死海南岸の都市
連休
夕辺の読書
『死海南岸の都市』
中東、北緯三十一度三十分、東経三十五度三十分に位置する塩湖……死海。内陸の閉じた
創世記に登場するソドムとゴモラについて、この死海南東部、紀元前の、前期青銅器時代に存在した都市遺跡バブ・エ・ドゥラーをソドム、ヌメイラをゴモラと考える説があるそうだ。
私が入手した写本に、私がどれほど期待を込めて臨んだことか…………しかしながら、いざ開いた書は、旧約のカインの話を始めようとしていた。…………カイン?
嫉妬は、誰に湧いたものだったのか?
カインの胸中に?
彼は…………神への供物にと、収穫した作物を捧げた。彼の心中には、ただただ神への崇拝と敬愛しかなかった。彼の弟アベルは牧畜の
歴史家や神学者がカインを、人類初の殺人事件を起こした者だと言う。
私は、そうは結論づけない。結びつかない。
神は…………カインの従事していた、農耕を見ておられた。カインは寡黙に働き、悪天候に予測が裏切られても、不平を漏らすことなどしなかった。地に
旧約に描写があるのは、カインとアベルが兄弟だということ、二人はそれぞれに神への供物を捧げたということ、それらに神がどのようにしたかということ。事実と真実はいつだって、必ずしも一致しない。真意については、触れられない。私でさえ遠巻きだった。
ここまで読んで、私は書を閉じた。
この歴史家は信用ならない。
最初の感想だ。そもそも、この、今私が手にしている書が、写しの写しの写しなのだ。オリジナルの原本がどうであったのか。オリジナルの存在自体、信じたとしての話だ。与太話の写本。そう切り捨てるのは簡単だ。がしかし私は、この書を閉じて、忘れる気にもなれなかった。
カインはアベルを殺害した。
カインは確かに自らの手と力で、アベルの息吹をとめ、命を奪ったのだ。死は結果であり、殺害は行き着く先であり、人は時に、他者へ向けた情動の限りが息の根を止めることに通じても、それらを微塵も考えつかずにぶつけるのだ。愚かしいカイン。アベルは死んでしまった。生きている時には、カインの荒れ狂う思いなど、何一つわかりはしなかったのに。
描写などされるはずがない。記されてはならない。神は、カインもアベルも愛しておられたし、人の愚かさと無知なる幼さも見ておいでになられたのだ。
地に落ちて流されたアベルの血は、黙っていなかった。カインに殺された。カインに命を奪われた。カインに息吹を止められた。どれだけ叫び、神へ訴えたことだろう。
神はカインを問いただした。カインは『知らない』と、『私は弟の番人なのですか』と答えた。カインは、アベルを死に至らしめてしまうなど、思いもよらなかっただけなのだ。どうあれ、カインはこの罪で追放の身となった。
カインは生きていかれない、と神に言ったそうだ。生きて、いかれない…………そうだろう。神のみもとから放り出されて、祈りは遠く、それでどうして、生きていかれよう。
カインが本当に恐れていたのは、復讐や迫害に討ち殺されることではなかったはずだ。神から遠く離されること。それが、カインの憂えたことだった。
慈しみ憐れみ深い神よ。また、神は他の何者にもカインを罰することをよしとはされなかった。追放者となりえたカインに
私は一旦、書を閉じて、置いた。
旧約の記述から、大きく
『羊の群れの中から肥えた
この出来事により、カインは激しい怒りと嫉妬を
私は、ユダの裏切りによって
いったい『死海南岸の都市』は、いつ出てくるのやら…………ソドムとゴモラに降り注いだ硫黄と火、天の火から逃げおおせたロトの洞窟、そこに建てられた教会…………不意に私は、イギリスの叙事詩『ベーオウルフ』に出てくる呪われし巨人、グレンデルを想起していた。出自に謎が多いグレンデルは、カインの末裔とされている…………カインにつけられた
カインはノドの地で、息子のエノクが産まれ、最初に建設した都市に息子の名前をつけた。『
ノドがどのような地であったのか? その解釈はどれも的を射たものではなかった。カインは追放されて尚、その心は神のみもとから離れてはいなかったのだ。
まただ。
何が、この歴史家に、カインへ肩入れさせるのだろう? 彼の視点は…………透明なドローンにでもなって、カインを追っているかのような描き方だ。
歴史家なら、そこはノドの地が、神の恩寵から離れた不毛なる場所とされた、信仰のないユダヤ人を指す言葉になった、光の届かぬ地下説すらあった、そういったものをあげるべき箇所であろう。
ましてや、カインの心は信仰を失ってはいなかっただって? どうしてそんなことがわかる。カインは結局、理不尽な追放の憂き目に遭って、
だいたい、彼は、アベルの妻であるルルワを巡る争いが背景にあったことを、何故書かない? 言及すべき焦点が、カインに合い過ぎている。これでは、近視眼的盲目と
私は、夜食前に始めた読書を中断した。
思い上がりの、
カインを語る歴史家がどんなものか、私はまだ何も知ってはいない。
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