第二十七話
ぼく(五木・第五人格)は、雪に肩を貸しながら廃虚を歩いていた。
「見直したよ」腕にナイフが刺さった痛みにしくしくと泣いている雪に言った。「一寸の虫にも五分の魂。君のような惰弱な凡夫も時には意地を見せるもんだね」
「うるせぇよ凡夫じゃねぇよ」雪は鼻水を垂らしながら言った。「六花に言っとけよ! ピッキングなんて特技あるんなら最初っからやっとけよってよ。お陰でこっちは大ケガだよ」
「こっちにも事情ってものがあるのさ。ただまあ、あれだけグズってた子供を一人説得してのけたのは、他でもない君の気骨が故さ。二葉の奴は男の趣味が最悪だと常々思っていたが、その評価をほんの僅かに上方修正する余地が微かながら生まれたと言って言えなくもない」
「さっきからなんだよおまえ。いちいち言い方が余分なんだよ! さてはあれだな、おまえ五木だな。たまにノートにアニメっぽいイラスト描いてるいけすかない奴!」
「そうさ五木だ。覚えておくが良い。ピクシブで三十万人のフォロワーがいる」
「言っとくが僕はそう言うのは絵として評価してないからな! そういうのはマーケティングの良し悪しの問題で、絵としての技量云々は二の次なんだろうが!」
「君が認めずとも、ぼく達の活動は着実に日本経済を回している。かくいうぼくも、アップしてた漫画を出版しないかと声を掛けられたことがある。忙しいもので、断ってしまったがね」
「うるせぇよオタク! 断ったんなら鼻に掛けんなよ! アニメ絵どれだけ描いたって文化活動として認められることはないんだよ! 一時の小遣い稼ぎの手段になりこそすれ、後世にまで名声が残ることはあり得ないんだからな!」
いちいち反応が大袈裟で愉快な人だ。ぼくはほくそ笑む。ディベートしたら面白いかもしれない。何を言ってもちゃんと真正面から自分の意見を返してくれる相手というのも、これで意外と貴重なものだ。
とは言え今雪は腕からの出血でよろめいている状態だ。大声を出すにも限度があるようで、既に息も絶え絶えになってぼくの肩に身を預けている。
こいつの息が続く内にどうにか外に出て助けを求めなければ……そう思っていると、反対側から足音が轟いた。
ぼくは咄嗟に隠れる場所を探した。いくつか見当たらなくもなかったが、しかしどこに隠れるにも、この肩に担いでいる負傷した男が邪魔だった。こいつを背負ったまま殺人鬼をかくれんぼを演じるよりは、真正面から受けて立った方が良い。
そう思い、近くの壁に雪を横たえ終えた頃、そいつは現れた。
「あれぇ。脱出しちゃってるじゃん」鈴木は言った。背中には大きなリュックサックを背負っている。絵の参考にと、ぼく達を奇怪な方法で殺害する為の道具が入っていると思われた。「どうやったの? というか、あなた誰?」
「五木だ」ぼくは答えた。「あんたこそ誰だ」
「ベータだよ。すぐにガンマと代わると思うけどね」
「迂闊だったね」ぼくは冷笑的に言った。「六花は掏りだけじゃなく、ピッキングも得意なんだ。あの程度の手錠なら簡単に脱出することが出来る」
「『まったく何をやっているんですか』」
突如として口調と声音が変わった。
「『だからあんなオモチャの手錠じゃダメだったんですよ。ちゃんと手足の腱を潰しておかないと』『すまんな。油断した』まあ別にアルファじゃなくても同じ油断をしたんじゃないかな?『私ならしません』そう言わず。こうしてちゃんと間に合ったんだから」
「今話してるのが、そっちのファミリーかい?」
「そうだよ。仲良しなんだ。同じ人生を生きる切っても切れない仲間って感じかな?」
「切っても切れない人間が自分の中にいることを苦痛に感じることは?」
「たくさんあるよ。でも嫌い合うのやいがみ合うのはダメじゃない? だから、仲良くする為にお互いちゃんと優しくするんだよ。仲間の望みは何だって叶えるんだよ。あなた達をむごたらしく殺すことがデルタの絵の役に立つんなら、みんなで協力してそうするんだよ」
「ぬるいな」ぼくは心の底から冷ややかな声を出した。「協調とはそういうことを言わない」
「あーし達はそれで上手くやって来たんだから、とやかく言わないでよ」
