第14話 接近

 久しぶりに学校へ行く準備をするため、制服に袖を通した。

 その布の感触が、なんだか妙に重く感じた。久しぶりすぎて、これが本当に自分のものなのかとすら思えるほどだった。


 姉が背中を押してくれたから、少しだけでも前に進む気になれたのかもしれない。


「話すだけでいいんだよ。家族にはどんどん言いなさい。」


 昨晩、姉が言ってくれた言葉が頭の中で何度も繰り返される。


 ……行かなきゃ。


 自分にそう言い聞かせ、鏡を見た。そこには、目にうっすらクマを浮かべた自分が映っていた。



 リビングに降りると、母さんがキッチンで朝食の準備をしていた。


「おはよう、悠木。学校行くのね。」


 振り返った母さんの表情には、安心と心配が混ざり合っているのがわかる。


「無理しないでいいからね。」


 その言葉が胸にじんわりと広がる。優しさに満ちた声だった。


「……うん、大丈夫。」


 作り笑いを浮かべながら答える。母さんの優しさが逆に心に刺さるような感覚があった。


 テーブルに座り、用意してくれた朝ごはんを見つめる。箸を手に取ろうとするが、なかなか手が動かない。


「悠木、ちゃんと食べなきゃだめよ。力が出ないでしょ?」


 母さんがそう言いながら、笑顔で味噌汁を差し出してくれる。その笑顔が、どれだけ自分を心配しているのかを物語っていた。



 食卓の端では父さんが新聞を読んでいた。そんな彼が、新聞をゆっくりと畳み、僕に目を向けた。


「悠木。」


 名前を呼ばれると、どこか背筋が伸びるような気がする。


「何かあったら、何でも相談しろ。」


 その言葉は、特に感情を込めたものではなかった。でも、父さんなりの精一杯の気遣いだということは、わかっていた。


「……ありがとう。」


 小さな声でそう答えると、父さんは短く頷き、再び新聞を手に取った。


 その仕草が、いつもより少しだけ温かく感じられた。



 朝食を終え、玄関で靴を履く。

 窓の外に目をやると、真白の姿がないことに気づいた。


「……そりゃ、そうだよな。」


 心の中で呟いた。


 あの日以来、真白がここで自分を待っているはずがない。彼女との間に築いてきた関係は、自分自身の手で壊してしまったのだから。


 それでも、どこかで期待してしまっていた自分がいた。それが、さらに胸を締め付ける。


 仕方ないよ……。


 呟きながらも、心の中ではどうしようもない寂しさが渦巻いていた。



 外に出ると、少し冷たい風が頬をかすめた。見上げた空は、どこまでも広く、澄んでいた。


 行くしかない。


 自分に言い聞かせながら、足を一歩前に進める。


 真白のこと、武田のこと、そして斎藤のこと――胸に引っかかるものはたくさんある。


 それでも、少しだけ勇気を持って歩き出した。




 教室のドアを開けた瞬間、視線が自分に集まるような気がして、足が一瞬止まる。


「誰も……気にしてないよな。」


 そう自分に言い聞かせながら、そっと席に向かう。


 いつもと同じ教室、同じ顔ぶれ、同じ空気感――だけど、自分にとってはどこか違う。



 真白の席が目に入る。彼女はクラスメートたちと話しているが、どこか以前より静かに見える。


「真白……。」


 名前を呼びかけそうになるが、声が喉の奥で止まる。

 一度目が合った気がした。けれど、すぐに彼女は視線を逸らした。

 胸が締め付けられるような感覚に襲われる。


 当然だよな……。


 真白が僕に近づいてくるはずがない。


 彼女の気持ちを踏みにじったのは他でもない、自分だ。


 武田の席を見ると、彼は何か本を読んでいるようだった。周りの男子たちの話にも加わらず、ただ静かに机に向かっている。


 武田……僕、どうすれば……。


 何か声をかけたい。でも、どうせ拒絶されるのが目に見えている。


 僕から話しかける勇気もなければ、彼が許してくれるとも思えない。


 二人の存在が、まるで自分を避けているように感じられる。そのたびに、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みが広がっていく。



