何もない喫茶店のような店
早瀬 渚
第1話
「ここには何もありませんよ。」
その店は店主の決まり文句である。お客さんが入ってくるたび「いらっしゃいませ」の代わりにそう言うのだ。
「では、なぜ店を?」
今尋ねてきた、お客はそう聞いた。喫茶店か何かだろうと目星をつけて入ってきているので、当然の疑問である。
「ここはただ皆さんの憩いの場となればと建てた、までです。だからこちらは何も用意していない。」
「それでは、経営が危ういのでは?」
「今の日本には年金という収入がありますからね。それで、細々とですが、やっていけるわけです。ここを開いたのも定年退職して、すぐですからね。」
お客の男性はなるほどと思った。確かにそうすれば出来そうである。
「ということは、マスターは人好きということですか?」
「まぁ、そうですね。正しく言うならば、皆が楽しく談笑している……、その姿を見るのが一番の幸福でございます。」
「そうなんですね。じゃあ、すみません。私一人では、叶えられそうにありませんね。」
今、この店には店主と一人のお客を除いて誰もいない。店主の要望に応えられないことに、お客は詫びた。
「いえいえ、とんでもない。私は誰かと話す時間も好きですから。」
「そう言ってもらってありがたい。安心しました。」
「あなたは心配性ですね。それに、あなたはお客さんなんですから、ただリラックスして頂ければそれで十分です。」
店主はそう言って、柔和な笑みを浮かべた。
「はは、確かにそうですね。折角、尋ねさせてもらったのに、強ばったままだと、どうしようもない。」
「はい。どうぞ、リラックスしていってください。今はお客さん一人なので、自由に過ごせますよ。」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます。」
「お礼も大丈夫ですよ。」
「ああ、失礼しました。……生来、心配性なもので。」
「いえいえ、良いことですよ。」
「ははは。この前も、娘の修学旅行があったのですが、都会に行くってもんで、何かに巻き込まれないかどうか、心配で心配で……。妻にそのことを話していると、本当にあなたは心配性ねぇ……と呆れられてしまいまして……。」
「確かに、心配になる気持ちも分かりますが、学校側がきちんと管理しているんですから、大丈夫でしょう。」
「妻にも似たようなことを言われました。問題が起きないように学校が気をつけているんですから、大丈夫ですよ、と。それでも、娘がちゃんと帰ってきたときは、とても安心しました。」
お客はその時のことを思い出したのか、ホッとした表情を浮かべていた。
「何もなくて何よりです。」
「はい。会っていない日は3日だけだったんですけど、本当に久しぶりに感じましてね……。」
そう言って、お客は感慨にふけっていた。その瞬間は、嬉しさと安心など複数の感情が呼び起こされ、幸せをたくさん感じたのだろう。
それを聞いた店主もどこか嬉しそうだった。
「その感じだと、娘さんがお嫁に行くときは大変そうですね。」
「……考えたくもありません。ずっと家にいて欲しいものです。」
一転、お客の顔は真剣な表情になっていた。心の底からそう思うが故であろう。
「しかし、孫の顔も見たいんじゃありませんか?」
「……非常に難しいところです。でも、今はお嫁に出したくない気持ちのほうが強いですね。」
「そうですか。……私にもそんな時期がありましたね。」
「お孫さんいらっしゃるんですか?」
「はい。孫は可愛いもんですよ。」
店主の幸福そうな顔を見たお客は、少し複雑な表情を浮かべた。
「なるほど。……娘さんがお嫁にいくときはどうでしたか?」
「私も少しばかりは反対したい気持ちもございました。でも、相手方がとても紳士的な方でしたので、安心して送り出すことができましたね。」
「……相手は本当に大事ですね。」
「はい。他人に配慮できる方でなければ、結婚生活というのは成立いたしませんから。」
「本当にそうですね。……私にも娘を送り出さなければいけない日が来るのでしょうね。」
「必ず来ますよ。全お父さんが通る道です。」
「私は弱い人間ですから、耐えられるのか心配です。」
「大丈夫です。意外と心がすっきりするものですよ。」
「……そう考えておきます。」
「是非。」
「ありがとうございます。では、私はもうそろそろ時間なので。」
お客はそう言って、席を立った。
「はい。ありがとうございました。また、いらしてください。」
「……はい、必ず。」
お客はそう言って、店を後にした。
何もない喫茶店のような店 早瀬 渚 @hayasedake
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