第22話 不倫旅行の末、金縛りが起こるようになったそうな
——それは今から十数年前の事。
当時も本館は存在し、主な客はそちらに宿泊していた。しかし創業時から変わらぬ場所にあるのは別館のほうで、常連客や通好みの客に好評だった。隠れ家的な楽しみ方もでき、古風な造りの浴場が別館にも備わっていたため、そちらも好評だった。
さて観光シーズンが落ちついた、とある冬の日。
一組のカップルが別館にやって来た。宿泊したのは雉の間だ。
夕食の席では仲睦まじい姿を見せていた二人だが、言ってしまえば不倫カップルで、男のほうに妻子があった。
そしてこの男は、今回の旅行を最後に愛人とは別れる心つもりでいたらしい。せめて旅行が終わってから切り出せばいいものを、晩酌の酔いに任せたか。別れ話は激しい口論になり、仲居が仲裁に入るまでになった。
結局、男は夜の間に宿を出ていき、女だけが部屋に残った。
そして……。
「まさかこの部屋で!」
自分の首を絞める仕草をした美織に、ヒコは「いや、それは違くて」と否定する。
「女のほうは朝ごはんもしっかり食べて帰って行ったんだって」
「な、なんだ」
美織はほっと息をつく。
しかしヒコは続けて、「でも最終的には、ね」と言って合掌する。
美織の表情はすぐさま歪んだ。
「遺書を残してて、この旅館の話もあったらしくてね。んで、警察の人が来たから、女将さんたちもいろいろ話を知ってるんだって」
「へー。さっき聞き込みもしてたんだ」
「まあね。ベテランさんが結構いたからたくさん聞けたよ。あと依頼人から事前に教えてもらってた情報もあったしね」
その依頼人からの事前情報があったので、総支配人の信頼もある程度得られたわけなのだが、美織は「事前情報あったんなら教えてよ」とご立腹だ。
「だって詳しく話したらオリリン、ここに来たくないって言い出すと思って」
「でもここで亡くなったわけじゃないし……、っても、金縛りはこの部屋で起こるんだよね?」
「それはね」
ヒコは専門家ぶった仕草で顎をさする。
「俺の予測だと未練がある場所に出てきてるんだと思うんだよね。ここで別れ話さえしなかったら二人の関係は続いたのにコン畜生め、みたいな」
どうやら遺書の内容からすると、女のほうは男が妻と別れて自分と結婚するのだと信じていたらしい。男のほうがそう思い込ませることで関係を続けていたのか、はたまた女のほうでそう思い込んでいただけなのか、それはわからないけれど。
「男憎しなのか、どうやら金縛りに遭う客も全員が男なんだって。だからまあ護符が効いてないとしても、オリリンはどっちにしろ平気だよ。危ないの、俺だけ」
ヒコは手を下に向けるおばけのポーズをする。被害は男だけと聞き、美織は一瞬喜んだが。
「でも出るのは出るんでしょ、気味悪いじゃん。どうすんの、護符の他に対策ある?」
顔をしかめる。自分は無事でも隣で寝るヒコを狙って幽霊が出るようなら恐ろしいことには変わりない。それなのにヒコは「おじちゃんの連絡待ちだなー」とのんきなものだ。
「あんた今晩金縛りに遭うかもしれないのに危機感ないのね」
「オリリンいるし、金縛りくらいならいいかなって」
「なにそれ。ここの幽霊舐めてると痛い目見るんじゃない? さっきだってあんたに電話してきてたんだし、ロックオンされてるよ」
「うーん、でもオリリンがいるし」
「私に何ができるってんのよ」
はっ、と嘆息交じりに笑う美織だが、ヒコはニコニコしている。
「それで叔父さんは? 今どこにいるの」
「えっと今はイタリアだって。この前ピザの写真が来た」
だからピザなんて日本でもあるだろ、と思う美織だ。
「早く返事してくれたらいいのに。イタリアで何してんの、また悪魔祓い?」
「そうなんじゃない? あっ、でも前に人狼追いかけてヨーロッパ横断してたこともあったから、そっちかも」
イタリアってオオカミいるの?と聞く美織に、「いないの?」とヒコ。しばらくヨーロッパのオオカミ事情について討論したが、答えは出ないまま時間は過ぎて……。
早めにしていてあ夕食の時間である。
部屋まで運んで来てくれるため、座卓を前に正座して待つ二人。
仲居さんがてきぱきと料理を並べていくのを真剣な顔をして眺める。豪華だ。刺身の盛り合わせに小型の鍋物、焼き魚は数種類ある。小鉢には煮物や和え物の他に、見ただけでは何者なのかわからない食材まで、多彩だ。ベースは和食のようだが、洋の味付けの物も多く、カニの甲羅にグラタンが入っていたり、厚切りの牛ステーキが短冊に切って盛り付けてあったりする。
「お酒はどういたしましょう?」
鍋料理の火を点けたあと仲居さんが聞く。美織はずらっと並んだ会席料理に目移りしており返事をしない。ヒコが「どっちも飲まないのでいいです」と断る声を聞きながら茶碗蒸しの蓋を開けた。ほわんと出汁の良い香りに胸までいっぱいになる。
「お料理、まだございますからね。ごゆっくりお楽しみください」
