第十二話
テレビニュースが流れていた。一連の連続殺人事件における新たな被害者についての報道がなされている。お決まりの展開。しかも今回の被害者は二人だった。彼らは大学生の若いカップルで、それぞれ右手と左手の手首から先が持ち去られていた。
私(四季・第四人格)は溜息を吐くのをこらえた。隣に唯人がいたからだ。同じソファの身体が触れ合う距離に腰かける唯人は、同じテレビを眺めながら私の肩に優しく手を回した。
「何か思いつめた顔をしているけど、大丈夫?」
動揺を悟られていたことを反省しつつ、私は努めて笑顔を作り、なんでもないと言って笑い掛けた。
ここは塾の講師である鈴木唯人のアパートだった。
今日は土曜日で、私は唯人に絵を教わっていた。唯人は絵も教え方も上手くて、彼に導かれながら描いていると自分でも信じられない程綺麗な絵が描けた。唯人はそんな絵を描く私の頭に手を置いて、上手だねと優しく笑い掛けてくれる。
心がとろけるような気分。
私達は順番にお風呂に入った後並んでソファに腰かけてくつろいでいた。同じ空間のこんな近くに唯人と二人きりでいることに私は幸せを感じている。誰からも憧れられるハンサムで優しい唯人が、私のことだけを家に呼んでこんな風に扱ってくれることが誇らしかった。
「そろそろ眠ろうか」
唯人はそう言って私をベッドに案内した。同じ布団で寝るの? という疑問を私は口にしない。何か余計なことを言ったりしたりすることで、これから起こる幸せなことが消えてしまう可能性が少しでもあるのなら、私は余計なことは何もしない。すべてを唯人に任せてただ私を幸せにしてくれるのに任せて置きたかった。
明かりを消した暗闇の中で、唯人が優しい両手を私に伸ばしてくる。
一夜が過ぎた。
小鳥の囀りと共に目を覚ました。私は深い充実感に包まれていた。満ち足りた気持ちは今も持続していた。それは永遠に続くかのように思われた。これほどまでに強烈で確たる幸福がやがて風化するなどと信じられなかった。私は私の生命と人生に心の底から感謝していた。
「おはよう一子」
私は笑顔で答えた。
「おはよう唯人さん」
私達は同じベッドで目覚めて同じテーブルで朝食を採った。幸せだった。
家に帰る為に唯人のアパートを出ると、途端に私は竜宮城を出たような気持ちになる。強い寂寥感を覚えたが、確かに私は唯人に抱かれたのだし、その思い出は永遠に残り続けるのだと思うと励まされた。また何度でも唯人と会って同じ時を過ごすことが出来るはずだと思い直した。私は唯人を手放したくなかった。唯人に手放されたくなかった。
私はアタマの中を唯人で一杯にしている。その所為だろう。幽鬼のようにアパートの前に立ち尽くす、気持ち悪いその陰に気付けなかったのは。
雪がいた。
この瞬間、私の心は間違いなく現実に引き戻された。雪は酷く打ちのめされたような、そして非難するような表情で、私の方をじっと見詰めている。
気持ちが悪かったし煩わしかった。幸せな気分がこんな奴によってぶち壊されたのが忌まわしく、私は剣呑な声を浴びせかけた。
「何じろじろ見てんの? 気持ち悪いから失せてくんない?」
雪は鼻白んだ様子も見せずに、泰然と腕を組んで唇を尖らせる。そしてまるでそれが正当な権利であるかのように私に抗議した。
「何で鈴木の家なんかに泊まってたの?」
「はあ?」
私は心底から呆れ返っていた。
「そんなの私の勝手だと思わない?」
「でも何でかなって」
「好きなのよ。私達お付き合いをしているの。分かった?」
「やっぱり僕じゃなくて鈴木が良いんだ」
目に涙を貯め始める雪。深く溜息を吐く私。
「あんたなんて眼中にないわよ。分かったらどっか行ってくんない? そんで二度と私に話し掛けて来ないで。気持ち悪いのよ。あんたなんかが人を好きになるのは、それだけで迷惑なことなんだわ」
「僕を振るのはしょうがないけど、なんでそんなに冷たい言い方をするの?」
「再三態度で見せても付き纏うのをやめないからでしょ。あんたなんて大嫌いよ。消えなさい」
私は露骨に顔を背けて雪の脇を通り抜けようとする。
雪はその手を掴んで来た。
私は身の危険を感じながら振り向く。
「……僕は信じてないからね」
「はあ? ちょっと……やめてよ。手を放して」
「今の君は本当の君じゃない。もっと優しい心を持った君が君の中にいるはずなんだ。僕はそのことを信じているし、だから今の君に何を言われたって信じないからね」
震えた声の雪。その目は赤らんでいて腕を掴む力は強かった。視線が据わっている。私は身の危険を感じていた。三浦に変わらなければならないかもしれないことを覚悟した。その時だった。
「やめてください」
毅然とした声がして雪の腕が振り払われた。自由になった私をたくましい腕が抱き寄せる。
唯人だった。
「……僕は今一子ちゃんと話してるんだ。割って入って来ないでよ」
雪は怒りに満ちた声で言って、唯人を睨んだ。
「雪さん、あなたおかしいですよ」
「僕が何をしたっていうんだ?」
