくらいの背の高さなのになんて小さくて儚いんだろう。いい匂いで、どこもかしこもやわらっこくて、たまらなくて。

 なんでもできるというのに、ただただぎゅっと強く抱きしめて髪に鼻をうずめるだけで胸がいっぱいになってしまった。


「まぼろしだった?」


「……ここにいるよ。本当にいる」

 歯を食いしばって耐えていた時に流すべきだった涙の分まで取り戻すかのように、涓滴が止めどなくこぼれ落ちる。刹那的な欲望なんて所詮懲役数年以下のガラクタだ。

 だが、この瞬間この空間に、生まれてからずっと願い焦がれていたものがあり、もう手放すことなんて恐ろしくてできなかった。


「なんでも、なんでもしてあげたい。竣の願いを叶えたい」

 夢よりも夢だった現実が全ての妄想を破壊した。

 最後に残ったものを拾い上げてなんとか言葉にしていく。


「なら……お願い、うそはつかないで。本当に……華怜がいまなにを思っているのか教えてほしい」

 涙でぐじゅぐじゅになった言葉はちゃんと届いただろうか。

 弱いのは知っていたが、まさか自分がここまで弱い生き物だったなんて。


「世界が全部私たちのせいでめちゃくちゃになって。なのにほったらかして逃げて。せっかくの我慢も全部台無しにしたいって、目の前の男の子に言われた私が?」


「うん。知りたいんだ。まぼろしじゃないから」


「幸せ」

 シンプルな一言を紡いだ華怜はそのまま顔を胸に埋めてくる。

 信じられない。こんなにも自分の全てを受け入れてくれる存在がこの世界にいるなんて。どんな世界だって、この子がいるなら生きていける。

 ようやく分かった。擦れきってぼろぼろだと思っていたはずの自分の心の中に確かに、どうしようもないくらい純粋な部分があると。

 小さな子供のまま時間が止まった部分が、彼女を夢みたいに大切にしたいと言っている。

 きっとそれこそが竣の捨てられなかったもの。変わりたくないともがき苦しんだ魂の核なのだろう。


「華怜のわがままをもっと沢山聞きたかったな……」

 最後はほとんど壊れゆく世界に振り回されていたし、自分にもっと余裕のある人間だったらしょうもないバイトなんかに時間を使わずに華怜のために全てを使えたのに。

 どうせもうすぐ自分が自分じゃなくなると分かっているなら、どうしてそこにある常識を投げ捨てられなかったのだろう。


「……私はあなたとキスがしたいな。裸を見てほしい。ひとつになりたい」

 胸に顔を埋めた華怜から心臓に直接響くような欲望が届く。全部本当なのだろう。理想を演じているだけではなく、心からの欲求だ。

 それは分かっているし自分だってそうしたい。それなのに、悲しみや痛みばかりを感じる七面倒な心が竣を引き止めてしまう。


「分かっている……華怜がそうされたいこと、俺がそうしたいってこと。でもダメなんだ。今日だけじゃなくて明日からの心も永遠に欲しいんだって思ってしまったから」


「どうして? 好きだよ、うそじゃないよ」

 それだって分かっている。90日の間に華怜に振り回されて、お互いの中身を知って関わっていくうちに華怜は竣の中身そのものを本当に好いてしまったのだと。

 だからこそもう不純な物は持ち込みたくなかった。


「今日は魔法だから……できるなら契約とか命令とか約束とか関係なく、心から俺のことを受け入れてほしい。もう偽物はいらない。本物だけがほしい」


「…………」

 支離滅裂な言葉でしか説明できていないが、華怜も竣が何を思ってこんなに戸惑っているのか分かってしまったようだ。

 叩きつけられるような華怜の欲望の熱が引いていく。


「だから、今日じゃだめなんだ。今日は夢だから、魔法だから、本当はまぼろしだから。たとえ華怜がいいよって言っても、今日は魔法が混ざっている」

 本当に心から本気だった。なんでも言うことを聞くから、その代わりになんでもさせろと、真剣に言っていたし嘘じゃない。

 嘘じゃないから華怜は受け入れた。きっと彼女を手に入れる方法は他に無かっただろう。

 なのに、たった3ヶ月。たかが90日は、今まで過ごしてきた全ての時間が芥子粒に思えるほどの宝物で、大切な思い出になってしまって。

 見た目だけに駆られたはずなのに、その理解不能な中身までもがまぶしく思えてしまって、身体よりももっとずっと心が欲しくなってしまったのだ。


「俺だって死にたくない。俺だって死にたくない! 俺が俺じゃなくなるのは嫌だ‼ なのに、華怜のためなら死んでも構わないって思ったんだ」

 華怜の細い肩を掴んでありったけの剥き出しを伝える。それこそ華怜がしてきた90倍の濃度で。

 自分は今までこんなにも自分の中身を誰かに叩きつけたことはあっただろうか。

