第41話
実習を終えた後、ひとりで更衣室のある校舎へ向かった。
休憩も終わる時間も、ついている看護師さんの裁量によるため、今日はみんなより帰りが少し遅くなった。
エレベーターを使ってはいけないから、階段へ向かって廊下を歩いていると、前から来た男性にすれ違い際、声をかけられた。
「菜々子ちゃん?」
「森川さん」でも、「菜々子さん」でもなく、「菜々子ちゃん」と、親しみを込めて下の名前を呼ばれたのだから、知り合いに違いない。
でも、声に聞き覚えはなく、その顔にも見覚えはなかった。
返事に困って軽く会釈をした。
「あっ、ごめん。会ったのは一回だけだから、そっちは覚えてないよね。こっちはよく写真を見せてもらってたから。常広です。小島の同僚……元同僚の」
「小島……さんの……」
ずくんと鈍い痛みを胸に感じた。
決して忘れることのできない過去がよみがえる。
「お団子って言うんだっけ? 髪の毛結んでるから、ちょっと自信なかったんだけど、あってて良かった。人違いだったらイタイ人になるとこだった」
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
愚問。
ここは病院なんだから、病院関係者でない以上、患者かその関係者でしかないのに。
「仕事関係の人が入院しててお見舞いに来てたんだ。そっかぁ、看護師さんになったんだ。じゃあ、あの頃は看護学生だったんだ」
実習生のユニフォームと看護師のユニフォームは色が違う。
でも、常広さんはそれを知らないらしく、わたしのことを看護師だと思っているようだった。
普段なら訂正するところだけれど、そうすると当時わたしが高校生だったことまで話さなくてはいけなくなる。
長話は避けたい。
ずくずくとした痛みが体中に広がっていく。
この場から走って逃げ出してしまいたい。
「小島と……別れたんだよね?」
常広さんの方が遼の話を持ち出した。
「別れよう」とはっきり言われたわけじゃない。フェードアウトされた。
連絡しても返事をもらえなくて、わたしもしなくなって……
遼の話なんて聞きたくないはずなのに、遼がどうしているのか聞きたいという気持ちと、聞かない方がいいという気持ちと、全部がぐちゃぐちゃに混ざり合って、頭の中に浮かんでは消える。
「あいつ、菜々子ちゃんのことすごく大事にしてたから」
でも、妊娠がわかると同時に捨てられた。
その現実を再びつきつけられる。
「大切だから別れるなんて理由は納得できないよね。あんなことなかったら、そんな選択、あいつの中でありえないはずだから」
「あんなこと」って、わたしが妊娠してしまったこと……だよね……?
この人に話してたんだ。
それって、妊娠がなかったら、わたしは大切にされてたってこと……?
そんなの……卑怯。
結局、わたしは都合がいい相手にすぎなかったんだ。
遼の言葉を疑いもせず信じていたわたしは何て愚かだったんだろう。
わたしは信じる相手を間違えた。
今ならそれが冷静に判断出来る。
わたしは、あの頃とは違う。
「……連絡、とったりする?」
「とったりしません。もういいですか? 帰るところだったので」
「ごめん、引きとめて。遼が菜々子ちゃんのことすごく好きなの知ってたから、なんかくやしくてさ。でも、まぁ……菜々子ちゃんが受け入れられないのは当然だから……仕方ないんだよね。じゃあ」
最後の……何? どういう意味?
わたしが「受け入れられない」って? 遼じゃなくて?
遼は、自分の都合がいいようにこの人に話してたの?
そんなのひどい。
「あのっ!」
「何?」
「『受け入れられない』って、どういうことですか?」
「え? あのこと――」
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