第二十一話

 六花(第六人格)は秋穂の前に現れるなり不平を感じた。どうして他の人格がこんな女との面談を受け入れているのか疑問でならなかった。こんなことはあり得て良いことではないはずだった。

「あなたは六花さんですか?」

 机の上に置いた指先で手遊びをしながら下を向いている、膝だけを合わせてバツの字を書くように踵同士の距離を開けているこの姿勢が、六花が六花である証左だった。だが秋穂はその点に気付きながら言及はしなかった。

 六花は黙っていた。この女と話すことなどないと感じた。この女に上手く尋問されればあらぬことを口走ってしまいそうだった。

「警戒心が強いのですね」

「…………」

「他の人達は、わたしと話をしてくれましたが。……あなたがそうしたくないのなら、また別の誰かに代わってもらいましょうか?」

「いいえ」

 六花は答える。そして立ち上がる。せっかくコックピットに座れたのだからやりたいことがあった。誰かに代わってしまうことは口惜しい。

「帰ります」

 秋穂から背を向けて部屋を出ようとした際、雪夏彦が六花の手を掴んで来た。

「ちょっと一子ちゃん。帰っちゃうの? もう少し色々お話ししようよ。姉さんはきっと君の力になれるはずだよ」

「やめなさい夏彦」

 秋穂が落ち着いた声で言った。

「姉さん。でも」

「帰してあげましょう。人格にはそれぞれの考え方があるの。それを尊重してあげるべきだわ」

「他の奴らはまだ姉さんと話したがってるかもしれない」

「でも今出て来ているのは六花さんでしょう? だったら行動の選択権は六花さんにあるはずよ。勝手な行動を咎められる可能性はあるけれど、それを含めて六花さん自身が判断するべきだわ」

 雪夏彦は六花から手を離した。六花は軽く会釈だけを残してその部屋から去った。

 家を出るなり六花はまず親友のビーちゃんに電話を掛けた。謝らなければならないこと、説明しなければならないことは無数にあった。

「もしもし。ビーちゃん?」

「今はベータではない」

 受話器から声がした。

「アルファさん?」

「ああ。そちらは?」

「六花だよ。ビーちゃんと代わって」

「代わったよ六花ちゃん」

 声の感触でビーちゃんが現れたのが分かった。ビーちゃんの家族は一つの部屋ですし詰めに暮らしているので、取り次ぎがスムーズなのだ。

「ひさしぶりだね。二回も約束の場所にいないから心配したんだよ」

「ごめんねビーちゃん。実はちょっとトラブルがあって」

「大丈夫だよ。六花ちゃんの苦労は良く分かるよ。それで、今は出て来られるの?」

「うん。あの、したいから色々説明。会える? 今から」

「大丈夫だよ。じゃ、いつもの公園に来てね」

「うん。じゃあ」

 通話を切る。

 六花はスマートホンを懐にしまって、予備校近くの公園に急いだ。

 早くしなければならない。仲間の誰かが異変に気付いて、コックピットの電話を鳴らす前に。


 〇


 ビーちゃんは先に公園で待っていた。

 六花が現れたのに気付いてビーちゃんは無邪気な笑みを浮かべた。手を挙げて嬉しそうに立ち上がるその姿には歓迎の意思が満ちていた。約束を二度も破ってしまったことで嫌われたのではないかと危惧していたが、それは杞憂だったようだ。向こうからそれを態度で示してくれるビーちゃんのことを、六花は改めて好きだと思った。

「ごめん約束破って」

「良いんだよ。実はアルファから聞いて事情は知ってるんだ。学校で暴れて予備校にも来られなくなってるってね。こうして会えて何よりだったよ」

 ビーちゃんは笑顔を絶やさない。心底から六花と会えることを喜んでくれている表情だ。

「それで、上手く行った?」

「うん。最終的に、ビーちゃんの狙い通りになった」

「そっか。じゃ、六花ちゃんと会える回数が増えるね」

「それは分かんないかも」

「そうなの?」

「うん。四季が消えてから五木が調子に乗り出した。学校終わってもずっとがり勉ばっかしてる。これじゃ前の方がまだマシだったかも」

「そっか。じゃ、またなんか計画考える?」

「そう何度も上手く行くのかな? でもそれよりも、実はちょっとまずいことになってる」

「まずいこと?」

「うん。二葉が自首しようとしてる」

 そう言われ、ビーちゃんは目を丸くして口元に手をやった。

「一番上のお姉さんだっけ?」

「うん」

「六花ちゃん達の盾なんだよね?」

「うん」

「困ったな。あーしも同じ役割だから分かるんだけど、苦痛の管理者の意見って最後の最後はなんだかんだ尊重されがちなんだよね。一番大変で過酷なポジションだし、長子なことも多いから」

