第十六話
月曜日の朝だった。
ホストとして最初の朝を迎えたぼく(五木:第五人格)は、四季が要したのの半分以下の時間で身支度を整えると、両親との食卓に向かった。
「おはよう。一子」
いつものように(あくまで四季の描いた申し送りによれば、だが)先に食卓に着いていた父親が言った。ぼくが席に着いて頬杖を着いていると、そいつは窘めるような表情で柔らかな声を掛けて来た。
「おいおい。挨拶を返してくれないのか。今日は機嫌でも悪いのか?」
「別に」ぼくは首を横に振った。「ただ、挨拶という行為に意味を見出せなくて……」
そう言って見せてから、ぼくはふと自分の過ちに気付いた。四季なら父親にはちゃんと挨拶を返すはずだ。何もかもあいつと同じようにするつもりはないし、またそれは不可能なことでもあるのだが、だとしても学費や生活費を見て貰っている身分、両親との関係を麗しく保っておくことにメリットはある。
「おはよう。お父さん」ぼくは半ば棒読みで言った。「いつもと気分が違ったんだ。気にしないでおくれ」
好感度を稼いでおくことで周囲から得られる利益を確保する。ホストの重要な役割だ。
父親はぼくの様子が普段と違うことに気付いたようだが、特に何も言わずにテレビの方に目を落とした。ぼくらの『気まぐれ』はこの両親にも浸透しているので、ある程度は大目に見られることだろう。それも計算づくだ。
食事を取り終えるとすることがなくなった。四季はこの時間もごちゃごちゃ化粧台の前で身繕いに熱心なようだったが、五木体制にそのような時間の浪費はない。すぐに鞄を持って学校に向かった。
いつもより早く登校したぼくは、早速教材を開いて一日の予習をし始めた。元々担当していた理数科目はともかくとして、四季に担当させていた国語と英語に関しては学習の余地がある。徹底的にやる。遠からず二葉が担当する科目も奪ってしまうつもりでいた。勉強に時間を注ぎ込めるのなら、ずっと前からしてやりたかったことだった。
学ぶのは楽しいことだ。自分の為にもなる。今後の一子の人生を円滑かつ豊かなものにしたければ、知識や教養は欠かせない。たくさん勉強して、賢くなるのだ。
そんなぼくの気合に水を差す者がいて、それは四季の級友達だった。早く来て勉強しているぼくに気付くと、まとわりついて話し掛けて来た。
「うわ。一子ったらこんな朝から勉強してる」面白がるような、何なら蔑むような表情を浮かべるのは、確か柏木とかいう女子だった。「一子ってそんなテストの点ヤバかったっけ? つうか芸大志望なんでしょ? 五教科とかテキトウで良いって言ってなかった?」
「人の努力に水を差すのはやめたまえ」ぼくは不機嫌を隠さずに言った。
「うわっ。何その喋り方。ウケるっ」柏木はぼくが冗談でも言っていると思っているようだ。
いい加減に煩わしくなったぼくは完全無視の構えを取ることにした。柏木は困惑した態度を浮かべたが、やがてその困惑は怒りとなって、ぼくの振る舞いを咎めるようなことを言い始めた。だがそんなことはぼくにとってはどうでも良かったので、やはり無視し続けている内に、ホームルームの時間となった。
教師からの伝達事項を漠然とアタマに入れながら、傍らでは今後の方針をアタマの中で組み立てていた。
まず基本となる五教科についてはすべてぼくが担当する。直観像素質者と思わしき二葉に暗記科目を担当させるという四季の指針は、ぼくの好みではない。丸暗記することは真の知識とは言えないからだ。その他の授業は他の人格のガス抜きに使っても良い。三浦は体育を、六花は家庭科あたりを割り当てればそれなりに喜ぶだろう。
授業の合間の休み時間中も、ぼくはやはり自己修養に時間を割くことにした。ぼくがどれだけ言っても四季は授業中と課題を片付ける時間以外、勉強に費やすことをしなかった。そんな状態で高校三年生にまでなってしまったぼくらの教養は、耐えがたい程に稚拙なものだった。最早時間は一秒でも無駄にすることが出来なかった。
