第3話
ここの窓から見る葉はまだ紅葉、鮮血の色をしている。華怜の目の色だ。
華怜は美術部に入っている。そして彼女が何をどうしたのかは知らないが、美術準備室は事実上華怜の自由に使えるようになっており、壁には華怜が描いたいくつもの絵が飾られている。
巨大な手で頭を握り潰されても直立しているスーツの男。枝となった手足に焼け焦げた髪、そして喪服姿の女性を囲う額縁の下には『Just Like Honey』と、どうしたらそうなるのか理解の外のタイトルが添えられている。
学生らしくないという理由で決して評価はされないような絵達が恨めしげに鈍く光っている。竣と出会うまでの華怜が一人で何を想い爆発させキャンバスにぶつけていたのかがありありと浮かぶようだ。
「…………」
美術準備室の真ん中に一つだけ置かれた椅子に竣を座らせ、窓枠に寄りかかった華怜は煙草を咥えながらただじっと見ている。
これだけならモデルの模写を始めようとしているのだと思えなくもないが、絵の具も何も用意していない。何をされるか予想が付かない。
「あっ、なにを!」
竣が止める前に華怜は自分の左手に煙草を押し付けていた。
熱くないはずがなく、その証拠に華怜の瞳孔が少し小さくなった。それでも唇を引き絞り悲鳴の一つもあげない。
「……たかがこれくらいがなに?」
煙草以外何も持っていなかったように見えたのに、いつの間にか華怜の右手にはあのナイフが握られていた。
またアレで刻まれるのか────痛みの記憶に竣が顔をしかめた時だった。
「い────ッ‼」
「何してんだ‼」
刃を手の平に向け、左手で思い切りナイフを握り始めたのだ。あのナイフの切れ味はそれこそ痛いほど知っている。
竣が驚きに身体を強張らせている間にも、真っ赤な血が精緻を極めたナイフの装飾を伝い華怜の手首を、そして制服を染めていく。
「座ってろ!」
痛くないはずがない。今の怒鳴り声ですら震えていて、がちがちと歯を噛み鳴らして大きな目いっぱいに涙を溜めている。
ぎゅうぎゅうにナイフを握りしめて悲痛な声が漏れ聞こえるが、それでもこっちを見ていろと涙で歪んだ目が言っていた。
「あぁああああぁあああぁッ‼」
まるでとどめを刺すかのように思い切り引き抜いたナイフは、多感な十代には刺激的過ぎる赤い曲線を夕陽に描いた。
痛みに思わず身を屈め、ナイフをぽとりと落とした華怜は声にならない声をあげながら左手首を掴み、更に血が吹き出た。
「どう……?」
急激な出血にふらつきながらも、血を流す手の平を太陽の光を遮るようにこちらに向けてくる。赤黒い切り口は深い地獄の底だ。
「なんてことを……」
眼前で氷の女王が絶叫しながら自傷して傷口を見せてきたのだ。顔面蒼白にもなる。
だが華怜はそんな竣を見て何かのスイッチが入ったのか、顔を火照らせ何故か恍惚に微笑んでいる。赤く溜まっていた涙が消え、華怜が歩み寄ってきた。
「動くな」
何をするのかと思いきや、親指で拭い取った血を竣の顔に塗りつけてきたのだ。
ただ触れるだけでなく、ぐっと顔を掴み強く塗り込んでくる。輪郭を伝う生温い血が怨念と共に肌から染み込んでくるようだ。
いまの自分はまさしく華怜の欲望のキャンバスなのだろう。神が蚤を振るって作ったかのような華怜の美しい顔が目の前にあった。
「そうしたいんだったら、俺を切ればよかったじゃないか」
「意味がない。黙っていなさい」
それはどういう意味か、と問う前に唇の周りにも無理やり塗られ、華怜の頬が高揚に赤くなっていく。
ふと、論理的な思考をふっ飛ばして行為の意味が分かってしまった。
(マーキングだ……)
なぜわざわざ痛い思いをしてまで血なのか。きっと色のある体液で真っ先に思い付いたのが血だからだろう。体液、とたった二文字に鼻の奥が痺れて肌が粟立つ。
もう少し人間が視覚より嗅覚の優れた動物だったら、あるいはもう少し華怜を怒らせていたら。
その場で蹴倒されて小便をかけられていただろう。ここまでする子がそうしないはずがない。
(俺は華怜の物……)
そうだったらいいのに、と思うほどに竣は華怜の物だった。
私の人形、私の玩具、私の物。何度も言葉で言われてきて、そこに嘘はなかった。
たとえ華怜の命令が原因でもこの90日間他の何にも目を向けてはいけなかったのだ。
長いようで短かった八分の間でどうやら完成したようだ。華怜が机の上に最初から置いてあった手鏡を持ってきた。
「これがあんた」
血の滴る真実の鏡に映っているのは、イヌ科の肉食獣のようなメイクを施された竣だった。痩けた頬から粗雑な大きさの牙が見え隠れし、ギラギラと目を光らせている。
何が悲しいのか血の涙を流しており、顎が耳まで裂けて獲物よりも抽象的な何かを欲している。
「華怜にはこう見えているの?」
「そう。人間の世界で生きられない獣でしょう」
人間の作った人間のための世界で這い回る竣よりも、血も肉も満たされるほどに喰らい尽くしているのにまだ足りないと泣くその獣は、よりイデアに近いと思える。
華怜の願望が映し出されている姿でもあるのだろう。だが、それ以上にそれは竣の本当の姿に感じられて、鏡の中の獣が笑い血が洗い流した。
「見て。痛い」
床に捨てた鏡を蹴った華怜が傷口をこちらに向けてくる。
相当に深い傷に思えたのだが、実際は防衛本能が働いたのか肉までは傷ついていない。
これくらいの怪我なら竣もバイトの荷運びの時にしたことがある。適切に病院で治療すれば10日ほどで治るはずだ。
「舐めて」
傷口が淫靡な暗喩のように開き、鼓動と共に蠕動して充血した肉が粘った血を垂らす。
「痛いよ、そんなことしたら」
「獣は舐めて治すでしょう」
ほら、俺は間違っていなかった。マーキングの次は舐めろと来た。華怜は喜怒哀楽の頂点が獣みたいな本能に結び付いているんだ。
いくらお勉強を頑張ったって、理性的に生きていたって、その時が来たら俺らは簡単に人間やめちまう。
でも、普段が完璧な華怜だからケダモノになっても綺麗なんだ────掌に近づけた鼻が華怜の細い指に当たった。
「────っ!」
恐る恐る舌先で傷口に触れると華怜は小さく声をあげた。親に叱られた獣のように萎縮するが、華怜を包む空気の全てがやめるなと言っている。
極度に緊張しているのに何故か溢れる唾液を無理やり飲み込んで舌を更に出し、舌の腹で傷口に触れると錆びた鉄の味がした。
ただの肌の部分とぎざぎざに切られた部分の境目が舌先で感じられて痛々しい。
肌の下の肉は更に温かく、そして確かに僅かながら唾液に治癒効果があるようで、華怜の顔から痛みが引いていった。
「こっちも」
血も大分止まり、そのまま消毒をすれば痕は残ってもちゃんと治るな、と思えるくらいになって華怜は反対の手も差し出してきた。
「そっちは怪我してないんじゃ……?」
「汚れている。綺麗にして」
華怜の真っ赤な右手が狂気に冒された美術準備室の空気を掴むと固まった血がひび割れた。黒をベースに星を描いたマニキュアの下までも血に犯されている。
口紅を塗るように親指を唇に擦り付けてくる。雲に隠れた糜爛な夕陽を背にし、全てが影となった華怜の赤い瞳だけが妖いのように光っていた。
(のどが痛い……)
どろどろとしながらも刺々しいという、華怜そのもののような血は口腔や鼻腔はおろか喉にまで張り付いて刺さり、異常な乾きを生み出していた。
それこそ乾きの元凶である血で乾きを癒したいと思ってしまうほどに。
「毛繕いしてるみたい。竣は犬人間。ふふ……」
時計のように血が断続的に滴る左腕をだらりと下ろし、冷酷な顔で告げてくる。
結構な怪我をしてまだまだ痛いはずなのに、侮蔑の言葉を口にしながらも上機嫌だ。
舌に感じる僅かに塩気の混じった凶悪な血液が脳にまで入り込んでくるよう。座っている自分が差し出された指を舐めている姿は、檻の中のモルモットが給水器からどろどろの栄養食を貪っている姿にも似ていた。純度100の麻薬に溺れたかのように全てを忘れかけた時、白と赤の混じり合った両手が竣の顔を包み込んできた。
「うわっ、っぷ!」
ぐりぐりと両の掌に濡れた唾液と血を顔に塗りたくられる。当然繊細に描かれていたメイクは全て消えてしまった。
そんな格好で出歩けないことは分かっていても、どうしてかもったいないと思った。
「顔を洗ってきなさい。誰かに見つからないようにね。あとモップも持ってきて」
