第6話 爪痕


 すっかり夜空になり、街の光が瞬く時間になった。駅から少し離れたところにスピナッチはあったはずだ。今思うと、何故あの頃は電車を使わなかったのか疑問が浮かんだ。お金のない学生には電車賃だって痛いと気付く。

 そして、私はついにスピナッチのあった場所へと至った。そのはずだった。というか、気付けなかった。目立つ建物も何もなく、通り過ぎてしまったので、地図アプリを確認して戻った。

 そこには何もなかった。砂利の敷かれた空間になっていた。車が数台あるところを見ると、何かの駐車場なのかもしれない。そこそこの大きさの店舗だと思っていたが、平面で見ると随分と小さく感じた。

 私は愕然とした。何かの痕跡や、輪郭のようなものが感じられるとばかり思っていた。でも、そこには何もないのだ。

 何かの間違いだと思い、辺りを周ってみたが、そこがスピナッチであることは間違いなかった。

 決定的だったのは、大手自動車メーカーの店が近くにあったことだ。ガラス張りの店舗はすっかり古くなっていたが、私の記憶に残っていて、そこからの距離を考えても、あの場所がスピナッチであることは間違いなかった。

 頭では理解していたが、心では受け入れられなかった。

 駐車場の周りを自転車を押して歩いていく。ちょうど正面から真後ろに当たるところにはフェンスがあった。そこは小さな四つ角になっており、向かいには自販機があった。 

 フェンスに並行になるように自転車を止め、自販機で麦茶を買った。本当はスポーツドリンクが欲しかったが、今日一日で何本も飲み過ぎた。

 フェンスに体を押し付け、麦茶を飲む。疲れが押し寄せ、そのまま座り込んでしまった。通行人が訝しげに私を見る。いけない、と思いつつ、体は動かなかった。疲労困憊した体に、色んな思いが押し寄せた。

 どうして、私は中年になってしまったのだろう。どうして、レンタルビデオ店は衰退してしまったのか。どうして──。

 頭の中がそんな言葉で溢れた。しゃくりあげそうになるのを堪える。

 時は過ぎ去るからだ。そんなことは考えても仕方ない。ただ、ひとつ疑問は残った。

 どうして、私は上京などしたのか。地元に留まる選択肢はなかったのだろうか。そうすれば、スピナッチが潰れるまで通い続けることが出来た──。

 思わず吹き出す。なんとも都合の良い考え方だった。

 単に田舎から出たかっただけだ。当時の私はもっと面白い世界があると思っていたからだ。スピナッチに通うことを、さほど大事に思っていなかったのだろう。

 仕方ないとはいえ、悔やまれることだった。都会にそんな面白いことなどなかったのだ。多分、地元に留まっても私自身に大きな変化はなかった。だが、それは経験してみなければ分からなかったのだ。

 今になって、時間というものの容赦のなさを思い知った。毎日を同じようなものだと感じていても、時間は確実に過ぎ去り、後戻り出来なくなるのだ。

 煙草でも吸いたい気分だったが、あいにく持ち合わせがなかった。というか、随分前に禁煙していた。婚活がきっかけだった。印象が良くないから、と。

 だが、実際にはやめられなかった。小百合さんと会う日には我慢して、口臭ケアも頑張った。

 禁煙のきっかけは思わぬことだった。小百合さんが喫煙者だったのだ。逢瀬を重ねて三ヶ月ほど経った時、小百合さんは急に「ごめんなさい」と言って、煙草を吸い始めた。

 呆気に取られる私に、「こんな女は嫌いでしょう?」と微笑む彼女はファム・ファタールのようだった。私は首を振り、自分も喫煙者だと明かし、二人で煙草をふかした。それからは、それが逢瀬の際の習慣になった。

 結局、私はお払い箱となり、車も煙草も小百合さんを思い出す、という理由でやめた。

 私は嘆息した。そんな体勢で長居は出来なかった。今度は腰が痛くなってきたし、冷えたし、尿意をもよおしていた。私は立ち上がり、尻の汚れを払い、再び自転車を押して歩いた。

 大切なものは消え去り、あとに残るのは記憶だけ。それが人生なのか、と思った。唯一、救いと思えるのは苦い記憶でも、なくなってしまえばいいとは思えないことだ。スピナッチに通った日々も、小百合さんとの逢瀬も。

 失意は消えないが、何となく気持ちの整理が出来たような気がした。結局、私も誰かの思い出の中に居たいのだ。

 スピナッチが無くなっても、通った日々と触れた作品が私の中に残るように、小百合さんの中にも私の爪痕が残っていて欲しい。未練と言えばその通りだが、それぐらいは許して欲しかった。