昼休み。一緒に昼食を採ろうと近寄って来る連中を無視して、ぼくは一人で机に着き続けていた。
「ちょっと一子。あんたどうしたの?」柏木が心配でもするように言った。「いつもの気まぐれにしたってさ、いくら何でもずっと無視は酷いんじゃない?」
「うるさいよ」ぼくは苛立ちを露わにした。「君らのような痴愚魯鈍とは違ってね、ぼくは自己修養に忙しいんだ。放っておいてくれたまえよ」
「何。『くれたまえよ』って。ウケる」柏木は嘲るかのようだった。「そんな急に勉強ばっかりして……いったい何を目指してるの? バカみたい」
「君が一人で堕落するのは勝手だが、他人の努力に水を差すのはやめたまえよ」
「ガリ勉に目覚めるのは良いけどさ。そうやって友達をないがしろにするのはダメなんじゃない? 集中したいだけなんだったら、普通にそう言えば……」
「誰がぼくの友達だって?」ぼくは鼻を鳴らして肩を竦めた。このあたりではっきり言って置いた方が良い。「悪いがぼくの方は今後、君達との交流は断絶させてもらうことに決めたんだ」
ぴりりとした空気が流れるのが分かった。柏木は「は?」と顔を顰めて、剣呑な表情になってぼくを睨んだ。
「一子。今あんた、何て言った?」
「言った通りの意味さ。どう考えても、君との交流を持続するメリットは、ぼくにないからね」肩を竦める。「時間の浪費というものさ。放課後の貴重な時間を学問や絵に使わずに君らとつるんだり、増して休日を半日潰したりするのは。これまでに無駄にして来た時間の総量を思うと本当にぞっとするよ」
「……本気で言ってる? ねぇ、一子、あたし達、友達だったんじゃないの? 一子の気まぐれは知ってるけどさ。後から謝って来たってあたしは許さないよ」
「許さなかったら何だというんだ? ぼくに危害を加えるつもりなら……」
「もういいっ!」
柏木はあからさまに音を立ててぼくの前から消えて行った。
うるさいのがいなくなって済々した。ぼくは気分良くペンを一回転させ、勉強を再開した。
放課後も無駄なことに時間を使わずに勉強を続けた。美術予備校のない日だったのでたっぷりと出来た。こんなにも猛烈に勉強できたのは始めての経験だったので爽快だった。結局、一日中ぼくがコックピットに座っていた。
翌日。起床したぼくは両親には最低限の礼節を払いつつ朝の時間を過ごした。両親と会話をしながら朝食を採るのが面倒だったので、この時間は六花あたりに回しても良いなと思った。
早めに登校して机に着いていると、柏木が仲間を連れて絡んで来たので、ぼくはげんなりとした。
「ねぇ一子。あんた、ちょっとこっち来なよ」
学校は勉強をするところの割には環境が良くない。一つの環境に押し込められた子供という子供は猿のようにはしゃいだり威嚇し合ったりで、とにかく鬱陶しい。朝早く学校に来て勉強するくらいなら、起床時間をずらしてその分夜勉強した方が良いかと考えていると、柏木はいきなりぼくの胸倉を掴み上げて来た。
「何のつもりかな?」
「良いから来なよ」
「今勉強しているから後にしてくれたまえ。それと、本当に大切な用があるのなら、そんな乱暴なことをせず冷静に対話を」
柏木はぼくの頬を平手で打って来た。
唐突な暴力にぼくは驚いた。四季の申し送りを見る限り、こいつはそこまで乱暴な人間ではないはずだった。確かに中学時代はいじめっ子だったとか、高校二年生の時に上級生と揉めて喧嘩沙汰になった経験があるだとか、そういう話は聞いていた。だがだとしても、こんな風にいきなり人の頬を打って来るなどと予想が付かなかった。
「良いから来い」
低い声を浴びせられる。思わず抵抗する気勢を削がれてしまうが、しかし黙り込んでやり過ごそうなどというのは軽蔑する二葉の態度に近い。ぼくは反骨精神を込めて口先を弄する。
