第十九話

 わたし(二葉:第二人格)は自室で一人膝を抱えて夜を過ごしました。

 わたしを外に出しておくことを咎める意見も出ましたが、しかし結局、誰もコックピットに座りたがりませんでした。あれほど張り切っていた五木さんでさえもです。学校にも美術予備校にも行けず、四季さんのいなくなった自分達のこれからについて不安と苦悩を抱えながら、家で膝を抱える時間に耐えられる者は、わたしを除いて一人もいませんでした。

 やがて朝日が昇り、それからも膝を抱えながら孤独と不安に耐え続けていると、携帯電話が鳴り響きました。

 思わず手に取ります。

「一子ちゃん? 大丈夫?」

 雪さんでした。

「つらいことがあったんだってね。心配になって電話したんだ。」

「雪さん……」

 わたしは思わず息を飲みました。わたしを心配して電話を掛けてくれる人がこの世にいることに救われました。

「分かるよ僕一子ちゃんの気持ち。一子ちゃん何も悪くないもんね。分かるよ。ねぇ一子ちゃん、これから今言うところに来られないかな?」

「その、お気持ちは嬉しいのですが、今わたし自宅待機中で……。」

「無理にとは言わない。でも、これは別に下心って訳じゃないんだ。ただ、君に会って欲しい人がいるんだよ。」

「会って欲しい人?」

「僕の姉さんなんだ。セラピストをやってるんだけどさ、君のことを話したら、すごく興味があるって。」

 雪さんはしなやかな優しさを纏った声で言います。

「一子ちゃんは今まで一人で頑張って来たよ。だけどそろそろ、誰かに助けを求めても良い頃だと思うんだ。姉さんならきっと何か、君の抱える問題を解決するヒントをくれるはずだよ。どうかな?」

 わたしは雪さんの家に向かうことにしました。

 雪さんの家は近隣の高級住宅街の一角にありました。ひときわ背の高い、屋根の大きなお洒落な住宅でした。庭には高級そうな外国車が数台停められています。内一台は、雪さんが予備校への通学などに乗り回しているものでした。

 チャイムを鳴らすと雪さんが出ました。

「来てくれてありがとう。」

「いえ、こちらこそ。」

 中は清潔で広々としていました。わたしの家も新しいお義父さんになって引っ越してから相当に広くなっていましたが、それを上回る高級ぶりです。

 客間に案内され、ふかふかのソファの上でしばし待たされていると、雪さんは二十代後半程の女の人を伴って戻ってきました。

「これが姉さんだ」

 とても綺麗な女の人でした。

 流石は雪さんのお姉さんと言ったところでしょうか。髪は長く色が白く、瓜実のような面長な顔をしていました。くっきりとした眉をしていて、垂れ目がちの目元には涼し気な印象があります。しっかりと通った鼻筋と、桃色の薄い唇は羨ましくなる程でした。

「秋穂です。初めまして。」

 秋穂と名乗った雪さんのお姉さんは瀟洒な笑みを浮かべて会釈しました。

「は、初めまして。虹川一子と申します。」

「いつも夏彦が面倒をかけてごめんなさいね。この子昔っから陰険で執着心が強いので、付き纏われたら本当に大変でしょう? 迷惑なようだったら、いつでも私に相談してください。」

 夏彦というのは雪さんの名前のようです。『雪』という苗字がとても印象的な為、下の名前を意識したのはほとんど初めてでした。

「ちょっと姉さん。それじゃ僕がストーカーみたいじゃないか。」

 その雪さんが不満げな表情で言いました。

「ストーカーでしょ? 部屋にこの子の写真一杯貼ってる癖に。」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。違うからね一子ちゃん。隠し撮りとかしてないから。ちゃんと一子ちゃんのお友達にお金を払って譲ってもらったものだから。」

「別に結構ですよ。それで何か困るという訳でもありませんし、雪さんが嬉しいのでしたらそれで。」

 わたしは微笑んで言いました。

「そこまで想っていただいている人に、日頃酷い態度を取ってしまっていることが、申し訳ないくらいです。」

「本当にそれで良いの? 夏彦は従順そうに見える大人しい子が好きだから、そんな態度取ってたらますます執着されますよ? 夏彦のことを遠ざけたかったら、一度しっかりと怒って見せることです。この子は相手が自分の思い通りにならないとなると、すぐに興味を失いますよ。」