「何人もの他人を犠牲にしなければ成り立たないのなら、それは上手くやれているとは言わない。あんたらは完全に破綻し切っている。爛れた異常者さ。同じ多重人格者として心から軽蔑する」
「あーし達の考えた計画を見抜けず、間違った推理で仲間を封印した五木さんに言われたくないよ。まったくブレーン失格だね。笑えるよ」ベータは口元に手を当てて少女のように笑った。「トラッシュトークはこの辺にしとこうよ。さっさと決着をつけちゃおう」
「その通りだね」ぼくは電話機を手に取った。「来い。三浦」
〇
初撃を与えたのはこちらの方だった。
俺(三浦・第三人格)は五木と代わるなり鈴木に走り寄ってその顔面に拳を放った。鈴木はそれを躱そうとも防ごうともせずにただ鼻っ面で受けた。クリーンヒットしたということなのだが、普通なら敵を吹っ飛ばして再起不能にするはずの俺の拳にも、鈴木は微動だにすることなくその場に踏みとどまった。
次の瞬間だった。
突如として始動した鈴木が強烈なパンチを俺に放った。殴った後隙で身動きを突かれた俺は見事にそれを胸に食らってしまう。信じがたい程の衝撃に俺はあっけなく身体が宙を舞い、背中を壁にしたたか打ち付けてその場に蹲った。
「か、か、かわいいな」鈴木は幼い子供のようなたどたどしい声で言った。「ちちち、ちからがかわいいんだよ。しょ、しょせん、女の子の、かかからだだからなぁ」
「おまえ何者なんだよ」俺はどうにか立ち上がりながら、尋ねる。そいつは答える。「ぼぼぼぼ、ぼくはガンマ」「守護者か?」「ななな、な、なにそれ?」「なんかあった時戦うのはおまえか?」「そそそそ、そうだね。それがしゅ、守護者っていうの?」「言うそうだな」「しゅしゅしゅ、守護者ってななんか格好良いね。ぼぼぼくは守ってるっていうより、こここき使われてるだけなんだけどさ」「良いだろそれで。考えるの得意じゃないんなら、使われてる方が」「そそそそうかな。ぼぼぼぼくは結構いいい嫌だけどな。ととと、とにかく。い、いまは君を倒さなきゃいけないから」
ガンマは俺に殴りかかって来る。大人の男の拳だ。掠りでもしたらどれほどのダメージになるのかは、先ほどの一撃で思い知っている。引き付けるのも程ほどに、俺はガンマの拳を回避した。
反撃に転じようと拳を放つ。向こうは本気では避けようとせず、軽く腕を振るうだけでそれを払ってしまう。愕然としている間もなく、ガンマからの強烈な反撃が来る。
両腕を重ねてどうにかガードする。
それでも、よろめく。ぶっ飛ばされそうになる。
たまらずに俺はその場から距離を取った。信じられなかった。俺は一子の腕力を最大限に引き出すことが出来た。全身のアドレナリンをコントロールし、人間が無意識に掛けている肉体のリミッターを振り切って、どんな男よりも高い腕力でどんな相手でも地に伏せてきたはずだった。男の不良に取り囲まれたことも何度かあるが、その全員を俺は一撃の元に屠ることが出来た。それなのに。
「おまえどうなってるんだ?」「なな何が?」「強すぎるんだよ。こっちはアドレナリンを操ってるんだぜ? 人体の限界ぎりぎりの力を出せる。その俺よりが殴ってもびくともしないってのはどういうことだ?」「ききき君が出来るようなことはぼくにもできるってここことじゃないのかな? おお同じ守護者なんだから。そその条件がおお同じなら、ああ後は男女の肉体の差がもももモロに出るのさ」
ガンマは走り寄って来て鋭いジャブを放ってくる。どうにか払いのける。すかさずにもう一発。これもどうにか防ぐ。ガンマは殴りながら体制を作って強烈なストレートを見舞って来た。俺はその場で転がりながら回避しようと試みたが、あまりの速さに躱し切れずに頬をかすめる。それだけで顔の骨が砕けたような衝撃がして俺はたまらず床に沈んだ。
「あ、あ、諦めなよ」
ガンマは蹲った俺に蹴りを入れて来る。身体を丸めて防御するが、それは大してダメージを殺せていない。
非常にまずい状態だった。と言うよりすでに敗勢だった。地に伏した状態で身体を丸めて耐え凌ぐしかないというのは、ケンカにおいておよそ逆転が絶望的な状況だった。この状況に持ち込めば俺はたいてい勝利を確信するし、この状況に追いやられるのは初めての経験だった。