竣をどかして椅子に座った華怜は、足を使って器用に鞄から医療品を取り出している。
指先を舐めるその行動はただの癖なのか、今だからしているのか分からず心臓が縮んだ。
「写真とか、撮らないんだ」
「本当の竣はあたしだけが知っていればいい」
せっかく作ったのに────と言う前に竣にも理解できた。
永遠にそこに存在し続けるものを額縁に収め真っ白な壁に飾ることはよい。
だが、その一瞬に自分の為だけに在ったものをほんの少しでも誰かに見られる形で残したくなかったのだろう。もう無いからこそ、この記憶の価値は極限にまで高まるのだと。
かなり自分の思考は毒されている────そんなことを思いながら竣は廊下に出た。
竣が汚れた床をモップで掃除している間、華怜は器用に片手で包帯を巻いていたが、その処置は素人目にも完璧に映った。
あるいはこうすることは分かっていたから事前に調べていたのかもしれない。掃除している床や壁には少し赤い染みが残っているが、絵の具ということでごまかせるだろう。
「竣」
「え? ────‼」
いつの間にか隣に立っていた華怜が、竣の左手の小指を握りいきなりへし折ろうとしてきた。
本能的に左手を引っ込めるが、曲げてはいけない方向に力を加えられて小指がずきずきしている。
「…………」
「……避けないほうが良かった?」
薄く目を開き何を考えているか分からない華怜に、まだ折れていない左手を差し出す。
もう残り時間も少ないので、後戻りできない怪我を負わせられるかもしれない、とは考えていたが急に来るとは。
だがそれも華怜の勝手だ。いまからやりますよ、なんて予告されたこともないのだから。
「……痛み、痛い、痛い……恐怖」
包帯で巻かれているとは言え、動かさないに越したことは無い左手を握っては開いてうわ言を呟いている。
輝く星のピアスは凶兆のよう。まるで加虐性愛者の貴人が拷問相手の前で使用する道具をひとつひとつ確認しているような姿だった。
「他人から与えられる痛みは、怖い?」
「…………。怖いよ」
施設にいた頃に同室の少年が先生から受けていた暴力は今でもトラウマだ。
たとえ自分は受けていなくとも暴力はそれだけで人を変えてしまう。
「あたしは今まで誰にも殴られたことがない」
「そうだろうな」
諍いを起こすことすなわち社会的な死を意味するような少女だ。一体誰が彼女を直接攻撃などできよう。
たったいま理不尽な暴力を与えた相手が目の前にいるというのに悠然と椅子に座っているところからも、彼女は常に暴力を与える側だった事が分かる。
「あたしのこと殴ってみて」
「え……なに……?」
聞き間違いではないその言葉が理解できたとき、急激な悪寒と共に胃が痛んだ。
命令とは真逆に、今まさに圧倒的な力に脅かされているかのように、竣は痺れる左手を胸元に引き寄せて不安な顔で聞き返していた。
「生意気でしょう、あたし」
「い、いやだ……」
「ここを思い切り平手打ちして」
「そんなことしたくない」
殴れと言っている。座っている。そんな相手が恐怖そのものであるかのように竣は左手を抱えたまま後ずさる。
「嫌なの」
「いやだ」
「なんでも言うことを聞く、って言葉……嫌なことをさせるためにあるんじゃないの?」
言われて初めて気が付いた。この命令を今までで一番嫌がっているのだと。何が嬉しくてこの綺麗な顔を傷付けないといけないのだろう。
だが、嬉しくないしやりたくないことだからこそ、その強制的な命令に価値があることは理解できる。
「やれ」
姿勢正しく椅子に座るその姿は、これから男に殴られるというのに気品に満ちている。
90日間過激なことを遠慮なくしてくる、その代わりその後何されても文句は言えない。
つまり全てをやり返されることを最初から受け入れているのだとしたら、疑いようのないサディストの華怜の裏側には壊滅的なマゾヒズムが隠れているということに他ならない。
美しい容姿を一皮剥けばパラフィリアで固められた怪物だ。むしろ今まで理性で抑えていたのを竣と出会って赴くままに解放できるようになってしまったのかもしれない。
(いやだ……)
ずるずると足を引きずりながら華怜の元に進んでいく。背中にはYシャツが張り付くほどの汗が流れ、今にも泣き出しそうだった。
俯いていた顔を上げると、華怜はそんな竣を虫かごの中の昆虫を観察するかのような目で見ていた。
力仕事を繰り返してゴツゴツとした自分の手を見つめる。コレを華怜に振り下ろす日が来るなんて。
「利き手と違う手で顎を持って。そう」
震える左手で華怜の顎を持ち上げる。座っている彼女を殴るために人形のように軽い顔を摑んでいる筈なのに、どうして震えているのは自分ばかりなのだろう。
もう冬だというのにもみあげから熱い汗が床に垂れ、犯罪行為を自首するかのように弱々しく右手をあげる。どうしたって、思い切りやれるわけがない。
「うあ……」
頭から血液が完全に失せたかのように、夕陽に染まる赤い華怜の姿が涙で滲む。
分かっている。こうなるからこそ、この命令には何よりも価値があるということは。
それでももう右手はまともに動きそうにない。
「手加減したら、もうそれまで」
「…………!」
顎を掴む手が汗で滑る。酷い頭痛が体中の油を抜いたかのようだ。
お願い、怒らないで、しっかりやるから────幼少期のトラウマの声が、遠くの音楽室から響く『主よ、人の望みの喜びよ』と混じり合い脳細胞を死滅させる。
きりきりと振り上げた手が華怜の柔らかな頬に向けられた。
「やれ!」
「うぁあああああああ‼」
初めて処刑台のボタンを押した死刑執行人はきっとあらゆる残酷な想像を叫んで振り切ったのだろう。
こうして、あらん限りの力を叩きつけたに違いない────華怜の軽い身体は椅子ごと吹き飛び、置きっぱなしにしていたモップとバケツを巻き込んで壁まで転がっていった。
「華怜‼」
「来るな……!」
乱れた髪で華怜の表情は見えない。今までの人生で触れることもなかったであろう床に両手をついて揺れる身体を支えている。
竣の右手から発せられる痺れがバッハの旋律と融合し絶望に脱力させた。女の子に────しかも華怜に暴力を振るってしまった、と。
「痛っ……」
面を上げた華怜の頬には大きな紅葉の痕が広がり、唇が切れている。指が鼻先を掠めたのか、鼻血も垂れてしまっている。
せっかく完璧に処置した左手にバケツの汚水が滲んでいるが、脳震盪でそれも分かっていないのかふらふらとしていた。
男と女でこうまで違うものなのか、まるで大人と子供じゃないか────トラウマが精巧に脳内で再現され竣の脚までも覚束なくなった。
たっぷり一分以上の時間をかけて華怜は這いずりながら椅子に戻っていた。その間、竣はその場から動くことすらできなかった。
「今日生理だし……流石に貧血気味」
白い手で雑に顔を拭うと初雪を汚すように華怜の手に血が付着した。
どうして、そんな姿で自信に満ちていられるのだろう。
「顔、真っ青だね」
「…………ぁ」
華怜を殴った手で顔に触れると、触れたのも分からない程に血が引いて痺れていた。
「はっ」
ポケットティッシュを小さな鼻に詰めて冷笑した華怜の頬はまだ真っ赤だ。
何故殴られても綺麗なままでいられるのか。華怜は鮮烈な美しさと共にずっと謎のままだった。きっと永遠に。
「ごめん」
血を綺麗に拭き取り、また新しく包帯を換えている華怜の髪はぐしゃぐしゃだ。
単にビンタするにしてももっとうまいやり方があったはずなのに。
謝ってから少し経って、謝る場面ではなかったと気が付く。だが華怜はそんな竣の性格を理解しているのかしていないのか、斜め上の事を口にしようとしていた。
「髪、触って。強くはダメだよ」
赤い鼻をしてまたそんなことを言い出すものだから、混乱はあっという間に頂点に達した。
もう結構な時間華怜と一緒にいるが、未だに理解不能だなんて。
「俺の手汚いよ」
廃棄の弁当をまとめて、油焦げた調理器具を洗い、いっそすがすがしいほどに汚されたトイレを磨いて。
十代とは思えないほどに汚れた手。そんな汚い物が高級な絹のような髪に触れていいわけがなかった。
「あたしの気はすぐ変わるよ」
目の前に出されたお菓子をやっぱやめた、と言われたかのように慌てて前言撤回する。
汚いなんて、今更そんなことを華怜が気にするはずがないのに。
