2章 地味な女の子

第13話 説得

 部活にも行けない。学校にも行けない。


 最初は体調不良を理由にして、無理やり休んでいた。でも、実際のところ体調が悪いわけではなかった。


 部屋の隅に座り込んで、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々。


 どうして……こうなったんだろう。


 頭の中を後悔ばかりが巡る。


 先輩のこと、真白のこと、武田のこと、そして斎藤――考えれば考えるほど、心の奥に重い鉛のような感情が沈んでいく。



 僕が全部、悪かったんだ。


 何度も呟いてみる。でも、その一言で何が変わるわけでもなかった。


 胸の奥に広がるのは、自己嫌悪と悲しみ。


 ……誰にも会いたくない。


 誰にも責められたくない。だけど、それ以上に、自分自身と向き合うことが怖かった。



 そして母親が心配そうに聞いてくる。

 その声には、本気で気にかけている優しさが滲んでいた。


「……何でもないよ。」


 それでも僕は、拒絶するように言葉を返すしかなかった。


 父親が続けて「何かあったら話してみろ」と言うたび、胸が痛んだ。


 こんなこと……話せるわけない、よね。


 心の中でそう呟く。自分が抱えている感情や出来事を、親に話すなんて恥ずかしくてできない。


 別にいじめられたわけじゃないし……。

 そう思っても、言葉にするのは無理だった。心配をかけたくないという気持ちと、自分の中の未熟さがぶつかり合い、口を閉ざしてしまう。



 窓から見える夕焼けが、妙に心に刺さる。


 何やってんだ、僕。


 動かなきゃいけないのはわかっている。でも、身体が言うことを聞かない。


 部屋の隅に座り込み、ただ時が過ぎるのを待つしかなかった。



 机の上に置かれたスマホを見つめる。

 そこに手を伸ばすことすらできない自分がいる。


 見たくない……。


 画面を見れば、何が待っているのか想像がついてしまう。真白からの連絡なんて、きっとない。武田からの言葉なんて、見たくもない。それでも、スマホが静かにそこにあるだけで、胸がざわつく。


 結局、僕はこの3日間、スマホを一度も確認していなかった。




 頭の中には、真白の顔が浮かんでくる。

 胸が痛む。自分の弱さと無力さが、真白を傷つけたのは間違いない。そして、その次に浮かぶのは武田の怒りに満ちた顔だ。


 武田だって……僕を信じてくれてたのに……。


 拳を握りしめても、その感情の重さに耐えきれない。どうしてもっと早く行動できなかったのか。どうしてもっと素直に気持ちを伝えられなかったのか。



 そして最後に、斎藤の不気味な笑顔が頭をよぎる。


 あいつ……今頃、先輩と……。


 その考えが浮かぶたびに、胃の中がひっくり返るような感覚に襲われる。斎藤が先輩の手を引いて、どこか遠いところに連れ去っている光景が、頭の中にこびりついて離れない。


 僕がもっと早く……。


 自分の無力さを噛み締めながら、胸が苦しくなる。



 夕方の淡い光が部屋に差し込む。窓の外には赤く染まる空が広がっていた。その美しさが、今の自分にはあまりにも遠いものに感じられる。


 このままじゃ……ダメだ……。


 頭ではわかっている。この状況を続けるわけにはいかないことも、動かなければ何も変わらないことも。


 でも、身体が言うことを聞かない。


 ……立ち上がらないと……。


 自分にそう言い聞かせても、足は動かなかった。身体が重く、部屋の中に押し込められているような感覚から抜け出せない。



 部屋の静けさが、胸に重くのしかかる。何も動かない、何も進まない時間が、僕をじわじわと追い詰めていく。


 もう誰も……僕のことなんて……。


 そんな弱気な言葉が心の中を支配するたび、胸の奥に広がる孤独がさらに深くなっていった。



 しかし、静まり返った部屋に突然、扉が開く音が響いた。


 ……鍵、かけたはずなのに。


 僕は驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、姉の美樹だった。無言のまま、じっと僕を見つめている。


