【Chapter3. カレンダー】
念には念を入れて原田先輩の全身を隈無く観察してみたのだが、およそ致命傷というか外傷を与えられた形跡は見つからず、単に酒の飲み過ぎで酔臥したであろうことは確定した。
この時点で事件性が無いことはほぼ確定したも同然なのだが、窓硝子が割れてしまっている以上断定することも出来まい。
そもそも室内で何があったのか?
僕の知的好奇心はその解を求めて目を覚まし、暴走列車の如く猛り狂いながら叡智のレーンを走り始めた。
現場の様子をじっくりと観察することで、この複雑怪奇な事件の謎を解き明かすことに専念する。
特に意識を集中させられたのは、やはり現場に散乱した白いポップコーンの大群だろうか。タンポポの綿毛のような、ふわふわとした食物が部屋中の至る所に散りばめられている。
「これは何でしょう。踊り食いでもしていたのでしょうか?」
「だからってここまで散らかりますかねえ」
ポップコーンの軌跡を辿っていると、僕は視線を原田先輩の持つ右手のボウルに注ぎ込んだ。
ボウルには少量のポップコーンが注がれている。この容れ物に部屋中のポップコーンが納められていたのは間違いないだろう。
視線はそこから反対側、原田先輩の左手が掴む奇妙な形の落書きに移動を始めた。
傍に佇む古賀さんも同じ物を見つめているのか、天使の如く柔らかい声色で疑問の言葉を口にする。
「それは……何です? 犯人のモンタージュですか?」
古賀さんの告げた通り、鬼気迫る人間の表情にも見えるが、何せ筆が激しく乱れているので俗に言う『画伯』の腕前と言うより他に適切な表現が思い浮かばない。
「もしかしてこれはダイイングメッセージでは!? 原田さんが犯人の似顔絵を、事切れる寸前に書き記したのではありませんか!」
「原田先輩は死んでいませんよ」
強盗説はあり得ないと、さっき結論づけたではないか。
そもそも原田先輩の周囲に筆記用具の類いが落ちていないのだ。落書きは黒いマジックペンで描かれているようだが、それらしき物が見当たらない。
原田先輩の手から紙を抜き取り観察した。A3サイズのつるつるとした用紙。紙の中央の両端にはセロハンテープが貼ってある。それぞれのテープには二本から三本の体毛が付着している。金色の毛髪である。
更に集中して観察すると似顔絵の両目に当たる部分には小さな穴が空けられている。箸かペンを突き刺して空けた極小の穴。
僕の脳裏に『深淵』の入り口が見えた……ような気がした。
「それ再利用紙ですね」
「えっ?」
「だってほら」
古賀さんは紙の裏側を指差している。
ひっくり返すと、紙の上部にバイクの写真が印刷されていて、その中央には英数字で『1』と表記されていた。更に紙面の九割ほどを統制の取れたマス目と1から31までの細かな数字が彩っている。
原田先輩が握りしめていたのは、壁掛けタイプのカレンダーだったのだ。
「先月のですね、これ」
「……どうして先月のカレンダーがここに?」
僕は首を捻らせた。古賀さんが不思議そうな目で問い返してくる。
「そんなにおかしなことですか?」
「だってカレンダーの紙って剥がした後、どうしますか?」
「そうですね……棄てます、かね」
大抵の人間はカレンダーの紙を再利用しようとして――結局使い道が思い浮かばずに棄ててしまう事が殆どだ。
裏紙をメモとして利用するタイプの人間なら小さく裁断して取っておくかもしれないが、原田先輩はそんなことをするような人間には見えない。
二月に突入して数日が経過しようという
「一応確認しておきますが、原田先輩ってどういうタイプのホモサピエンスだったのでしょうか?」
「凄くガサツです。通帳を炊飯ジャーの中にしまっておくような人ですよ?」
でしょうね。
「肝心のカレンダーは何処にあるのでしょうか?」
「お台所で見かけたような気がします」
キッチンに移動するとそこはとても狭く、鰻の寝床のような空間にガス台と流し台と冷蔵庫がぎゅうぎゅうに押し詰められていた。
光沢質の黒いボディを有する冷蔵庫に目を向けると、片開きのドアにプラスチック製のペン立てが貼り付けてある。中には黒いマジックペンが収められていた。これを使いカレンダーの裏側に芸術的な落書きを施したのだろう。
冷蔵庫の上には電子レンジも乗せてあり、そのすぐ傍に――A3サイズのカレンダーが画鋲を使い壁際に止められていた。
表紙は単車の写真に彩られた二月の物である。一月のカレンダーが僕の手元にあるのだから当然だ。
「原田先輩はガサツなヒトだったんですよね?」
「はい」
腕を組みカレンダーを睨めつける。ガスコンロの周りにポップコーンが散乱していた。コンロの上には鉄製のフライパンが乗せてあって、隣接した流し台の上にトウモロコシの種のパッケージが転がっている。
手に取り観察してみると、パッケージの端っこに小さく『ポップコーン用 豆』と表記されている。
「あのポップコーンは調理した物だったんですね」
てっきりコンビニで購入した市販品を食べていたとばかり早合点していた。
僕の疑問に古賀さんは得意げな顔でプレゼンを開始した。
「原田さんのトレンドはポップコーンです。自分で作らないとファンキーじゃないって言っていました」
流し台の上には飲みかけの発泡酒のスチール缶が乗せてあって――これを飲みながらポップコーンを作っていたのか?
他に着眼点があるとすれば、シンクは汚れた皿が山のように積み重ねられていて、長い間放置されていたことが窺える。
「こんなになるまで洗うのをサボって……もう」
古賀さんがため息交じりに呟いた。今にでもお皿を洗い出しそうな彼女に向けて、僕は疑問の言葉を投げかける。
「食器はここにある物で全てですか?」
「えっと、そうみたいですね」
ガス台の下に備え付けられた収納スペースの扉を開き、そこが空であることを確かめると古賀さんは事も無げにそう断言した。
「……なるほど」
どうにも――たった一つしかない真実を掴み取ってしまったみたいで、僕は嫌気が差してしまった。
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