「おいおいこんな教室の真ん中で暴力を振るうとは良い度胸だな。これは教師に報告させて貰わなければならないね。その上ぼくをどこかに連行してさらなる暴力を振るおうというのなら、然るべき報いがあることを覚悟してもらわなければ」
柏木はさらにぼくの頬を打った。
「待ちたまえよ。この程度の損得勘定も出来ないのか。君は本当にヒトか? 殴れば殴る程自分が窮地に陥るということくらい、冷静に考えれば」
柏木は黙ってぼくの頬を打った。
「おい待てよ。話を」
柏木はぼくの頬を打った。
「おまえ。ふざけ」
柏木はぼくの胸倉を強く掴んで教室の外まで引っ張り出した。ぼくは気力を失くしていた。こうも愚かさを剥き出しにされればどんな言いくるめも通じない。そもそもぼくは別に人を言いくるめたり説得したりするのに適した人格じゃない。それは四季が担当していたし、その四季はもうぼくらの城にいなかった。
近くの女子トイレに連行されたぼくは柏木によってタイルの上に突き飛ばされた。
「なあ一子! おまえいい加減にしろよ!」柏木は怒鳴る。「もういいよ! おまえの気まぐれにはもう付き合ってられない。そんな態度取り続けるのなら、こっちだって本当に友達だって思わなくなるよ? それで良いの?」
柏木の背後には取り巻きのように複数人の女子がやり取りを見守っていた。その全員が柏木に同調するかのように頷き、ぼくの方に冷ややかな視線を注いでいた。ぼくは声を震わせながら、その全員に虚勢で声を返した。
「だから何度も言っているだろう。ぼくは君達とはもう関りを持ちたくな……」
「うるさいよ!」
柏木は再びぼくの胸倉を掴み上げた。その目には何故か涙が浮かんでいた。
「ねぇ一子。正気になってよ。いつもの楽しくて優しい一子はどこに行ったの? なんでそんな酷い態度ばっかり取るの? それとも本当にあたしのこと嫌いになった?」
怒りと不安と悲しみがないまぜになったようなその表情に、ぼくはどう対処して良いか分からなくなった。このまま拒絶を続ければ、こいつらとの縁を切るというぼくの目的は達成されるだろう。だがその代わりにどんな目に合うのかは、まるで予想が出来なかった。
思わず黙っているぼくに、柏木は「なんとか言えよ!」と怒鳴り声を浴びせかける。思わずすくみ上がり、ぼくは何も言い返せなくなる。
胸倉を掴まれる不快感と、敵意を発散させる相手に睨まれている恐怖心とで、ぼくは耐えがたい苦痛を覚えた。いっそのこと二葉に肩代わりさせようかとも思い掛けたが、それでは問題が拡大することすら考えられた。あいつならどんな目に合おうとこの場をやり過ごしはするだろうが、その後の学生生活をこの猿共に委縮しながら過ごすことを余技なくされかねない。
なら三浦の方を出すか? それは多大なリスクを伴う判断だった。奴を出して良いのは事後の隠蔽行為が容易な状況か、正当防衛を主張できる状況に限られるはずだった。確かに三浦ならば目の前のこいつらを容易くやり込め、恐れさせることが可能だろう。だがそれは一歩間違えれば、学校を退学になりかねない危険も孕んでいる。
「なんとか言えよ! なあ! 何とか言えったら? どうすんの? 一子、ねぇ、あたし達とおまえ、今後どうすんの?」
どうする? ぼくは自分達の持つ矛と盾とを比較した。それは一子の中にある強さと弱さであり暴発と忍耐であり闘争と屈従であり弱さと強さだった。その両方が一人の人間が生き抜くのに必要不可欠なものだったが、しかしぼくらの持っているそれらは、どちらも一個の人格が備えるには歪な程に大きすぎた。簡単に振りかざして良い代物ではないはずだった。
「どうすんだって言ってるんだよ一子! 早く決めろよ!」
悩んだ末、ぼくが手に取ったのは矛だった。
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