第11話 崩壊する関係性

 学校の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じる。


 教室の中で、同じクラスメートたちが笑い合い、楽しそうに会話をしている。その輪の中心には、当然のように斉藤の姿がある。彼の周りには常に誰かがいて、その場を明るくする存在として輝いている。


 一方で、僕は窓際の席に座り、ただ外の景色をぼんやりと眺めていた。




 武田とも話さなくなった。目が合えばお互いに何かを言いたげにするけれど、その間に沈黙が広がるだけだ。


 僕のせいだ……。


 武田の気持ちを知りながら、真白への返事をしようとした自分。そのことが心の中で罪悪感となり、武田と向き合うことすら怖くなっていた。


 真白ともぎこちないまま日々が過ぎていく。彼女が笑顔を見せても、それが本当の笑顔なのか疑ってしまう自分がいる。


 もう、誰ともちゃんと話せない。



 昼休み、いつも一緒に過ごしていた仲間たちの声が、今は遠い。食堂の喧騒も、教室の賑わいも、僕には関係のない世界のように思える。


 僕がいなくても、何も変わらないんだろうな。


 机の上に頬をつけながら、そんなことを考える。クラスメートの笑い声が背後で聞こえるたびに、心の中で小さな棘が刺さる。



 かつての居場所だった美術部も、今では僕を受け入れてくれない。


 先輩もいない、斉藤がいる……。


 美術室に足を運べない理由を頭の中で並べるたび、その場所がますます遠い存在に感じられる。


 僕にはもう、どこにも行ける場所なんてない。


 その言葉が、心の奥に深く沈んでいく。



 家に帰っても、同じような孤独が続く。部屋の中でひとりスケッチブックを開いても、そこに描かれるのは虚無のような白いページだけ。


 僕って……何のためにいるんだろう。


 そんな考えが頭をよぎるたび、胸の奥に広がる暗闇が、少しずつ僕を飲み込んでいく。



 教室の中の賑やかな風景も、運動場で響く笑い声も、僕には遠く感じる。それが、自分だけが世界から取り残されている感覚を強くさせていた。


 僕はここにいるけど……誰も気づいてないんだろうな。


 その思いが胸の奥に沈み込むたび、自分がどれだけ孤立しているのかを痛感する。


 

 放課後の静まり返った廊下に立つと、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。


 今日こそ……ちゃんと話そう。


 何度もそう自分に言い聞かせる。


 この数日間、真白とまともに話すことができていない。話したい気持ちはあるのに、彼女の顔を見るたびに、胸の奥で何かが詰まるような感覚に襲われる。


 逃げちゃダメだ……。


 けれど、足は震え、心は何度も折れそうになる。


 真白に……なんて言えばいいんだろう。


 言葉を準備してきたはずなのに、それが今はただ頭の中でぐるぐると回るだけだった。




「ねえ、悠木……大丈夫?」


 何度か彼女に話しかけられたことがある。けれど、そのたびに僕は曖昧に笑って答えるしかなかった。


「大丈夫だよ。」


 口ではそう言いながら、目を逸らす自分がいた。その瞬間、真白がほんの少し寂しそうに目を伏せるのがわかる。


 本当に、これでいいのか……?


