レモンが実る、あの場所で

ゆーま(ウェイ)

レモンが実る、あの場所で

その日は、朝から土砂降りの雨が降っていた。もっとも俺みたいな根暗な人間には、雨だろうがなんだろうが関係ない。そんなことを考えながら月野つきのは一人で教室の窓から外を眺めている。

俺はクラスで孤立している。もう二年生の半分が過ぎたというのに周りに人がいないのは、人と話すことを避けて環境に頼った結果だ。他の人は部活やら遊びやらで多くの人と関わり良好な友好関係を築いている。反面、俺はコミュ障・友人0人のいわゆる「陰キャ」であり、一年半の歳月をかけて出来上がった輪っかの中に、俺が入る余地はない。

別に周りを妬んでいる訳ではないが、なにか特別な存在は欲しいと思う。誰かの特別になりたいし、特別と思えるなにかが欲しい。そうすれば自分の中の何かが満たされると思っている。こうして放課後の教室で独り黄昏るのが俺のルーティーンだ。

そんな中突然、俺の耳に甲高い声が響く。教室の閑散とした空気が一瞬にして壊される

「つーきーのーくーーーーーん!!!!」

あぁ、うるさい。これだけはいつまで経っても嫌だ。

「やっと来ましたか…」

俺の唯一の楽しみ、それは部活だ。と言っても、俺と先輩の二人しかいないが。そして、俺を大声で呼ぶ彼女こそが日高ひだか先輩だ。童顔で低身長、いかにも清楚系なボブカット。明るくてパワフルで、優しい人。綺麗よりかわいいが似合う女性だ。


入学して間もない頃、好奇心で校舎裏に行くと、一本の檸檬の木が植えられているのを発見した。その木は不思議と目を奪い、しばらく木の前で立ち尽くしてしまう。ふと我に返ると、木の真ん前に小さな物置があることに気付いた。それが部室である。そこは異様に古臭く、不気味な雰囲気を感じさせる。引き返そうとしたところ、先輩に遭遇した。これが俺と先輩の出会いだ。

途端に目を輝かせた先輩は俺を部室へ連れ込み、入部届を手渡した。何度も入部はしないと伝えたが、結局、先輩の圧に押され入部した。正直、先輩の整った容姿に惹かれて興味本位で入ったが、そこは意外にも居心地がよく、今ではすっかり居場所となっている。


部室に着くと、先輩は速攻で椅子に座る。部室の中は物置らしい内装をしており、中央に机が四つと椅子が三つ。壁にはカレンダーと風景画が飾られていて、必要最低限の物しか置かれていない。

俺も席に着き、余った椅子に荷物も置く。部活なんて言ってるがそんなのは肩書きだけで、特にやることはない。いつも通り、各自好きなように過ごしている。要するにただの時間潰しだ。先輩はカバンの中から筆記用具とノートを取り出し勉強を始める。やはり上学年の内容は難しいのだろうか。俺はというと、前に古本屋で見つけたミステリ小説を開き、作者が生み出した異質な世界を堪能する。この時間は俺にとって癒しを与えてくれる。


ここに来てから一時間ほどたっただろうか…?そろそろ退屈になってきたな…

下校時刻まではまだ時間があるのでここにいられるが、そうまでしてここにいる必要はなく、飽きたら帰れば良い。だが俺にはそれができない理由がある。

「月野くん、私のことは気にしなくていいからね」

いきなり放たれたその言葉は哀愁を帯びていた。きっと俺の退屈さが滲み出ていたのだろう。先輩は潤った瞳で、部室の天井を見つめる。

「大丈夫っすよ。俺はここにいたいですから」

もちろん本心である。それでも先輩は天井を…それより先の遠い場所を見続ける。あるのは未来か、誰しもが導かれる天の世界か。


そうだ、一つ話し忘れていたことがある。この部活と先輩について。

この部活は無くなる。それは、この部活が先輩のわがままで残されているからだ。年々入部者が減り、学校全体の意見として廃部が決まっている。

そして、その先輩すらも来年にはいなくなる。卒業や転校が理由ではない。なぜ全体の意見で廃部と決まった部活が、先輩のわがままだけで残っているのか。

それは…先輩の余命がだから。

生まれた時から病弱で、中学入学前に不治の病と診断されたそうだ。今まで様々な治療法を試したが、つい最近、諦めた方がいいと医師に告げられたと聞いている。俺も初めて聞いたときは驚きを隠せなかった。先輩の死は確実に決まっている。なので、学校は彼女のわがままを認めている。俺としても、残りの時間を楽しく過ごしてほしいと思っている。

