第33話 『翌朝』

 フォックス家主催の夜会が開かれた翌朝。

 早朝の仕事に就く者たちが眩しい朝陽に眠そうな目を擦りながら動き出している時刻に、レオナルドはエドワード総司令官に朝の挨拶をするため、宿泊しているゲストハウスへ赴いた。

 エドワードは、朝食後の紅茶を楽しんでいたところだった。

 大きな窓から柔らかな朝日が入り込む広くて上品なゲストルームは、彼に与えられた個室である。

 落ち着いた雰囲気の部屋で心地よい睡眠を得られたのであろう彼は、深夜まで開催されていた夜会の疲れを感じさせない様子で、すでにきちんと身形を整えていた。

 訪れたレオナルドを笑顔で招き入れた彼は「よく来てくれたな、まあ座れ」と性急に椅子を勧めてきた。

 レオナルドのために新しい紅茶を運んできた召使いは、早々に下がるようエドワードに命ぜられる。

 その妙に落ち着きのない様を見るに、どうやら彼が自分に何か話したいことがあることが予想できた。

 着席したレオナルドに対しての挨拶もそこそこに、エドワードの口から質問が飛び出した。


「あのフレディ・フォックスは、ウィリアム・グレイだろう?」


 なかなかの爆弾発言だが実のところ予測していた質問だ。レオナルドは少しも表情を変えなかった。


「やはりお気づきでしたか」

「お前の報告書に『ウィリアム・グレイは、フレディ・フォックスとしてフォックス家の養子になっている』と認めてあったのを読んでいたからな。とはいえ俺としたことが、思い出すのがだいぶ遅れたぞ。あれは海賊らしさなんざ微塵も感じさせない、生粋の貴公子っぷりだったからなぁ」


 エドワードは「いや、騙された」と言いながら愉快そうにくっくっと笑っていた。

 それを見ながらレオナルドは、口をつけた紅茶の渋味にそっと目を閉じて、ゆっくりカップを置くと小さくため息を吐いた。


「騙されたのは私も同様です。グレイが何年も前から、スタンリー家とも懇意にしているとは知りませんでした」

「侮れん男だな。突けばまだまだ隠された素性が出てきそうだ」

「さてどうでしょうか? 彼に、後ろ暗い素性は無いかと思われますが…」


 そう言って、レオナルドは真っ直ぐにエドワードを見つめて


「この件が収束した後、彼を逮捕して、吐かせますか?」と尋ねた。


 エドワードは片眉を上げて「ふむ?」と思案する様子を見せながら、レオナルドの発言の真意を探るべく彼の表情をゆっくりと観察した。

 相変わらず、レオナルドの表情に変化はない。いつもの、無表情だ。

 なんの感情も持ち合わせていないような、薄暗い無表情。

 それが、平生のレオナルドの顔。


 …の、はずだが?

 先日、総督府で一ヶ月ぶりに面会したときにも思ったが、この僅かな表情の変化は、一体なんなのだろうか?


 エドワードは不思議に思った。

 僅かな、本当に僅かな変化だが、長年彼を見守ってきた己にとっては大きな変化だ。

 明らかに、彼の表情が変わった。纏う空気が変わった。

 凍え死んだ感情が生き返ったように…いや、今これから生まれ出で、産声をあげるように、レオナルドに豊かで人間らしい『心』が芽吹いているような気がする。


 エドワードはふと、昔のことを思い起こした。


 思えば今まで、レオナルドの心は死んでいたも同然だったのだ。

 これまでレオナルドが感情を出すのは唯一、妹シャーロットと接している時だけだった。その時だけ彼は、瞳に深い慈しみの色を滲ませ愛おしそうに真っ直ぐ妹を見ていた。

 しかしながら、その表情に笑顔はなかった。

 きっと彼は、自分が笑っていないことすら知らなかったのだろう。

 どんなにシャーロットが面白い話を投げかけて楽しそうに笑っていても、『楽しい』ということがどういうものか知らなかったレオナルドの心には届くことがなく、愛しい妹につられて笑うことすらできなかったのだ。

 エドワードは叔父として、貴族の宿命を一身に背負って孤独に生きている幼い甥の姿が、痛々しかった。


 …十五歳のレオナルドが父親のリチャードに連れられて初めて海軍に来た時のことは、今でもよく覚えている。

 レオナルドを、二十歳までに軍艦の艦長に、そして二十五歳で海軍司令官に就かせるべく鍛えてやってくれと、俺の義理の兄であるリチャードに頼まれたのだ。

 なんと酷なことをするのだ、と思った。広い陸地とはかけ離れた、軍艦という狭い空間での海上生活は、慣れた者でも相当に過酷なものである。

 そんな中に、レオナルドのような知識も経験も浅い年若の貴族士官などが入り込んでみろ。彼より年上の士官候補生や熟練水夫たちから嫉妬と侮蔑と不信の感情を無遠慮に投げつけられ、軍艦の艦長に就任するどころじゃない。