とのことで、鍋の鶏肉の火の通りを見ている間に、さらに数品並んでいく。座卓にあふれんばかりで、てんやわんやだ。まだ残っているのに「お下げしましょうか」と言われるので、急いで一品ずつ片付けていく。
美織は黙々と食べ続けた。嚙みながら次はこれを食べよう、あれを食べよう、と視線が動く。そんな様子にヒコは「オリリン、リスみたーいっ」と笑っている。
裏で仲居さんたちが「あの旦那さん、奥さんにデレデレね」「でも奥さんの方は冷めてる感じよね。ぜんぜん会話してないし」「旦那さんが愛情過多なのよ。モデルさんみたいな見た目だけど話し出すとちょっとアレだったし」なんて、ここでも言われているが、二人は知らぬことである。
そうして食事は終わった。
入りきらず残してしまった美織は悔しさのあまりヒコを責める。
「あんたぜんぜん食べてなかったじゃん。こういうときは吐いても詰め込まなきゃ、もったいないでしょ」
「がんばって食べたよ。オリリンより食べたもん」
「私よりでかいんだから食べて当然でしょ。そうじゃなくて、もっと頑張れただろうって話。最後に来たうどんなんて全然食べてなかったじゃないの」
「でも雑炊は全部食べたもん。あのあと、うどんのターンが来ると思う?」
「一本だけすするあんたみて、私、失望したわ!」
「エーッ、酷いぃ」
理不尽この上ない会話だが、喧嘩しているというわけでもないため、二人は連れ立って部屋を出ると、本館の温泉に入りに行くことにした。
外は陽が落ち、真っ暗だ。灯りはポツポツとあるのだが、足元はほとんど何も見えない。ヒコの照らす懐中電灯を頼りに進むが、階段を下りるようになると転びそうで不安になる。美織はヒコの肘を掴みそのまま腕に抱きかかえた。
「オリリン、大胆っ」
「ふざけないでいいから、ちゃんと足元照らしてよ、見えないじゃん」
ぎゅっと腕を抱えながらも肩や二の腕をベシベシ叩く美織。一方、ヒコは腕に感じる温もりのせいで、全神経が片腕に集中してしまうのだった。
◇
女湯の湯めぐりを制覇し、大満足の美織。
食べたものがパンパンすぎて少しでも刺激が入るとぴゅっと口から出そうだったのだが、温泉を楽しんでいるうちに、すとんと消化できた気がする。あとは男湯のほうの湯めぐりが待っている。交代するのは翌朝だから、なるべく早く起きなくては。
そっちはどんな湯だったのかヒコに聞いてみよう、と畳敷きの休憩所があるあたりで、きょろきょろ探す美織。長身だし目立つ容姿だからヒコはどこにいてもすぐ見つかるはずなのだが。
「いないなあ。まだ入ってるのかな」
連絡しようかな、とスマホを握り締めつつ、売店のほうへ移動すると。
「見っけ」
ヒコも浴衣に着替えている。美織に合わせたのか紺色の無地に黒の帯だ。
で。
「うわあ、囲まれてんなあ……」
懐かしい光景、と美織は感慨深げに眺めやる。ヒコは女性たちにぐるりと一周、囲まれていた。高校時代もあんな風にハーレムを作っていたっけ。
周囲にいる女性たちも浴衣姿だが、湯上りというにはメイクばっちり、髪型も決まっている。美人揃いと言っていいだろう。そんな彼女らが、ヒコを見上げるあの目のきらめきようったら。思わず悪い笑みが出てしまう。ヒコが喋り出したら幻滅して、トラウマにならないといいのだけど。
ヒコは美織の目にも当然カッコよく映る。スラッとした体形に甘い雰囲気の優しい顔立ち。何度か雑誌のモデルの仕事もしたことがあったはずだ。そっちの道に進むのかなあ、と思っていたのだが、今や怪しげな叔父の手伝いしているとは……。
腕を組み、いつ自分に気づくかと観察する美織。と割とすぐヒコと目が合う。オと口が開いた瞬間、美織は「しっ」と指に口を当てた。それから近づき、女性陣の輪の隙間に腕を差し込むとヒコを引きずり出す。
「すみません、コレ、私のツレなんで」
それだけ言うと女性陣の反応を待たず、美織はずんずん進む。しばらく行ってから立ち止まり、掴んでいた手を放して振り返った。
「あんたねえ」
「オリリンっ、さっきキュンときた、颯爽と助け出してくれる俺の女神‼」
きゃっきゃっするヒコ。美織はげんなりした顔を見せる。
「あのさ、一応、仕事中なんだからハーレム作っちゃダメでしょ。ほんと女好きは相変わらずなんだから」
「‼」
ぐらっとよろめいているヒコ。美織は冷たい目でそんな彼を見やったが。
「違うよ、大人しくオリリン待ちながら、イチゴオレ買おうかなあ、って考えてたんだよ。そうしたら、自称、旅行中の女子大生グループって人たちに包囲されたんだ」
崩れ落ちかけたものの持ち直したヒコは、美織にしがみつき弁解を始める。
「ああそう。それでイチゴオレ買ったの?」
「ううん、買う前に襲撃に遭った、一歩も動けなかった!」
「ふーん、じゃあ喫茶寄る? めちゃくちゃ高いけど」
「俺、水分は入るけど個体は無理」
お腹をさするヒコ。美織が軽くパンチすると、「吐くぅ」と身をよじる。
「じゃあ卓球して消化する? こういう大きな旅館なら絶対あるでしょ」
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