「あのね月野くん、私…」

キーンコーンカーンコーン

まるで先輩の言葉を遮るように下校のチャイムが鳴り響く。鳴り終わるのを待って俺は聞き返した。

「うんん…やっぱ何でもない。また明日ね」

だが先輩が続きを話さずニコリと笑う。くるりと半回転し、先輩は部室を出て行った。先輩の言うまた明日には、どれほどの重さが詰まっているのだろうか。俺には知る由もない。


結局、昨日のあの言葉の続きが気になって寝れなかった。おかげで授業中の居眠りで怒られた。それは俺が悪いか。だが、起こされた時の周囲の視線が一気に集まる瞬間は生きた心地がしない。それでも無事に今日を乗り越え、安息の地である部室へ来ている。この場所だと重い瞼でも本が読める。当の本人である先輩は何事もなかったかのように自然体で接してくる。

「月野くん、たまには外で遊ぼうよ」

「断ります」

「じゃあ運動部に混じってこようよ」

「遠慮します」

「なら体育館で…」

「やりません」

部室内が沈黙に包まれる。途端、この静けさに恐怖を感じた。小さい頃、女性を怒らせると恐ろしいぞと父親が言っていたのを思い出した。

「たまにはいいかな~って思ったのに…」

小さく呟いているのが聞こえる。机に乗って足をぶらつかせている姿が子供らしくてなんとも可愛らしい。だがダメなものはダメだ。

「何を言われても行きませんよ。そもそも先輩は運動できる体じゃ…」

咄嗟に右手で口を抑える。なんてことを言ってるんだ俺は。だが、そう気付いた時には遅かった。あまりのデリカシーの無い発言に、自分への嫌悪が心に生まれる。

「私…負けないから…」

…?まさかそこまでしてでも行きたいのだろうか。なら少しくらいなら…

「あのさ月野くんにいっこだけ、わがまま聞いてほしいの」

驚きを隠せきれず、間抜けた声が出てしまった。

この部活が残ってるのは先輩のわがままだ。だけど先輩はわがままを乱用したりはしない。事実、俺は先輩にわがままを言われたのことが一度もない。

「土曜日、二人で遊びに行こ」

本を持っている手の力が抜け、真下に落下する。それは、世間一般に言う『デート』なのでは……


「これのどこが遊びなんだよ…」

週末、先輩に連れられやってきたのは大きなショッピングモール。沢山のお店を回って色んな表情の先輩が見れるんだろうな~なんて妄想をして俺は心を躍らせていた。だがしかし、現実は違う。ただただ先輩のショッピングに付き合わされただけだ。文字通り、ショッピングを。挙句の果てに俺を荷物持ちとしてこき使って…もうちょっとしゃぐものだと思ってたのに…

「月野くん、大変そうだね~」

「他人事だと思って…」

先輩はニコニコと不敵な笑みで俺に声をかける。誰のせいだと思ってるんだ。そりゃあ両手が塞がるほどの荷物があれば大変ですよ。

でもまあ、先輩も楽しんでるみたいだし悪くはないかな…なんて考えながら、横で歩く先輩に視線を向ける。なんともご満悦の様子。

そういえば並んで歩いてる俺らって傍から見たら…考えるのはやめよう。気をそらすため先輩に話を振る。

「それにしても、いきなり誘われたときは驚きましたよ。わがままなんて言わなくても付いて来たのに」

「私、こうやって買い物するの初めてだってからつい…」

そうだ…小さい頃は病院生活だった先輩にとっては未知の体験なんだよな。

「先生から許可が出たんですか?もしかして体がよくなってたり…」

返事は、少し間を空けて返ってきた。

「今日だけはいいんだって。少しなら大丈夫って先生言ってたから」

先輩は俯いて答えた。『今日だけは』俺はその言葉に引っかかった。もしかしたらもう少しで先輩は…確信のない不安が募る。先輩の方が不安なはずなのに。


先輩の家に着いた時にはもう日は沈んでいた。大量の荷物から解放された俺は伸びをする。

「今日は誘ってくれてありがとうございました。楽しかったですよ」

正直言って荷物持ちで疲れたが、楽しかったのは事実だ。

「こちらこそありがと。月野くんと行けて私も楽しかった」

子供のような無邪気な笑顔に心打たれる。かわいいなぁまったく…

先輩はもう半年でいなくなる。そんな現実を忘れるくらいに今が幸せだった。世界に俺と先輩しかいない、そんな感じがした。この時間が永遠に続いてほしいと願った。

「さっ、もう暗いし気を付けて帰ってね。送ってくれてありがと」

確かに明かりがないと何も見えない。背後に迫る暗闇を確認する。すると俺は突然怖くなった。夜の闇に飲まれたように、突然と。なぜか、もう先輩に会えなくなるような気がした。

