第22話

「わっ! もうこんな時間か!」

 乾いた二枚の大皿。既に食べ終えていたスイカの皮は、完全に水気を失っている。

 部屋の時計を見てみると、時刻はちょうど夜の七時に指し掛かろうとしていた。

 壁じゅうに貼られたインヘヴンのポスターと、ラックに詰め込まれた無数のCD。加えてデスクや床の上に乱雑に置かれたコードブックの束。一方部屋の端には、ドレッドノートサイズのアコースティックギターとフェルナンデス製の漆黒色のエレキギターが家宝のように大事に立てかけられている。

 そんなロックでバンドマンさながらの一室で、およそ二時間。

 樹と僕は長話にふけっていた。内容は僕の他愛もない学校生活の話が一割、樹の愚痴を含んだバイトエピソードが一割、そして音楽の話が八割で、中心はもちろん「クレール」の音楽について。影響を受けた「インヘヴン」の好きな曲やアルバムの話題に始まり、先日参加したファーストライブの回想から感想に至るまで、などなど。いつもは練習一辺倒に時間を割いてしまっているため、ここまでじっくり話をすることも無かった。


「それじゃあ、奏汰」

についてはまた、週末のスタジオ練習の時にって事で」

「――うん……わかった」


 そして、この日の最後。

 僕は樹から「ある宿題」を課されることとなった。

 でもそれは強制ではなく、僕にとってある種の「挑戦」でもあって。

 宿題ではあるものの、厳格な締め切りなどは設けられてはいなかった。

 樹は明日も仕事、僕は学校があるため。二人して部屋を後にする。

「なあ奏汰」

「例の件だけど。急がないから」

「まあ、今度のライブにもし間に合えばラッキーってくらいに思っておいてくれ」

「あ、うん……ありがと」

 こうして樹と言葉を交わし、僕は久留米宅を後にした。

 久留米兄、久留米妹と、それぞれに過ごした時間はライブとは違うものの。

 同じくらいに密度の濃く。

 そして、慌ただしい一日……だった。

 



 翌朝。昨晩から明け方にかけどうやら雨が降っていたらしく、湿ったアスファルトの匂いと朝の日差しとの融合した空気が、物憂げな気分を増長させる。

 梅雨明けはまだ発表されていない中、軽くなった顔周りを生暖かく湿った風が横切る。

 ――僕は、緊張していた。

 何ならずっと雨が降っていてほしかった。傘を差し、視界を最小限に狭めて歩きたかった。そんな無意味な空想に耽ながら、靴を履き替えいつものように階段を昇る。

 辿り着いた教室。入る前から、相も変わらず早朝から騒々しい。


 ピタッ。


 けれどそのノイズは。

 僕の登場と共に、不自然なまでの静寂を見せた。

「えっ……」

「ウソ」

 嘘じゃない。届いたその一言に、口には出さずに返す。それも、何度も。何度も。

 まともに話したことも無い、女子生徒たちからの幽霊声が方々ほうぼうで輪唱していた。

「あれってヒラカタか?」

「オッツが……マジで?」

 マジだ。大マジだ。一方の男子たちも似たようなリアクションだった。

 僕へと集まる無数の視線。空気だけで悟れるのにわざわざ言葉にまでしないでくれ。

 デリカシーを疑いたくなる程のクラスメイト達からのわかりやすい反応から、緊張と不安以上に僕は辟易した。

 ただ髪型が変わっただけのこと。他は特段何も変わってなどいない。

 はぁ、やっぱり。だから嫌だったんだ。結局はこう、なるから。

 きっと友だちでもいれば、少なからずポジティブな言葉も届いていたのかもしれない。

 けれど散見されるのは、語尾に「?」と「!」のマークが付く驚愕のリアクションばかりだった。事実これらは既に、想像も出来てはいた事だったが。

 ――どうだ、だから言っただろ。

 ぼっちが、既にカースト固定された人間が思春期にイメチェンをすると、こういう結果になるんだ。昨日音羽が一周回ってどうのこうの――と言っていたけれど、そんなのは単なる気休めでしかない。学校という場は、常にマジョリティな方へ方へと、意思も空気も染め上げられていく。そういう場所なんだ。