「二葉はそう言うんじゃないよ。どっちかっていうといじめられてるというか、雑に扱われてる感じだし」

「でも一人でも自首とか言い出したらまずいんじゃない? コックピット? っていうんだっけ、そっちは。とにかく身体の操縦権握ってる時に証拠持って警察署に行かれたら……」

「そうなんだよ確かに。皆で止めてるんだけど、いつまで大人しくしてるか分からない。勝手なことばっかりするんだ二葉は、自分が長子だからって。だから、まずいかも」

「うーん……。困ったね、それは」

 ビーちゃんは弱ったように眉を歪めて、小首を傾げて口元で何やら呟き始めた。

「ちょっと皆に相談してみて良い?」

「いいよ」

 六花は答えた。六花はビーちゃんを信頼していた。何がどういう風に転んでも自分にとって悪いようになるとは思えなかった。ビーちゃんが自分を守ってくれるし、何もかも自分の都合の良いようにしてくれるはずだと信じ切っていた。

「聞いてた?『ああ』どうしよう?『イプシロンに口を封じさせましょう』お友達だよ?『あなたにとっては』皆の恩人じゃないの? いーちゃんもやりたくないよね?『ぼくはデルタに言われたとおりにするだけなので』」

 ビーちゃんは口元でぶつぶつと何かを呟いている。一言発する度に口調と声音が変化するその様子はまさしく一人芝居だが、六花はそれがふざけている訳ではないことを知っていた。ビーちゃんは確かにビーちゃんの内側にある声と対話していた。

「『捕まったら絵が描けない。やりなさい』『分かった。じゃあやるよ』口を封じる以外に捕まらない方法はないの?『口を封じるのが一番安全です。他の手段を講ずる合理的な理由は我々にはない』『だが恩人であるというベータの主張にも一理はある』そうだよ。『父を殺してくれたことですか? そんなのはイプシロンが……』」

 ビーちゃんは徐々に徐々に興奮したように声を大きくしていく。目線は焦点が合わずに不規則に揺れ、痙攣するように小刻みに動く手足は、複数の意思によって同時に動かされているかのようだった。

「ガンマも何か言って。『やややだよ』なんで?『ぼぼ、ぼくがなんか言ったって、いい一度もききき聞いて貰えたことない』そんなことないよ。あーしはガンマ好きだよ。頼りになるもん。『そんな奴に何を判断できるんです?』ちょっとデルタやめて。『そんな奴は部屋から出してしまいましょう。二度と窓に近付けさせてはいけません』ちょっと。『落ち着くんだ。これは重要な問題だ。俺達だけで判断することはできない』」

 ビーちゃんの身体が震え始める。

「『先生を呼べ』先生? ちょっとアルファ正気?『ことこの状況に至っては、あの方に決めて貰うしかあるまい』しょうがないのかな?『そうです。先生を呼びましょう』『先生の言うことは絶対』『先生ならいい良いや』『そうだ。窓に向かって叫べ。先生を呼び出すんだ。先生を。俺達の先生を』分かったよ。今すぐ呼ぶね」

 立ち上がり、拳を握りこんでビーちゃんは声を張り上げた。

「先生!」

 木霊が返って来そうな程遠くまで響き渡る声だった。声の余韻が完全に消えるまで数秒の時を要した。しばしの沈黙の後、ビーちゃんは返事を待つように目を閉じた後、残念がるような表情でその場で項垂れた。