「いつからそこにいたんですか? アパートの前で待ち伏せるなんて、ここに一子さんが来ていることを知らなかったらできませんよね? まさか、昨日からずっとそうしてたんじゃないでしょうね?」
「それが何か?」
雪は頬に捨て鉢な笑みを描いた。赤らんで血走った目は爛漫と輝いている。
「ストーカーですよ」
「違うよ。一子ちゃんを一目見て、一子ちゃんと少し話がしたかっただけさ。それだけの為に僕は何時間でも何日でもずっと同じ場所に立ち続けてられるんだ。あんたに同じことが出来るのかい?」
「もったいないですよ、雪さん」
唯人は諭すように、言い聞かせるように落ち着いた声を出した。
「雪さん。あなたには才能がある。結果に恵まれないことに何年も専念し続ける一途さもある。去年生徒として予備校にいた時から、おれはあなたを尊敬しているんだ。追いかけるべき背中だと思っているんです」
「だからなんだ? 僕を置き去りに木更津芸大に受かった癖して」
雪は忌まわし気に歯噛みした。
「雪さんにだって将来がある。画家として大成する未来があるんだ。だからストーカー行為なんてしちゃいけない。もしおれが警察に通報して事件になったら、大学はあなたをどう思いますか? そんなことをした人を合格させると思いますか?」
「僕は別に法に背くようなことはしていないぞ!」
「あなたのような人の行いはエスカレートするのが常だ。現段階でさえ、講師のおれが証言すれば予備校をやめさせるくらいのことは簡単です。この近所に木更津を目指せるような予備校はあそこくらいでしょう? それでも良いんですか?」
「はん。今更自分が木更津に受かるなんて、本気で思ってやしないさ」
雪は退廃的な形に唇を釣り上げた。その瞳は既に私のことも唯人のことも見ておらず、あらぬ方向に虚ろな視線を漂わせていた。
「最後に真剣に絵を描いたのはいつになるのかな? どうせ今年も落ちるって分かってるのに、本気で絵の勉強なんてする気になる訳がない。ダレてんだ」
「……思ってもないことは言うもんじゃないですよ」
「本心さ。もし本当に受かろうと思ってたら、下手糞共にいちいち絡んだりしない。あんたら講師の言うことに突っかかたりなんてしない。遮二無二自分の絵をやるだけさ。そうじゃないのは、モチベーションがとうに摩耗してるってことなのさ」
雪の瞳孔は開き切っていた。その目には純度の高い絶望があった。繰り返し挫折を味わった人間にしか醸し出せない深い暗闇。その暗闇に私は恐れを成した。
「かと言って木更津に受かる以外の人生を今さら考えられはしない。僕は一生、あの糞ったれた予備校で、成長の止まった絵を描き続けるだけなのさ」
自嘲気に言って、かと思えば途端にプライドを剥き出しにして、雪は高圧的に声を荒げた。
「ただ言っておくが、それでもあんたよりはよっぽどマシな絵が描けるぞ? あんたは所詮粗削りだよ。晩成する余地があるという意味での粗削りじゃない。自分の技巧が及ばない箇所を、模倣や雰囲気でそれらしく誤魔化してるような画風だもんな。一生上手いところは上手いってだけの奴で終わるさ。大学の奴らは伸びしろがあるのと下手糞なのを区別しないが、僕は評価しないね」
唯人の絵をバカにされて、私は腹が立った。思わず声を上げようとして、唯人がさりげなく片手を差し出してそれを制する。
「……確かに、雪さんの絵は上手いでしょう。細部に行き渡る確かな技巧がある。あなたの描く絵はおれの絵よりもよほど達者だ」
鋭い視線。
「だがそれは現時点での話だ。あなたを目標にしていた話を校長にしたら、こう言われましたよ。目指した背中が間違っていても、追い抜いてしまえば関係ないってね。腐りきった今のあなたは、とても一子さんに相応しくない」
「黙れ!」
雪は叫んで唯人に殴りかかった。
決着は一瞬で着いた。雪はそもそも喧嘩なんて一度もしたことがないんだろう。殴るつもりで伸ばした腕は簡単に躱され、捻り上げられて身動きを封じられる。そしてその痛みから逃れようともがく雪を、唯人は情けを掛ける様にその場に放り捨てた。
地面を転がって砂まみれになりながら、雪はどうにか身を起こした。その後も唯人を睨み続ける雪だったが、しかし力の差を簡単に思い知らされてガックリ来たのか、肩を落としてその場から背を向けた
唯人は私の方に優し気な視線をやった。
「家まで送るよ」
「この後もバイトなんでしょ? 遅れないの?」
「仕方がないさ。今の君を一人にしてはおけない」
「大丈夫よ。身を守る手段はちゃんとあるから」
先ほどの感じだと三浦に代わるまでもないとすら思う。あっけなく退けられた雪はみっともなかった。あんな奴に好意を寄せられていると思うと虫唾が走った。
「油断しない方が良い」
「本当に平気。唯人さんに迷惑を掛けたくないの」
そう言うと唯人はその場でタクシーを呼んで、必要な金額を私に手渡した。
タクシーで自宅に帰り着くまでの間中、私は全身に雪の視線が絡み着くような不快感を味わっていた。
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