「早くしなさい」
まっすぐと椅子に座っている華怜は顔を赤く腫らしてもなお高貴そのものだ。
いざ触れるとなると先ほどとは別の意味で動悸が止まらない。触れるどころではない望みを抱いたはずなのに、おかしいな。
だってもう二週間もしたら華怜の全てが自分のものになるのに、どうして触っていいと言われただけでこうなってしまうのだろう。
顔が熱く、余計なことばかり思い出してしまう。血の気が引いたり血が上ったり、脳の血管までもぼろぼろだろう。華怜はそんな竣を見て満足気に笑っていた。
(あぁ…………綺麗────)
乱れた髪も、恐る恐る触れた指を通すだけで抵抗もなく真っ直ぐになっていく。
頭皮に近い部分の髪は温かく、艶麗に揺れる髪が魅惑的な芳香を散らしている。
次の吹奏楽部のコンクールはバッハがテーマとなっているのだろうか。『G線上のアリア』が西に沈む太陽に送られている。
自分はいつこんな夢と見紛う世界に迷い込んでしまったのだろう。そうだ、きっと夢だ。髪に触れるだけで溶けたっていいと思うほどに心が満たされるなんて。
「…………」
人嫌いの猫が不意に見せた人懐っこい瞬間のように、感情の分からない目を細めてこちらを見てくる。全てが彼岸花のように赤かった。
華怜のピアスに痛む小指が触れ、ふと現実に戻ったとき、そっと手を払われた。
「あたしはほっぺたにキスしてあげたのに、竣は平手打ちなんて酷いと思わない?」
「……‼」
「今日はよく眠れそう」
純粋無垢で掛け値なしの紛うことなき十代の少女の笑顔。どうしてこんな嗜虐と被虐を内包した怪物になってしまったのだろう。
もしかすると自分は、とんでもないトリガーを引いてしまったのかもしれない。分かった気がしていた華怜がもう全然分からない。
だけどそれ以上に、今までに経験したことのない色をしている自分の感情が分からなかった。
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竣が何を感じようと華怜はあれで喜んでいた。
それでも華怜を力の限り殴り飛ばした痺れは未だに右手に残っている。
このまま運転すれば事故を起こしそうだったため、とりあえず今はバイクを押しながら帰っている。
(身体中から華怜の匂いがする……)
そう言ったら華怜は────ああ、多分喜ぶんだろうな。そうしようとしてたんだから。なんならしばらく風呂に入るなと言うかもしれない。
それで不潔になったら『汚い』と言うのだろう。理不尽の塊みたいな、だけどなぜか魅力的な女の子。
(なんか寝ても覚めても華怜のこと考えてる)
関わる前からそうだったが、今はもっともっと塗りつぶされている。三カ月は長いと感じていたのに、あっという間に過ぎていく。
頑張って耐えようと思っていたのに、今はもっと華怜を喜ばせたいと考えている。もう約束の日は近いのに。
(ああ……そうか。俺……華怜に嫌われたくないんだ……)
なぜ華怜を殴ることがあんなにも嫌だったか、今更になって分かった。こんな関係になる前に抱いた欲望は全て『犯罪的で』『相手のことを一切考えていない』内容だった。
華怜のことを何も知らなかったから、どう思われようがどうでもよかったのだ。だが今は華怜のことをよく知っていて、彼女が竣のことを憎からず思っていることも知っている。
その好感を壊すことが怖い。だがややこしいことに、華怜はそんな残酷を楽しみにしている節もあって────と、懊悩に心をやられてぼけっと歩いていると。
「⁉ いっ⁉ ⁉」
ナニカにぶつかってバイクごと転んでしまった。
そんな馬鹿な。半分上の空で歩いていたとは言え、歩きスマホと違って前を見ていたのに。顔を上げるとそこには何も無く、人どころか虫一匹いなかった。
「いったい何に……あでっ⁉」
立ち上がり前に進むと額がまたナニカにぶつかる。
完全に透明で目に映らないモノが本当にそこにある。
「なんだっ、いったいっ⁉」
何度も通った普通の路地のはず。なのに手で触れると確かに見えない壁がある。
まさかまださっきの夢の中から抜け出せていないのか。哲学者のように正気を疑いながら目の前の壁を確かめて跪き、地面と壁の境目をなぞろうとすると今度は手が思い切り空振った。
「……⁉ あれ……?」
そこには何も無かった。本当に何も無かった、いや無くなっていたと言うべきか。
練習中のパントマイムのように空中に手をかざすが何も無い。だがバイクを見ると硬いところにぶつかったことを示すかのように一部が僅かに凹んでいる。
夢にしては痛みまでもリアル過ぎる────ぶつけた鼻っ面を手の甲で擦ると華怜の血のにおいがまだ残っていて、やはりまだ夢の中にいるような気がした。
まだ華怜も竣も、気が付いてはいなかった。
地獄の蓋を開いたカオスのパンデミックに。
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最初はコンビニバイトもそこまで嫌じゃなかった。
というのも、竣を採用した店長が良い意味でも悪い意味でもバイトに無関心な人だったからだ。他人に無駄話をされるのが嫌いな竣はその環境が心地よかった。
だがオーナーの意向で前の店長は新しく開くコンビニに飛ばされた。新しく入った店長がとにかく最悪だった。
大学中退してコンビニバイトからの正式採用はまぁいいとして、自分は優秀なはずだと思っており前途ある若者が嫌いで、パワハラ・セクハラ常習犯でバイト全員から嫌われている。
特に履歴書の家族構成欄から孤児であることを知った竣を事あるごとに徹底的にバカにしてくる。竣の通っている高校が店長の嫉妬心を無言で煽ったということもあるだろう。
度重なるパワハラに、実際気が長いほうじゃない竣はもう限界が近かった。
「お前しかいないだろ、どう考えても‼」
ダンッ、と店長が事務所の机を叩く。
何故かレジ違算が発生しているらしい。それも三万円という微妙な額だからこそ竣が疑われている。
無能なのはまだいいにしても無能なことを他人のせいにしないで欲しい。
「知らないです」
「今どきお前だけなんだよ、給料手渡しなんてよ‼」
「盗んでないです……」
すぐにこれだ。店に何か問題がある度に、孤児という理由だけで原因を竣に決めつけ、自分のことは棚にあげて脂汗を撒き散らしながら攻撃してくる。
拳を握ると先日華怜に捻挫させられた小指が傷んだ。
「だいたいお前────」
「お疲れ様でー……店長、なんスか一体」
「じゃあ俺レジ行くんで」
このバイトに入った時からいる売れないバンドマンが出勤早々激昂した店長に出くわしてしまった。
店長はこのチャラついたバンドマンも嫌っているし、バンドマンもバンドマンで嫌っている。そっとなすりつけて竣は事務所を出た。
だが悪いことは重なるもので、どういうことなのかそれと同時に店員を見下すタイプの客も増えたのだ。今日も今日とていつものようにクソ客が来る。
「マイホのメンソ! カートンで!」
「番号でお願いします」
いつも半ギレのハゲ親父がやってきた。いつも頼んでいるものとは違う。こういう変化球を投げてくるからこそ番号で言ってほしいのに。
よれよれのスーツに汗ジミのできたYシャツ、この時間に帰宅とは恐れ入るがそのストレスを店員にぶつけないで欲しい。
「いつものだろうが‼」
「番号で」
いつもと違うじゃねえか、とは言わない。だが死んだ魚の眼の下で徐々に怒りが燃え上がっていく。
こんないかにも社会に使い倒されている人間にも見下されるほどの────最底辺ってことか、という怒り。
「これだ! 使えねえなテメエは」
店長が後ろから突き飛ばすようにカートンを背中に突き付けてくる。
こめかみがひくひくと動く。お前は獣だ────華怜の言葉とあの日見た本当の自分が脳内に蘇る。
いつまで、いつまでこんなギリギリ人間でいられているような屑達に見下されながらはした金を稼がなければならないのだろう。
成人雑誌コーナーを物色中の車椅子に乗った両手足のない女性にまで笑われた。
最近の車椅子は随分進化したんだな、なんて感心する余裕もない。
「しょうがねえ×××が」
店長が自分にだけ聞こえる声で超えてはいけない一線を踏みにじった。
この店長がどういう人間か、経歴も全て知っている。でもそれを口に出して愚弄したことがあったか?