 駐車場の正面に来た。後ろ髪をひかれる思いになり、私は立ち止まった。スピナッチの跡地。そこにはもう何も残っていない。

 脳裏に閃くものがあり、私はバックパックを下ろして中を探った。茶色の革財布を取り出す。

 カード類をまとめるポケットを探っていると、色褪せたものが出てきた。緑色のカード。

「……まだ持ってたのか」

 私が手にしたのは二十年以上前に作ったスピナッチのカードだった。ボロボロで、緑よりも摩擦で出来た白い線の方が目立つほどだ。

 捨てた記憶はなかったから、残っているかもしれないとは思っていたが。

 いや、捨てようと思って踏ん切りがつかず、財布に戻した記憶は何度もあった。上京しても、帰省した時に利用しようと思っていたのかもしれない。

 カードを作った時のことをおぼろげながら思い出した。それまでレンタル店を利用するる時は、親や叔父のカードを借りていた。中学生ではカードが作れなかったからだ。

 だから、スピナッチで初めてカードを作った時は、自分でもよく分からない万能感を覚えた。もう人からカードを借りなくていい、という安心感と、この店全てのビデオをレンタル出来るんだというワクワク感があったのだろう。

 あの時、確かに私は幸せだったと思う。それがどんなに小さく、滑稽なことであっても。

 私は跡地へ向かって、言葉を絞り出した。

「……ありがとう」

 次の瞬間、スピナッチが眼前に現れた。入り口には新入荷のビデオのポスターなどが貼られている。そして、何故かスピナッチの店員が着る緑のトレーナーを着た女性が店の前に佇んでいた。彼女は小百合さんだった。

「どういたしまして」

 仰天している私に、彼女は微笑む。

「こちらこそ、ありがとう」

 言葉を返そうとすると、目の前の光景は元の駐車場に戻っていた。また幻を見てしまったようだ。私は苦笑しながら、うなずいた。そして、再び口を開く。

「さよなら」

 私はカードを仕舞うと、振り返らずにその場を後にした。


 私の旅は終わった。

 とはいえ、それは半分だけだ。行ったなら、帰ってこなければならない。

 あの後、私は街のホテルに泊まった。昔なら、実家から自転車で行ける距離にあるホテルに泊まるなど考えられなかっただろう。独身貴族ならではの贅沢だった。

 とはいえ、疲労で体は動かせず、頭は放心状態になってしまい、ホテルを堪能できたわけではない。

 日付けが変わる頃に何とか入浴を済ませてベッドに入ると、昼過ぎまで寝てしまった。その日は筋肉痛で動けず、ホテルに引き篭もった。

 ようやく動けたのは宿泊二日目になってからだった。私はこの街と、実家のある街を自転車で散策した。来た時は夕暮れ時で、じっくり見る暇がなかったからだ。やはり、変わったところと変わらぬところが混在していた。

 途中、見知らぬアダルトショップを発見し、よせばいいのにAVを二本ほど買ってしまった。何年ぶりかにノレンの向こう側に行った。

 そして、その次の日に帰宅の旅に出た。行きに出来なかった、半島沿いの道を進んだのだ。海がずっと視界にあるのは心地良かったが、ずっと眺めていると流石に飽きが来た。ほぼ平坦な道を進んだので、遠回りとはいえ、昼過ぎには帰宅できた。思ったよりも呆気なく、物足りなさを覚えている自分がおかしかった。

 帰り着くと、普段は特別感じない自分の住まいが輝いて見え、必要以上に安堵を覚えた。家から離れたから、そんな気持ちになったのだろう。旅とは普段の自分の生活を再認識するものなのかもしれない。


