夜に閉じ込められた聲

　お盆の時期になると周囲がざわめき始める。あの世とこの世が繋がりやすくなるから仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。

　案の定、今日もシロウの気配に引き寄せられたモノたちが近づいてきた。一人は着物姿だったということは、シロウから漂う少し古く懐かしい気配に惹かれたのだろう。もう一人は、おそらく自死者だ。自ら生を終えたというのに未練があるのか、フラフラとシロウに手を伸ばそうとした。最後までねっとりとした気配を漂わせていたのを考えると、年若い男に欲望を抱くタイプの男だったに違いない。

「シロウはとびきりかわいくてきれいだから、あちらの世界でもこちらの世界でも目が離せません」

「ん、なに……？」

「わたしのシロウは、とてもかわいいという話ですよ」

　潤んだ青灰色の目を見つめながらそう伝えれば、「嬉しい」とつぶやいてシロウが体を震わせた。

　シロウが「かわいい」と言われると喜ぶことは曾祖父の日記で知っていた。実際に喜びはにかむ顔を見ると、想像していた以上に愛しい気持ちがわき上がった。おそらく曾祖父もそうだったのだろう。だから、使用人たちに止められてもシロウをかわいがった。妻の目を盗んでは干菓子を与え、頭を撫でては慈しんだ。いけないとわかっていながら手を伸ばし細く頼りない体に触れた。憐れな子どもを慈しむ気持ちが歪な愛情に変わっていくことに気づきながら、伸ばす手を止めることができなかった。

「那津（ナツ）、もっと撫でて」

　さえずるような声が愛らしい。これも曾祖父の日記に書かれたとおりだ。「もっと、もっと」とせがみ、「もっと撫でて」とねだる。白い肌を薄紅色に染めながら潤んだ瞳でわたしを誘う。

　そんな愛らしい目尻を親指で撫で、たったそれだけで震える薄紅色の頬をゆっくりと撫で擦った。

「ぁ……気持ちいい」

　鳴くような声に誘われ、頬を撫でていた指で耳たぶを摘む。「あっ」と漏らした声に体の奥がグッと重くなるのを感じた。早くこの可憐で儚げな存在を蹂躙したいという気持ちを抑え込みながら、左耳の縁を右の指でゆっくりと撫でる。

「……あ、だめ」

「駄目？」

「ち、がう、けど……首がぞわぞわして……んっ」

　耳だけでこんなに感じるとは……できれば感覚が鋭くなる様を最初に見たかった。すでの鬼籍に入った曾祖父を妬ましく思いながら耳の後ろをするすると撫でる。

「ぁ、ん」

「相変わらずシロウは気持ちいいことが好きですね」

「……だめ……？」

「いいえ。そんなシロウもかわいくて大好きですよ」

「……僕も、那津（ナツ）が好き」

　ふわりと笑った唇に触れるだけのキスをした。

（シロウは快楽にとても弱い）

　愛情を欲しながらも与えられることがなかったシロウは、曾祖父だけが与えてくれる愛情を貪欲に求めた。そんなふうにシロウを変えてしまったことを曾祖父は悔いていたようだが、わたしは悔いたりしない。

　かわいく美しく、そして淫らなシロウを見てなお身を引くなど愚かなことだ。わたしならもっと深く強く窒息してしまうほどの愛情を注ぎ続けることができる。触れて撫でてキスをして、体の奥深くまで愛情を注ぎ続けるだろう。

（そうしてわたしに縛り付ける）

　二度とシロウを手放さないために。二度と“那津（ナツ）”から離れられないようにするために。

「もぅ、体が切ないから……ねぇ、那津（ナツ）」

　囁く声に意地悪く「どうしたいんですか？」と返すと、途端にシロウの顔がくしゃりと歪んだ。

（あぁ、なんてかわいいのだろう）

　頬を真っ赤に染め、泣く寸前のように目を潤ませている顔はかわいくて仕方がなかった。それなのに、キスに濡れた唇をわずかに開き、まるで誘うように赤い舌をチラチラと見せつけてくる。少年でもなく青年でもなく、そもそも男でも女でもないシロウの色香は生まれたときからこの世の理から外れていたのかもしれない。