 自分の殻に籠もってなんとか生きていた人生で、そんな経験があるわけなかった。


「華怜のことをめちゃくちゃにしてみたくて、でも宝物みたいに大事にしたくて」

 この少女が一緒に生きてくれるならどこまでも行ける、なんでもできる、死んでも構わない。

 なんでもすると言ったあの日から、最後には華怜の願いを叶えるためなら命すらも捨てていいと思ってしまった。


「どうして、何もかもを捨てても私の全てがほしいの?」


「だって、もう……」

 それってつまりどういうことなんだろう。

 華怜のためならこの先の世界を見られなくても構わないと思って、そして本当に世界を捨ててしまった。


「もう……華怜のことが……」

 死とは世界との断絶だ。死んだらどこかへ行くのか、あるいは完全に消滅するのか。

 どちらにしろ、いま自分が捉えているこの世界はぶつっと途絶えることになる。

 たとえそれでも華怜がひまわりの咲く世界の上で心から笑えるなら、構わなかった。


「この世界よりも」

 世界よりも華怜だと心から思っているのは、もう。

 その答えは自分自分で凝り固まった竣の理論理屈をぶち壊して、魂の奥底から噴火のように────


「好きだから」

 ようやく、ようやく。

 普通の人間が持っているものを全てかなぐり捨てて、やっと竣はその感情を手にした。

 好きって、世界よりも重たいものなんだ。どうりで今までずっと好きが分からなかったわけだ。

 自分の世界は、閉じこもっていた自分の殻だけで出来ていて、自分のことが嫌いだったから、どいつもこいつも大嫌いで世界のどこにも好きが無かったんだ。

 好きは、恋は、本当に痛くて苦しくて、甘くてとろけるようで────たった五文字を口にしただけで竣の脆い魂はガラス玉のように砕けてしまいそうだった。


「……好きだから……ただ、抱きしめて終わりにするの? そんなことに使っちゃうんだ……あなたの1日を」

 白い月明かりの下で、竣の生まれて初めての完全に透明な魂を受け取った華怜は、一撃で感情を粉々にされたかのように涙を流していた。

 目の前のあんまりにも馬鹿で幼稚な少年に対するあらゆる感情が入り混じった涙。

 きっと華怜も自分と同じだったのだろう。好きだと伝えて命を丸投げにしたのは、この世界のどんなことよりも好かれているのだと感じたかったから。

 それ以外の全てが無意味なんだ。汚物まみれの泥沼世界に生きていて、僅かに輝くその光を追い求めないことになんの意味があるのだろうか。幻なのはこの世界の方だったというのに。 

 全てを持っていた華怜も、何も持っていなかった竣も、たった一人の人間と真剣に向き合った果てに作られる『それ』を手にするのは初めてで、17年間生きて構築された大人になりかけの自分が全部壊れてしまっていた。


「時間がどんどん無くなっていく……ねぇ、日付が変わったらあたしは夜が明ける前に逃げてしまうよ」

 飾りを全部外した華怜はやっぱりちょっぴりわがままでいじわるだった。

 心は通じ合っている。裸の心臓をお互いに渡して胸の中に入れたのだから分かる。

 明日も明後日もずっと一緒にいるつもりだったのだろう。でも、今日は約束という名の魔法がかけられてしまっているからどんな言葉も100%本当にはならない。

 1%の嘘と演技が混ざってしまう。だから、完全に心が欲しいのならば今日はだめなんだ。


「逃げればいいさ……」

 華怜の肩を掴んでいた手が震えて大きくなっていく。

 陶器のような爪が伸び、灰色の毛が生えていく様はまさしく危険そのもの。

 顔がひび割れる感覚がする。せっかく華怜に教えられてちょっとはお洒落になったのに、顔は醜く崩れて整えた髪もどんどん伸びてしまう。

 24時間よりも先に、もう限界が訪れてしまったのだろう。やっと答えが出たのに。でもそんな気はしていた。どれだけ近づいても最後の最後にこの手をすり抜けていく人生。

 お願い、自分から離れて、見ないでくれ。そう言わなければならないのに言えない。

 残り時間がもう数秒しか無いのが分かる。なのに竣は言いたいことをとにかく伝えようといっぱいいっぱいで、華怜も肩に置かれた竣の手に己の手を重ねたまま見届けるかのように動かない。


「たとえ……獣になって……しまって……全てをわすれても……」

 視界が赤く染まり無性に腹が減る。そんなことをしたくないのに、力が入ってしまう手から伸びた爪が華怜の肉に食い込もうとする。

 それだけは────頭が本能で埋め尽くされるのに必死で抵抗し、華怜を傷付けることだけは踏みとどまろうとしたとき、華怜に触れている部分から雪のような灰が散った。竣の手がぼろぼろと崩れているのだ。

