瞼の裏の光
キップ
瞼の裏の光
あの花は、何色なのだろうか。あの雲は、どのような形をしているのだろうか。あの人は、どのような顔をしていたのだろうか。気になっても分かることは、一生ないのだけれど。でも、毎日、朝起きると考えてしまう。
体にずっしりとのしかかる掛布団から抜け出し、ひんやりとしたフローリングの上に足を付ける。
台所につくと慣れた手つきでインスタント珈琲の粉の入った瓶を取り出す。
未だにぼやけている脳にカフェインを注ぐのが一種の習慣になっていることにつくづく嫌になる。
昨年の誕生日に友人から贈られたマグカップに粉を入れ、電気ポットで沸かした湯を注いだ。
簡素なアパートの一室にほのかな珈琲の香りが広がる。
突然、ポケットにしまってあるスマートフォンから呼び出し音が鳴った。
「もしもし?」
珈琲をすすりながら答えた。
「おはよう。今起きたところ?」
聞いていたらこちらの眠気が吹き飛ぶような明るい声が聞こえる。
「阿部か。そうだけど?」
「もう少し、早く起きたらどうなの?」
そう言われてAI音声スピーカーに時間を聞く。
九時三十三分
「え!?もう九時半?」
「そうだよ」
小ばかにしたように言う阿部に少し腹が立った。
「で、それでどうしたの?」
「あの人が今いるよ。駅前の喫茶店に」
心臓が高鳴ったのを感じた。
「え?ほんとに!」
珈琲を台所に置いたまま自室へ急いだ。
「どうする迎えに行こうか?」
箪笥を開いて、パックに包まれた一組の服を取り出しながら答える。
「いや、大丈夫。すぐ行くからちゃんと見といて」
スマートフォンをスピーカー状態にして、上着を着替えながら言う。
「ストーカーみたいにならないでよ」
「分かってるよ。てか、あんまり動く感じじゃないよ。何か書いてるし」
ズボンを穿き替え、靴下を履く。
「良かった。多分、後十五分もあれば着くと思う」
上着を羽織り、ビデオ通話にする。
「これでどう?」
自身の体を阿部に見せようと腕を精一杯伸ばす。
「逆だよそれ。スマホ逆にして」
慌てて、スマートフォンを裏向きにする。
「うん。大丈夫。イケメンだ。焦らず来いよ」
「了解!」
扉の横に立てかけてある白杖を取って玄関に向かう。
冬の風が肌を切り裂かんとばかりに吹いている。
白杖を握った手が少し小刻みに揺れる。
右側にある車道を多くの車が風を押しのけて通って行く。
エンジン音が自分を追い越し、遠ざかっていくと、後ろから次の車が後を追っていく。
自分の口からも、マフラーから出る『白い』煙が出ているのだろうか。
そう考えながら慎重に、しかし、内心は急ぎながら歩みを進める。
目の前を車が通りすぎる。
慌てて足を止めるのと同時に電子音で郭公の鳴き声が流れた。
排気ガスの臭いの中を突き進む。
あともう少し。
改めて髪に寝癖が無いか確認する。
駅に近づくにつれて、人々の話し声が聞こえてくる。
誰かと待ち合わせている人のさむがる声や、元気に走り回る子供の足音。
少しうらやましい気持ちがコップを少し満たす。
「悩んでいるのか?」
しわがれた声が前方から聞こえる。
ああ、まずいな、と思い声の主を避けようと、体の向きを変える。
「お主じゃ。若造」
「え?僕ですか?」
戸惑いながら声の主に向き直る。
「何ですか?」
「悩みがあるなら聞いてやろうと思うたのじゃ」
何だこの人は。それに、そんなに悩みを抱えているように見えたのだろうか。
こういう輩は、障害を持っている人を見ては決まって嘆き悲しんでいると思い込む。
「今、急いでますので」
老人を避けて通ろうとすると、老人に手を掴まれた。
骨と皮だけの冷え切った手だ。
「その目じゃろ。うんざりしとるのじゃろ?」
呆れた。突然他人のことを哀れに思い、ましてや煽るような口ぶりに憤りを覚えた。
「急いでいるので」
何の力も入っていない手を振りほどき、足早にその場を去った。
電子漫画を流し読みしながら、カフェラテをすする。
アラベスクがゆったりと流れる店内は外の冷たさとは打って変わってコートが脱げるほどになっている。
暖色の明かりと相まってさながら西欧の談話室だ。
カランコロンとドアについた鈴が鳴る。
吹き込む風に目を細めながらドアの方向を向く。
「やっと来た」
手に息を吹きかける、白杖を持った男が入ってきた。
「遅かったな」
阿部は歩み寄る。
「何か変な人に話しかけられちゃってさ」
とっておいた二人分の席に案内する。
「災難だったな」
優しく肩をたたいた。
「今窓際の席にいる」
そう聞いて、我ながら気持ちの悪いことをしているなと思った。
「ほんと、お前がそんなに積極的になってるのって珍しいよな」
阿部は耳打ちした。
「見た感じ普通の人だけど?」
不思議そうに聞く。
「自分もよくわからない、けど」
こういうのを『一目』ぼれというのか分からない。
彼女の透き通るような声が頭に響く。