（だから曾祖父は惑わされ、シロウをきちんと愛してやることができなかった）

　だが、自分は間違えたりはしない。シロウはわたしのものだ。

（そう、昔のわたし（・・・・・）のことなど、忘れてしまえばいい）

　シロウがわたしを見る瞳には懐かしむような色が滲むことがある。おそらく曾祖父の面影を見ているのだろう。肉体がどこまで似ているかわからないが、昔のことなど忘れてしまえばいい。いや、忘れさせようとしてきた。昔のことを塗りつぶすように今のわたしを上書きし、刻み込み、忘れられなくしている。それは成功しつつあった。

（そうだ、このまま昔の那津（ナツ）のことなど永遠に忘れてしまえばいい）

　毎日そのことばかり考えているわたしはおかしいだろうか。

（曾祖父とわたしは名前だけでなく魂も似ているのだろう）

　幼い頃、曾祖父の残した家で見つけた日記には“丹宝　那津”と書かれていた。丹宝という名字に心当たりはなかったが、当時すでに自分の名前を漢字で書けるようになっていたわたしは、自分と同じ名前が書かれているその日記を家に持ち帰った。思えばあれも“牡丹”の呪いだったのかもしれない。

（それとも鞍橋（くらはし）の家のお狐様が以外と強かったのか）

　いや、すべてが交わった結果なのかもしれない。

（そもそも狐憑きは案外大変なんだ）

　それでも大人しく狐憑きとしての体を受け入れ、こうして祓うことを生業にしているのもすべてはシロウを手に入れるためだ。

「ねぇ、那津（ナツ）」

　シロウの甘い声に誘われて否と言えるものはいない。それでももう少し愛らしい姿を堪能しようと、うなじをするっと撫でた。

「んっ」

　悩ましい声を漏らしたシロウが太ももをモジモジと擦り合わせ始めた。多少なりと羞恥心が残っているのか、下肢を隠すようにシャツの裾を必死に引き延ばしている。

「シロウはかわいいですね」

　とろんとした顔でシロウがふわりと微笑んだ。夢うつつのような表情は、すでに快感に溺れているからだろう。潤んだ青灰色の瞳の奥にユラユラと揺れる炎を感じ、腹の底からぞくりと興奮した。

「そろそろ体も安定してくる頃ですね」

　一年かけてわたしの欲を注ぎ続けた。その結果、シロウの気配は間違いなく此岸に保たれるようになった。体のほうも間もなく此岸に根付くはず。

　淫らで強烈な欲はシロウを此岸に繋ぎとめる。欲望や煩悩といったものは此岸に強烈に縛りつける足枷となって彼岸へ行けなくする最大の力になる。現に欲望を抱き続ける多くのモノたちが此岸に留まっていた。それを祓うのを生業にできるほど、此岸は生者や死者の欲望にまみれている。

（憎悪に怨念、性欲に食欲、誰かを思う強い気持ちもすべてただの欲でしかない）

　そうした欲を注ぎ込むことでシロウをこの手に留めることができた。彼岸へと誘（いざな）う念仏も仏もわたしとシロウには必要ない。あの世へ導くための線香に用はない。

「それにしても」と笑いが込み上げそうになった。

（シロウを殺した者の血が、まさかシロウを呼び戻すことになるとは夢にも思わなかっただろうな）

　左鎖骨の下にある牡丹模様の痣がわずかにじくりと痛んだが、そのくらいでわたしが怯むと思ったら大間違いだ。名前を示す痣で呪いをつけたつもりだろうが、その程度でどうこうできるとは侮られたものだ。

（あの女が死ぬほど憎んだシロウを、あの女が愛した男たちのようにわたしが愛する）

　最初の夫が妾を愛したように、二度目の夫がその子を愛したように。あまりの念の強さに己の娘に子はできず、孫にはわたしが生まれてしまった。憐れといえば憐れな女だ。

（彼岸で口惜しがっているだろうな）

　いや、口惜しいと思っているのは曾祖父も同じか。手を差し伸べたことを懺悔しながらわたしの前に現れた曾祖父は、おそらくわたしをとおしてシロウに触れたかったのだろう。誰がそんなことをさせるものかと思いながら自分の唇を噛み切った。

「シロウ、わたしの愛しい、わたしだけのシロウ」

　血の滲む唇で愛しいシロウに口づける。嫌がる素振りを見せたのは一瞬で、すぐに夢中になってわたしの唇に吸いついた。あぁ、早く昔の那津（ナツ）のことなど忘れてしまえばいい

「そしてわたしだけを覚えていて」

　そう囁くと、シロウの瞳からぽろっと涙がこぼれ落ちた。それを唇で拭い、そのまま赤く染まった愛らしい唇にキスをした。