墓離婚―夫婦喧嘩は現世でお慎みくださいませ―

いすみ 静江

墓離婚

 親がお向かいさん同士だというので、十三歳の春に嫁ぎ先を決められた。金沢かなざわの大通りのお向かいさんだ。


槙田まきた呉服店には撫子なでしこしかおらず、婿さんを探していたのよ。通り向こうの河合かわい様は男ばかり四人もおるから、おひとりと縁を持ちたいとの話よ」


 転がした反物をくるっくると丸めて棚に戻す。見習いできている滝野たきのきくさんに「残りも片付けるように」と命じて、家族は裏でお茶をいただく。


「お父上、婿さんってうちにお嫁にくるの?」

「ははは、似たようなものかいな。男性の方だがな」


 三日後がお日和がいいらしい。お向かいとはいえ、どんな方かも知れない。お父上の説明では「撫子は引っ越さなくてもいい」とのことだった。お相手の好みの物さえ知らないで旦那様とお呼びしていいのか。綺麗な鴇色ときいろに近い撫子色なでしこいろの着物を着せてもらった。


「撫子は奥で待っていなさいな」

「私のお相手ですもの。お父上、お母上」


 背筋をしゃんとして待っていた。約束より相当遅れている。お父上のしわぶきひとつが家の奥まで響いた気がした。母上が口元を隠して私に耳打ちした。


「上がいつも入り口におる一男かずお番頭さんで二十五歳、次が二十歳の昭二あきつぐさんで師範学校を出て先生をしているんだわ」

「お母上、詳しいわ」

釣書つりがきにない事情は母の耳に届くものよ」


 暫く待っても出入りがなく、どんな方か分からなくなった。


「お父上、待ち合わせは槙田家ですよね」

「そうだが、当の三男殿は千優ちひろさんだ。十六歳でもう仕事に就かれていることしか知らん。家にいらっしゃるのかどうか」

「お母上も分からないですか」

「生まれつき病弱な末が長十郎ちょうじゅうろうさんとお寺さんでお名前をちょうだいして、十歳なんだが具合が悪いのか幼いからか見かけないね。健康で働いている筈の千優さんなら分かると思っていたのに」


 とうとう千優さんは現れなかった。米問屋をされている河合家が静まり返って不気味なくらいだ。


「盛り上がるだけ盛り上がって、槙田の顔に泥を塗ったようなものだ。この縁談はなかったことにしよう。河合家が帰ってきたら、俺が話をつけてくる」

「あなた、乱暴にしないでね」

「伊達に呉服屋で作り笑いを学んでいないよ」

「撫子は悔しいかもしれないが、忘れるのよ」


 私は悔しいとかよりもどんな方だったのか知りたかった。三つ上の千優さん。顔に注文はないけれども性格は優しい人がいい。それくらいかな。


「おやすみなさい」


 自室に帰ると障子から宵に揺れる枝垂桜に救われた。春は始まったばかりだから縁談はこれからもある。まだ十三歳なんだ。


 ◆


 五年後のことだ。花嫁修業もしていたけど、我が家が傾いているのを知ってしまった。家から通えて呉服関係ではない職業を条件に仕事へ出始めた。今日は茄子紺なすこんのワンピースで髪は束ねて清楚にした。呉服店から出かけるのに半端な恰好だと恥ずかしいとお父上が常に語るので洋装になった。


「アッキー聞いてよ。ひしめいた通りのお向かいさんだと思っていたけれども、私も十八歳になると壁一つ向こうぐらいに感じられたのよ。視点は変わるのね」

「ナデちゃん、大変なんね。この歳で振られていたなんて」

「ふふ。本当に酷いでしょう」


 二人して工芸品の店番だ。九谷焼くたにやきコーディネイターとの名刺はかっこいいが。今日は、秋田あきた彩瑛さえさんとの帰りにごはんを誘われた。話すか食べるか忙しいごはんとなる。