「先輩…また、部活で」

先輩は目を見開いて、悲しみを訴えるような顔をしていた。

「っ……じゃあね、月野くん」

すぐに笑顔を作って、別れを告げる先輩。玄関の扉が静かに閉まる。

俺は見逃さなかった。笑った先輩の目尻に涙が垂れていたのを。

無機質な扉に阻まれ、先輩の姿は見えなくなった。扉を隔てた先にいる先輩がなにを想っているのか、俺には想像すらつかない。

俺の中に残る不安はただの思い過ごし。そう何度も自分に言い聞かせた。だけどその後も不安は消えることなく、俺を苛んだ。

次の日、目が覚めた時には雨が降っていた。


「本当に大丈夫なんですか?」

白一色の壁で囲まれた病室に俺と先輩はいた。ベッドに横たわっていた先輩は上半身を起こし、肘をまげてガッツポーズを取る。

「大丈夫だって~よくあることだから、すぐ戻るよー」

今まで人と接してこなかった俺ですら分かるほどに、先輩の笑顔は空笑いだった。

先輩はポーズを崩して壁に背を預ける。

「どうして俺が病院に呼ばれたんすかね?」

昼頃、俺はスマホの着信で目覚めた。面倒臭がりながらもスマホを手にし、画面に表示されていた着信元に俺は仰天した。先輩のかかりつけの病院だったのだ。

電話に出ると、看護師の女性がすぐに来てほしいとのことだった。雨が降っているので時間がかかるかもしれない。だが、昨日を払拭するため、すぐに行くことを決めたのだ。

「私が呼んだの。月野くんに来てほしかったから」

病院に着くと、電話の声とは別の人物であろう看護師が事情を説明してくれて、病室まで案内してくれた。なんでも、朝方先輩が倒れて病院に運ばれたんだそう。その看護師が言うには、いつもよりも苦しそうだったとのこと。

「やっぱり昨日のことで負担がかかったんじゃ…」

やはり原因はそれだろう。ショッピングモールを周回するのにはそこそこの体力を要する。先輩の虚弱な体には大きすぎる負荷だったんだ。

「違うよ…」

「えっ…?」

その後暫くの間は、お互い何も喋らなかった。病室内に静寂が広がる。

先輩はずっと外を眺めていた。豪雨級の大雨が奏でるハーモニーが先輩の表情を和らげていた。その姿はまるで絵画のように美しく、部室前の檸檬の木のように俺の目を奪った。

「一つ聞きたかったんですけど、部室の前の檸檬の木はどうしてあんな場所に植えられてるんですか?」

その問いの答えは返って来なかった。代わりに先輩は俺を見てニッコリ笑った。

「来てくれてありがとう。いきなり呼び出してごめんね」

消えてしまいそうな、透明な声が部屋中に響く。

「あのね、月野くん…    」

先輩はそう言って眠ってしまった。

俺は先輩の小さな手を握った。温かかった。先輩の脈拍が伝わってくる。眠っている無防備な先輩にするには卑怯だって分かってる。そんな俺を責めるかのように、雨が強くなる。


色んな感情が複雑に絡まった。

人生で初めて経験だった。

桜のような薄紅色。

小さくて実に可愛らしい。

艶やかで柔らかい。

レモンのように甘酸っぱかった。


驚くほどに綺麗な人だった。絵画から飛び出たかのような人で、何をしていても目を魅かれる。そんな先輩は病気で長く生きられない。残り半年しか余命がない。

その日は、朝から土砂降りの雨が降っていた。昼間には先輩と話していた。主治医も悪化はしていないと言っていた。だからそれを信じて帰宅した。

その日の夜、日高先輩は永い眠りについた。

死因は病気によるものではなかった。病室には大量の睡眠薬が見つかり、すぐに自殺だと判明した。

前に言っていた「負けないから」と。

『私は病気なんかに負けないよ。私が死ぬのは私が殺したから』

前々から決めていたのだろう。

俺も言えばよかったな…「  」って。それももう遅い。

先輩は苦しんでいた。泣いていた。

死んでしまった。



桜が舞う季節、春になってもまだまだ寒い。

卒業式を終えて、教室に戻った途端に騒ぎ出すクラスメイト達。相変わらずうるさいな。だけど、この喧騒も今日で最後だ。俺たちは明日からはもう高校生じゃなくなる。三年間通った校舎、あれだけ毛嫌った同級生たち、必要最低限しか関わらなかった教師たち、そんな日常に別れを告げる。思い入れが無いせいか、案外寂しくないんだな。最後に、担任に挨拶して校舎を立ち去ろうとした。だが、校門の前でとあることが頭に浮かぶ。