 秋穂さんは呆れた様子で言いました。

「いえそんな……わたし雪さんには、十分にきつい対応をしてしまっていると思います。」

「でもそれは『あなた』じゃないですよね?」

 鋭い声でそう言われ、わたしは言葉に詰まりました。

「相手の目をあまり見ず俯きがちで、手は指先を絡めながら膝の上、たまに手遊びをする。脚はしっかり膝と踵を合わせて姿勢良く座る。表情は笑顔が多いけれど、笑いながら怯えていて、かなりぎこちない。夏彦から聞いた通りの仕草です。『あなた』が夏彦の好きな人格ですね?」

 わたしは怯えていました。この人は明らかにわたしが一子の中の一人格に過ぎないことを見抜いていました。いくらセラピストの肩書があると言っても、どうして初対面でしかないこの人にいきなりそれを指摘されたのか、わたしは混乱していました。

「ちょっと姉さん。いきなりそういうのダメなんじゃないの?」

 雪さんが焦った様子で言いました。

「じっくりと時間を掛けてまずは心を開かせるというかさ。そんな不意打ちみたいに確信に迫るのは、セオリーから外れる行為なんじゃないの?」

「素人は黙っていなさい。どう考えても、これ以上のアイスクラッシュはこの人に対して意味を為さないの。こんなにも他人に怯えているのに、心理的防御は試みず為されるがまま。これほどガードが低いのは何をされても受け入れて耐えられるからなんでしょうね。こんな人を相手に短期決戦を挑むのは、いくら何でも分が悪いわ。」

「そうだよ。一筋縄じゃ行かないんだよ。だったら何でそんな性急な真似をするかな?」

「時間を掛ける余裕がないからよ。暴走する守護者がいるなら一刻も早く問題を両親に伝えた方が良い。それに大事なのは私がこの人からどうやって問題を聞き出すかじゃない。この人にどこまで話すつもりがあるかなのよ。セラピストの肩書を聞いてここに来てくれたのなら、少なからずこの人にも、自分達の直面する問題について危機意識があるはずでしょう?」

 秋穂さんはそこでわたしの目を見ました。

「ですから単刀直入にお願いします。」

 秋穂さんはわたしにアタマを下げました。

「あなた自身が自分達の在り方に危機を抱いているのなら、一度他の方と話をさせていただけませんか?」

 わたしは何も言わずに俯いていました。

「今、あなた自身は他の方とお話はできますか? 出来るのなら、出る気があるのかどうか聞いてみてください。出来たら守護者の方が良いです。ね『守護者』というのは、普段あなたに危機が迫った時、代わりに身を守ってくれる人格のことです。」

「あの。」

 わたしは思わず尋ねていました。

「あなたはどうしてそこまで、わたしの、わたし達のことが分かるのですか?」

「夏彦から聞いたからです。あなたのことばかり考えてあなたのことばかり見ている内に、あなたの抱える問題の正体に気付いたのだとか。」

 ……こう見えてバカではないのですよ。と、秋穂さんは雪さんのことを一瞥しました。

「喋り方や言動が気分によって変わることはあり得ても、目線や仕草はその人固有のものです。数日やそこらでそうそう変化することはありえない。手や指の位置、脚の組み方や姿勢、表情の作り方、そういったものが明らかに変化するとなれば、それは肉体を同じくするだけの全くの別人と取るしかありません。」

 気付いたのは雪さんで、それが秋穂さんに伝わったということのようです。雪さんは申し訳なさそうに俯いていました。

「これでも画家を目指しているだけのことはあるのでしょうね。視覚的な洞察力は一丁前で。他の人には気分気まぐれで通せても、夏彦のことは誤魔化せなかった。……これで大したことのない腕自慢をやめて、自分がまだ若いことを思い出せれば、もう少しまともな絵を描けるはずなんですが。」

「僕の絵のことは良いだろう。それで、一子ちゃん。どうかな? 姉さんは不躾だけどとても信頼のおける人だ。何を話しても、一子ちゃんが望まない限り他人に漏らすことはない。他の人に代わって貰えないかな?」

 実のところ答えは決まっていました。外的にも内的にも、わたし達は現状維持ではままならないところに追い込まれていましたし、禁を破ってでも他人の助けが必要なことは明らかでした。

 そこに至るまでの道筋に大きな紆余曲折はあると思ってはいましたが、秋穂さんは単刀直入な物言いでそれを見事に省略してくれました。わたしは小さく頷きます。

「呼んでみます」

 わたしは受話器を手に取って三浦さんに電話を繋ぎました。

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