人間以下は人間以下らしく、獣らしく生きているだけだというのに────いつかは来ると思っていた限界は真っ赤な視界と共に訪れ、気付けば店長を締め上げていた。
「盗ってねえって言ってんだろうがァアア────ッ‼ なんでこんなケチくさい金盗んなきゃなんねぇんだァアア────ッ‼」
両手で思い切り締め上げた店長の襟からボタンがブチブチと外れ、締まった首に太い血管が浮き上がる。煙草の箱が雪崩を起こして二人の頭に落ちてきた。
苦しいのか、クリームパンのような手でタップしてくるが、無視して小さい体を持ち上げるとドブのような口臭が漂ってきて更に苛立ちが募る。
ハゲ親父が転がるようにして店外に逃げていった。
「いつもいつもネチネチと……‼ クソ臭ぇんだよ耳カスがァアア────ッ‼」
「やめろ宗像‼」
おでん鍋に店長の頭をダンクする寸前で引き剥がされる。制服に着替えたバイトリーダーのバンドマンが竣を羽交い絞めにしていた。
だがもう遅い。両者の溝は完全に明らかになり最早修復不可能となった。
「店長も! ちょっと酷いじゃないっスか! こいつもう2年近く働いているんスよ! やるならもっと前にやりますよ!」
今までほとんど口をきいたことも無かったのに、意外にもバンドマンはかばってくれている。面倒事を避けたい一心かもしれないが。
「髪をいきなりそんなんにしたのも店の金盗って消えようと考えてるからだろ‼」
「もっかい数えろよ‼ 自分の無能を人に擦り付けんな‼」
「店長! 宗像やめろ‼ 殴ったら終わりだぞ‼」
「はんっ、そいつ頼れる人間もいねえで一人で生きてんだからいつ金に困ったっておかしくないだろ」
「てめぇ‼ ぶっ殺してやる‼」
外からサイレンの音が聞こえる。ここから歩いて一分のところに交番があるのだった。
ああ、とうとう自分も警察の世話になる身になってしまったのか。
分かっている。あの豚ヤクザの言う通り半グレの親無し子で、こんな奴にも見下されるくらいには未来の無い存在だ。
それでも生きている。生まれた時からほとんど何も無かった中で、他の人間がポイ捨てするような塵芥をありがたがってかき集めて自分の人生を生きている。
バイトリーダーに押さえつけられている竣を今も店長が安全圏から罵倒し、入り口から警官が入ってきた。予想通りに、当然に絶望が未来に待ち受けている人生。
それでも、それでもこんな人生を精一杯生きているのは、きっといつか自分にしか手に入れられないものをこの手に抱きしめる為だった。
たとえこんなブタしか無いカードの人生でも────
「俺はお前に馬鹿にされるために生きているんじゃない‼」
バイトはクビになった。
警察に事務所で事情聴取をされ、お互いに原因があったということでブタ箱にぶち込まれるようなことにはならなかった。
ちなみに売上の計算が間違っていたのはボロのレジの奥に万札二枚が引っかかっていたのと店長の計算ミスだったらしい。
それでも店長は謝らなかったし、もう自分があそこで働けないことは明らかだった。
結局竣にできたのは、今日までのバイト代を日割りでそのまま貰うことだけ。
傷付いたプライドも、明日からの生活ももう何もかも滅茶苦茶だった。
「…………」
貯金残高、未来、心、全てが身体中を腐らせていく。廃棄の弁当もかっぱらえないから明日からの飯すらも困る。
電気も付けずに部屋の中で一人、頭を抱えながら体育座りをして何も浮かんでこない頭で考え込む。
「………………」
あんなもん全部はいはい、って聞き流してりゃよかったんだ。
あるいはどうせクビになるんならそれこそ半殺しにしておけばよかったんだ。
終わったことがいつまでも空回りする頭を勢いで持ち上げると壁に後頭部をぶつけた。
「っ…………」
ぶつけた部分を押さえたままずるずると音を立てて横になる。
生きるために最も必要な心のエネルギーが完全に切れて、『痛え』と言うこともできない。このままでは本当に元店長にキレたのが蝋燭の最後の輝きになりそうだった。
(…………? 俺は……何を……)
気が付けばどうしてか華怜に電話をかけていた。
自分からなんてメールすらも送ったことはないのに、自分でも何をしているのかよくわかっていなかった。
『なに? いきなり』
僅か3コールでいつもの刺々しい声が電話口から返ってくる。
どうしてか、それだけで燃料が少しずつ戻ってくる。
「俺……バイト、クビになっちゃって……」
『は? それだけで電話かけてきたの?』
「……うん」
死にそうな声で何かが伝わったのか、しょうがないなと聞こえてきそうなほどの溜息が届く。
呆れられてはいても嫌がられてはいないようだ。
『お風呂入ったばっかりなのに……うち分かるでしょ?』
「分かるよ」
霊九守邸なんてインターネットで調べれば一番上に出るくらいには有名だ。
脳が死んでいたので、家に来いと言われていることに数秒遅れて気づく。
『家の前に公園あるから急いで来なさい』
ぶつっ、と雑に切られたがそれは華怜も急いで支度をするからだろう。
さっきまで座ることすらもままならなかったのに、まだ夕飯すらも食べていないのに、すくっと真っ直ぐに立ち上がることができた。
たぶん、きっと。頑張れとかドンマイとか、そんな言葉は貰えない。
でもそれでいい。自分にしか手に入れられないものは、たとえゴミみたいなバイトをやめたところでもう目の前にあるのだから。
いつの間にこんなに冬が侵略してきたのだろう。
バイクでやや速度違反しながら来たせいもあるかもしれないが、霊九守邸前の公園は異常な冷え込みだった。
朝から何も食べていないこともあり体温低下にガタガタ震えていると白い光が見えた。
「死にそうな顔しちゃって」
ゴン太を抱えた華怜だった。明らかに赤ん坊の大きさだったのに本当にちょっと見ない間にかなり大きくなっている。前までは片手で抱えられたのに今では両腕でも余るくらいだ。
白い光はゴン太の毛皮に反射した街灯だったようだ。成長期なのか、こんな寒さの中でもぐうすかと寝ている。
「華怜……」
「ほら、そこで買ったから飲みなさい」
「……ありがとう」
温かい缶のココアを胸に押し付けられる。小さい頃に食べたくても食べられなかった反動から、竣はもうしばらくすれば18歳になるというのに甘いものが好きで好きでしょうがない。
好物だということをきっと天体観測の日に覚えられたのだろう。自分の好物を華怜が覚えてくれている────ただそれだけで身体が温まるかのようだった。
「話しなさい。ちょっとだけなら聴いてあげる」
「勢いでムカつく店長締め上げちゃって、そうしたらクビになった」
「……その様子だと、一発も殴れなかったみたいね」
本当に一息でしか話してないのに、華怜は竣が怒った理由までも見抜き、恨みをきっちり耳をそろえて返せなかったことまでも察したようだ。
「……どうして、あたしに電話を?」
目が覚めたゴン太を華怜が降ろす。かなり懐いているのか、首輪すらも付けていないのに華怜から離れる素振りも見せず、今更竣がいることに気付いて大あくびした。なんて肝の座った動物なんだろう。
「やめちまったら……もうほとんど何もなくて。頼れる人もいなくて。そしたら急にひとりぼっちなのが怖くなって────」
認識できたのは華怜が腕を肩の可動域限界まで振り上げていたところまでだった。
次の瞬間には、お返しとばかりに強烈なビンタが突き刺さり、竣はココアごと公園の地面を三回転していた。
「あっっぢ! あぢっ‼」
両手にモロに被ったココアをズボンではたくという愚行を、華怜は仁王立ちしてただ見下ろしている。
「孤独結構! 孤高に生きなさい」
圧倒的に白銀の月光の下、華怜はそれこそ孤高に胸を張って誇り高く立っていた。
その言葉はまさしく華怜そのものだった。あの手この手でちっぽけな自分を脅かしてくる世界の中で、華怜は決して誇りを捨てず自分を変えたりしない。
(綺麗────)
正に一喝、頭のゴチャゴチャが全て叩きだされて華怜しか見えなくなった。
刀の血を払うように振った華怜の手に血が滲んでいて、華怜が以前に自傷した方の手で殴られたことに気が付いた。
「ゴン太を拾った時に言ったこと覚えてる?」
「…………。生まれたからには、生きていい……」
「続き教えてあげる。『生きているからには、なにをしてもいい』」
その場限りの慰めではないと感じるのは、華怜は竣に対して本当になんでもしているからだ。
ずっと上等じゃないか、やりたいことをあれこれ理由付けてやらないより、したいことをして生きていることの方が。
何をしたっていいのだ。ノーヘルでスピード違反しようが、堂々と煙草を吸おうが、ムカつく大人を締め上げようが。俺は間違っていない。
「……やっぱ俺、店長のことぶん殴っときゃよかったな」
「…………。やっぱり竣のことが羨ましい。かも。少しだけ」
ヤケクソ気味な開き直りだがとにかく元気が出た竣に、華怜は小さく笑った。
どうして笑っているのにどこか寂しげなんだろう────それはきっと、あの魂の言葉には更に続きがあるからだ。その責任を負う覚悟があるなら、と。
竣が何をしようが、たとえ犯罪をしようが責任は竣にしか降りかからない。高級車にバイクで突っ込んでも死んだらそれで終わりだ。無い袖は振れないのだから。
だが華怜は違う。一族での扱いがどうあれ、よそ様から見れば霊九守の名を背負ってしまっている。
(華怜に会えてよかった)
心からそう思っているのに、何をどうするような力も自分にはないのが悲しい。
少しだけうつむくと竣の手についたココアを舐めているゴン太が目に入った。
「つやつやだな、ゴン太。いっぱいご飯食ってるか?」
華怜に可愛がられていることがよく分かる綺麗な毛並みを撫でる。
たぶんだけど、華怜が一番羨ましいのはゴン太なんだろうな────妙なことに気が付いた。
「……? なんか尻尾が二本ある?」
機嫌不機嫌は分からないが、パタつかせている白い尻尾がどう見ても二本あるのだ。
自分のことを言われていることに気が付いているのか、ゴン太は目やにが溜まった目を何度もしばたかせながら耳をピコピコと動かしている。
「そうなのよね。最初にお風呂に入れる時に気付いたけど」
「そうだったっけ……?」
最初にゴン太と遭遇した時も尻尾は二本だっただろうか。
猫又なんていうのは簡単な話で、人間の多指症と同じく奇形だったり、あるいは幼い頃に怪我をして裂けた尻尾がそのまま伸びただけなのだ。だとするとゴン太も元々そうなのだろうか。
思い出そうにも、あの時はかなり暗かったので尻尾まで見えなかった。
「寝る」
人間の言葉がかなり分かるのか、ゴン太はその一言で去って行く華怜の元に駆け寄っていった。まぁ考えたところでどうかなるものでもないだろう。
「おやすみ。……ありがとう」
お礼の言葉までは届かなかったかも。今更になって頬の痛みがひりひりとしてきた。
きっと今日は遅くまで眠れないだろう。だがそれでいい気がした。布団の上の夜更かしはきっと若者の特権なのだから。
その晩のウルフはマフラーから響く音までもが軽く、夜空を突き破って月に届いた。
狼は月に吠える。誰にも明かせない心の内を、月にだけ叫んで聞かせている。
これからもずっとそうだと思っていたけれど、そうだ、俺には華怜がいる。
バイトをクビになった日なのに、世界が美しく見えた。
*********************************
どんなことをするのであれ、自分にだけ見せる飾らない華怜は綺麗そのもので、だからこそ痛みも苦しみも耐えられた。それでいいと思う。
華怜がずっと笑って、綺麗でいられるのなら。そう思うからこそ理解できないこともあった。
(またあんなことしてる)
朝登校してきた時には既にその状態だったからいつそんなことをしたのかは知らない。
いつだかに自分が助け出した女子生徒への陰湿ないじめ行為は、その日から一週間くらいは止んでいたがいつの間にかまた始まっていた。
女子生徒の机の上に雑に置かれた体育着は墨汁をぶち撒けられ黒く染まっている。
基本的に快活で仲の良い男子達も、それが始まると地蔵のように表情を固めて黙ったまま俯いて携帯を触りだす。関わりたくない、関わってはいけないと分かっているからだ。
(やめればいいのに、あんなこと)
女子生徒が教室に入ってきて机の惨状に気づく。唇を噛み締めながら体育着をしまい、泣きながら机を拭いている。声を上げないのは誰に言っても解決できない問題だからだ。
ウケる、あの顔見た──?