「なんてことがあったのよ」

「小説みたいなお話しだわ。ナデちゃん」


 食後に都会で流行り出したピリピリする飲み物に口をつけていた。こりゃまた刺激的だわ。


「アッキーはどう? 新婚生活は大変かな」

「いやあ……。このままでは熟年離婚決定だわ」

「まさか! 結婚一年目でしょう。老いてから離婚するの?」


 職場の同僚が帰りに誘ってくれたごはんは、料亭浅黄あさぎの個室で、着物で入るような所だった。


「お刺身が美味しいわ。結構いいところでしょう。アッキー」

「ナデちゃん、私の奢りだから遠慮なくね」

「お財布事情がお互い様なだけあってそれはいかんぜよ」

「ははは、やっぱり話しやすいわ」


 個室でその晩は彼女の離婚したい事由について止まらなくなったので、私は頷いてばかりだった。出てくるのは夫のほころびばかり。しかし、そこまで毛嫌いするなのなら結婚前にそんなに分からないものか。


「今日は帰れそうにもないわね。うちが近いからナデちゃん泊まっていきなよ」

「うりゅう……。この手帳にあるのがうちの番号なの。お電話、お電話しないと」

「私がご連絡するから、もう眠りなさいね」


 いつの間にか眠っていた。いつ布団に入ったのかも分からない。ふかふかで舞い上がる気持ちだった。


「誰?」と空気を放ったが自分にしか届かない。


 私はアッキー以外の気配を感じていた。誰か聞きたかったが、声にならない。どっと疲れが出たのかな。


「今日は職場の槙田撫子さんが客間にいるから、静かに休んでほしいな。明日は私達お休みだから、槙田家に送っていくつもりよ」

「彩瑛がわざわざ?」

「だって、ご実家へお電話したら私のことを信じてもらえなくて」

「明日は俺のお袋がくるから、家にいてくれないと」


 これは不味いことになった。夫婦喧嘩になってしまう。私は這い出てご挨拶した。


「すみません。秋田さんの旦那様、槙田です。明日は始発で帰ります」

「ナデちゃん、付き添うから」

「大丈夫よ」


 秋田さんの旦那様と初めてお会いした。姿の整った方というのが第一印象だ。内面の印象は申し訳ないが酷薄なベールをまとっているようだ。これでは気疲れしてしまうだろう。ああ、それで一番お困りなのか。


 ◆


「では、お世話になりました。アッキー、またお店でよろしくね」

「うん。うちのひと、人見知りだからごめんね」


 電車で直ぐの所なのに、最寄り駅までが遠く感じる。休みたいと思ったら、いつもは気が付かなかったお寺に差し掛かった。


「すみません、休ませてください」

「どうぞ」

「そこの駅まで歩いていたのですが、体調を崩してしまって」

「畳がいいですか? それともお庭でしょうか」


 本当はごろごろしたいので、畳一択だったが、誤解を受けそうなのでお庭の東屋にした。「喉が渇きましたらお茶でも」という僧のあたたかい待遇に甘えて一休みした。


「うたたねしたようね……。ええ? 日が高いわ」


 お礼をいいにお寺へ声をかけたが、お留守なようで諦めた。またの機会にしよう。急いで駅に着いたが、電車の本数は少なかった。二時間待ってようやく電車に乗れた。家に着いたらいい訳をしようと思っていた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい。お酒などいただいておりません。ただ疲れていて帰る力が残っていなかったのです」と、実際はいい訳など形があるものは出てこなかった。正直にするしかない。