「かかか勝てないんだからそのままここ殺されなよ」ガンマもまた圧倒的有利を悟っているようだった。「ぼ、ぼ、ぼくもアタマ悪いけど勝てない相手に立ち向かう程バカじゃないよ。お父さんの時だって……」
「一子ちゃんをいじめるな!」
ナイフを振りかざした雪がガンマに襲い掛かった。咄嗟のことで回避できなかったガンマは肩にナイフを刺されて「ぐあっ」痛みのあまり顔を顰める。
俺はその隙を付いてその場を立ち上がり、悶えているガンマの股間を一撃した。
「ぎゃああっ」「ナイスだ雪! おまえも男じゃねぇか!」
俺がそう言い終える頃には、雪は出血する右手を抑えながら座り込んでいる。
「今は気合で動けたけど、もうこれ以上助太刀は期待しないで」
「ああ構わねぇ十分だ。懐かしいな男の金玉を蹴り飛ばすってのは」俺は言いながガンマを見下ろす。ガンマは顔を真っ青にしてその場でのた打ち回っている。「ちんちんを食いちぎって金玉を蹴りつぶしてやったのさ。一子や二葉を犯していた、あの糞親父をな。笑えたぜ? 子供を相手に粋がってたあんな糞野郎でも、いざ反撃されたら涙を流して許しを請うんだから」
「お、お、おまえ。なななな何を」ガンマは震えながらどうにか体制を整える。「そ、そんなことをしたら、痛いじゃないか!」「そうだよ痛いんだよ。アドレナリンを操れるおまえですら、そんなに痛いんだ。だったらおまえの親父にも同じことをしてやれば良かっただろうが」俺はガンマに向けて飛び蹴りを放つ。全身の力と体重を使った大技であるだけに、ガンマはさばき切れずに腹部に受ける。蹲るガンマ。「一番の敵を相手に戦うことも出来ないで何が守護者だ。女を盾にして自分ばかり痛みから逃れる卑怯者が! そんな奴にこの俺が負けるかよ!」
「う、う、う、うるさいな!」ガンマは目に涙を浮かべている。「お、お、おまえに何が分かる? お、お父さんは怖いんだぞ! 酷いんだぞ! あ、あんな恐ろしい人に逆らえって、戦えって……ぼくにだけぼくにだけ……できる訳がないだろう!」ガンマは立ち上がって俺に拳を放って来た。だが感情が乱れているのかその動きは稚拙であり俺は簡単に回避することが出来た。躱しながら背後に回った俺は、その後頭部に向けて肘を叩き付ける。よろめくガンマ。
「どどどどどうすれば良かったんだよ!」ガンマはフラフラになりながらパンチを撃って来るが、最早当たる訳がない。「たたた戦うってなんだよ! 大人と子供だろ? 親と子だろ? ささささ最初っから勝負にならないだろ! そんな無茶な宿命って、な、ないだろ! おまえは戦えたし勝てたかもしれないけれど、ふ、普通は違うだろ。むむむ、無理なんだよ! 無理に決まってんだよ!」
「そうだろうな。普通は無理だ。俺だってビビったよ。勝てたのはたまたまだよ」俺はガンマの攻撃を難なく躱す。「あの時勝てなかったら、俺はどれだけみじめな生き方をしたんだろうなって思うよ。一番の敵を刺せない柔な矛じゃあ、仲間達に胸を張れない。ただの能無しだ。もしも俺がそうだったらと思うと、怖くて怖くて仕方がなくなる」
「な、な、なんでそんなこと言うんだよ! お、おまえだって怖かったんだろう!」
ガンマは完全に泣きじゃくっていた。がむしゃらに腕を振り回して来るが、雪が刺したナイフのダメージもあり、それは既に速くも重くもない。
「ああ。怖かった。だからおまえには同情するよ」俺はガンマの攻撃を躱す。「おまえの仲間の誰が分からなくても、俺はおまえの感じた怖さが分かる。俺だって一人じゃきっと逃げてたはずだ」
「じゃじゃじゃじゃあなんでおまえは逃げなかったんだよ!」
「一番身近に、決して逃げない奴がいたのさ」俺はガンマの攻撃を躱し、拳を握りこんで接近した。「どれだけつらくても苦しくても痛くても、どんな目にあっても何もできずとも、逃げることだけは絶対にしない奴がいたんだよ。そいつは信じられないくらい弱くて情けなくて優しくて……誰よりも勇気がある奴なんだ」
俺はガンマの顎先を渾身の力で鋭く殴り飛ばす。
