1日目 第7話 夏夜のささやき

夏の夜、女子寮の一室にひっそりと静寂が降りていた。外から聞こえるのは、かすかな虫の音と、遠くで誰かが笑い合う声。部屋の中では、花音が一人で机に向かって座っていた。窓から入る微かな風がカーテンを揺らし、その動きに花音は無意識に目をやる。だが、その視線はすぐに自分の膝の上へと戻った。制服のスカートを握る指先が、わずかに震えている。


少しして、ドアが静かに開く音がした。


「ただいま、花音。」

先にお風呂を済ませた綾香が、ふわりとしたルームウェア姿で部屋に戻ってきた。柔らかなパステルカラーのTシャツに、ゆったりとしたショートパンツ。その姿はリラックスしていて、どこか大人びた雰囲気を醸し出していた。髪は軽くまとめられ、洗いたてのシャンプーの香りがふんわりと漂う。


花音は顔を上げ、少しだけ笑顔を作る。「おかえりなさい、綾香先輩。」


「うん、ありがとう。お風呂、気をつけてね。滑りやすいから。」

綾香はそう言いながら、ベッドに腰を下ろし、スキンケアの準備を始めた。花音は立ち上がり、お風呂道具を手に取ると、そっと部屋を出た。


お風呂場の鏡の前で。


花音は浴室の扉を閉め、ため息をついた。鏡に映る自分の姿――ウィッグを被り、女子の制服を着たその姿に、何度見ても慣れない違和感を覚える。

「これが…僕?」

鏡の中の「花音」は、確かに女の子に見える。でも、自分の中ではその姿がまだしっくりこない。ウィッグをそっと外し、制服を脱いでいくと、ようやく自分自身に戻れたような気がして、少しだけ肩の力が抜けた。


「やっと、息ができる…」

男子としての自分が顔を覗かせた瞬間、安心感が胸を満たす。でもその一方で、少しだけ寂しさのような感情も芽生えた。あの花音という姿は、自分じゃないはずなのに、どうしてこんなに気になるんだろう…。


湯船を覗き込み、綾香が浸かっていたばかりのお風呂を前にして立ち止まる。湯気が立ちこめる中、その温もりに触れることをためらう気持ちが花音の中で膨らんだ。

「同じ湯船に入るなんて…無理だ。」

結局、花音はシャワーだけで済ませることにした。お湯が肌を流れる間も、頭の中では綾香との距離感や、この新しい生活のことばかりがぐるぐると回っていた。


シャワーを終え、再びウィッグを被り、女子用の下着を身につける。寝巻き代わりのジャージを着ると、再び「花音」として部屋へと戻った。扉を開けると、綾香はベッドに座ってスキンケアを続けていた。


「おかえり、花音。気持ちよかった?」

綾香が優しく微笑む。その表情に、花音の胸が少しだけ温かくなる。


「…はい。シャワーだけですけど。」

小さな声で答えながら、花音は自分のベッドに腰を下ろした。綾香は立ち上がると、花音の方に歩み寄る。


「スキンケア、やってあげようか?肌、乾燥しやすいからね。」


花音は一瞬戸惑ったが、綾香の優しい目に押されて頷いた。綾香は柔らかなクリームを手に取り、花音の頬にそっと塗り始める。その指先は驚くほど柔らかく、花音は思わず目を閉じた。


「…不思議ですね。」花音がぽつりと呟く。「こうしてると、自分が本当に女の子みたいな気がします。」


綾香はその言葉に微笑みながら、手を止めることなく答えた。

「花音は花音だよ。女の子かどうかなんて、気にしなくていいと思う。」

その言葉は、どこか深く花音の心に響いた。


二人はそのまま、自然と会話を始めた。お互いの趣味、好きな食べ物、子供の頃の思い出…。綾香は体操部の話を楽しそうに語り、花音はピアノのことを照れくさそうに話した。


「拓海…じゃなくて、花音のピアノ、いつか聴いてみたいな。」

綾香のその言葉に、花音は顔を赤らめた。


「そんな…僕なんて、まだまだですから。」


「自信持って。きっと素敵だよ。」


そのやり取りが、花音の胸にじんわりと温かさを広げた。


やがて消灯の時刻が近づき、二人はそれぞれのベッドに入った。部屋の明かりが消えると、窓の外からは夏の夜の音だけが静かに響く。


花音は天井を見つめながら、今日一日の出来事を思い返していた。緊張、不安、戸惑い…いろんな感情が押し寄せる。胸の中がモヤモヤと重たくなり、思わずため息が漏れた。


その小さな音に気づいた綾香が、そっと声をかける。


「…大丈夫?」


花音は返事をしようとしたが、言葉が喉の奥で詰まった。すると綾香がそっと布団から出て、花音のベッドの横に座り込む。


「無理しなくていいよ。辛かったら、言ってね。」

その優しい声に、花音の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。綾香はその涙をそっと指で拭い、花音の手を握った。


「ここにいるから。大丈夫だよ。」


その言葉に、花音はようやく頷くことができた。温かい手の感触に安心し、重たい気持ちが少しずつ和らいでいく。


二人はそのまま静かに布団に戻り眠りについた。夏の夜の静けさの中で、二人の心は少しずつ寄り添っていった。

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