小さな囁き声が異様に静かな教室に反響する。
取り巻きたちがクスクスと笑う中で、華怜は完全に無表情だった。自分に見せるものとまったく違う顔。鉄のように冷たく動かない凍りついた表情。
楽しんでいないのは分かる。楽しくないなら、意味ないと思っているならやめてしまえばいい。
(綺麗なのに、綺麗じゃない)
竣の机の上にあるバイト求人誌はあの日の綺麗な華怜がいなければそこになかった。
これは物凄く自分勝手なわがままなのだとは分かっている。
だがどうしても、綺麗な華怜にはずっと綺麗なままでいてほしかった。
だからこそ、そこまで考えているならもう少し華怜に歩み寄って考えてみればよかったのに。
華怜は何を思っているか、華怜は自分のことをどう考えているのかと。
「いま、なんて言った?」
ぼっ、と音がしたと思ってしまうほどに華怜の瞳に火が灯る。
今日も教室に残れと言ったからには何かをするつもりだったのだろう。
「あんなことやめたほうがいい」
「そんなにあの子のことが気になるわけ?」
知っている。どんなに威圧感があってもこの身体は見た目以上に華奢で、平手打ち一発で倒れて動けなくなるほどに弱い女の子なのだと。
だがそれでも蛇に睨まれた蛙のように心が縮み上がる。
「違う。別にあんなヤツどうでもいい」
「じゃあどうしてあんたはそんなことを言い出したのか、納得の行く説明をしてもらおうじゃない」
言葉を間違えば丸呑みにする。そう思えるほどの灼熱が華怜の目の奥にある。
良識や常識なんかに訴えるつもりはない。ただ華怜自身も知っていることに訴えるだけなのだから、きっと間違っていないはずだ。怯える心を奮い立たせて竣は口を開いた。
「あんなことしてる華怜は綺麗じゃない」
それは活火山の噴火にも似ていた。
カーッ、と一気に顔を赤くした華怜はその場で数度床を砕かんばかりに地団駄を踏んだ後、大股で教室を出て行った。
(間違えた……?)
自分が美しいことは言うまでもなく知っているはず。だからその美しさを損なうことをしない方がいいと、それだけだったのに。
普段金属のように保っている冷静さを完全に失うほどに華怜は激怒していた。
間違ったことは言っていない自信はあるのに────竣が追いかけようとした時、華怜は戻ってきた。その手にバケツを持って。
次の瞬間には、バケツにたっぷり入っていた水が眼前に迫っていた。
「ぐあッ⁉」
氷直前の冬の水は確かに冷たかった。だがそれだけで声を上げたのではない。
怒りに任せて投げつけられたバケツが右目にクリティカルヒットしたのだ。
「死ね‼」
ずぶ濡れの竣に華怜が投げつけてきたのは竣があげたピアスだった。
言葉にもならない怒りがそこに全て表れている。
間違えた────それも一番いけない間違い方をしてしまった。
たった一言でこれまでの関係を終わらせてしまうほどの間違いを犯してしまったのだ。
感情が凍りついた竣の目に映るのは、同じく絶望しているようにも見える華怜の顔。
歯をぎりぎりと食いしばり、言いたいことを飲み込むかのように頭を横に振った華怜は鞄を持って外に走っていってしまった。竣にはそれを追う元気も、気力も無かった。
どうして、何を間違えたのだろう。
孤高に咲く華怜は美しかった。あんな有象無象と群れて弱い者をいたぶるなど、そんな美しさと真逆にあるはずだ。宝石のような美しさに泥をぶっかけるような愚行だ。
ただそれを言いたかっただけなのに、伝わらなかったのか。
保健室で貰った眼帯に腫れた右目を塞がれて、距離感を間違えて下駄箱にぶつかる。
(寒い……)
雪でも降るのだろうか。重く迫ってくるような雲がジャージを着ている竣にのしかかる。玄関口にあるゴミ箱にバイト求人誌を叩き込む。もうバイトを探す気力もなかった。
明日からどうやって生きていけばいいんだろう。今になって分かった。華怜との関係こそが自分がこの世界で生きる理由そのものだったと。
足をうまく上げることもできず、ずりずりと砂に跡を残しながら俯いて校門に向かう。
これ以上何かショックを与えられたら即死しそうだった。
歩く死者のまま校門を通り抜けた時、袖が何かに引っかかった。お願いだから、これ以上俺の心の燃料を使わせないで────
「竣……」
竣の袖を遠慮がちに摘んでいる華怜がいた。その萎縮しきった表情は言うまでもなく、先程の衝動的な行為に対する心の表れだろう。
悪いのは俺だからそんな顔しないで────と言うよりも先に、この寒風の中で30分以上自分を待っていてくれたという事実に心がついていかなかった。
「ごめんなさい。死ねなんて嘘。痛かった?」
あの華怜が謝っている。痛いことなんてもっとしているのに、たかがこんな事で。
それくらいには、自分の行いは悪いことだったと思っているのだろう。そんな普通の感性があるなら、どうして普通に生きられないのだろうとも考えてしまう。
「……うん。大丈夫」
きっと生まれて初めて謝ったんじゃないか。そう思ってしまうほど不器用にもう一度、ごめんねと小さく呟いた。
謝られるだけで心が痛むなんて初めての経験だった。
「竣の言っていることね、正しいよ。正しいと思うけど……」
「そんな、華怜そんなこと……」
「あたしはなにもしていないのに……」
「え……?」
どちらともなく、二人の二輪車が止めてある場所へ歩き出す。
何を言っているんだ、と言う前に不意に違和感が湧き上がってくる。
華怜はいつもその場の中心にいただけだ。何も言っていない、何もしていない。笑ってすらもいなかった。
誰もが中心人物、主犯だと思ってはいるが、実際に何かをして嘲笑しているのはいつも周りの少女たちだった。
「あたしが何かしてるの、見たことないでしょ? だって興味ないもの、あんなこと」
興味がない────そうだ、ずっと一緒にいたじゃないか。よく考えてみろ、華怜の性格を。
興味があることには一直線だが、興味がないことにはとことんない。
(またあんなことしてる、だって……?)