 珍しく寝ておらず、尻尾を逆立てて自分に威嚇しているゴン太と目が合い、理解してしまう。

 もう、人間の竣はほとんど消えて無くなってしまっていて、化物になったからには九尾の狐憑きである華怜に触れただけで消えて無くなってしまうのだと。

 最後の言葉、時間の終わり。華怜はこれでもう自分の目の前から消えていくだろう。それでいいんだ。偽物の今日も愛もいらないから。


「きみにあいにいくから」

 大きな鏡に映る竣の姿は完全な化物に成り果てていた。黄色く殺気立った眼に、耳まで裂けた口から覗く牙。全身を被う白と灰色の毛はヤマアラシの針のよう。

 本当の俺は、人間にも獣にもなりきれない人狼だったのだ。

 親に捨てられる訳だ。でももう、どうでもいいさ。欲しかったものは手に入れた。


「さよなら」

 人間性が消えていく、忘れていく。だけど、華怜のことだけはきっと絶対忘れない。

 笑った顔も、泣いた顔も、17年しか無かった人の生の中で一番の宝物だったから。

 人狼に成り果てた竣に向かって立ち上がったゴン太が牙を剥いて飛びかかってくる。

 もうこの世界に死はない。

 この夢が消えてもまたガラスの道を涙が伝って別の夢のカタチの囚人となり、この魂は別の身体を手に入れて別のナニカとして再構築される。

 またどこかで。


(逢いにいくよ)

