第30話 散々な初日
結局、扁桃腺炎の熱が下がるまでに三日もかかった。
喉の腫れによる痛み、かすれた声、止まらない咳——息をするだけでゼーゼーと肺が鳴る。白いマスクを着けているとはいえ、こんな状態の俺に近づきたいと思う人はいないだろう。
運の悪いことに、家の冷蔵庫はほぼ空っぽ。かろうじて見つけた食パンを牛乳に浸して流し込み、今朝も喉の痛みを耐えながら、ゼリー飲料をちびちびと啜るしかなかった。
そんな最悪のコンディションで迎えた俺の高校初日。結果は——言わずもがな、散々なものだった。
すでにクラスメイトには、まず友達の輪が出来ていた。二人ほど声を掛けてくれた人もが、俺の荒い呼吸とガラガラ声を聞いた途端、気まずそうに「お大事に」と去って行ってしまった。
また、声かけてくれた担任からは、休んでいた時の配布物を受け取りつつ、「辛いなら保健室に行っててもいいよ」と、優しく気を遣われてしまった。
それからの授業は、教科書の説明や今後の授業方針についての話ばかり。
各教科の先生に自己紹介をする場面でも、俺の声を聞いた先生の反応は決まっていた。
「……お大事に」
気の毒そうな表情が、これでもかというほど突き刺さる。
そして、昼休みを迎える頃には、ついに身体に限界がきた。
五時間目は保健室で休ませてもらい、どうにかホームルームには戻ったものの、誰も話しかけてはこなかった。
——高校デビュー、完全にしくったな。
先行きが不安すぎる。でも、変に注目されるよりはマシだと割り切るしかない。
……とはいえ、家でも一人寂しいのに、学校でも一人きりなんて。
ホームルームが終わると、クラスメイトは次々と教室を後にしていく。
俺はまだ体が重く、少しだけ休もうと机に突っ伏した。
目を覚ますと、時計の針は17時を回っていた。
少しは楽になった気がする。けれど、それと同時に、空腹が腹の奥からじわじわと這い上がってきた。
何もまともに食べていないせいか、体がやけに冷えている。
コンビニに寄るのも手だが、学校から最寄りの店まで歩くには十分ほどかかる。
今の体力でそこまでたどり着ける自信はない。
——そうだ、購買があったはずだ。
高校受験の日に、飲み物を買おうとして、購買の近くまで行ったのだ。
記憶が正しければ今居る校舎と反対側の校舎。学校内では遠いとはいえ、コンビニに到着するまで耐えるより数段マシだろう。
意を決して鞄を持って咳から立つと、ふらつく足を無理やり動かし、購買へと向かった。
——————————————
どうやら、記憶は正しかった。
購買にはまだ数人の生徒が残っていた。
夕日が差し込む室内は、閉店間際の静けさをまとっている。
「いらっしゃいませ~、18時で閉店なのでお早めにね~」
カウンターの奥で、中年の女性店員が紙に何かを書き込みながら声をかけてくれた。
壁の時計を見ると、長針はもうすぐ「6」に届くところだった。
パンの陳列ケースを眺めながら、先に並んでいる生徒の後ろにつく。
思ったよりも品揃えは悪くない。しかも閉店間際だからか、手書きのポップには「全品50円引き」の文字が踊っていた。
惣菜パンゾーンには、焼きそばパン、唐揚げと玉子のサンドイッチ、コロッケパン、ハムカツサンド——どれも美味しそうだが、病み上がりの俺にはちょっと重い。
視線を菓子パンコーナーに移した瞬間、妙なパンを見つけた。
二等辺三角形のこんがりとしたパンが二つ。
値札には『三角パン』とだけ書かれている。
なんだ、『三角パン』って。見れば、すぐわかる情報しかない。
俺の前に並んでいた生徒が、唐揚げと玉子のサンドイッチを一つ購入して去って行ったので、より近くでまじまじとパンを眺める。
惣菜パンももう一度見るが、やはり最後に視線が辿り着くのは、あの三角のパン。
まるでケーキのようにも見えるし、何かが挟まっているようにも思えるが、正体が掴めない。
悩んでいると——
