41:一難去って

 講堂の裏ではお祭り騒ぎにも似た、大勢の生徒たちが放つ圧倒的なエネルギーの渦に流され、半ば非常事態であるということを忘れていた。


 でも、保健室で漣里くんの治療を見守っている間に、私の心はすっかり冷静を取り戻した。


 右頬を覆う大きなガーゼ、左目の下の絆創膏、消毒を終えたとはいえ血が滲んだままの唇。

 できるだけはたいて土を落としたけど、制服の汚れは残ったまま……あの汚れは暴行の痕だ。


 隣で廊下を歩いている漣里くんの姿を見ていると、胸が塞ぐ。

 私は保健室を出てからずっと、彼と目を合わせることなく、俯いていた。


「……大げさだよな、これ」

「全然大げさじゃないよ。酷い怪我だよ」

 重い空気を和らげるために言ってくれた台詞なんだろうけれど、私の気持ちを晴らすには全然足りない。


 むしろ逆効果だ。

 手当てをしてくれた養護教諭も、漣里くんの顔を見て絶句してたもの……。


 葵先輩も他の生徒たちも野田たちに制裁を加えてくれた。

 あの場にいたほとんど全員が漣里くんを守ると言ってくれたし、もうこれ以上の被害に遭うことはないはずだ。

 でも――そもそもこの事態を防ぐ手立てはなかったのか、他にもっと自分にできることがあったんじゃないかという思いが頭から離れず、泣きたくなってくる。


 廊下の窓から差し込む西日の光がオレンジ色に変わり、私と漣里くんの影が長く伸びている。

 もうこんな時間なんだ……でも、何時だろうとどうでもいい。


 窓の外の景色が夕陽に照らされて美しく輝いていようと、私の心の中は真っ暗だ。

 カラスの鳴き声も、生徒たちの話し声も、誰かが廊下を歩く足音も、全てが等しく雑音にしか聞こえない。


 好きな人が傷ついて、それでも笑えるほど、私は強くなんてない。


「……どうしてこんなことになったの?」

 周囲に誰もいなかったため、私は立ち止まって聞いた。

 漣里くんも足を止めて、私を見る。

 その視線から逃げるように、私は視線を床に落とした。


「……野田曰く、ATMが金を出さなくなったから責任取れ、だって」

「……ATM?」

 意味がわからなかった。


「小金井は過去の虐めの事実を口外しないっていうことと、それから俺に報復しないっていう二つの約束を取り付けて、野田たちに金を払ってたらしいんだ」

「え」

 ってことは、小金井くん……四月からいままでずっと、お金を巻き上げられてたの!?


「俺たちが真相を暴露したことで小金井も野田に反旗を翻し、金を払わなくなった。だから、俺が責任取って小金井に取り立てるか、もしくは代わりに金を払えって脅してきた」

「……なんて奴なの……」

 脳裏に野田たちの顔を思い描き、私は怒りに震えた。


「四月にあいつらを殴った後、しばらくは闇討ちとかを警戒してたんだ。野田はああいう性格だから、絶対報復しにくると思ってた。でもいままでなんともなかったのは、小金井が防いでくれてたんだよ。そんなこと、俺、全然知らなかった」

 小金井くんは小金井くんなりに、自分をかばってくれた漣里くんを守ろうとしてたのか……。


 でも、私が真相を暴露したいと言ったから、野田たちを口止めする意味もなくなった。

 約束が失われることで、もし野田が漣里くんへの報復を決めたとしても、彼には戦う力があるし、大丈夫だとたかをくくったのかもしれない。

 小金井くんだって、長いこと野田に搾取され続けるのは嫌だったはずだもの。


 私の働きかけが、いい加減に野田の呪縛から解放されたいと願う小金井くんの背中を押したんだ。

 小金井くんが教室でやたらと攻撃的で、人を見下すような発言を繰り返していたのも、真相を知ったいまなら、野田たちによる多大なストレスが原因だとも考えられる。


 ――君の短絡的行為によって、僕はいまでもあいつらにつきまとわれてるんだ。いい迷惑だよ、全く。


 屋上でのあの言葉も、半分は本音だったんだろう。


 恩人に感謝する気持ちと、漣里くんを庇うためにお金を支払い続けなければならないという状況の板挟みになって、苦しかったんだろうな……。


「その話を聞いて、俺は『お前らクズだな』って言った」

「……その言葉が野田たちに火をつけたんだね」

「ああ。こうなるとわかってて、わざと怒らせた。俺自身が暴力の証拠だ。一方的に殴られた現場を多くの生徒が目撃した以上、もう前みたいな『不良同士のただの喧嘩』じゃ済まされない。あいつらはこれから裁きを受けることになる」

「そうだね……」

 でも。

 それなら良かった、とはとても思えない。


「……なあ、真白。なんでこっち見ないの?」

 何故って、ガーゼに覆われた顔を直視するのが辛いから。

 どうしてもっと早く到着できなかったのかと、手のひらに爪を立て、自分を責め続けているから――。


 答えられずにいると、突然、漣里くんに手を掴まれた。


「ちょっと来て」

 漣里くんが私を連れて行ったのは、自習室として生徒に開放されている部屋だった。


 本棚と机のセットがあるだけの小さな部屋。

 文化祭準備期間中ということもあり、中には誰もいない。

 漣里くんもそれを見越してここに来たのだろう。


 彼は私を部屋に連れ込むと、電気をつけて扉を閉めた。

 生徒たちの声が少しだけ遠くなる。


「座って」

 立ち尽くしていると、漣里くんに促された。

 とりあえず、一番近い机に腰掛ける。

 漣里くんも隣の椅子を引いて座った。

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