本当に悪いことをしたと思ったら謝れる子が? いじめを見る華怜の目は遠い国の戦争を見ているようで────遠巻きに見て知らぬ振りをする自分と同じ目をしていた。
それなら自分も知っている噂の真相は────よせばいいのに、口を開いてしまう。
「英語の教師やめさせてなかった……?」
「……? あの人生徒と付き合ってるのバレて退職したんだよ。女子は知ってるよ」
「えっ……駅前のトイレ、華怜が掃除させてるんじゃないの?」
「投書でも集まったんじゃないの? 本当に汚かったし。あたしは何もしていない」
自他共に認める完璧な容姿と能力。関心がないものに対する冷たい態度。あの霊九守家の御令嬢であるという事実。
全てが悪い方向に噛み合ったとき、どうなるか。火のない所に煙が立ち、火事が起きていると信じてしまうのだ。竣でさえも。
(華怜がそんなことするはずないのに‼)
気に入らないことがあったとして華怜が家の力を使うだろうか。
絶対にありえないと今は言い切れるのに、愚かな竣は出来上がった華怜の印象を信じ切っていた。
「……物心ついたときからずっとそう。あたしの周りいつもこうなるの」
「どうして……?」
「みんなあたしを担ぎ上げる。霊九守の名前がそうさせる。あたしに霊九守を押し付ける。生徒も、教師も……あの子がいじめられているのだってそう。きっと本能ね。ここに丁度よい生贄を用意しました、だから自分のことは狙わないでって……女王への供物」
到底敵わない捕食者に追われた動物は生贄を差し出す。老いた個体や弱い子供、時には自分の産んだ卵まで。
動物にとってはまず何よりも自分の命が優先なのだ。
「俺が間違ってた。ごめん」
「もう、いい」
ふっ、と華怜に目を逸らされてしまう。怒ってはいない。だが今までで一番深く華怜を傷付けてしまった。
自分は間違いなく華怜の世界一の理解者のはずなのに、そんな単純なことも見抜けずに周りの人間と同じく色眼鏡を通して華怜を見てしまっていたのだ。
あの突発的な噴火のような怒りは、分かってくれていると思っていたのに、という華怜らしからぬ不器用なややこのような怒りだったのだ。
竣が歩みを止めても、華怜は竣が止まったことに気付いたはずなのに、そのまま歩いていってしまった。自分は華怜の信頼をも裏切ってしまったのだ。
何もかも上手くいかない。悪いことは本当に重なる。少し持ち上げて落とすから最悪だ。
バイトもクビになって、せっかく暇なのにどこかに行く気すらも起きない────罪を覆い隠すような雪が降ってきた。
*********************************
偶然良いことが重なるなんて無いのに、悪いことは万分の一の確率をも超えて重なる。
それがいつ終わるかは分からない。だからいま自分は悪い流れにいると知った時、あがくことよりも覚悟を決めて耐えることのほうが大事だ。
「クソうるせえよクソボケが……」
右隣の部屋から性行為の声が容赦なく壁を貫通し聞こえてくる。ただのイチャラブカップルが住んでいるのならまだ我慢できる。
だが、その部屋に出入りしている男女は数も面子も毎回違うのだ。違法AVの撮影スタジオ代わりにでもされているのではないか。
イライラしている間に今度は左隣の部屋から壁を叩く音が始まった。
「ぐ……くそっ……。なんなんだ俺はマジで……」
壁の厚さが草加せんべい三枚分しかないせいで勘違いしているのだろう。毎回毎回板挟みだ。
元気がある時は突っ張り棒を設置して全自動壁ドン貫通システムを構築するのだが、今日はそんな元気もない。自分くらいになると落ち込む権利すらも阻害されるのだ。
もう限界だ、無理だ。明日バットを盗んで隣人の頭をかち割ろう。小さめの脳みそをすり潰して畳のシミにしてやるんだ。明日だ、明日、明日やろう。今日は無理だ、もう。
「あ……?」
布団を頭から被ろうとしたとき、玄関扉の郵便受けに何か入っていることに気が付いた。
大したものが入っていたことはないのだが、このところの不幸続きに何か嫌な予感がした。四つん這いで玄関に向かい、届いた物を見るとそれは大家からの手紙だった。
「……はっ。あはっ、あっはっは、あーはっはっは‼」
老朽化に係る建て替えのお知らせ────早い話が立ち退き通知だった。とうとう俺は住む場所さえも奪われるのか。
住所不定、職業不詳、ホームレス、とギリギリ回避していた烙印が津波のように襲い掛かってきて狂ったように笑うことしかできない。
「誰か……助け────」
やめろ、言うな。狭い部屋に反響して虚しいだけだ。今までずっとそうだった。誰も助けてくれなかった。だから自分の力で生きることを決めたんじゃないか。
唯一それだけを誇りに生きてきた。だけどもう、自分に依って立つことすらもできないようだ。
「くそッッ‼」
机の上に置いた紙をぶっ叩くと安物の机が壊れてしまった。
机だった物体を蹴飛ばすと部屋の隅にあった本の山に当たって雪崩を起こし、何かがひらりと竣の元に落ちた。
「あっ……」
それはいつかに高島から貰った組の名刺だった。冗談じゃねえと思ったし、今も思っている。だがここに電話すれば少なくともこの年でホームレスにならずに済むだろう。
もはや自分が助かるにはこうするしか────やっぱりこうなったと笑う豚ヤクザの顔が浮かび、名刺を破り捨てそうになる。
「ぐ……ゔ────ッ、あぁ────ッ‼」
破り捨ててしまえと頭の中だけはいつも威勢がいい。何が嫌いって、これを捨てずに取っておいた自分のこのクソ賢しさが嫌いなんだ。
紙切れを持って狭い部屋を歩き回り唸り続けても脳内のノイズが鳴り止まず、とうとう本気で窓に頭を打ち付けた。
「俺が、俺で、あるために……」
ビキッ────とひび割れたガラスは竣の心そのものだ。俺はただ俺でありたいだけなのに、それすら許されない。頭がおかしくなりそうだ。
いまラブ&ピースなんて言っているヤツを見たらブチ殺してしまいそうで、何度も頭をガラスに打ち付ける。
額が割れて血が噴き出ても、それ以上に心が痛い。どくんどくん、と額から血が垂れて────その音が竣の心臓によるものでないと気が付いたのは偶然だった。
「…………?」
まるで世界が巨大な心臓の内側にあるかのように、透明ながらも強大な鼓動の波がどくんどくんと伝わってくる。
窓の外を見ても降りしきる雪が映るばかりで何も異変はなかった。いま感じた感覚が本物ならば外から騒ぎが聞こえてもおかしくないのに。
(とうとうマジでおかしくなっちまったか……)
耳を澄ませてみるが汚い喘ぎ声と壁ドンの音が聞こえるだけ。そもそもあれは聴覚に訴えかけるような感覚ではなかった。
もっとこう、魂を呼び起こすような────少なくともいま聞こえた携帯の音は気のせいではなく、華怜からのコールだった。
「もしもし……? 華怜?」
ワンコールで出たのに、しばらくは息遣いが聞こえてくるばかりで華怜は何も言ってこなかった。耳から離して画面を見ると『華怜』とだけ表示されている。
華怜の想いを聞いて登録された連絡先から霊九守の名を消した日から随分時間が経った。なんて、そんなことを考え始めてようやく華怜は話し始めた。
『竣、あのね……。あたしあの子たちにちゃんと言おうと思う。不愉快だからあたしの周りでそういうことするなって』
「いやっ、そんな必要……あれは俺の誤解で……!」
『あたしが嫌なの。竣にそう思われていたってことが。これからはその時間も気持ちも望み通り竣に使う。全部そうする。もう決めた』
「お、俺……その……」
にわかにかき始めた汗を拭ったつもりが手には血がべっとりとついていた。
この愚直なまでの真っすぐさを見習いたいなどと考える前にしっかり謝るべきなのに、盛り上がった隣の部屋からの喘ぎ声がクライマックスに入った。
『……あんた何見てるの?』
「違っ……これは俺っ、うちが狭いから! 俺んちにはテレビすら⁉ くっ、このッ‼」
一番されたくない誤解に焦り、思わず本気で壁を蹴ると大きく穴が空いてしまった。
「あーッ! うわぁっ、やっちまった……」
『…………。駅に来て。話をしたいから』
ぶつっと電話が切れた。誤解が解けたのかは定かではないが、少なくとも落ち着いて話せる状況ではないと伝わったようだ。
慌てて額の止血をし、ポケットにピアスを入れる。
「なんだこりゃ……事件現場か?」
机は叩き壊され、窓は割られ、壁には穴が空き、血が部屋中に撒き散らされてる。部屋を見れば人となりが分かるというがその通り、俺の人生は大体こんな感じだ。
だがどうせこのボロ家は消えてなくなるのだからもうどうでもいい。普段の癖でバイクのキーを持って飛び出した竣は、一秒後に傘と持ち替えて再び夜の街へと飛び出していった。
*********************************
駅前繁華街の道路は現在工事中だった。
細雪がちらついている程度とはいえ、こんな中で工事をしているとは頭が下がる。
バイクに乗っているときなら舌打ちの一つも出ようものだが、今日は徒歩だ。通行止めの通りを避け、いつもの待ち合わせ場所へ向かうために回り道をしたところ────
「えっ……。ここも通行止め……? なんなんだこのデコ助どもは……」
まるで竣の人生を暗喩しているかのように、迂回した先もまた通行止めだった。先ほどの封鎖と違い何やら人だかりができており、何台ものパトカーと警察が道を封じている。
幼稚だと自分でも思うが、先日取り押さえられてからというものの警察は大嫌いだ。いつも自分の行く道を封じている気さえしてくる。
「はい止まらないで! 写真を撮らないでください‼」
何らかの事件、それも人死にが出るレベルの悲惨な事件が起きたようだ。相変わらずこの街の治安は終わり散らかしている。
警察の警告を聞かずに写真を撮る人々の肩越しに事件現場を覗き見る。大勢の警察の影でも隠し切れない量の血が飛び散っており────
(マネキンじゃんか)
血だまりの中心に倒れていたのは壊れたマネキンだった。頭部は切断され、両手足があり得ない方向に曲がっているが、そうだとして何をこんなにバカ騒ぎしているのだろう。