「このパン、俺のオススメでさ、本当に美味しいんだよ」
不意に、優しくて聞き心地のよい声が後ろから降ってきた。
驚いて振り向くと、そこには金茶色の柔らかな髪を持つ少年が立っていた。
俺よりも頭ひとつ分低いが、ダークグリーンのネクタイをつけている。同じ高等部の生徒らしい。
「ふわふわの食パンの周りを、ソフトなクッキー生地で包むことで、サクッとふんわりしているんだ」
驚いて言葉を失っている俺に、彼は夕日に透けるような淡い色の瞳で、俺をまっすぐ見つめながら言葉を続ける。
「なにより、中のクリームが特別なんだ、パンの甘さと凄くマッチしててさぁ。どうかな」
尋ねるように首を傾げる彼。まさかのパンの売り込みに、俺はただ驚くしかない。
動揺して何度も彼と三角パンを見る。クリーム、カスタードだろうか。
クリームパンか、少なくともハムカツよりは軽いだろう。
「じゃあ……これ、一つ」
今日久々に開いた喉から出たのは、本当に微かな声だ。がさがさと酷く聞くに堪えないようなものだった。
一応聞こえなかったらと思い、怠さがある腕を動かし、三角パンを指差す。購買のおばさん店員は、俺を見るとすぐに「まいどあり、少し待っててね」と片付けていたモノを一度机に置きに行く。
その間、俺は内ポケットに入れておいた小さな赤いがま口財布を取り出した。これは祖母が昔俺にくれた手作りのプレゼントで、今では形見として大事に持ち歩いている。
「おばちゃん、俺も同じの!」
後ろに居る彼も、同じく三角パンを購入し、ポケットから小銭を取り出している。
店員は、「三角パン、一つ百円だね。ありがとうね」と二人の手から小銭を預かった後、三角パンをそれぞれに渡した。
嬉しそうに「ありがとうございます!」と笑う彼。
知らない相手なのに、彼には世話になってしまった。
お礼を言おうと振り向くが、その瞬間、病み上がりの体がぐらりと傾いた。
「——っ!」
倒れ込む——その前に。
ぎゅっ、と優しい力が俺の身体を支えた。
「良ければ、近いベンチ知っているから、少し休みながら一緒に食べようよ」
まるで天使みたいな彼の声が、ふわりと耳に届いた。
俺は、かすかに息を吐き、そっと頷いた。
——————————————————
未だふらふらとしている俺を、わざわざベンチまで支えてくれる彼。そのベンチもロッカーに隠れ、普通なら気づかないような場所だ。
少なくとも入学して数日では絶対気づかないと思うところ。
先にベンチに座らせて貰う。肺がゼーゼーと苦しそうな悲鳴を上げた。どうやら身体的には、まだ休むべきだったようだ。
俺の前に立った彼は、急に目線を合わせるように屈む。
「さっきは、いきなり話しかけてごめん。びっくりしたよな」
いや、寧ろ謝るのは俺の方だ。ただ、弁明するには、俺に体力は残されていない。
代わりに、大丈夫だと意味を込めて首を横に振った。
「俺、高等部一年二組の
同級生だったのか。
「あっ、ぉ、おれっ……んっ、うぇっほ、ぇっほ」
俺も自己紹介をしようとするが、美味く喉が呼吸できず、ひどい咳がでる。目からも涙が出るほど、苦しいものだった。
「大丈夫?」
見かねた白石くんは、少しでも落ち着けようとしてくれたのか、優しく俺の背中を摩る。暫く摩られている内に、呼吸が落ち着いていく。
「無理に返答しなくて大丈夫。けど、本当に帰らなくて大丈夫?」
俺は首を横に振る。帰るにしても、もう少し落ち着いてからではないと、動けようもない。
「じゃあ、ココにしよ。三角パン食べれる? 飲み物ある?」
俺は何度も頷きつつ、鞄から紙パックのジュースを取り出した。
アラビアンなゾウの顔の真ん中にミルクティーという特徴的なパッケージ。初めて見た商品であったが、100円で600mlという大容量っぷりに思わず購入してしまったのだ。
「それ、俺もよく飲んでるよ」
白石くんは、楽しそうに笑う。どうやら、まずくはなさそうだ。
その時、俺はふと思いついて、鞄から適当なノートを取り出した。