 無抵抗の人狼は九尾の浄化の牙をその首に受け入れた。

 深く突き刺さった痛みが今までの苦しみの記憶を全て消し飛ばし、黄色い西の空。

 最後の走馬灯は最初のキスの思い出だった。

 獣人の叫びが魂を打ち砕く音となり、天窓にひびを入れ鏡を割り、重たいドアを吹き飛ばす。

 この身体も記憶もすべて消えてなくなっていいから、この思い出だけは────人狼の身体中に赤い隈取のような模様が表れ、まるで血脈のように混沌が吸い取られていく。

 赤い視界の中で華怜も赤く輝いていて、その肩を掴む手が消えて無くなって────人間の手があった。


「あああぁああぁぁぁああッ‼」

 真冬の海に叩き込まれたかのような覚醒感が全身を貫いて、はっきりと意識がこの世界に戻ってきた。

 間違いなく獣になっていた腕は人間のそれに戻っており、赤い入れ墨のような模様が滲んで肌の中に消えていく。

 それと同時に、竣の人間帰りを見ていた華怜の肌にも同じ現象が起きていた。


「まだ人間のままでいてもいいよって」

 世界一尊い物語の終わりを見たかのように華怜が涙を流しながら笑って言った。

 首に思い切り噛み付いていたゴン太が甘えるように鼻先を顔に擦り付けてくる。

 九尾の妖狐と同じく神聖な模様が自分たちにも印された。

 本能的に、心通じ合った二人は同時に狐憑きになったのだと気が付いて────華怜が大きな狐と竣とを一緒に抱きしめてきた。

 仰向けに見た月は舌打ちをしているようにも見えて、ざまみろと思った。

 どんなものも、俺たちの世界を変えられはしない。



 やわらかく握り合って繋がった二つの手の上でゴン太が離しちゃだめだよ、とでも言いたげに狸寝入りをしている。狐のくせに。

 夜が一番深くなって、世界が眠りについたのにこの部屋はまだみんな起きていた。


「結局さ、竣からは一度もキスしてくれなかったね」

 まだまだ寝かせないぞ、とからかうような言葉に顔から火が出そうだ。

 抱きしめるだけで勇気を限界まで振り絞ったのだから、そこから先はもうかすかすだった。


「それは、その……勇気が出たら、する……」

 明日からまた0からやり直して、今度こそ対等な関係で華怜の心を手に入れるんだ。

 だとしたら、自分から華怜を抱き寄せて唇付けをできる日はいつになるやら。


「世界を見捨てるよりも、あたしにキスするほうが勇気がいるんだ?」


「……言わないで」

 誰ともまともな人間関係を築けていなかったのに、いきなり好きな女の子とまともな関係を築けるほど器用な人間じゃない。

 そんなことは華怜も分かっているからからかってくるんだ。


「…………。いつからかな。なんとなく気付いちゃったの」


「……?」


「ああ、この人は、他の人が思っているよりもずっと純粋で、きっとあたしが嫌がる事を無理やりする事なんてできないって」


「どうして華怜のほうが……」

 俺より俺のことを分かっているんだろう、と言おうとして口を閉じる。

 好きだから、それしかないだろう。竣だって華怜のことが好きだから、他の誰よりも華怜のことを分かっていた。

 分かっているから、華怜も竣の言葉に答えたりしなかった。


「だから、叩いたり蹴ったり踏んづけたり、そういうことも絶対しないって分かったから……叩いてって言ったの。命令しなきゃ絶対に貰えないものはこれだって分かったから」

 きっとそれが正解なんだろう。

 これから先も竣は華怜のどんなわがままも聞くだろう。

 だが華怜を傷付けることは、自分の命や世界を引き換えにしても許せなかったのだから。


「みだらなことも、ふしだらなことも、きっと竣はできないって。酷いことだと思ってしまうことを、あたしが許してもしないんだって」

 自分が、まさか自分が。どこの生まれとも分からない馬の骨の自分が。

 この皮を剥いで肉を切り骨を削り取り出した心臓すらも握りつぶして出てくるあめ玉ほどの大きさのそれが、こんなにも純粋だったなんて。

 世の中の人間誰しもが悪意を偽りの善意で覆って、純粋な人間に見せかけることに必死だったのに。

 最悪の生まれの自分なんかが、純粋を不純で着飾って隠していたなんて乾いた笑いしか出てこない。


「だから、日付が変わるまでずっと手をつないでいてあげる」


「うん」

 同じ枕に頭を乗せた華怜が、赤い瞳で竣をずっと見ていた。

 どこにも行かないから、と。

 どうしてこうなったんだろう。

 歪極まる関係だったのに、こんなにも透き通った繋がりになるなんて。

 こんなにも混沌とした生き物が作る世界だ。混沌としているのが自然だったんだ。


「いま、この世界で手を繋いでいるのはあたしたちだけ」

 一円以下の世界と引き換えに手に入れたものが、確かにこの手にある。

 竣と華怜はずっとずっと、壊れた世界の夢の中でただ手をつないで寝っ転がっていた。

 秩序が支配する世界で不純そのものだった二人の関係は、混沌に飲み込まれる世界とは対照的に純粋な関係になってしまったのだった。





 宝石店の自動ドアが開いては閉じ、無機質な『いらっしゃいませ』を繰り返している。

 世界中の店が差別なく全てを受け入れている。コンシェルジュはもういない。


 その海岸線は見渡す限りのゴミに埋め尽くされていた。

 それも先刻までの話、汚れたプラスチックから海亀が生まれ、漂うビニール袋がクラゲに変身し、全てが海に還っていく。綺麗ね、と言うあなたの心は雲隠れ。


 あれっ、脚をどこかに忘れてしまったようだ。でも、ごらんよ。今日は満月だよ。

 国境を越えて飛んでいく揚羽蝶たちの自我も見上げた月に溶けて消えてしまった。

 ステンドグラスの上で羽化を待っていたカタツムリの記憶も泡沫の夢。

 高い壁に囲われた故郷で揚羽の翅を夢見た稚児の願いを乗せて飛んでいく、どこまでも。

 

 筋肉が痩せ衰えていく病に蝕まれた男がいる。

 もはや動くこともままならず、窓から外を眺める日々を何百日と過ごしていた。

 男を乗せた車椅子が病院の外へとひとりでに向かっていく。

 表情すらうまく作れない男の視線の先でマーチングバンドが行進していた。

 黒い装束に身を包んだ骸骨の群れが、ドラムを叩き紙吹雪を撒き散らしている。

 やがて旗手が男の元に辿り着き、掲げていた葬送の旗を差し出した。

 最後の理性、最後の力、最後の夢を振り絞り、男は旗を握って立ち上がった。

 命がほどけて骨になった男の病衣が花開くように死の行進の黒い正装となった。

 高々と旗を掲げた男を先頭に行進は再開する。

 肉体から解放された者達が次から次へと行進に加わっていく。

 死に行く者が最後に見る幻が大地を踏みしめ、ラッパを高く鳴らす。

 ブラックパレードは続く、どこまでも。


 その絵の名は『パンドラ』。

 箱を閉じた女性の絵が、箱を開いた女性の絵へと変わったことに誰も気付かない。

 希望は解き放たれた。


 黒い森でエゾオオカミが遠吠えをしている。

 海の底から浮上したアン女王の復讐号は誰も乗せぬまま航海している。

 何もかもが終わり、全て消えていく、混沌の自然に戻っていく。

 朝焼けは誰のものでもない。雲に反射した光の波は空を巡る。

 流れ星は誰のものでもない。砕けた星の海の一つになって輝く。

 世界は誰のものでもない。生まれて死んでまた生まれて、繰り返すだけ。

 その命は誰のものでもない。最初からそうだった。もう縛るものは何もない。だから。


 すべての生命は、生きていい。













 





「竣のことが」 


「この世界よりも好き」















 


────

つづく




使用楽曲コード:10091645

駆け抜けて性春

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