忘れられない声がある。
そんな中、とくに忘れられない「声」の主がいた。たぶん、女の子だった気がする。
工場で働いてるその子は、はじめて通話したとき、ひどく酔っていた。
話した内容を鮮明に覚えているわけではないのに、その人と話すと、自分が少し自由になれた気がした。
悩みや鬱屈した気持ちを、言葉にしてもいいんだと思えた。
いまでもふと、元気にしているかと思い出すことがある。
ボクらは毎日のように電話をした。日がな一日ずっと通話しているときもあれば、たった数分で「またね」と切るときもあった。
不思議なもので、顔も知らない相手なのに、何時間話していても飽きることがなかった。むしろ、声だけのつながりだからこそ、余計な気を遣わず、自然体でいられたのかもしれない。
お互いの生活に踏み込みすぎることもなく、ただその瞬間の会話を楽しむ。それが心地よかった。
「今日は何してたの?」
「特に何も。そっちは?」
「こっちも同じ。」
そんな何でもない会話が続く日もあれば、深夜になると急に「実はさ」と切り出して、悩みを打ち明け合うような夜もあった。
彼女の工場での仕事の話や、最近ハマっているという趣味の話を聞きながら、僕はその場にいるような感覚で耳を傾けた。ときどき、彼女がふと見せる弱さや、酔った勢いでぽろっと漏らす本音が、妙に心に響いた。
「もし会えたら、何する?」
そんなことを冗談半分で話すこともあったけれど、結局、僕たちは顔を知らないままだった。むしろ、顔を知らないからこそ、この関係が成り立っていたのだと思う。
彼女との会話の中で、僕は自分のことを少しずつ話せるようになった。大学生活のこと、友達のこと、そして、自分がどれだけ孤独を感じているか。彼女はそれを特別なリアクションをするでもなく、ただ静かに聞いてくれた。
「そういうときもあるよね」
その一言だけで、僕の胸の中に詰まっていたものが少し軽くなった気がした。
気づけば、彼女の声は僕にとって特別なものになっていた。昼夜問わず通話を重ねる中で、彼女の声が生活の一部になっていった。電話を切ると、少しだけ寂しさを感じることもあった。
生まれて初めて、テレフォンセックスというものを経験した。
現代では「エロイプ」と呼ばれているらしい。
〈つづく〉
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