第十話
わたし(二葉・第二人格)は男子トイレの床の上にいました。
繰り返しお腹を蹴りつけられたのか、息苦しい痛みが全身に響いています。お腹を蹴られるのはとてもつらいことです。痛いだけでなく気持ち悪く身動きが取れなくなるのです。胃の中に入っているものが喉から飛び出したり、肺が息を吸えなくなってもだえ苦しんだりしてしまいます。
「ふっ。ふへっ。えへへへへへっ。ふへへへへへっ。」
久しぶりに味わう暴力の痛みにわたしは笑みを漏らしていました。これを引き受けることが自分の存在意義なのだと思うと充実感が全身を駆け巡ります。立ち上がれず身動きを取れず、汚いトイレの床でもがいているしかないこの状況で、わたしは世界中の誰よりも自由に自分の中の痛みを味わっていました。
「えへへへへへっ。痛い、痛い痛い痛いっ! ふひっ。ふへへへへへっ。」
「な、何だこいつ。気持ち悪い。」
わたしに暴力を振るっている男の子の一人が目を丸くして言いました。わたしは身を捩りながら両手を広げ、男の子の方に笑みを向けました。
「大丈夫ですよもっと蹴っても。何かつらい思いをされたんですよね。それで気が済むのならわたしは嬉しいです。さあ、どうぞ。」
「おまえ……何言ってんの。こっちはただ謝れって……。」
「あ。そ、そうですか。分かりました。謝ります。ごめんなさい。」
「ふざけてんのかよ。おい。」
男の子はわたしのお腹をさらに蹴りつけます。
「この間の威勢はどうしたよ。自分が殴られたらすぐ降参する癖に調子に乗りやがって。女の癖に! おまえがそうやって降参したところで俺の鼻は治らないんだよ! どう責任取ってくれるんだよ! ああっ?」
無抵抗なわたしを見て男の子はさらに気持ち良さそうにわたしを蹴り続けます。わたしは反射的に身体を丸めて背を向けました。これならどれだけ痛くても、内臓を痛めたり骨が折れたり死んじゃったり、そうした致命的なことは起こりません。
背中を蹴りつけられていると、自己愛や自尊心がみるみるすり減って、自分がまるで虫けらか鳥の糞のように思えてきます。こうしてゴミクズのように痛めつけられるわたしは、なんてダメでどうしようもない奴なんだろうと思えます。すると同時に、わたしは自分の内側にだけ、甘ったるく閉塞的な喜びを覚えるのでした。
この痛みは情けないわたしへの罰で、わたしはこうされるべき罪人で、これは正しいことなのだと思えてきます。相手の気の赴くままに暴力を振るわれ、様々な感情に対する一方的なはけ口にされるのは、本当にとても苦しくて痛くて屈辱的です。ですが、それに打ちひしがれて、とことんまで自分を卑下した先に、何もかもを許容し愛せるような安らぎが訪れることを、わたしは知っていました。
「こいつ……泣いてやがるぜ。」
後ろで見ていた方の男の子が言いました。気が付かなかったのですがわたしは顔全体で泣いていました。目は熱くなり涙が溢れ、蹴られた拍子に痛打した鼻からは血が滲んでいて、口の周りはよだれ塗れでした。みっともない自分の顔を想像すると恥ずかしくなりましたが、それは何ともわたしらしい顔だとも思えました。
「ふん。そりゃこんなに蹴ったらな。」
「でもおかしくね? あの時はあんなに強くて荒々しかったのに、今はただの気の弱い女の子みたいになってやがる。」
「こいつはこういう奴なんだろ? 気分屋で、日によって気が強かったり弱かったり……。どっちにしろ所詮女だから、こないだみたいに不意打ちされなきゃ勝てるのは分かっていたさ。さあ来いよ。」
言いながら男の子はわたしの髪の毛を掴んで持ち上げます。全身からは力が抜けきっておりわたしはされるがままでした。
「どうするんだ?」
「便所の中に顔を突っ込む。中学の頃クラスの奴に良くやってたよ。」
「うわエッグ。女子にそこまでやるか?」
「やらないよ普通なら。でも俺はこいつに鼻を折られたんだよ。これくらいしないと気が収まらねぇ。」
わたしは個室の便器の前に連れて来られました。長いこと掃除のされていないその洋式便器には、茶色いカスがあちこちこびり付いていて酷い悪臭がしました。こんなところに顔を突っ込まれるのは、大便以下のがらくたに違いないとわたしは強くそう思いました。
