第1話 ありがた迷惑

「リリー! リリアンヌ大変だ、リリー!」

 大音声で呼ばわる兄の声にただならぬものを察して、リリアンヌはとっさに机上を整え計算機を手に構えた。

 工房で火事でも起きたか、はたまた資材を切らしたか。新コレクションの評判は上々だが、現状の生産能力では賄えなくなってきたあたりが目下の懸案事項で、昨晩も兄妹揃って遅くまで対策を練っていたところだ。生産の現場は日々同じことの繰り返しのようでいて、つねに臨機応変な対応が求められる。一応は貴族として知られるデュラン家、しかし社交界での駆け引きがまるで肌に合わず、商人たちと肩を並べて服飾を主軸とした商いに励む日々である。

 そういうわけで、蝶よ花よと愛でられる令嬢とは別の道を歩むことになったリリアンヌは、周囲の期待を上回るたくましさを備えたしっかり者に育った。窓辺の鏡は、山の端から顔を出した朝日をとらえて過たず顔面に照射するよう調整してあり、どんなに眠かろうと職人たちと同じ時間には起きて身支度をする。それが仕事を愛するリリーの日頃のならいであり矜持であった。

 だから、顔は洗ったし着替えもあらかた済んでいる。兄がことわりもなしに駆け込んできたとしても動じない。髪結いだけは側仕えのメアリを待つつもりだが身内以外の誰に会うわけでもなし、近づいてくる騒々しい足音を聞きながらぱさついた毛先を手櫛で落ち着かせた。

 バーンと扉が開いて、軽装の兄が鳩時計のように首を出す。

「起きてるな、よし!」

「もちろん起きてるわ。それよりも何なの、簡潔に教えて」

 書き物机の傍らに立ち、手にはしっかりと計算機。

 リリアンヌの瞳は深い苔色で、涼しげな目元は真顔になると父に似た鋭さを発する。五つ年上のオリヴィエは妹の剣幕に半ば気圧されつつ、それでかえって冷静さを取り戻した。

「大丈夫だ、そっちじゃない」

「そっちってどっちのこと。明確にって言ったでしょう」

「簡潔に、って言っていたろう。いやそうじゃなくて」

 あとから追いついた屋敷仕えの面々が、兄妹の言い合いに気兼ねして戸口で大勢堰き止められている。オリヴィエは彼らに目配せして一旦下がらせると、ふうっとひとつため息をついた。

「工房のほうはどこも問題なく始業しているよ、心配いらない。そんなことより」

「そんなこと?」

「まてまて、話を聞け」

 リリーに比べて、オリヴィエのほうがいくらか目元がまるく優しい。陽に透かした青葉のような瞳は明るく輝き、腹の底から発する声は低くても快活な響きをもってよく通る。彼の言葉には力があり、実際頭も切れるので、職工たちからも厚い信頼を得ていた。

 ただ、商売ではなく意匠の話となるとてんでだめで、そこはリリアンヌに席を譲ることになる。リリーの指先は美しく独創的な図案を生み出すだけでなく、職人たちが再現できるよう組み立て直すところまでやってのける。幼い頃から両親や兄のあとをついてまわり、工房のすみずみまでを見聞きしてきたからこそなせるわざだ。機械や道具のくせも、簡略化しても損なわない見せ方のコツも、すでに彼女の血肉となっている。

 そんな妹を誇りに思い、また少々不憫にも感じているオリヴィエである。

「坊っちゃん、ご覧いただいたほうが早いかと」

「ああ」

 家令からオリヴィエに差し出された書簡には銀灰色の封緘がされていて、リリアンヌはおや、と眉を顰めた。

「なんだか大層なお手紙のようですけれど」

 怪訝な顔を見せる妹に、兄はにやりと笑い返した。

「驚くなよ」

「そう言われて驚く間抜けはおりません」

 つんと頑ななリリアンヌに歩み寄り、握りしめた計算機をそっと取り上げる。代わりに、例の書簡を手渡した。

「読んでごらん」

 捺された紋章はつるはしに獅子。格式高い筆致で綴られるのは、詩的に彩られた求婚の文句。

 北部の守護としても名高い大貴族、〈鉱山王〉のロッシュ家から持ちかけられた縁談である。

「リリー、またとない話だよ」

 兄は目を爛々と輝かせて妹の反応を待っているが、リリアンヌにはうまく期待に応える気がしない。

「まあ、これは大変」

 兄だけならまだしも、使用人たちの目もある。とりあえず声に出してはみたものの、驚きや喜びより「なぜ私に」という困惑のほうが大きかった。

 王族にも連なる名家の跡取りに見初められるような覚えも自信もまるでない。世間でいう婚期などとっくに通り過ぎた上、まともに会ったことすらないのだ。一体どんな裏があるのかしらと考えを巡らせてみても、取るに足らない下級貴族を陥れたところで彼らに何の得もないだろうことは明白である。それくらい、両家の格には天と地ほどの差があった。

(もう、そっとしておいてほしいのに)

 だが、相手が相手だから失礼を働くわけにもいかない。下手をうてば一家が路頭に迷う可能性だってある。

 これも愛する仕事の一環だと自らに言い聞かせつつ、リリーはあらためて書簡に目を落とした。

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