 その視線が、いつものからかうようなものではないことに気づき、胸がざわついた。


 何だ……。


 そう言いながら、視線を逸らしてしまう。



「何があったの?」


 僕の姉である風間美樹は部屋の中に入ると、僕の目線の高さまでしゃがみ込み、静かに問いかけた。その声には、普段の姉らしからぬ真剣さがあった。


「……別に、何も。」


 僕はそう答えるだけで精一杯だった。心の奥をえぐるようなその問いに、簡単に答えることなんてできなかった。


「どうしてほしいの?」


 続けざまに投げかけられたその言葉が、胸に重くのしかかる。


「どうして……って……。」


 言葉に詰まる。自分でもどうしたらいいのかわからない。ただ、動けない自分がいるだけだ。



「こんな状態じゃ、親だって悲しむでしょ。」


 美樹が言ったその一言に、胸がチクリと痛む。


「心配してるんだよ、あんたのこと。父さんも母さんも。」


 その言葉が、僕の中にじわじわと染み込んでいく。でも、すぐには受け止められなかった。


「話せばいいじゃん。家族なんだからさ。」


 姉の声は、優しさと苛立ちが混じっているように聞こえた。


「……そんな簡単に話せるわけないよ。」


 僕は小さな声で呟く。それが美樹に届いたのかどうかはわからなかった。



 美樹は一度、深く息を吐いた。そして、静かに僕の方を見つめながら言った。


「何かあったら、相談して解決する。それが家族でしょ。」


 その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。

 普段は茶化すような態度ばかりの姉が、こんなにも真剣に僕のことを考えてくれているなんて、思いもしなかった。



 僕は何も言えなかった。でも、少しだけ心が揺れたのを感じた。



「いつまでもこんな状態でいるわけにはいかないでしょ。」


 美樹は照れくさそうにしながらも、真っ直ぐな目で僕を見つめていた。その瞳に宿る優しさと強さが、僕の心の中にわずかな灯火をともす。


 ……家族か……。


 心の中でその言葉を反芻する。自分を気にかけてくれる人がいるということを、ようやく実感することができた気がした。



 姉の言葉が、じわじわと胸の奥に染み込んでいく。


「話すことが解決への一歩だよ。」


 その一言が、僕の心の中に深く響いた。


 普段なら絶対にこんな真剣な顔を見せない姉が、今は違う。本気で僕のことを心配し、背中を押してくれているのがわかる。



「家族なんだからさ、何でも言いなよ。」


 美樹はそう言って軽く肩をすくめた。その仕草が、いつもの姉らしい軽さを含んでいるのに、なぜかその言葉の重みを痛いほど感じた。


「……何でもって言われても……。」


 僕は小さな声で呟いた。けれど、その声にはどこか迷いが混じっていた。


 美樹の目は、じっと僕を見つめている。その優しい眼差しが、固く閉じていた心を少しずつ溶かしていくのを感じた。


「話せば楽になるよ。」


 その声が、どれだけ僕を救おうとしてくれているのかを感じるたび、胸の奥で詰まっていたものが少しずつ動き始めるのを感じた。



「……僕……。」


 最初は声にならなかった。言葉にしようとするたび、心の奥にある重い感情が喉を塞ぐ。


 でも、姉が目を逸らさずに待っていてくれる姿を見ているうちに、ほんの少しだけ勇気が湧いてきた。


 僕……真白に……振られたんだ。


 そう言った瞬間、胸の中の何かが崩れる音がした。


 武田にも……最低なことをした……。


 言葉が止まらなくなる。溢れるようにこれまでの出来事を姉に話した。先輩のこと、真白への気持ち、武田との決裂、斎藤のこと――全てを吐き出した。



 話し終えたあと、胸の奥が少し軽くなった気がした。それでも、まだ完全にスッキリするわけではない。


 でも……僕、やり直したい。


 自然とその言葉が口をついて出た。


「強くなりたいんだ。」


 その言葉には、自分でも驚くほどの真剣さが込められていた。



 美樹は僕の話を最後まで聞き終えた後、少し間を置いて笑った。


「そこまで言えるなら大丈夫じゃん。」


 その笑顔は、いつものように明るく、そしてどこか頼もしいものだった。


「強くなりたいんだったら、まずはしっかりご飯を食べることだよ。」


 そう言って、美樹は立ち上がった。その背中が妙に大きく見える。