乱暴に顔を押し込められます。ここまでの暴力で息は荒れ、肺に上手く空気を取り込められなくなっていたので、わたしは酸素が欲しくなりました。息を吸おうとして、口の端から漏れ出した空気で便器の水をかき乱しました。飲めば確実にお腹を壊す液体が、口内そして喉の奥へと流れ込んできます。腹痛に耐えるのがわたしだとしても、仲間には迷惑をかけるなと申し訳なく思いました。
限界まで精神を抑圧される体験は、わたしに安心と、色んなものに対する愛情を抱かせました。自分が卑小に思えれば思える程、多くのものを肯定できるような気がするのです。冷静に考えれば、無抵抗なわたしをこんな風に痛めつけている男の子は、確かに卑劣なんだと思います。ですがこんな風に痛めつけられ便器に顔を突っ込まれているわたし程には、恥ずかしくも情けなくもないし、ちゃんと自立したまともで崇高な存在だとそう思えて来るのです。
髪の毛を掴み上げられて、わたしは便器から顔を上げます。わたしは息を吸うことが出来ました。もっと長い時間ぶち込まれていれば多分わたしは窒息していたのに、それを助けてくれるなんて優しくて嬉しいことだとわたしは感じました。
「もう一回いっとくか?」
男の子は言いました。
「ふひひひひひひっ。良いですよ。」
わたしは笑顔で答えました。
「どうぞ気が済むまで。わたしなんかどう扱ったって何をしたって構いませんから。」
「バカかおまえ。」
「良いんです。本当に良いんです。わたしはそれで。どうぞ。どうぞご自由に。」
「……中学の頃のいじめてた奴もそうだったわ。」
男の子は憐れんだようにわたしを見詰めます。
「おまえ程あからさまじゃねぇけどさ。殴って蹴ってバカにして、そうやって痛めつけてると、余計にこっちに媚びて来るんだよな。へどもどしてさ。金やゲームソフトをせびる時も、裸にして芸をさせる時も、『おまえら』はいつだってへどもど笑ってやがる。そうして平気ぶって、一方では情けを期待して、そうやって適応していくんだよな。バカだよな。」
心底からの嫌悪と軽蔑がわたしを見下ろしていました。
「そのバカさ加減がムカ付くんだよな。叩きのめしてやりたくなるんだよな。今までは鼻を折られた仕返しのつもりだったけど、今じゃ単純におまえがムカつくわ。」
恐ろしい程冷ややかな目を男の子はしていました。男の子はわたしの髪の毛を掴んでもう一度便器に顔を浸けようとします。
その時でした。
荒々しい足音がしました。男の子たちが驚いて個室から顔を出して様子を伺うと、息を飲み込んで個室の中に隠れました。
わたしも思わずそちらを伺います。美術予備校の鈴木唯人先生がいました。
鈴木先生は四季さんの想い人でハンサムな芸大生でした。絵も教え方も上手く優しく物腰柔らかなので、予備校生皆に慕われていました。それは男の子たちにとっても同じであるようで、二人はそれぞれバツの悪そうな顔を浮かべていました。
鈴木先生は静かに私達の隠れている個室へと向かってきます。鍵を掛けようとした男の子に先んじて、鈴木先生は個室の扉を掴んで開け放ちます。
鈴木先生はどこか人間味のない表情を浮かべていました。あえて表情を消して相手を威圧するというのはありがちですが、しかしその顔には含みも凄みもなくあくまでニュートラルでした。
男の子たちは怯えた様子で顔を上げました。疲弊して四つん這いの私も同じようにします。鈴木先生はわたしの方には目もくれず、男の子の一人に近付くとその大きな拳を顔面に叩き付けました。
壁に吹っ飛んだ男の子はアタマから血を流して伸びていました。それは衝撃的な威力と光景でありわたしは息を飲みました。これほど凄まじいパンチを撃てる人を、わたしは他に三浦さんしか知りませんでした。
残る一人……わたしを痛めつけていた方……は怯えた様子で後退りました。しかしそこにはトイレの黄ばんだ壁しかなく男の子は絶望しました。男の子はその場に蹲って何事か懇願し始めます。すいませんとか土下座しますとかそういう声が聞こえてきましたが、鈴木先生はそれを意に介することなく顔に肘を叩き付けます。
三浦さんに圧し折られた鼻にもう一度肘撃ちを食らったその人は、やはり血を流しながらその場に倒れ伏しました。可哀そうでした。
