第二十六話

「切れろ! うおおおお! 切れろ切れろ切れろ!」

 雪が喚いていた。三浦の意見で持ち歩くようにしているナイフを自分の手錠に向けて、グリグリと絶えず押し付けている。しかしその手錠も一応は金属で出来ているのか、傷が入るだけで切断される様子はない。

「うおおおおっ! 切れろ切れろ切れろ! ……って、一子ちゃん起きた?」

 六花は頷いた。

「いやあ突然目を開けたまま動かなくなるもんだからびっくりしたよ。あれってさ、もしかして誰も意識下に現れていない状態だったりするの?」

「うん、まあ……」

 『虚無』と呼ばれている状態だった。起床したまま誰もコックピットに座っていないと、一子の肉体はそんな状態になる。

「そっか。ちなみに、今出て来てるのはどの一子ちゃん?」

「……六花」

 六花はか細い声で答えた。

「僕と会ったことはあるの?」

「何度か。……予備校行くことあるから、あたしも。絵を描く為に」

「そっか。何か話したとかある?」

「絵を褒めてくれた。今日の一子ちゃんは今までで一番独創的だねって」

「あの二つに折れた飛行機描いてた子?」

「そう」

「凄かったよあの絵。僕はもうあんな自由な絵は描けないからさ。羨ましいくらいだった」

「でもあたし、皆の中で一番下手なんだ」

「そうなのかな?」

「うん。誰も口に出さないけど、そう思われてると思う」

「心配しないで。本来、絵は上手いとか下手とかじゃないんだ。描く人がどれだけ描くことを楽しめるか、見る人がどれだけ見ることを楽しめるか大事なんだよ。君の絵を見るのは楽しかった。だからそれで良いんじゃないかな?」

「あたし、絵を描くの楽しくないよ?」

「そうなの?」

「そうだよ。それしかまともに自分の外側に残せるものがないから描いてるだけで、描くこと自体はしんどくてしんどくてたまらないよ。それで一番下手なんだから嫌になるよね」

「まあそれが悪いってことはないでしょ。誰だってどんな理由だって、描くことは勝手だし、その一点だけ見りゃ巨匠もヘボも平等なんだから」

「……二葉さんが似たようなこと言ってた」

「二葉って……あの優しくておっとりした子だよね」

「そう。でもやっぱりちょっと違うかも。あの人は全ての創作活動は祝福されるべきものだって言ってた。上手いとか下手とかはもちろん、姿勢や動機も関係なしに、全部の創作活動は素晴らしくて、全力で尊重して賞賛するに値するって」

「そりゃ、酷く悪平等だな」

「あたしもそう思うし皆そう言ってる。けどあの人みたいな考え方も必要なんだよ、多分」

「絵について、皆それぞれ違った考えがあるの?」

「あるよ。三浦くんは絵はどこまで行っても自己修養だから他人の評価とか関係ないって言ってるし、五木くんはどれだけ多くの人に見られるかがその絵の価値で自己満足に意味はないって言ってる。四季ちゃんは男の子達がゴチャゴチャ語ることに冷笑的だけど、本当は多分、誰か一人自分を認めてくれる人の為に描こうとする人。その一人のことをずっと探してる人」

「僕は戦いだったよ」

 雪は自嘲的に笑った。

「僕のことをバカにして来る世界との戦い。おまえらが何と言おうと僕はこれだけのものが描けるんだぞって、そう思い知らせる為に描いて来た。でもそれは戦う手段にはなっても、勝利する手段には程遠かったな」

 そう言って雪はナイフを手錠にこすりつける作業に戻った。一心不乱に擦り付けても、手錠にはひっかき傷以上のものは生まれない。

「多分無駄だよそれ」

「分かってる」

「のにやるの?」

「うんそう。途中で無理だって分かっても続けるの。他にやることないから。これしかできないからこれをやるしかないの。それがずっと続くの。周りはどんどん前に進んでるのに、僕は一人だけここに座り込んでこれを続けるの」

「つらくない?」

「つらいよ」

「助けて欲しいとか思わないの?」

「思うよ。でも誰も助けてくれないから」

「そうなんだ」

「でもこのままじゃダメだな。本当は分かってる。どこかで本気出さなきゃダメだよな」

 言って、雪はナイフを手錠から離し、じっと見つめた。

「別に今までが本気じゃなかった訳じゃないけど。こんなのが僕の全力だったけど。でもどっちにしろそれじゃダメだから。死に物狂いにならないとダメだから」

「何を言ってるの?」

「腕を切り落とす」

 雪はそう言って、手錠の掛かっている右手にナイフを押し当てた。

「ちょっと……何をやってるの? やめてよ」

「やめないよ。だってそうすりゃここを出られる」

「ダメだよ。絵が描けなくなるよ」

「そんなことにはならないよ」

「なるよ。もしそれがあたしの為なのならやめて。あなたの腕はあたしの命なんかより……」

「違うよ六花ちゃん。僕がこれをするのは、どの一子ちゃんの為でもない」

 雪は覚悟に満ちた表情を浮かべた。

「僕は絵を描く為にこれをするんだ。自分が生きる為にこれをするんだよ。右手がなくなっても左手で描けるし左手がなくなっても口で描ける。そして僕は木更津芸大に合格して名のある画家になるんだ。その為に僕はこれをやるんだよ!」

 そう言って雪は高く掲げたナイフを、自分の右手に力強く振り落とした。

 嫌な音がした。ナイフが肉を貫き骨に食い込み、弾け飛んだ血があたりに爆ぜる音だ。

 深々と突き刺さったナイフは雪の腕を貫通して制止している。六花は目を見張った。この男にこれほどの気骨があるとは六花は思っていなかった。本人が自虐するように、ただ惰性で日々を浪費するだけの救いがたい軟弱者にしか見ていなかった。

 それが今では、生き残る為に自分の右腕を犠牲にする覚悟を決めている。

「いってぇえええっ! あぁああああ! お、おか、おかあさーん! うぎゃあああ!」

 ……いや、軟弱者なのだろう。泣きじゃくりながら痛みに喚いているこの姿はそれにしか見えない。しかしこのおよそどうしようもない男にも、画家になるのだという矜持は確かにあるのだ。そのことを六花は心の底から思い知った。

「ちくしょう! 痛いじゃねぇか!」

 雪は喚きながらナイフを引き抜いた。信じられない程高く飛んだ血液が六花達の頭上から降り注いだ。

「でも僕は画家になるんだ! 皆を見返すんだ! これまでの全部取り返すまで、これで全部が報われて僕が勝ったって思えるまで。……僕は死ぬ訳にはいかないんだよおおおお!」

「やめてっ!」

 再びナイフを振り下ろそうとする雪に、六花はしがみ付いて制止した。

「やめて……。分かった助けてあげる。あたしがあなたを助けてあげるから」

「助けらんねぇよ! 僕のことなんか誰にも助けられるかよ!」

「助けるよ! 今は助けてあげられるんだよ! だからそれはやめて。……ね?」

 必死でそう言うと、雪はへなへなと血まみれのナイフをおろした。そして虚ろな表情で言う。

「……でもどうやって?」

 六花は懐からヘアピンを取り出した。

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