「おまえのところの『盾』とは違う。親父の言いなりになって友達を差し出すような卑怯者じゃない。あいつなら親父に逆らうことで自分がどれだけ傷付いたって、全部を自分の身で受けていたはずなんだ」
壁にぶつかって伸びたままガンマは微動だにしない。俺は勝利を確信しながら、その場で膝を着いて蹲る。
全身からアドレナリンが引いていく。感じなくしていた痛みが襲い掛かって来る。あまりの痛みに泣きだしそうになる。この身体から逃げ出したくなる。
ガンマにあちこち殴られた痛みだ。身体のどの骨が折れていてもおかしくないし、体のどの内臓が傷ついていてもおかしくはない。だがこれほどの強い痛みでも、どれほどの強い苦しみでも、逃げ出さない奴を俺は一人だけ知っていた。
……また頼ってしまうのか。
結局のところ俺は弱虫だ。本当につらい時はあいつに守ってもらってばかりいる。そのことを強く思い知りながら、それでも痛みと戦うことはせず、俺はこの苦痛の園であるコックピットから逃げ出した。
〇
わたし(二葉・第二人格)は外の世界に意識を持つと共に、あまりの痛みに狂喜しました。
「ふひひひひひひひっ! 痛い痛い痛い痛い! 生きてるぅうう!」
その場でもだえ苦しみながら自分の中の痛みを弄ぶわたしに、雪さんは恐る恐る言いました。
「い、一子ちゃん? どうしたの急に? 大丈夫?」
「大丈夫ですよぅふひひひひひひっ。ふへへへへふひっふひっひっひえへへへへへっ!」
痛いのは大好きです。自分が生きてここに存在しているということを、これ以上なく実感することが出来るのです。快感の限度はそこそこ止まりですが、痛みの限度は底知れません。自分がどこまで痛くなれてどこまで痛いのに耐えられるのか、それを思うとわたしはわくわくしてしょうがないのでした。
「ふひひひひひっ。痛いよぅ痛いよぅ。ふひひひひひ。ふーひーひっひっひっひ!」
「なんか怖いよ今の一子ちゃん……。様子がおかしいっていうか、アタマがおかしいみたいになってる。……あの、誰?」
「あ、二葉です」
「二葉ちゃんなの! マジで?」
雪さんは仰天したように目を丸くしました。
「これが本当のわたしなんですよぅ。ふひひひひっ。雪さんに知られちゃうなんて……恥ずかしいようなもっと見て欲しいような。ふひひひ、ふひっ、ふひひひひひひひっ」
わたしは思わず赤面して顔を覆います。
「ずっとこうしていたいですけど……仲間の為にも外に出ないといけないですね。申し訳ありませんが、その人から携帯電話を取って来て、警察と救急車を呼んでもらって良いですか?」
「あ。ああ。分かった。すぐそうするよ」
「はい。ありがとうございます。それと雪さん」
わたしは笑い掛けて言いました。
「大好きです」
救急車がやって来て、わたしは病院へと運ばれました。全身の治療が行われ、やがて警察がやって来て事情を聞かれました。
わたしは全てをお話ししました。
嘘を吐くことは出来ませんでした。仲間達もそのことは理解してくれたと思います。わたしは三浦さんのことを話し四季さんのことを話し五木さんのことを話し六花さんのことを話しました。最初は半信半疑だった刑事さんたちですが、雪さんの方もわたしの抱える問題のことを正直に話したらしく、やがて精神科医の方がやって来て診断を下しました。
解離性同一性障害。
六花さんが最初に犯した殺人については正当防衛が主張できるにしても、その後の幇助行為については当然ながらお咎めがありました。果たしてどのような裁きが行われるのか、わたし達は戦線恐慌としていました。
やがて家庭裁判所への送致が行われました。裁判を受け、心神喪失が認められ有罪判決は免れました。そして精神病院への移送が決定しました。
檻の中でわたし達は長い長い時を過ごしました。わたし達は人格の統合を目標に様々なリハビリを受け、一方では被害者の方々への償いの為に遺族の方へ手紙を書くなどしました。
慌ただしい日々の中でわたし達は高校を卒業する時期になり、肉体が十九歳になり、さらに数か月が経ってようやく仮退院が認められました。
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