第8話 嘘

 里香はそこで理解した。忘却というものは、人が人でいられるために備わった自衛手段なのだと。




「戦いに身を置いたなら分るでしょ。それがついこの前どころか今この場の物のように思い出されるんだ」




 それはつまり、声にしないままそう続けて想像力に身を委ねていた。大けがをした時の痛みやぐちゃぐちゃの死体、あの緊張感による破裂してしまいそうな心臓の鼓動も物騒な匂いや怯え震え、全て総て何もかもが今起こったばかりのことのように思い出されてしまう。それがどれだけ苦しいことなのか、思い返すだけで感情にむせかえってしまいそうで仕方がなかった。




「分かって来たみたいだね」




「ダメ、分からない」




 少女の目は左上へと泳いで言葉を紡いで返してみせた。




「嘘。だいたい分かってるよ」




「そんなこと」




「お見通し」




 そう繋いで会話の橋をかけ続けていく。




「私は何もかも今のことのように思い出されるわけ。で、ある日のニュース、市場へと駆けこむ人を見て羨みながらご飯を食べて気怠い気持ちを押し切って学校に行くわけ」




 きっといつも通りの生活なのだろう、特に否定することも無ければ受け入れることもなく、ただ事実を事実だと受け入れて心の中に落としてみるだけのこと。




「問題はここから。そうやって一日を過ごしました、排気ガスのにおいから学校で繰り広げられた不愉快なふざけ方から先生の無言で口を動かす癖まで全部お見通し、で、帰り道にハトが妙に多いと思った五時半頃。一回それが終わったと思ったら、ひと息ついたら、いつの間にか寝ていたようで目を開けばそこにはまたしても学校に立ってた。不思議でしょう?」




 それは不思議なことこの上ない、そんな教官の相槌を打つ裏で、里香の頭の根の方である事実を想っては震えが湧いて出て、恐怖の感情が目の前の相手を脅威に変え始めていた。




「時計を探してみたらそこには五時ごろを示す針。日付けは変わってなくて。既に通り越したはずのその日、慌ててこの前の、さっきのハトの場所に行ってみたらやっぱり妙に多い。つまり」




 少女は言葉を続ける。聞いているようないないような、曖昧な心地で話を耳に入れることしか出来なかった。里香の中に潜む大きな恐怖が不安を煽る手の伸ばし方でゆらゆらと揺らめくように踊っていた。




「つまり、その日を繰り返してた」




 ネクロスリップ、楓がそう呼んだあの能力を使った日、その日の繰り返すことまで少女は覚えているのだというのだろうか。




 少女の目つきは更に鋭くなっていく。静かでありながらどこまでも強く張り付く憎しみを滾らせながら少女の話はようやく彼女の思う主題へと漕ぎ着けたのだろう。




「きっと誰かが時間を巻き戻したしそれすら覚えてる私がいる。それで異能力者に訊いてみたい。不快なタイムスリップを阻止したい」




 そこから差し込むように投げられた問い、それが里香の心の中で大きく響いた。




「あなた、タイムスリップに関わってない?」




 ダメだ、ダメだ、イケナイ。隠し通さなければ、ネクロスリップのことを知られたら、再び戦いの世界に誘われてしまう。平和というものが途切れてしまう。




「いいえ、知りません」




 幾度目のことだろう。少女は目を左上に動かして、正面を見つめる。その仕草は一体何を追いかけて行われているものだろう。少女は口を開き、枯れ気味の声を絞り出して相手に快感を与える力もない響きを波にした。




「そう……分かった」




 そうして歩みを進め始める。里香の心臓は何処までも速くなり行く。この世の何よりも速いのではないだろうか、緊張感が紡ぎ出す想いは焦りに充ちていて、落ち着いた薄暗い幕となった青が空の画用紙いっぱいに広げられるこの景色の中、里香の心の空は深くて苦しい赤模様。




 少女は更に一歩進んでついに目と鼻の先ほどの距離へと達し、更に進み行く。




――乗り越えた




 安心して隣を歩く恐怖から目を背けようとした途端、里香の思考はひとつの感覚に奪われた。




 腹部を支配するように刻み込まれた感覚、熱はすぐさま根付いて広がり里香の頭まで支配を広げた。慌てて視線を落としたその先に鋭い輝きが充ちていた。落ち着いた空の微かな輝きを受けて鈍い色に染まっていた。滴る紅を目にしてようやく熱が痛みの錯覚なのだと気づかされ、刺されたのだという理解にまで至った。凶器は引き抜かれる。赤い飛沫を、この世で最も見たくない噴水を上げながら、その一部は刃物について行くように空気を伝いながら、里香の心に新たな痛みを与えながら鉄の香りで余韻を残した。




 だらしない着こなしによって隠された右手、そこに彼女は包丁を隠していたのだと知って言葉が出ない。驚きと痛みは里香に対して最大の口封じとして働きかけていた。




 倒れて腹を抑え込む里香に対して、あの枯れ声は容赦なく里香の耳に事実を運び込む。




「嘘。分かるよ。あなた気付いてないでしょう」




 何に気が付けば刺されなかったのだろうか、その解答は感情を抑えた冷ややかな声でただただ述べられた。




「嘘つく時、あなたの目は一瞬右上へと動くこと」




 嘘つきの癖は初めから見抜かれていた。里香が嘘で身を守る時に少女が左上を見ていた。それは他ならぬ里香自身が癖を通して相手に嘘だと自白するという愚かな行ないだったのだ。

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