わたしは怯えていました。わたしは暴力を耐えたり受け入れたりすることに長けていますが、それが平気な訳ではないし、むしろ目の前で行われる荒事は苦手でした。鈴木先生はそんなわたしを空虚な瞳で見つめると、口元で何かつぶやきました。
「れ……ま。」
良く聞こえませんでした。
「われ……んま。」
鈴木先生はそこで大きく首を振りました。そして途端に眉間に皺を寄せると、足元を転がっている男の子二人に軽蔑したような表情を向けました。そしてそのケガの具合を探るように男の子達の身体を触ると、重症でないことを確かめたように頷きました。
そしてわたしの方を向いて、優しい表情を浮かべます。
「大丈夫?」
わたしは恐る恐る頷きました。
「可哀そうに便器に顔を沈められたんだね。さあ、これで拭くと良い。」
タオルを差し出されます。わたしは首を振ってお断りしました。どう考えても人の持ち物で拭いて良い類の汚れではありませんでした。わたしは自分の懐のハンカチを取り出して、それが誰かが大切にしていたものでないことを確かめてから汚れを拭いました。
「立てるかな?」
頷いて差し出された手を取りました。たくましい大きな手でした。
「酷い目にあったね。」
「は、はい良いんです。あの。先生。どうして助けてくれたんですか?」
「どうしてって……当然のことだろう?」
「そうではなくて。あの。なんでこのトイレにいるのが分かったのかなって。」
「なんだそんなことか。」
鈴木先生は笑顔を浮かべました。
「たまたま便所に入ったら出くわしただけだよ。ただの偶然さ。」
わたしは鈴木先生に連れられてトイレを出ました。外には六花さんのお友達であるビーちゃんがいるはずでしたが、見当たりませんでした。
「あの人達、大丈夫でしょうか? 救急車か何か……。」
「急を要する程のケガじゃない。放っておいても復活して自分で病院に行くさ。それに予備校の前で救急車を呼ばれて大事にされたらおれが捕まってしまう。予備校をクビになったらアパートの家賃が払えなくなるから、それはやめてもらえないか。」
「は……はい分かりました。」
「だが君の身体は心配だね。すぐにおれの車で運ぶよ。病院に行こう。」
「一人で行けますよ。」
わたしはその場で身体をあちこち伸ばして自分が動けることをアピールしました。手足を動かす度に骨と筋肉が全力で悲鳴を上げていましたが、痛みに耐えるのは好きなので問題ありません。むしろ生への実感が漲り全身に気力が溢れました。
「先生は予備校に行かれてください。これから講師のアルバイトなんですよね。わたしならもう一人で大丈夫ですから。」
「そういう訳にはいかない。」
「本当に良いんです。」
その後も少し問答がありましたが、わたしがあくまで遠慮すると鈴木先生が折れました。
「分かった。じゃあ気を付けてね。それと。」
鈴木先生はわたしの顔に唇を近付けてキスをしました。
わたしは顔を真っ赤にしました。男の人にこういうことをされるのは大好きでしたが、いきなりのことで驚きました。
考えてもみれば、誰かに襲われているところを男性から助けられるというこの状況は、何とも少女漫画的であり憧れでもありました。しかしそのことに興奮や充実感を覚えるよりも前に、わたしは大きな罪悪感を覚えていました。
この接吻を貰うのにふさわしいのはわたしでないはずでした。彼は四季さんの思い人であるはずでした。こんなハンサムで誰からも憧れられる人はわたしには釣り合わないはずでした。
「ごめんね。こんなことしてる場合じゃないのに、つい気持ちが抑えきれなくて。」
鈴木先生は申し訳なさそうに言いました。
「いえ! いいんです。メチャクチャにしてください!」
わたしは言って服を脱ごうと手を掛けました。
「こんな状況に付け込むなんてズルかったかもしれない。軽蔑するかな?」
「いえ! いいんです! メチャクチャにしてください!」
わたしはシャツを脱ぎ捨てて今度は下着に手を掛けました。
「少しでも君の力になれて良かった。また連中が何かして来たらすぐおれに言うんだよ。」
「はい! 分かりました! メチャクチャにしてください!」
「ねぇ一子さん」
「なんですか?」
「服を着なさい」
公園の青空の下で、わたしはほとんどすっぽんぽんになっていました。
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