 まともな人間関係も信頼関係も構築できず、幼いレオナルドの精神はボロボロになることだろう。

 だがリチャードはそれを知っていながら息子を試練の海に突き落とすような真似をしている。

 …ああ、解っている。それが、大貴族の嫡子として生まれたレオナルドが背負わねばならない宿命なのだ。

 心を鬼にして、自分も突き落とさねばならない。

 レオナルドの将来のために、甘えた感情は捨てなければならない。


 俺は、自分と同年のアンドリュー・オブライアンを彼の下につけた。

 オブライアンは身分は平民だが、名の知れた豪商で裕福な家柄であり、貴族との縁も広く持っている。船と戦闘に関する知識は卓越しており、性格は上品で温和。多くの人間に兄弟のように慕われる人間であった。

 信頼おける彼にレオナルドを守り育ててくれるように頼んだ。彼ならきっと、厳しく優しくレオナルドを教え、導き、支えてくれはずだと。

 結果は予想通りだった。息子ほども歳の離れた者の部下になることに対して、オブライアンは不満を一切口にすることはなく、レオナルドを立派に育て上げてくれた。

 本来なら六年必要な士官候補生期間を特例で半分の三年にされて、短期間でモノにしなければならない膨大な知識を死に物狂いで詰め込ませた。きっと、教える方も大変な思いをしたことだろう。

 結果、士官昇格試験もその後の海尉昇格試験も難なくパスして、レオナルドは実力で海軍での地位を確立させた。俺も飛び上がるほど嬉しかったが、オブライアンの喜びようは今にも踊り出すかと思うほどだった。ああ、いい歳をしてこんな姿はとても見ていられないとお互い大笑いしたものだ。

オブライアンは、レオナルドが士官を経て勅任艦長に就任してからも、ずっとレオナルドの下で彼を支えてくれている。

 きっとレオナルドは、実の父親よりも俺よりも、オブライアンと一緒に過ごした時間のほうが長いだろう。気心の知れた部下として、教育者として、仲間として、レオナルドは心からオブライアンを信頼している。

 …だが、信じられないことにレオナルドは、そんなオブライアンにすら心を開くことはなかった。


 なんて頑なに閉ざされた心なのだろう。


 責任という重い枷を、その幼い体と心に自ら縛り付けてしまったレオナルドは、自分でもその外し方がわからなくなってしまったのだろう。

 …可哀想だが、仕方のないことだと思った。一生、鎖に繋がれたような心を引きずって生きることが、この世のこの地位に生まれた者に定められた運命なのかもしれない。己もレオナルドの心を閉ざした一助をした罪を認めつつ、そう思っていた。


 …それがどうだ。


 セオ島に来て、荒くれ海賊どもに引っ掻き回されたのがショック療法にでもなったのか、俺の甥っ子が見違えるほどに素直になってしまった。

 たったの一ヶ月でだ。

 本当に、一体何があったというのか。

 オブライアンの献身的な努力は何だったのだ。

 俺の長年の心配と罪悪感を返して欲しい。


 先日、突然任務を放棄して帰って来た時のレオナルドを一目見て本当に驚いた。とにかく驚いた。

 ほんの僅かだが、ころころと変わる表情。不満や、困惑や動揺といった今まで一切見えなかった彼の心の変化が目に見えて分かるのだ。

 今も、無表情を装ってはいるが、目に不安を溜め込んでいるのが見て分かる。


 グレイを擁護したいと思っているであろうことが、よく分かるのだ。


 そうか、なるほど。ウィリアム・グレイか。

 …俺の可愛い甥をここまで変えたのが、ウィリアム・グレイなのか…



 エドワードは、複雑な思いを胸に抱え込みながら、意味もなく冷めた紅茶をカップの中でくるくると回していた。


「閣下?」と遠慮がちにレオナルドが声をかけた。

 僅かに眉根を寄せて上官の意向を不安げに待つレオナルドのほんのり紅い唇が僅かに震えている。

 …よく見たら肌も艶やかで、輝いて見える。更には全身から甘く芳しい香りがするような気が…。


 おいおい何だこれは。

 …明らかに綺麗になったように見えるのは、表情が豊かになったせいか? 


