第十七話
目覚めるなり、汚い唾を飛ばしながら吠える女の顔を殴り飛ばす。まるまる一秒間は浮遊した柏木は、トイレの洗面台にアタマを強打した後、泡を吹いてその場で仰向けに倒れた。
「……なんてこった」俺(三浦・第三人格)はアタマから流血する柏木を見下ろして、吐き捨てた。「四季がいなくなって二日でこれだ。この程度の状況で、簡単に俺を出してどうすんだよ」
四季がいればこんなトラブル早々に引き起こしはしなかった。起こしたとしても舌先三寸を用いて最小の被害で切り抜け、俺を呼ばずに済ませられたはずだった。五木のホストとしての性能は酷かった。実際のところこうなることは分かりきっていた。二葉は自分が代わって誰かからの攻撃を受ける覚悟をしていたようだし、俺はもちろん代わって誰かを殴り飛ばすことを予感していた。五木では四季の代わりにならない。だがそれは他の誰が担当しても同じようなものだっただろう。早かれ遅かれ俺達はこのような状況に陥っていたし、だがらこれは避けられないことだった。
「カッシー!」叫んだ女生徒の一人が血を流す女に駆け寄った。「カッシー、ねえ大丈夫? ねぇ、ねぇったら……」
「ねえ一子! あんた何してくれたの? こんなに強く殴る必要がどこにあったっていうの?」女生徒の一人がそう言って俺に詰め寄った。俺は黙ってその女を張り倒した。吹き飛ばされた女は横向きにタイルを転がった。骨を折ったりしないよう手加減こそしたが、床に叩き付けられた痛みで起き上がれなくなったらしく女は芋虫のようにもがいていた。
蜘蛛の子を散らすようにその場を逃げ出さんとする女生徒達に回り込み、俺はトイレの入り口に立ちふさがった。女生徒達は竦み上がった様子でその場に硬直し、何人かは涙を流し始めた。
さてどうするか。こいつらに凄んで見せれば口を封じられるだろうか? 暴力で脅せばすべてが都合の良いように転がるだろうか? それは常には上手く行くことではないし、実際に何度となく失敗して来たことでもあった。だがどういう時に成功して失敗するのかを見極める能力はなかったし、そうでなくともそもそも俺は他に方法を知らなかった。
「なあおまえら。余計なことを言うなよ」気が付けば俺はそう言っていた。「余計なことを言わなきゃおまえらには何も起きない。それが利巧な選択だと心得ろ」俺は一人一人の肩や胸倉を掴みながら凄んで見せ何人かは腹を数発殴って見せる。そうすることで事態はより悪化し『一子』への被害はより拡大することは予想できたが、それでも俺はそうするよりなかった。それはある種の惰性であり習慣であり、呼吸をするように俺は最初からそうするように作られていた。
気を失っている柏木を除く全員を、トイレの外に出す。柏木に余計な口を利かないようどうにか言い聞かせるつもりで、そのか細い息を確認した。生きている。それどころか意識がある。俺は滾々と言い聞かせ始める。「おいおまえ。余計な奴に余計なことを言うなよ。そうすればおまえにだってこれ以上何も起きな……」
「何をしている!」教員らしき大柄な男が女子トイレの中に飛び込んで来た。「三組の虹川だな。おい! そいつから手を放せ! これ以上暴れるな!」
「うるせぇよ」俺は柏木を放り出して教員に向き直る。最早自分がどうなっているのかも分からないまま、俺はその教員に殴りかかろうとした。
その時だった。
コックピットの『電話』が鳴った。
誰かが掛けて来たようだ。俺は外の世界からコックピットの方に意識を戻して受話器を取った。
「なんだ?」「三浦さん。そっちどうなってます?」二葉だった。「おまえの知ったことじゃない」「わたしと代われませんか?」「おまえに代わって何になる?」「五木さんが怯え切った様子でわたしのところに来たんです。このままだと三浦さんが大暴れして、とんでもないことになってしまうかもしれないって」「だから?」「わたしと代われませんか?」「五木は自分からおまえでなく俺の方をコックピットに呼んだんだぞ?」「でも怖がってるんです。『一子』の人生が終わるかもしれないって怯えてるんです。泣いてるんです。可哀そうなんです。わたしが出て行って何もかもやり過ごせば、少なくとも今より状況が悪くなることはありません。任せて貰えませんか?」
「おい虹川! おまえさっきから一人で何を言っているんだ?」教員が言う。俺は舌打ちする。だから人前で誰かと『通話』するのは嫌なんだ。自分と自分で会話するのを聞かれるなんてぞっとしない話だ。「おまえ。アタマは大丈夫なのか?」「大丈夫じゃねぇよ」俺は吐き捨てる。「とっくの昔に大丈夫じゃない。大丈夫じゃないからこんなことになっているんだ。なあ。助けてくれよ」
俺はほとんど自棄になっていた。自分が追い込まれていることを、自分が一子全体を追い込んでいたことを強く自覚していた。俺にはそんなことしか出来なかった。そんなことしかできない自分が嫌だった。何故俺は俺達はこんな風なのかと深く嘆いた。
「あの。どうなんでしょう?」二葉は電話口で言う。「わたしが出た方が良いですか?」
「助けてくれ」俺は言った。「つらいんだ」
「分かりました。つらい時はいつだって呼んでください。助けます」
俺は受話器を置いてコックピットから逃げた。
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