「話すだけでいいんだよ。言いにくいことでも、家族にはどんどん言いなさい。」


 美樹が軽い調子で言い残して、部屋を出ていく。その言葉が、じんわりと胸の奥に残った。


 僕は、その場に座ったまま天井を見上げた。そして、不意に目頭が熱くなるのを感じた。


「……ありがとう、姉ちゃん。」


 声には出せなかったけれど、その言葉を心の中で繰り返していた。



 姉が部屋を出て行った後、僕はじっとその背中を見送った。扉が静かに閉まる音が響くと、部屋には再び静寂が戻ってきた。


 でも、その静けさはほんの少しだけ違って聞こえた。



 美樹の言葉が頭の中で何度も反響する。


「話すだけでいいんだよ。家族にはどんどん言いなさい。」


 その言葉には、温かさだけでなく、どこか背中を押してくれる力が込められていた。


 このままじゃ……いけない。


 心の中で呟く。胸の奥に沈んでいた鉛のような重みが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


 でも、それと同時に恐怖と不安が胸を締め付ける。



 机の上に置かれたスマホを見る。小さな光を放ちながら、そこに静かに存在しているそれが、今はまるで巨大な障壁のように見えた。


 手を伸ばそうとしても、指先が震えているのがわかる。画面を開けば、真白や武田、そして誰かの言葉が目の前に飛び込んでくるかもしれない。その可能性が、胸をさらにざわつかせた。


 ……怖い。


 その一言が口をついて出た。



「話すだけでいいんだよ。」


 美樹の言葉がふっと頭をよぎる。彼女が見せたあの真剣な目、そして温かい笑顔――その姿が、僕の中にわずかな勇気を与えてくれた。


 ……やるしかない。


 震える手を何とか動かし、スマホに手を伸ばす。画面に触れると、ほんの少しだけ冷たさを感じた。



 スマホを開くと、いくつかの未読メッセージが表示されていた。その中で、見慣れない番号が目に飛び込んできた。


 誰だ……?




 心の中でそう呟くと、指が自然とメッセージの画面に触れていた。


 それが何を意味するのかは、この時の僕にはまだわからなかった。それでも、姉の言葉が背中を押してくれたおかげで、僕は一歩を踏み出せた気がした。



 画面に表示された見慣れない名前。その隣に記された名前は、同じクラスの女子――影浦愛美(かげうらまなみ)だった。


「……影浦?」


 彼女の名前を口に出してみる。頭の中に浮かぶのは、教室の隅でいつも目立たないようにしていた姿。話したことはほとんどなく、どんな性格なのかも知らない。


 そんな彼女からのメッセージが、今ここにある。



 どうして……影浦が?


 心の奥で疑問が渦巻く。彼女が自分に連絡をしてくる理由がまったく思い浮かばない。


 メッセージを開くべきか、開かないべきか――指先が止まる。


 なんだっていうんだ……。


 画面の文字がやけに鮮明に見えてくる。そのたびに、胸がざわつく。



 僕……何かしたっけ?


 頭の中で記憶を手繰り寄せる。でも、彼女との接点は何も思い浮かばない。

 それでも、彼女の名前がそこにあるだけで、心の奥に小さな希望が生まれつつあるのを感じた。



 恐る恐る画面に触れ、メッセージを開く。


 そこに記されていたのは、思っていたよりも簡潔な内容だった。


「風間くん、元気かなと思って……。最近見かけないから、ちょっと心配になって。」


 その言葉に、胸の奥で何かが動いた気がした。



 ……心配?


 その一言が、胸に刺さる。真白や武田とのことが頭を支配していたここ数日、自分のことを気にかけてくれる存在がいるなんて、思ってもみなかった。


 影浦の言葉は、特別なものではなかったかもしれない。それでも、今の自分にとっては、そのシンプルな一言が、胸の中に小さな灯をともすような感覚をもたらしていた。



 ……なんで、僕なんだろう。


 そんな疑問が浮かぶ一方で、そのメッセージが自分を次へと動かす力になりそうな気がした。


 影浦愛美――その名前が、これからの自分にとってどんな意味を持つのかはわからない。


 でも、この連絡が、沈んでいた自分を少しだけ引き上げてくれる存在になるような気がした。

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