たった一つ、思い残したことがある。あそこに行きたい。思い出の、あの場所に。

だが、行ったらまた思い出してしまう。戻らない幸せだった時間を。そんな相反する気持ちが俺の心の傷を抉りかえす。

「最後くらい…行けよ」

校舎裏にある物置を部室にした部活。そこには先輩との思い出が詰まっている。だから行かなかった、行けなかった。先輩がいなくなってから今まで、一度も。

楽しい思い出も、嫌な思い出も、もう全部過去になってしまった。それを思い出したくなかった。思い出したら、耐えられないから。分かってたから近寄ろうともしなかった。


ここに来るのも約一年半ぶりとなる。部室前に植えられた檸檬の木に相変わらず目を奪われる。一つくらい実ってて欲しかったな。またレモンを見てたら先輩が来るんじゃないかって思った。そんなわけないのに…

見た目の変わらない部室は、異様に古臭く、不気味な雰囲気を感じさせる。当時は不気味さすら覚えたが、今となってはこれが俺を安心させる。

ここまで来ても、中に入る勇気が湧かなかった。でも、相反する気持ちが引き返すことを拒む。思い切って、部室の扉を開く。

目の前にはあの時と何ら変わらない物置らしい内装の部室が広がる。中央に机が四つと椅子が三つ。壁にはカレンダーと風景画が飾られていて、必要最低限の物しか置かれていない。そんな質素な空間。

俺は本を読んで、先輩は勉強をして、あの日の情景を思い出す。

全ての物が埃かぶっている。あの時から捲られていないカレンダーが、俺に現実を突きつける。

ただ一つ、いつもの部室にはないものが置かれていた。並べられた机の上に一通の手紙があった。

かわいいウサギのシールで封をされていて、俺宛だと記されている。

ウサギのシールをキレイに剝がして中を見る。中身は四つ折りにされた一枚の紙が入っていた。その小さく丸い文字は、間違いなく先輩のものだ。近くにあった椅子に座ってそれを読む。

読み終えた時には涙が止まらくなっていた。先輩からの最後のメッセージ。そこにはこう書かれていた。

【月野くんへ

今までありがとう。私はこれでいなくなっちゃうけど、月野くんはこれからも幸せに生きてください。私は、最期にちゃんと月野くんに伝えたのかな…?私のことだからきっと無理だろうな。だからここで伝えます。

月野くんがいつも見ていた檸檬の木は、ずっと前にこの学校の生徒だった人が植えたんだって。その人も私みたいに病気ですぐ亡くなっちゃって、学校がその人の想いとして残してくれたみたい。部活もその人の為に学校が作ってくれた居場所なの。私はそれを知ったとき運命みたいなものを感じて、この場所を好きになった。ずっと一人で寂しかったけど、月野くんが来てくれた時はすっごく嬉しかった。だから、月野くんにはずっと感謝してる。本当にありがとう。】

短い手紙だった。大きな紙だから余白が多い。それでも、先輩の想いが伝わった。

過去にも先輩のような人がいたんだ。この部活も、檸檬の木も。その人の為のものだった。

しばらくの間、俺は一人で泣いていた。この場所から離れたくなかった。ここにいれば先輩がひょっこり顔を出してくれる。そんな幻想が現実になってほしい。離れたくない。先輩との思い出の場所から。

『泣かないで、月野くん』

聞こえた気がした。先輩の声が、すぐそこにいるみたいに。違う…間違いなく先輩はここにいたんだ。そう思わせるものが目に入ってきた。

部室の中から見える檸檬の木に、黄色い果実が実っていた。それもたった一つだけ。さっき見てた時にはなかったはずの果実が、俺を見つめるようにそこにある。

「先輩…檸檬、実りましたよ」

俺のこんな姿見たら、きっと先輩はいじってくるんだろうな。それだけは勘弁だ。

立ち上がって、部室を出る。先輩の残した手紙を持って。


生きようと思った。先輩が帰って来た時に俺がいないと、先輩も泣いちゃうから。

出会った時のように、檸檬が俺たちを導いてくれる。そう信じて生きたい。

「先輩…聞こえますか?先輩が迷わないように、ちゃんと俺が育てます。この檸檬を。だから安心してください。俺が先輩を想う気持ちは変わりません」

ちゃんとお別れしないとな。その為には、この檸檬が必要だ。先輩のと出会った場所で…レモンが実る、この場所で…お別れを。

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