「さあさあ、こんな玄関で。奥へお入りなさいな」

「お母上」

「いま、帳簿が終わったらお父上と私からお話があります」


 居心地が悪い。着た切り雀だからだ。


「滝野さん、ちょっと自室で着替えてきます。さっとくるわ」

「へい」


 本当に手にした洋服を被るように着替えた。今度は翡翠色ひすいいろに小花をあしらったワンピースにした。いいのよ。ワンピースは着替えが楽で取り合わせに失敗しないから。


「もうお仕事は辞めてもいいのよ。あなたに縁談がきているわ」


 お母上とお父上がきたところへ、滝野さんがお茶を持ってきた。


「誰かしら。そんな酔狂な」


 私は面倒だと思った。アッキーの話もある。よく相手を知ってからでないと。


「長十郎さんですって。なんとお向かいの方よ」

「またなの」

「いつもあなたががんばっている姿をみて、心が傾いたと仰っていたわ」

「私の姿って、家と会社しか……」

「まずは会って決めてもいいのよ」


 断りにくい。昼に帰ってきた私としては、とても断りにくい。でも知人だとすれば誰かしら。


「俺の方で今回は失敗のないようにする。槙田の財産を投げてもいいんだ」

「お父上……。足枷となってしまいすみません」

「どうして謝るんだ。一粒種の撫子の幸せを願ってのことだろう」

「私も撫子が心豊かに過ごす日々を祈っているわ」


 ああ、私が目先の失敗を恐れるのではなく、お父上もお母上も先の先まで心配してくれる。この両親なら離婚したいとか甘えた考えは生まれないのだろう。アッキーには悪いけれども私は「いま」よりも「これから」を考え合っていける夫婦になりたい。


「いつか撫子が旅をするときを願って、お母上が縫い上げてくれた着物がある」

「お母上が?」

「それは内緒にしましょうといいましたのに」


 お母上の手を取る。


「こんなに年老いた手で針を持たれたのですか」

「気にしないでいいの。好きでしたことなのよ」

 

 ◆


 料亭萌黄もえぎのお座敷に上がると、先方はもうきていた。私達が入るとお父様とお相手は畳と一体となるほど頭を下げていた。


「槙田様、三男の千優のときは大変失礼いたしました。倅はいま秋田に婿入りして世間で修行しております」

「まさか、秋田さんの旦那様ですか。名前も変わっていたので気が付かなかったわ」

「聞けば秋田の奥様と撫子様はお勤め先がご一緒とか」


 ずっと土下座されたままで、なんてきまずい。


「あの、河合様……。面を上げてください」


 お父様に続いて、お相手もやっと腰を真っ直ぐにしてくれた。


「ああ!」


 先日の僧だわ。あそこは私の通勤で使う道の脇にある。


「河合長十郎さんとは、いつかのお寺さんにいらした僧でいらっしゃいますか」

「いつもきびきびとお仕事先へ向かう姿、疲れて帰る姿をみておりました」


 宗教上結婚していいのかは分からなかったが、信仰が薄くとも別れてしまう方々やいつかは別れると思っている方がいる。ならば構わないのだろう。


「長十郎の健康を願って両親としてできるだけのことをしようと十歳からは寺に預けておりました。倅も特筆すべきところもございませんが、大人しく学び修行してきました。槙田様どうぞよしなによろしくお願いいたします」

「槙田撫子様の幸せに尽くしたいと思います。仲睦まじい夫婦にと努めます」


 飾らない言葉が私の胸に深く届いた。


「……好いた方より好かれた方が幸せになれると思うわよね。お母上」

「ええ」


 私は今の仕事を辞めて結婚し、長十郎さんと穏やかに過ごすことにした。    


 槙田呉服店は滝野が番頭として継いでくれることになった。


「職場の同僚が秋田さんて方で千優さんと新婚さんなんだけど、年老いたら別れるとかいまから燃えてるのよ」

「千優兄様とお墓はどちらにするのでしょうか」


 私にはお墓の話は早かった。


「ちょっと聞いてないかな」

「生き終えてなお別れたいなら、お墓離婚でご先祖代々、秋田家と河合家と別々に納骨したらいいでしょうね」


 生々しい話に突っ込みを入れたい。


「一生帰れませんから」


 ゾッとした。アッキーは目先のことで喧嘩したり憤ったりしているだけだ。本音は墓まで持ち込まない。時折お茶菓子を持って遊びに行くが、あらゆる悪口はお茶うけ程度のようだ。一安心する。


 ◆ 


 私達は子どもに恵まれなかったが、憤まんたることなく五十歳も過ぎた。


「あなた、お茶にしましょう」

「干し柿が食べ頃だ。持ってきましょう」

「腰に負担がかかるわ」

「撫子さんは踏み台から落ちそうですよ」


 私は五十三歳、あなたは五十歳。別つことなく同じお墓に入りましょう。


「うふっ」

「ははは。長生きできそうだな」


 再び帰ってくるなら、お向かいさんとしてが私の望みです――。


          【了】

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