「頑張ってアタックすりゃあいいのに」
カフェラテの香りと共に声がかき消された。
「駄目だよ。こんなんじゃ」
老人の冷たい手の感覚がよみがえってくる。
「いいや。行くべき。そのネガティブ思考をどうにかしないとな」
手がさらに力を強める。
「いいから。珈琲頼んでくれない?」
「へいへい」
ここの珈琲は酸味が強く味わい深い。たまには別の珈琲を飲むことも一興だろう。
「と、言うと思ってモーニングセット頼んどきました」
「え、ありがとう」
またかと思った。
数刻の沈黙が流れる。
アラベスクが沈黙の気まずさをかき消そうと音を張り上げた。
その陰にショートブーツが床を鳴らす。
「嫌だからね」
手洗いに行こうと思い、椅子を下げ立ち上がった。
「きゃあ」
聞き覚えのある声と同時に、体に衝撃が走る。
まずい。ぶつかった。
「ごめんなさい!」
とっさに膝をつく。
「大丈夫ですか?ケガしてません?」
彼女が手を取れるであろう空間に手を差し伸べる。
「あ、あの」
自身の左側から困惑した声が聞こえる。
阿部がわざとらしく咳払いする。
「あ、すみません」
声の方向に空を切った手を差し伸べる。
「ふふっ」
澄んだ笑い声が聞こえる。
すらりとした手に手を掴まれた。
そして、同時に起き上がり頭を下げた。
「謝らないでください。こちらも不注意でした」
阿部が肘で脇腹を小突く。
「あの、以前もお会いしたことありますか?」
まさか。
「は、はい。多分、二か月ぐらい前に駅で」
納得したような声を出す。
「あー、そうですよね。あの後、ちゃんと行けましたか?」
「お陰様で」
「良かったです。これも何かの縁ですね。あ、じゃあそれでは」
そういうと彼女は店を後にした。
「良かったじゃん」
阿部が肩を違った優しさで叩く。
その日の夜に夢を見た。
今日のあの老人だ。
声が聞こえないのに何故わかったんだろう。
自分でも驚いた。
目の前に皺くちゃの人がいる。
老人が言った。
「ほんとは悩んでいるのだろう?」
またか。
「ただし、その悩みには二つの解決策がある」
すると、両手を差し伸べてきた。
手首をさすった。
「右手に触れれば本当の願いを叶えてやろう。左手に触れるならばいつもの日常に戻れる。どちらを取る?」
本当の願いなんて。
そう思ったところで夢から覚めた。
スマートフォンから呼び出し音が鳴る。
阿部は電話に出るとそこから涙声が聞こえてきた。
「ど、どうした」
何か言いたげだが、喘いでいてよく聞き取れない。
「大丈夫か?今どこにいる?」
「分からない。でも綺麗な所」
「は?」
意味が分からなかったが急いで出かける支度をする。
「あ。行くところがあるから、またあとで連絡する」
そういうと一方的に電話は切られた。
「何言ってんだあいつ。大丈夫か?」
先ずは自宅を訪れた。いくらチャイムを鳴らしても出てくる気配がない。
あとはあの喫茶店と……
次は、と考えたがどこも浮かばない。
こう思うとあいつのこと何にも知らないんだなと痛感した。
どうしようかと考えると再びスマートフォンが鳴る。
急いで電話に出ると叫んだ。
「今どこだ!」
「今帰っているところ」
落ち着きを取り戻した声が聞こえる。
「無事でよかった」
安堵の声が漏れる。
「あのさ、阿部。俺、目が見えるようになった」
「は?だってお前、治んねえはずじゃんか」
そういうと、今朝起きたことを話してくれた。
朝、目が覚めると目が少し痛んだ。
目の前には手があった。
照明があった。
窓も、雲も、家も、鳥もいた。
自然と涙があふれてきた。
この涙も初めてだ。
世界を見てみたくなった。
その前に自身の体をくまなく見てみた。
感覚だけで想像していたものの答え合わせをした。
世界は想像を超えていた。
散歩道に咲いていた香りの良い花の色や犬の笑顔。
日向ぼっこをする猫。
光にあふれている。
涙が溢れてきた。
そうだ、彼女に会いに行きたくなった。
会ってどうするのか、そんなこと考えることができなかった。
うれしかったから。
喫茶店の外観はどの建物よりも美しかった。
中に入るといつもの珈琲の香りがしてくる。
彼女がいた。
美しかった。
栗色のさらりとした髪に透き通るような肌が映えている。
すらりと長い手足、それを包むニットによって体のラインがはっきりとわかる。
息もできない。
再び涙が出てきた。
涙をぬぐいながら喫茶店を出ると帰路についた。
「その老人は何だったんだろうな」
横に座る阿部が言う。
「やっぱり神様かな」
「でも、何か想像と違うよな」
「そうだね。でも、あの人のお陰だ」
彼のお陰で花の色も、雲の形も、あの人の顔もみんな見ることができた。わかることができた。
瞼の裏の光 キップ @kipp
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