ノートには全て名前を書いているため、名乗れない代わりに名札になるかと思ったのだ。
手に取ったのは、現代文のノート。表紙には『1年4組
「
にこにこと笑う白石くん。そろそろ隣に座ってほしい。
俺は白石くんと俺の隣の席を交互に視線を向けて、どうにか視線で座るように促す。
「隣、座ってもいいかな?」
最初は不思議そうに見ていた白石君だったが、意図が伝わったのか控えめに尋ねてくる。俺は、もう一度自分の隣を見て促した。
すると、「ありがとう」と嬉しそうにはにかみながら、俺の隣に座った。
そして、早速と言わんばかりに、三角パンを手に持ち——
「じゃ、早速三角パン、実食っ! ……なんて」
大きく天に向けて、パンを掲げる。台詞とポーズ的に、子供の頃に流行っていたグルメ情報番組の強面な司会者がよくやっていたもの。あまりの似てなさに、俺は思わず小さく笑う。
天使と、強面では正反対だ。
とりあえず笑いながら、俺も三角パンを取り出す。
包装であるラップを手際よく剥がせば、まさに甘いクッキーの香りがふわりと香る。
「いっただきまーす」
「い……だき、ます」
白石くんの食前の挨拶につられるように、俺も小さく声を出す。
そして、一口食べる。思ったよりもクッキー生地はしっとりしており、一部は固いが食べずらい程ではない。
そして、口の中で咀嚼して、俺は初めて気づいた。
「……あっ」
中に挟まっていたクリームは、カスタードではない。もっとねっとりとしており、独特の風味がある。
味はあまり分からないが、この驚きが楽しくて、もう一回口に頬張る。
「意外だよねぇ、この塩気のあるチーズクリームが、甘いパンと絶妙にマッチするんだよね」
どうやら俺の変化に気づいたのか、白石くんが教えてくれる。
そうか、このクリームはチーズクリーム。たしかに、塩味がある気がする。パンも甘いような気がする。
甘い物は、美味しいって、少し前まで思っていたな。
白石くんの言葉で少し思い出した感覚に頷きながら、また一口食べて——盛大に咽せた。
俺は必死に胸を叩いていると、彼は慌てて俺のミルクティーを手に取り、口元へと差し出した。
「大丈夫、ほら飲んで」
言われるがまま、俺はストローを咥えて、ミルクティーを飲み始める。安っぽい紅茶の香りが、鼻から外へと突き抜けていく。
どうにか、喉にへばりついたパンを流し込めた。
また、迷惑を掛けてしまった。小さい声で謝りながら、頭を下げると、白石くんは「意外とクッキー生地部分で喉詰まりやすいんだよね」と教えてくれた。
たしかに、よく見れば俺の制服には、三角パンの残骸が散らばっていた。でも、白石くんがいなければ、下手したら倒れていても
おかしくはない。
絞り出して、お礼を言うと、なぜだか申し訳なさそうに、白石くんは頭の後ろを掻いた。
「食べやすいのをすすめた方がよかったよね」
「おいしいし、甘いの好きだから、大丈夫」
どうやらセレクトを間違えたと思っていたようで、俺は食い気味で言葉を返した。
美味しいは、正直まだ掴み切れて居ないが、それでも味覚を久々に感じられた。
「そう……それなら、安心した」
ほっと表情を緩める、白石くん。
なんと、いい人なのだろうか。
「購買のパンは、昼ならもっと種類あるし、教えるね」
ニコニコと話す白石くん。
パンか……。
その時、ふと昔両親が話していたことを思い出す。
あれは、まだ幼稚園生のころだ。
——ミルクパンは、パパママの思い出の味なんだよ
——幸詩にもいつか、食べさせたいね
「ミルクパンも……?」
「好きなの? でも、ミルクパンは見たことないかなあ」
なぜか急に思い出した昔の記憶。どうやら、購買ではないのかもしれない。
けど、なんだか白石くんと出会えたことだけで、今日は十分満足だった。
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