 だけど。

 別にいい。

 関係ない。

 だっていまの僕には――「やるべきこと」があるから。


 来月に控えた、次の対バンライブ。大切な時間。

 今は、バンドだけに集中しよう。

 こびりついた渋面を払拭し机に向かうと、僕は一冊のノートを取り出した。

「あっ、おはよう神宮寺さん」

 まっさらな一ページ目を開いた、その、ちょうど同じタイミングで。

 彼女はいつもより少し遅れて。

 天使のように穏やかな笑顔を携えながら入室する。

「おはようございま……っ、あっ」

 別に、目が合ったわけではない。だが彼女は僕を見るや否や、途端に言葉を詰まらせたのがその声音からわかった。

 慌てて目を伏せる。

 四秒、五秒、と時間差で。

 それでも気になって、視線を流してみる。

 一瞬驚いた反応を見せただけで、彼女はただ黙って席に着こうとしていた。

 大丈夫。僕にはわかるから。

 彼女は決してネガティブなことは言わない。他の彼ら彼女たちとは違う。これまでみたく自分とも、きっと平等に接してくれるだろう。

 そして、だからこそおそらく。ともすれば外見上の変化を遂げた事で、彼女が自席まで話しかけに来る可能性は高い。そう思う自分がいて、僕は身構えた。

「………………あ、れ」

 けれど。

 予想は見事に外れた。

 茉莉愛はもじもじしながらも、席を立つことなくじっと座ったままだった。表情は見えないが、その後ろ姿からは下を向き何かを熟考しているようにも見える。

「ねえねえ神宮寺さん」

「あ、はい」

 ところが数秒後。友人の佳奈に話しかけられると、茉莉愛は普通に言葉を返していた。多少落ち着きが無いようにも見えたが、笑顔で応対するその所作は普段の聖女そのもの。

 ああ。

 そっか。

 そう、だよな。

 あの約束の件はもう……解決したんだもんな。だから、もう。

 茉莉愛が僕に話しかけてくれていた理由。それはクレールファンの知人を紹介してもらうため。偽りだとはいえ、晴れて音羽との対面を果たし、その目的は達成された。 

 バサッ――コツ、コツ、コツ。

 よって用事も無く、わざわざ僕に関わる目的などもはや存在しない。

 コツ、コツ。

 思考の果てに導き出された答え。無意識に俯く上半身。慣れた体勢。

 大いなる勘違いを大いに恥じ、大いに納得した僕は、再び机上へと両眼を埋めた。

 コツ。


「奏汰くん」


 意に反し響いてくる透き通った声。可憐な花の香り。

 自席を覆う優しい影。視界に映り込むなびいた毛先。そして静止し、眼下に見える美しく並んだつま先。

 彼女はそうやって、いつも僕の想像の斜め上をいく。

「おはよう、ございます」

 会話を終えたのか、見上げた先に映る柔和な表情――それは茉莉愛だった。

「髪……切ったんですね」

 言いながら彼女は、自身の髪にポンポンと手を当てサインして見せる。

「あ……うん」

「いい、と思います」

「え?」

「素敵です。似合ってます」

 その一言に。全てが救われたような気分になった。

「?」も「!」も付かないクラスメイトからの初めての言葉。決してクレールの「奏」ではなく、通常の「枚方奏汰」として肯定されたような、そんな感覚だった。

 嬉しかった。ただ、純粋に嬉しかった。

「……ありが、とう」

 彼女を見つめ精一杯の感謝を返す。陽だまりのような時間。懐かしい朝のやりとり。

「カッコ……いいです」

 が――僥倖ぎょうこうの後に訪れた、突然の形容詞。

 今のは? 幻覚か? それとも空耳? 

 何かの聞き間違いかと思った。けれど目の前の茉莉愛を見ると、何故か恥ずかしそうな表情で頬もほんのりと赤い。

「あっ、いやっ! 今のはそのっ!」

 芽生えた嬉しさは遥か彼方まで打ち上がり、感情は蒸発。

 僕は地蔵顔負けに、着席したまま固まってしまった。

 一秒……二秒……。

 三秒……五秒……。

 まるで時が止まったかのように。机一台を挟み沈黙する二人。

「えっと、その……あ。そ、そうでした!」

「じ、じつは今朝、通学途中に偶然、音羽さんに会って」

 醸成された謎の空気を払拭するように、茉莉愛は急遽大慌てで話題を変えようとする。

「七月七日の七夕の日に。クレールがまたライブに出演するみたいなんです」

 一変し、嬉しそうに語る彼女。その発言も確かに驚きだが、今はそれどころじゃなかった。

 さっきのはどういう……。僕はまだ、数十秒前の彼女の言葉に思考が停止していた。

「………………」

 続く石化状態……のままだが。それでは会話のキャッチボールが成立しない。学校イチの美少女がせっかく投球してくれたボールを返さないなんて、それこそ重罪だ。

 ほら見て見ろ。こうしている間もずっと、遠巻きから野次馬たちが例のごとくチラチラと監視を続けているのが手に取るようにわかる。


 七月七日のライブ、それは当然周知のこと。

 僕は急いで茉莉愛の直近の発言を脳内で巻き戻した。

「い……行くの?」

「えっ?」

「その、ライブ」

「はいっ、もちろんです!」

 聞くまでも無かった。答えなんてわかっていた。

「奏汰くんは行かないのですか?」

「あ……うん。その日はちょっと、家の用事があって」

「そう、ですか」

 どこか物寂しげな表情。

 こうして僕はまた、彼女に嘘をつき、そして誤魔化した。

「キーンコーンカーンコーン」

 そんな二人の会話を朝の予鈴が無情にも引き裂く。

「それじゃあ……また」

 最後にそう残し、視界から遠ざかっていく彼女。翻る長い髪を眺めながら、僕はまたフラッシュバックしていた。

 白薔薇をくれた、あの日の夜を。

 茉莉愛はクレールの大ファン。ファーストライブでは、終わってから見に来ていた事実を知ったが。今回は違う。

 次のライブも、彼女は来る。見に来てくれる。

 あの日わざわざ出待ちしてまで、ファンだと公言してくれた彼女を、落胆させるわけにはいかない。


(次のライブまでに――必ず)


 ドクンドクンと波打つ脈動。

 沸々と燃え上がる青い炎。

 そして。

 いつしか抱いていた、彼女への想い。

 美麗な後ろ姿を見つめながら、ずっと。

 僕の胸の鼓動は激しく、いつまでも高鳴り続けていた。

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