目を擦っている間にマネキンに仰々しくブルーシートがかけられた。もしかしてドラマの撮影か何かなのだろうか。
「俺さ、撮っちゃたんだよ。決定的瞬間」
「マジ⁉ ちょっ、見して!」
前の若者が携帯で動画を再生しているが、どうも様子がおかしい。
映っていたのはキャバクラのポン引きだった。服装こそ先ほどのマネキンと同じだが、それ以外の全てが違う。
竣が混乱している間にも動画は進み、店から出てきた女にポン引きは首を噛まれていた。映像が大きく揺れ、画面端でポン引きが動脈を食い千切られているところで動画は終わっていた。
確かに衝撃的な映像だが、何もかもがデタラメに食い違っている。
「はい救急車来ますから! 道あけてください! 道をあけて‼」
サイレンの音と赤いランプが追加され、この通りも完全に通行止めとなった。
アレを救急車に乗せてどうするのだろう、と頭に疑問符を浮かべながら、繁華街のある表町と裏町を繋ぐ路地に入る。
(華怜、もう来ているかな……)
携帯を開くがまだ何も連絡は入っていない。華怜の性格的に一分でも待たされた時点で怒りの言葉が飛んでくるから、まだ着いてはいないのだろう。
竣も分かっているし華怜も認めていることだが、生まれた場所や育った環境は違えど自分たちは似た者同士だ。
だから、待ち合わせ場所に辿り着く前にぱったりと会ってしまうことも多々あった。
なんなら通行止めで道が限定されているから、この先でぱったり会うかも────じゃくじゃくと反響する雪を踏む速度が落ちた時だった。
「あっ」
「おい、気を付けろよ」
やや横に広がって歩いている集団にぶつかってしまい携帯を雪の上に落としてしまう。
片目の上に暗い路地裏で歩きスマホだなんて、こうなって当然だ。浸水して壊れていないか心配だ。だが意外にも竣が拾う前に、ぶつかった相手の方が拾ってくれた。
「ちゃんと前を見────」
キィーン、と。魂と頭が激しく揺さぶられる感覚が再び夜の帳を突き破って竣の耳に届く。
そのせいか、親切にも携帯を拾ってくれた男の声がちゃんと聞こえなかった。
「すいませ…………‼」
体育会系出身なのだろうか、酒臭くガタイのいいサラリーマン三人組だった。
ただ、違うのは────どうりで男の声が聞こえないワケだ。
竣に携帯を差し出している男の頭は、何をどう見ても声など発せるはずもない巨大なゴキブリの頭部だった。
ゆらゆらと揺れる頭部で感情を感じさせない眼が鈍く光り、地面に届くほどの触角が伸びている。
受け取ろうとした携帯の上で触れた指までも茶色い虫の脚をしていることに気が付き、また携帯を落としてしまった。
「────! ────‼」
「うぁああっ、こっち来んなっ、バケモン!」
怒っているのか、きっと人間には聞こえない鳴き声を出しているゴキブリ人間から遠ざかろうと本能的に腕を振り、後ろにあった中華飯店のゴミ箱をぶちまける。
半分腐った生ゴミが男のスーツにかかり、顔色は分からずとも激昂しているのが分かった。
(なんだこいつら⁉)
真ん中の奴だけ明らかに人間ではないが、まともに見える他の二人は不思議なことに仲間が怪物になったことには一切反応せず、竣の胸ぐらを掴む男を囃し立てているのだ。
仲間だとするなら、この二人も変身でもするのだろうか────その思考は、竣の首元を掴んでいる虫の脚に生えた毛を間近に見たことで遮断されてしまった。
「ぐっ‼」
細く見える虫の脚から放たれた強烈なパンチが竣の身体を濡れた地面に転がす。
頬が生暖かい。出血している。あの昆虫の脚に生えた毛は敵にひっかき傷ももたらすらしい────なんて考える暇もなく、まだ小指が治っていない左手が思い切り踏まれた。
「ヤクでもやってんのかクソガキ」
「…………⁉」
酔っていて加減が分からないのか。今の痛みは骨までいっているかもしれない。
だがその痛みも吹き飛ぶほどの衝撃が視界から飛び込んでくる。今の今まで怪物だった男が、普通の人間に戻っているのだ。
他の二人のサラリーマンはゲラゲラとアルコールに目を回しながら笑っている。
右手で頬に触れると、確かにひっかき傷から血が出ているのに────さらに頬に何か液体がかかった。
「目上を敬わねえからな、最近の子供は」
頬の傷口にちょうど当たった酒臭いその液体が唾だと気付くと同時に、急激な心臓の加速が竣の視界を収縮させた。
目に映ったのは男たちのコートの隙間から覗く社員証だった。この国の人間にとってあまりにも見慣れた、霊九守の紋章。
この街の象徴と化している霊九守ビルで働く社員に違いない。こいつらの日々の労働が華怜を息苦しい牢獄に押し込めているのだ。
「ちくしょう、てめぇ、俺は」
自分の頭がおかしくなってしまったのか、世界がおかしいのか、華怜は今どこなのか。
全てが頭から吹っ飛び屈辱と怒りだけが残った。
例えるならそれはもう、獣の憤怒のようで────
「バイトもやめちまったんだぞ‼」
自分でも何を言っているのか分からぬまま、右腕を振りかぶる。
高給取りがチンピラ一人しばいたところで世間は気にしないし、彼らも明日には忘れているだろう。それが悔しくてたまらない。
どうせこの体勢じゃ大した威力にならないことは分かっていても、反撃せずにはいられなかった。
ただそれだけしか考えていなかったのに。
「痛がぁ⁉」
男のズボンが刃物で切られたかのように裂けていた。
目をまん丸くして右腕を見ると、正常であったはずの自分の腕に灰色の毛が生えていて、異様に長い爪がサラリーマンの脚を切り裂いていたのだ。
と、認識できたのも束の間。瞬き一回の時間で竣の腕は普通に戻っており────
「────‼ ────‼」
男は脚から血を流したまま、またゴキブリ人間になっていた。
本当に一体どうしてしまったのだろう。つまみ食いしたたこ焼きの中に高島が間違えて入れた麻薬でも入っていたのだろうか。
「ガキッ、このガキッ‼ 刃物隠し持ってんぞ!」
「うっ、ぐッ!」
固い革靴による踏みつけを三人から乱発されて立ち上がることもできず、亀になって耐える。反撃という大義名分を得てブレーキも壊れてしまったようだ。
というかよく考えなくても最初から最後まで自分が悪い。ぶつかって落とした携帯を拾ってあげたら、急に発狂して生ゴミをぶつけてきて、怪我までさせられた。
警察だって竣が悪いと言うだろう。世間様は言うだろう。施設育ちの半グレがエリートに喧嘩を売って返り討ちにされたと。
「がッ────」
首を踏みつけられ顔を地面に打ち付ける。泥混じりの雪は鉄の味がした。
鼻の骨が折れてしまったのか、血なのか痰なのか分からない粘液が喉に絡み、息をするだけでゴボゴボと排水溝のような音が出る。
(殺す気か……⁉)
ありえない。霊九守グループに勤めているからには、それなりに積み重ねてきた人間のはずなのに、こんなことで人生を台無しにする気か。すぐそこに警察がいるのに。
喉に血が溜まってまともに声も出せず、待ってくれとも言えない。何度もアスファルトに頭を打ち付けたせいで、走馬灯が見えてきた。こんな光景を前も見た覚えがある。
(お前ら……)
まぶたの裏に浮かんだのは同じ児童養護施設で育った子供たちだった。
あの夜、竣より一足早く施設を出て行ったあいつらは、武器を手にして戻ってきた。
特に子供たちを陰湿に虐待していた職員が裏庭であいつらに踏みつけられ、叩きつけられ、動かなくなるまで執拗に今までの礼を返されていた。
竣も他の子供たちも窓から見ていたが、誰も止めなかった。次の日には警察が来たが、みんな何も知らないと嘘を吐いた。理由は分からなかった。
別にあいつらが好きだったわけではないし、かばったつもりもなかった。
だけど、ようやく理由が分かった。
「痛っ!」
ポケットから取り出した家の鍵を男の腿に刺すと、ようやく攻撃が止んだ。
だが男たちはまだやめるつもりはないらしく、カバンを地面に置いて拳を握りしめている。何かがおかしい。何かが狂っている。
少しぶつかっただけでこんな大喧嘩になるなんてただ事ではない。竣もこの男たちも、何かに狂わされている。
だが、狂い始めているとして、一つだけ心から嘘偽りなく言える言葉がある。
「嫌いだ……‼」
理由が分かったよ。あいつらがお礼参りに来た理由も、俺たちが嘘を吐いた理由も。
悔しいんだ。悔しくて仕方がないんだ。この世に生れ落ちたのに、誰にも祝福されず、必要ともされず、祝福されて必要とされた者たちに打ちのめされるだけなんて。
食らわせてやりたいんだ。分からせてやりたいんだ。持たざる者の怒りを、悔しさを。
怒っているんだ、悔しいんだって叫んでも、俺たち親に捨てられた子供たちの叫びなんか誰も聞いてはくれない。違う生き物が暴れているかのように報じて世間は嘲笑う。
それでも一矢報いたいのなら。もう。
殺すしかないじゃないか。
「ううぅ……ウゥウウ……」
ドクンドクンと頭の中に心臓があるかのようにうるさい。竣が十七年間抑えつけてきた獣性が血管を通って身体中に満ちていく。
まるで身体が膨らんでいくようで────いや、実際に膨らんでいた。脊柱起立筋が異様な隆起を見せ、ジャンパーがみちみちと悲鳴をあげている。それに合わせて再び竣の爪は伸び、腕はびっしりと灰色の毛で覆われていた。
だが、同僚が人型の害虫に変わったことにも気付かない男たちは、竣の変身にも当然のように気付かなかった。
「ぶっ殺してやる……‼」
痰を吐き捨てられた灰皿を掃除したことはあるか。投げつけられた金を一枚一枚数えたことはあるか。施設育ちという理由だけで存在を無視されたことはあるか。
そんなことが続いていくうちに飯の味もわからなくなるんだ。今日生きていけるだけで上等だって、野良犬みたいなことを考え出すんだ。
「うグルぁぁあああァァア‼」
ほとんど獣の咆哮のような叫びと共に全力で殴りかかる。
これまでのありとあらゆる恨みが籠った全力の一撃────は、あっけなく受け止められていた。
(なんで?)
