桜の城の呪文学教師

花森黒

第1話 赤い霧

 0時11分。理央は何とか終電に乗り込んだ。体力がないのに走ったから、息が上がってヒューヒューするし、心臓もバクバク鳴っている。生まれたての子鹿のように震える足で車両のつなぎ目のほうまで進み、隅っこに立つと、やっとひと心地ついた。

ポケットからスマホを出す。ワイヤレスイヤホンに接続しているのを確認して、美少女育成・戦闘ゲーム『文學乙女』を起動する。

『めぐりあいて 見しやそれとも わかぬまに……』(*1)

 大好きな紫式部のボイスを聞いて、理央はうっとりした。いつもこの瞬間は疲れが吹き飛ぶ。

 理央は電車に揺られながら、文學乙女たちの育成を続ける。電車が郊外に向かうにつれ、人もまばらとなってきて、席も空いてきた。理央は周りを見渡して、おずおずと空いている席に座る。背負っていたリュックを下ろして、抱きしめるように肩を竦ませ、横幅を取らないようにした。そして、画面を覗き込む。

 文學乙女は、美少女化された日本文学の作家だ。理央の推しキャラクターはたまたま女性作家の紫式部だが、美少女化された男性作家もいる。高校生の頃から、このゲームが理央の生きがいだった。このゲームが好きすぎて、大学では日本文学を専攻としたくらいだ。

 理央は可憐な乙女たちを編成して、戦闘モードへと出陣させた。乙女たちの前に、気味の悪い敵が現れる。人の形のもの、獣や妖怪のようなもの……敵の種類は様々だが、決まって赤い霧か青い霧に包まれている。これに関して、SNS上で様々な考察がなされているが、公式からはまだ発表がない。

 理央は彼女たちの名作のフレーズをパズルのように組み合わせて敵を倒していく。

『いづれの御時にか』『女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に』『いとやむごとなき際にはあらぬが』『すぐれて時めきたまふありけり』(*2)

『ああかがやきの四月の底を』『はぎしり燃えてゆききする』『おれはひとりの修羅なのだ』(*3)

 戦闘に勝利し、レベルが上がると、文学作品の朗読やアニメーション、ミニストーリーが解放される。今回は宮沢賢治のレベルが上がり、『銀河鉄道の夜』の朗読が解放されたようだ。

 優しい美少女の声の朗読を聞きながら、理央は目を閉じた。

 理央は文学に興味を持ったが、しょせんオタクだ。日本文学研究は厳しかったし、研究室の教授や院生の先輩ともうまくやれなかった。閉鎖的な学校が苦手なので国語の教員も無理だ。そこでIT企業に就職した。コツコツした作業の多いIT職は比較的興味があったが、研修後の上司も苦手なタイプだったのだ。

  『文學乙女』の紫式部の髪は、赤紫色だった。長くて艶やかで、輝くばかりの。だから理央も髪をのばして、インナーカラーで紫を入れている。服装が自由と聞いたから入社したのに、上司に目をつけられた。

「来週、君にも客先に行ってもらうつもりだから、来週までにその髪、何とかしてね」

 上司の言葉を思い出し、理央は重い溜息をつく。今の時代、こんな会社はやめて転職すればいいのだが、来月に紫式部がメインキャラクターとなるイベントの予定がある。会社をやめたら課金ができないかもしれない。

 イヤホンから聞こえてくる美しい朗読が、理央のざわめく心を癒してくれる。

『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない』(*4)

 文學乙女も、文学そのものも、どこまでも純粋で美しい。理央は目を閉じて、この世に存在しない彼女たちの世界に思いを巡らせる。そのうち、心が凪いで、うとうとし始めた。

 寝落ちしてもアーカイブで何度でも聞けるし、眠れるうちに眠ろう。降りるのは終点だし、寝過ごす心配もない。そう思いながら、理央の意識は途切れた。


 ふと目を覚ますと、電車の車両には誰もいなかった。奇妙だった。普段は終点まで多くの人が乗っているのに。

 がたんごとん、がたんごとん。電車は走り続ける。理央は、ふと向こうの車両に目を向けた。ぼんやりと赤い靄がかかって見える。

「赤い霧……」

ゲームのやりすぎで夢を見ているのかもしれない。理央は時々、このような明晰夢――夢だと自覚できる夢を見ることがあった。赤い霧は車両のつなぎ目のドアの隙間から入り込んでくる。

「夢にしても不気味だな……」

理央は自分の頬をつねった。霧はどんどん濃くなる。理央は怖くなってぎゅっと目を閉じた。どうか、どうか早く覚めてくれ……。


 理央はハッと目覚めた。心臓がばくばく鳴っている。よかった、やっぱり夢だったのだ。

 しかし、またすぐに違和感を感じた。辺りは薄暗い。車両の電気が消えている。まさか、運転手にも車掌にも気づいてもらえず、車庫まで行ってしまったのだろうか。

 理央はリュックを背負って立ち上がった。窓の外を見ると、どうやら森の中のようだ。森の中に車庫があるのだろうか。木の間から光が差し込んでいる。ピチチチ、ピチチチという鳥の鳴き声も聞こえた。

 ドアの前まで歩いていって、両手で横に引っ張って見ると、何とか開けることができた。少し高さがあるので、注意深く地面に下りるが、結局尻もちをついてしまった。

「いたた……」

幸い、地面は黒く柔らかな土で、下草や枯れ葉に覆われてふかふかしていた。

 辺りを見回し、安全を確認すると、理央は手についた土を払って立ち上がった。数歩進んで、振り返り、ぎょっとした。さっきまで乗っていた電車が、錆びだらけでボロボロになっている。他の車両がない。線路は、前も後ろも途中で途切れている。理央の乗っていた車両だけ、忽然と森の中に現れたようだった。


*1 『百人一首』57番、紫式部

*2 紫式部『源氏物語』「桐壺」

*3 宮沢賢治『春と修羅』

*4 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

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