「ごめん六花ちゃん。無理みたい」

「無理って何が……」

「先生が言うんだ。六花ちゃんを殺して口を封じなさいって」

 ビーちゃんは懐から拳大の危惧を取り出した。黒い取っ手に、銀色の筒状の金属が付着している。

「ガンマと代わる前に、最後に伝えておくね。今まで仲良くしてくれて、本当にありがとう」

 その言葉を最後にビーちゃんの表情は消えた。愛嬌を伴ってくりくりと動いていた両目は途端に輝きを失って、ガラス玉のような空虚さに変化する。

 ガンマだ。六花は恐怖してその場を逃げ出そうとしたが、ガンマはすぐに追いついた。六花のことをたちまちその場に組み伏せて、首筋に器具を押し当てる。

 電流が走った。骨が砕けるような痛みに六花は悲鳴を上げることも出来ずに、全身の力を失った。辛うじて意識はあったが混濁したように曖昧で、天も地も分からないままひたすらその場に伸びていることしか出来なくなった。

「『れ……んま』」

 ガンマの口元から声がする。

「『代われ……ガンマ。おまえに任せておけるのはここまでだ』」

 肉体年齢相応の低い声は、すぐに拗ねた子供のような甘えた声音に変わった。

「そ、そ、そうやっていつもぼくを窓から離す。『すまないな』いいもん。か、代わるね」

 そして六花の身体は抱えあげられる。最早六花は自分を抱えているのが誰なのかも分からない。いずれにせよ、公園の前に止められているビーちゃん達の車に運ばれるのは間違いなかった。六花は絶望を感じた。親友に裏切られ殺されることに恐怖した。その時だった。

「こらーっ! 待て鈴木! 一子ちゃんに何をしている!」

 上ずったような間抜けな声音だった。

「一子ちゃんに不埒なことをしようと言うなら、この僕が許さないぞーっ!」

 雪だった。どうしてこいつがここにいるのかと考えて、四季から聞いた話を思い出した。こいつは自分達のストーカーで、公園で鈴木と逢引きしている自分達を、物陰から隠れて頻繁に観察しているのだと。

「この変態め。どこから見ていやがったんだ」

「一子ちゃんを守るために僕はいつだって見守っているんだよっ! とっとと一子ちゃんを離しやがれ! 警察呼ぶぞ! 警察!」

「ねぇ雪さん。通報なら啖呵切って飛び出す前に済ませておくべきじゃないですか。それにその物言いじゃ、あんたがまだどこにも連絡していないことがバレバレですよ」

 ガンマだかアルファだか……とにかくいずれかの人格を表出させた鈴木唯人は、そう言って六花の身体を公園の地面に下す。そして手首を回しながら雪と相対した。

「あんた。何も考えずに出て来たでしょ。事態の深刻さ分かってます? 恰好付けられるチャンスみたいに浮かれてる場合じゃないですよ。あんたが出て来て勝てる訳もないのに、バカですよね?」

「勝てる勝てないじゃないんだよ。一子ちゃんが酷い目にあっているのに、戦わない訳にはいかないんだよ!」

「だから、本当に一子のことを守りたいんだったら、そんな考えなしに飛び出すべきじゃないってこと。バカで軟弱で大学も受かんない癖して肝心な時も役立たずってんなら、本当に救いようがないですよ、あなた」

「うるさい! 役立たずかどうかなんて、まだ分かんないだろ!」

 雪は両手を振り回しながら鈴木唯人に殴りかかる。が、いつぞや四季が申し送りに描いていたのと同じように、あっけなく片手を掴み上げられてその場に組み伏せられてしまう。

「ぐぇえええっ。痛い痛い痛い! ギブ! 降参! 離して!」

「離す訳ないでしょう。まったく、ガンマに代わるまでもない」

「離さないと酷いぞ! 大声出すぞおまえっ。おまえこらっ! 大声出すぞおまえこら!」

「粋がって殴りかかる前に、最初っからそういうことしとくべきだったんですよ」

「もうキレたからな! 大声出すからな本当に! 行くぞ! すぅ……たーすーけーてぇええぐぇええええっ!」

 雪の首元にスタンガンが押し当てられる。たちまち、雪は意識を失ってその場に倒れ伏した。

「……邪魔が入ったな」

 徒労感に満ちた表情で鈴木唯人は言った。

「おまえらまとめて前の廃墟に運ぶ。まとめて口封じをさせて貰うから、覚悟をしておけ」

 その言葉を聞き終えると共に、六花は公園の地面の上で意識を失った。

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