サラリーマンの両脇腹から飛び出た新しい脚が竣の腕を止めている。そうだった。ゴキブリの脚は六本あるのだった。
だったら腕が二本追加されていてもおかしくない────感情の分からない黒い複眼に何人もの竣が小さく映っていて、次の瞬間には殴り倒されていた。
なんでって、全部が全部『なんで?』だ。一体何が起こっているんだ。何かが起こっているのだとして、なぜ自分は本気で怒ってもたかが一人も倒せないんだ。
悪いことは何度も重なるとはいえ、こんな意味不明なことまで流星群のように降り注ぐなんて────この世界は大人みたいに理不尽だ。
竣が覚えているのはそこまでで、ストレス発散にしては派手すぎる踏みつけをもう二発ほど貰う頃には気を失っていた。
どっちもどっちどころか全部俺が悪い。世界がそうさせてくる。いつもそういう流れになる。
そんなつもりはないのに。悪くなろうと生まれてくるヤツなんていないのに。
「俺たちなにがいけなかったんだろうな」
孤児院で同室だった少年はある日そう呟いた。二つ年上で、プリンになった金髪に長い襟足という、見るからにヤンキーな少年だった。
「俺らなんにも悪くねぇよ」
そいつのことは好きでも嫌いでもなかったけれど、参考書に書き込む手を止めて俺はそう答えた。どう考えても悪いことなんてしてないから。ただ生まれただけから。
それなのに────ランドセルがお古なだけで、周りのバカどもはシセツシセツと騒いだ。ちっぽけな誇りを守るために拳を振るったら、全ての大人から怒られた。
親がいないからすぐ暴力に走るんでしょう。
俺をからかって見事にボコボコにされたドブガキのブス親にぶつけられた言葉。
親がいない子はからかっていいって教えてるんですか、って言ったらグーで頬を殴られた。
子供が大人に本気で殴られて床ペロしているのに、担任はその母親に謝っていた。
俺には、俺たちには味方がいなかった。子供なりの正当性なんてグーパン一発でシャットアウトだ。
悪にさせられたんだ。問題が起きたら、誰かが悪を引き受けなければならないから。
「俺らなんも悪いことしてねえからな」
そう続けると、そいつは唇を噛んで横に引き伸ばした。シンナーで溶けた歯を隠す変な笑い方だった。本人は笑っているつもりでも、悔しがっているような表情に見えた。
ラリ公なりに嬉しかったらしく、トルエン中毒に震える手でライターと一緒に煙草を箱ごとくれた。俺はあの時から煙草を吸うようになった。
アイツを最後に見たのはあの日の夜だ。施設の先生が殺された夜。
血だるまの肉塊に解体用ハンマーを振り下ろし、溶けた歯をさらけ出して笑ってた。
俺たちは生まれてきただけ。だけど気が付いたら悪になっていた。
華怜、俺。君の前で心から笑ったことあったかな。
ちかちかと薄く開いた瞼から光が入ってくる。
目を閉じてもう一眠りしようにも寒すぎる。寝返りをうつと、どこからかちゃりっと心地よい金属の音が聞こえた。
それに混じって華怜の声も聞こえる気がする。もう一度、金属の音が聞こえて我に返った。
(そうだ、ピアス! 返さないと!)
ポケットの中のピアスが擦れて音を出したのだ。
寒いはずだ、雪の中で寝ていれば。どんどんと頭が冴え、待ち合わせしていたこと、訳の分からないバケモノに絡まれて殴り倒されたことも思い出し目を開いた。
「なにしてるのよ、あんたたち!」
「まぁまぁまぁ、いいから、なんでもないから」
「大丈夫、大丈夫。あれ彼、ほら、友達だから。酔って寝ちゃったんだよ」
(華怜!)
ぱったり出くわすかも、なんてここに来る前に考えていたがやっぱりだ。
そして偶然にも、情けないことに殴り倒された自分を見つけて、酔っ払ったサラリーマンに絡まれていると。どんどん悪いことばかり呼び寄せやがる、俺の人生は。
「それよりもダメだよ~、こんな時間に一人で歩いてちゃ。ね、タクシーいま呼んであげるからさ」
「離しなさい! 離せ‼」
「ぅ……ぐ……」
男たちは相手が何者か分かっていないようだ。ヤクザには顔を知られているのに社員には知られていないあたり、霊九守一族の裏事情が透けて見えるようだ。
腕に力を入れて立ち上がろうとしたが両手とも真っ赤に腫れている。
自分の腕をこうした犯人はもう人間に戻っており、華怜に巻き付くように抱きついていた。他の二人もラッキーだと思っていることが丸わかりな表情で手を撫でるように握ったり肩を抱いたりしている。
絶対に殺す────酒で酔っていました、覚えてません、なんて許さない。
だが人生でも頂点に入る怒りだというのに、今すぐにでもあの三人を殺し華怜を抱えて夜の街を飛び越えたいのに、先程のように変身することはできなかった。
ただ、華怜と目が合った。
なぜだろう。視線が合う、それだけなのに。
華怜が次に何をするか分かってしまった。
「……あんたたち……あたしは────」
なんて情けない。華怜はいま、プライドを捨てようとしている。こんな野良犬の自分を助けるために。突然襲いかかった不運にすら対応できない弱虫の自分なんかのために。
似た者同士じゃないか俺たちは。世界が嫌いなんだろう。生きたくてこんな場所で生きているわけじゃないんだろう。この街を飛び出したくて、でもそれができないからせめて夢を見ようとしたんじゃないか。
それでいい。現実なんか知るもんか。現実なんか見るもんか。世界が俺たちを見捨てるってんだから、俺たちの方から世界を見捨ててやるんだ。
だからお願い────
「名前を言うな‼」
誰かに言葉を届けるために叫んだのは、ひょっとしたら生まれて初めてかもしれない。
人生最初の叫びは、神にも祈らない竣の絶叫は、一匹狼の遠吠えのように雲を突き破り月に、華怜に届く。
ここから状況を好転させる方法なんて知らない。それは華怜も分かっている。
だがそれでも、華怜は力強く頷いた。
「おぉい、なんだぁ、何してんだあんたら!」
天からの使いはなまった声の汗臭そうなおじさんだった。
すぐ近くで工事をしていた作業員達が、竣の叫びを聞いて様子を見に来たのだ。
慌ててサラリーマンが華怜から手を離す。
それだけを見届けて、体力を使い果たした竣は今度こそ完全に気絶したのだった。
────
つづく
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