 そして、さらに次の日である今日。私は自宅近くのレンタル店に足を運んでいた。

 まもなく閉店するのは分かっている。それまででも、お付き合い出来ればいいと思ったのだ。

 棚を見回っていると、ノレンで仕切られた十八禁コーナーから見知った顔が出てきた。ケンコーだ。ちょうど会って話したいところだった。

「久しいな」

 老人はいつもそれしか言わない。会う頻度を考えると、間違っていない気はするが。

 引きこもっておったか、と老人は笑うが私の顔を見ると、ふむふむ、とうなずいていた。

「いい顔をしとるな」

「そうですか?」

「何かあったんじゃろう?」

 私はうなずいた。

 話が長くなると思ったので、お互いにビデオを選んでから話そうと提案したが、ケンコーは既に借りるものは決まったという。

「どういう風の吹き回しです?」

 老人はサブスクを使いこなしていると話していた。わざわざレンタル店に来ることもないだろう。ケンコーは首をひねりながら言った。

「ま、潰れる前に一度来ておきたかった。ノレンをくぐっておきたかっただけかもな」

 確かにアレをくぐるときは、妙な背徳感を得られた。サブスクでは味わえないものかもしれない。

 ケンコーが会計を済ませると、一旦外に出た。入り口脇の邪魔にならない辺りに陣取る。私は旅の話をした。ケンコーは驚いていた。

「本当に行くとはな」

「貴方がけしかけたんでしょうが」

 私は前に会った時の彼の言葉は本気だったのか、冗談だったのか聞こうとしたが、無粋だと思ってやめた。

「まあ、私が行ってみたいと思ったから行ったんですが」

 妙だと思った。ケンコーから言葉が返ってこない。横を見ると、私をじっと見つめている。何かを言いたげだった。

「スピナッチは駐車場になってましたよ。跡形もなくね」

 私は旅の顛末を伝えた。声に残念な響きが混じるのは避けられなかった。

「知っとるよ」

 ケンコーは当然というように答えた。

「見に行ったんですか?」

 意外に思った。それが本当なら、この前会った時に言わなかったのは不自然だ。

「わざわざ行くまでもない」

 意味深な言葉だな、と思っていると、ケンコーが再び私をじっと見た。覚悟を決めたかのように。

「スピナッチの経営者はワシだったからな」

「ええええええ?!」

 私は仰天した。もたらされた情報は爆弾のようなものだった。ここ最近で一番の衝撃を受けた。

 驚きすぎて、言葉が出てこない。あう、あう、と変な声を出した後、「何故教えてくれなかったんですか?」と言った。

「そんな簡単に言えるかい、苦い思い出を」

 ケンコーは顔を伏せ、唇をきゅっと引き結んだ。経営者だったのなら、そういうものかもしれない。

「ヒントぐらい、出してくれたって良かったのに」

「ヒントならずっと出していたぞ」

「何がです?」

 ケンコーは口角をあげた。

「スピナッチってのは、ほうれん草のことじゃろ? ほうれん草を食べると?」

「健康……ああ!」

 確かにヒントだった。意地が悪いとしか思えなかったが。ただ、ケンコーという通り名の由来を明かしたのは初めてだという。

「まあ、お主があの店にそこまで思い入れがあったとは知らんかったからな。もののついでに教えてやったのよ」

 老人は唇の前に人差し指を置いた。誰にも話すなよ、という意味だろう。

「まあまあな商売だったんじゃよ、レンタルビデオってのは。結局残ったのは大手じゃったけどな。それも、もう凋落の一途よ」

 老人は言いながら、スマホの画面を向けてきた。色んな動画配信サービスのアプリが表示されている。

 かつてレンタル店を経営していた人間が、今はサブスクを使いこなしているというのも皮肉に思えた。

「時代の流れと言えばそれまでじゃが、やり甲斐はあったよ。偶に店に行くと、お客が沢山で、皆楽しそうにビデオを選んでおった。もう、そういう光景が見られないと思うと寂しいの」

 老人は俯いた。陽気とばかり思っていたケンコーの、これまで重ねた苦労がその姿から垣間見える気がした。

「世の中のスピードがここまで早くなるとはの。かつてはあったものも、顧みられずに消えていくと思うと、ワシのやったことは無駄だったのかと、時折思ってしまうよ」

「そんなことないですよ」

 私は反射的に強く否定した。まるで誰かのように。

「みんな覚えていると思いますよ。レンタル屋さんに通ったことを。店がなくなっても、その記憶だけは消えないと思います。だから、無駄じゃないです」

 矢継ぎ早に言葉を重ねて、私はむせた。ケンコーを気遣ったつもりだったが、面と向かってこんなことを言うのは恥ずかしい。だが、私は老人の残した爪痕を肯定したかった。

 私は革財布からスピナッチの緑のカードを取り出し、掲げてみせた。老人が驚いたように口を開ける。

「お店に通わなくなっても、その店での作品との出会いが一生ものになったりするんですから。僕にもそんな出会いが沢山あります。だから、そんな風に言わないでください」

 顔が火照っている私を笑っていないかと思ったが、ケンコーは真剣に私を見ていた。そしてうなずく。

「そうか……。そう、じゃな」

「ええ」

 私も力強くうなずいた。

 話しこんで、そろそろ寒くなってきた。老人をこんなところに長居させるべきじゃない。私はケンコーに笑いかけた。

「話せる範囲で構わないので、スピナッチのことをまた教えてくださいよ」

「ああ……。また、な」

 老人は手をあげて去っていった。

 私は彼を見送りながら、世界は意外に狭いのだな、と思った。

 田辺の言葉を思い出す。無駄なんかじゃない。

 誰かにとっては苦い記憶も、他の誰かにとっては尊いものになる。そのどちらであっても、私たちの生きる糧になっているはずだった。そこに気付けたことが、今回の旅の中での学びだろう。

 私は大きく深呼吸をした。そして、店内に戻り、映画の棚を物色し始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サウダージ 百済 @ousama-name

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