 エドワードは腹の底にモヤモヤと嫌な感情が湧き上がってくる気配を感じた。


 いやだが少し落ち着こう。

 今は甥のことを気にかけている場合ではない。

 そう、グレイの処遇だ。

 海軍の総司令官として、私情を加えた返答をするわけにはいかん。


 エドワードは気持ちを切り替えて、ゆっくりと答えた。


「グレイを逮捕するか否かと言われたら、立場上するしかない。グレイは海賊だからな。後々、必ず捕縛せにゃならん」


 レオナルドの唇が、何か言いたそうに震えた直後、エドワードが紅茶のカップをやや乱暴にカチャンと置いて「だが、そうもいかなくなったな」と続けて言い、レオナルドの顔を意味深な上目遣いで見やった。


「お前ももう知っているだろうが、グレイはかなり前からフレディ・フォックスとして、スタンリー家はじめ国の重鎮と交わってきていたようだ。外遊に出ていたとも聞いたが、外国の豪商との繋がりも深いらしい」


 その言葉に、レオナルドはハッと気づいた。


 …海賊ウィリアム・グレイの容貌は、海軍がいくら調査しても噂程度の情報しか掴めなかった…。しかも目撃証言をしたのは、程度の低い海賊や罪人達であり、信憑性に欠けるものばかり。

 片や、『フレディ・フォックス』は上流階級や外国の要人まで、幅広く顔が知られている…。


「そして、今回の夜会だ。」とエドワードが机をとん・と小突いて言った。


「今まで一部の貴人にしか知られていなかったフレディの姿を、中産階級クラスまで幅広くお披露目させてきた。これによって、正体が不確かなウィリアム・グレイより、フレディ・フォックスの方が、圧倒的に存在感を持つことになった」


 レオナルドは頭を抱えそうになった。


 そう。そうだ。

 これで、もし海軍が彼を海賊ウィリアム・グレイとして逮捕したらどうなる?

 多くの発言力のある人間から

『ウィリアム・グレイを捕らえただと? 何を馬鹿な、あれはフレディ・フォックス様ではないか。』

 と証言が上がり、海軍は赤恥をかくことになるだろう。


 なんてことだ。

 これは、最初から練られた計画だったのか? ウィリアム・グレイがフォックスの養子になった時から? こういう結果になることを想定して?


 ああ、やられた。完全に、してやられた。


 レオナルドは片手で口元を覆った。眉根をギュッと寄せて、込み上げてくる可笑しさに必死で耐えていた。


 まったくなんて奴だ。…さすがだ、グレイ。

 

「どうする?レオナルド。ウィリアム・グレイを逮捕するか?」


 肩を震わせて噴き出すのを堪えていたレオナルドの姿をどう取ったのか、エドワードがため息まじりの声で尋ねてきた。

 レオナルドは、落ち着きを取り戻すために一度小さな咳をしてから「今の状況を鑑みると、到底無理かと考えます」と答えて、努めて冷静な声で発言をした。


「閣下のおっしゃる通り、グレイの逮捕には各所から多くの非難が起こることでしょう。そして更なる問題は、グレイが有罪になると、グレイの後ろ盾であるフォックス家も同罪で裁かれてしまうということです。そうなれば、我が国は経済面で深刻な打撃を受けるのは必至であると考えます。

 当初、私はアルフレッド・フォックスと交わした契約を反故にしてグレイを逮捕するつもりでおりました。それでフォックス家が罪に問われる事態になれば、一族は保身に走りグレイを切り捨てるであろうと考えていたのです。ですが、それは間違いだと知りました。

 昨夜私は、グレイの父、トマス・フォックス氏と語り合う機会を得て、よく解りました。

 フォックスは、グレイを差し出す気は一切ありません。海軍がグレイに何か良からぬことをしようものなら、徹底抗戦を決めているようです」


 「なるほどな…」とエドワードは大きなため息を吐いた。


「グレイを逮捕するのは、リスクが高すぎる、か…」

「はい」


 きっぱりと答えるそのレオナルドの声音から、彼に逮捕の意思が全く感じられないことをエドワードは察し、ふむ、とひとつ息を吐いた。

 海軍司令官として、大海賊の頭領を見逃すわけにはいかないが、今後に控えている大戦のことを考えたら、逮捕云々はその後々の話である。これは、今どうしても結論を出さねばならぬ案件ではない。

 エドワードは手をひらひらと揺らして言った。


「じゃ、この話はこれで終わりだな」

「よろしいのですか?」

「今はな。どうせグレイはどこにも逃げたりしないだろう。ゆっくり考えるさ」


 レオナルドは、自分も同じ考えであることを示すように頷いた。

 エドワードが「しかし」と不思議そうな顔をして言った。


「グレイは、何だっていまだに海賊稼業を続けているんだ? フォックスの養子になったのはもう二十年も前なんだろう? 金に困ってるわけでないなら海賊の立場なんぞリスクにしかならんだろうに」

「それについてはグレイに聞いたことがあります」


 レオナルドは過日のウィリアムとの語らいを思い起こした。


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