 視線を移すと、斎藤が教室の中心で笑いながら女子生徒たちと話しているのが見えた。


 何で、あいつが……。


 嫉妬なのか、憎しみなのか、自分でもわからない感情が胸をざわつかせる。


 彼の声が聞こえてくる。その低くて心地よい声が、教室の中を滑らかに通り抜けていくようだ。


 周りの女子たちは楽しそうに笑い、その輪に引き寄せられるようにしてさらに人が集まってくる。


 何なんだ……何がそんなに人を惹きつけるんだ……。


 見ているだけで、自分の存在がどれだけ取るに足らないものかを突きつけられる気がする。


 僕とは……全然違う。


 そう思うと、ますます目を向けることすら苦しくなった。



 手元のノートを開き、ペンを握る。


 何か書けば、少しは落ち着くかもしれない……。


 絵を描くわけでもなく、ただペンを走らせる。


 真白……武田……。


 名前を書いてみる。その横には、ぐちゃぐちゃに乱れた線が走る。


 斎藤……。


 そう書いた瞬間、手が止まった。


 何やってんだ、僕。


 ページをじっと見つめる。そこに書かれているのは、自分の不安や疑問の断片だけだった。


 こんなことしたって、何も変わらないじゃないか。


 自嘲気味に笑ってみても、その声は教室の喧騒にかき消される。


 誰も僕のことなんて気にしていない。

 真白も武田も、そして教室の誰一人として――。


 でも、それがかえって苦しかった。


 僕は……ここにいる意味があるのか……。


 ノートを閉じ、視線を机の上に落とした。


 胸の中にあるのは、孤立感と無力感だけだった。




 そんな中で僕にはやるべきことがあった。


 教室の隅、窓際の席で静かに本を読んでいる影浦愛美が目に入った。

 長い黒髪で顔がほとんど隠れている。いつも伏せ目がちで、誰とも話していないその姿が妙に気になった。


 ……影浦。


 自然と名前を口の中で呟いていた。


 彼女が僕にメッセージを送ってきたのは、何か理由があるはずだ。それを考えるたびに、胸がざわざわする。



 彼女の手元にある本のページが静かにめくられていく。その動作は、彼女がこの世界から切り離されたように見えるほど静かで、自分を遮断しているようだった。


 どうして、僕にメッセージなんて……。


 その疑問が頭から離れない。クラスメートではあるけれど、ほとんど話したことがない相手。特別目立つ存在でもなく、むしろ誰からも気づかれないようにしているように見える。


 聞いてみなきゃ……わからないか。


 胸の奥に小さな勇気が生まれる。その一方で、不安がじわりと広がる。



 席を立つとき、心臓が強く脈打っているのを感じた。


 よし……行くんだ。


 足を一歩踏み出すたび、緊張で全身が固くなる。教室中の視線が自分に向いているような錯覚すら覚えた。


 でも、誰も僕を見ていないことを知っている。それが逆に、胸を締め付けた。


 話しかけるだけだろ……簡単なことだ。


 自分にそう言い聞かせながら、影浦の席に向かう。


 彼女は相変わらず本に集中しているようで、僕に気づいていない。



 席の横に立ち、喉の奥から声を絞り出す。


「ちょっと、いいかな?」


 その言葉に反応した影浦が、急に肩を跳ねさせた。


「ひゃ!?」


 まるで予想外の大声が返ってきた。



 影浦は顔を上げた。その目が驚きと怯えで大きく開かれている。


「え……?」


 僕がそう呟く間もなく、彼女は急に椅子を引き、立ち上がった。


 その動きはあまりにも速く、驚くほどだった。


「ち、ちょっと……。」


 僕が言葉を続ける間もなく、影浦はその場から逃げるように教室の外へと駆け出していった。



「……え?」


 呆然とその場に立ち尽くす。彼女が急いで出て行ったドアが、静かに閉まる音だけが教室に響いた。


 な、何なんだあの子は……。


 ぽつりと呟いて、自分の中に残った疑問を整理しようとする。でも、彼女の行動の理由が全くわからない。


 僕……何かしたか?


 胸の奥にざわつきが広がる。その理由を確かめたいのに、どうしたらいいのかわからない。

 ただ、自分の言葉や行動が彼女を傷つけたのではないかという不安が、じわじわと広がっていった。



 影浦が教室を飛び出してから数分が経った。


 僕はまだ彼女が座っていた席の隣に立ち尽くしている。椅子が少しだけずれているのを見て、彼女の慌てた様子を思い出す。


 ひゃ、って……何なんだよ。


 小さく呟きながら、胸の奥でざわざわとした感覚が広がるのを感じた。



 影浦が自分にメッセージを送ってきたそれは事実。

 それがきっかけで、僕はようやく携帯を手に取り、少しだけ前に進む気持ちを持てたのに。


 じゃあ、なんで……。


 彼女の行動と、そのメッセージが全く結びつかない。


 心配してたから、送ってくれたんじゃなかったのか?


 その思いが頭をよぎるたび、胸がざわつく。


 あれが……彼女の本心だったのか?


 影浦の大きな瞳に浮かんだ驚きと怯えの表情を思い出す。それが胸に刺さるように痛かった。

 自分の言葉や態度が、彼女にとって不快だったのかもしれない。そんな不安がじわじわと広がり、心を重くしていく。



 席に戻り、机に肘をついて頭を抱えた。


 影浦……。


 名前を呟いてみる。クラスの隅でいつも静かに本を読んでいる彼女の姿が浮かぶ。


 誰とも話さず、自分の殻に閉じこもっているように見えた。そんな彼女が、僕に連絡をくれた理由が気になって仕方がない。

 その答えがわからないまま、疑問だけが頭を巡る。



 あのままじゃ……ダメだよな。


 心の中で呟く。彼女が自分にメッセージを送ってきた理由、それを確かめずに終わらせるわけにはいかない。


 聞きたい。ちゃんと、話したい。

 胸の奥で、そんな思いが静かに芽生える。


 さっきの影浦の反応が、自分にとってどれほど予想外だったとしても、彼女が何を思っているのか知りたいという気持ちは消えなかった。


 もう一度……話しかけてみよう。


 その決意が、自分の中で徐々に強くなっていく。



 でも……また逃げられたらどうしよう。


 不安が頭をよぎる。彼女に近づくことで、さらに彼女を傷つけてしまう可能性だってある。


 それでも、知りたいという気持ちの方が勝っていた。彼女が自分に連絡をくれた理由、その真意が何だったのかを。


 次は、もっとちゃんと伝えよう。


 心の中でそう決めると、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

 影浦のことを考えると、不安と緊張が混じった感情が押し寄せる。それでも、彼女の真意を知りたいという思いが心の中で膨らんでいく。


 俺に連絡してくれた……その理由が知りたいだけだ。


 その小さな願いが、僕を次の行動へと突き動かそうとしていた。


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離れていく中であの子だけは僕を見ていてくれていた……? ワールド @word_edit

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