 彼女の言葉を受け止めるべきだったのではないか。そう思っても、どうしても心が追いつかなかった。


 武田のこと、先輩のこと――全てが絡み合い、僕の中で何も整理できないままだった。


 真白は……どう思ってるんだろう。


 その答えが怖くて、彼女に向き合うことを避けてしまう自分がいた。







「よ!」


 その声が廊下に響いた瞬間、全身が強張る。


 振り返ると、真白が軽やかに歩いてきた。笑顔を浮かべているけれど、どこかいつもとは違う。それに気づいた瞬間、胸の奥がざわつく。


「待たせちゃった?」


 何でもない風を装うその言葉。その軽さが、逆に僕の心を掻き乱す。


「いや……全然。」


 なんとか答えたけれど、声が震えそうになるのを抑えるだけで精一杯だった。



 彼女の目を直視することができない。真白の明るさに救われてきたはずなのに、今はその笑顔が遠く感じた。


 何を言えばいいんだ……。


 頭の中で準備してきた言葉が、全て霧のように消えていく。


 一方で、真白はそんな僕の内心に気づいているのかいないのか、平静を装ったままだった。


「で?話って何?」


 そう聞かれた瞬間、胸が跳ねる。言わなければならない。そう思うのに、喉が詰まって声が出ない。



「あの時の……返事なんだけど。」


 なんとか言葉を搾り出す。唾を飲み込み、拳を握りしめた。


「色々考えたんだ。」


 心の中で自分を奮い立たせる。これが最後のチャンスだとわかっていた。


「真白……俺……。」


 言葉を続けようとした瞬間、彼女がふっと視線を逸らした。その仕草が胸に冷たいものを走らせる。





「あー、それ……。」


 真白が少し視線を逸らしながら、曖昧な笑みを浮かべた。


 その瞬間、胸の奥でざわつきが大きくなる。この後に続く言葉が、決して望んでいるものではないことを悟ったからだ。


「やっぱり、なしで。」


 その一言が耳に届いた瞬間、心臓が一瞬止まったような気がした。


「……え?」


 何が起きているのかわからないまま、僕は彼女を見つめる。その言葉の意味を理解しようとするほど、頭の中が真っ白になっていく。




 真白は、少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら、言葉を続けた。


「やっぱり武田の告白を断って、悠木の告白を受けるのは……良くないと思うんだ。」


 彼女の声は静かで、穏やかだった。その言葉が真白自身を納得させるためのものだと気づくのに、時間はかからなかった。


「三人は友達。その関係を壊したくないの。」


 その言葉が、胸の奥に重く沈み込む。


 友達……。


 自分の気持ちが否定されたような感覚に襲われた。真白にとって、僕はそれ以上でもそれ以下でもないのかと。



 真白は笑顔を浮かべている。その笑顔が、余計に僕を苦しめた。


 どうして……そんな顔をするんだよ。


 心の中で叫ぶ。その笑顔が、まるで僕の感情を否定するように見えてならない。


 でも……真白だって笑えていないだろう?


 その裏にある辛さに気づいているのに、どうしても言葉にできない。ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。



「友達の関係を壊したくない……?」


 真白の言葉が、頭の中で何度も反響する。その度に、胸の奥で何かが押しつぶされていく感覚を覚えた。


 そんなこと、わかってる。でも……でも……。


 僕の中にある未練と、諦めたくない気持ちが激しくぶつかり合う。


 これが……本心なのか?


 問いただしたい。でも、真白の目を見ると、それすらできなかった。



「どうして……?」


 僕は震える声で問いかけた。その一言を発するのに、どれだけの勇気が必要だったのかわからない。


 胸の奥に渦巻く疑問と焦り。これ以上、真白を失いたくないという気持ちが、どうしようもない形で言葉になった。


 けれど、次の瞬間、真白が僕に向けた視線に息を呑んだ。


 その瞳は冷たく、見たことのない感情が宿っていた。




「無理だよ。もう無理。」


 真白は、はっきりとそう言い切った。その声には、少しの迷いもなかった。

 心の中では、必死に答えを求めていた。けれど、彼女の口から紡がれる言葉は、僕の期待とは正反対のものだった。


「悠木が……あの時、ちゃんと答えてくれていれば……。」


 彼女の声が少し震える。その微かな揺れが、彼女自身の苦しさを物語っていた。



「でも、もう遅いんだよ。」


 真白は視線を逸らしながら、静かに続けた。その横顔が、どこか遠い場所を見ているように感じられる。


「私、待ってたんだよ。」


 その一言が、胸に鋭く突き刺さる。


「ずっと待ってたのに……何も言ってくれなかったじゃない。」


 彼女の言葉には、諦めと怒り、そして深い悲しみが混じっているのがわかった。


「その間に……色々考えたの。」


 彼女の声が少しずつ弱くなる。その言葉を聞きながら、僕はただ立ち尽くすしかなかった。



 真白は一度深く息を吐き、僕に向き直った。そして、静かに口を開いた。


「私……先輩の穴埋めなんでしょ?」


 その言葉が耳に届いた瞬間、全身が凍りつくような感覚に襲われた。


「それって、本当に好きって言えるの?」


 彼女の瞳がまっすぐに僕を見つめる。その視線が、僕の中にあった全ての言い訳を吹き飛ばしていく。


「どうして……それを……。」


 問いかけたいのに、喉が詰まって声が出ない。その言葉を発することで、全てが崩れてしまう気がしたからだ。



 胸の中で何かが崩れる音がした。


 僕は……違う……。


 そう思いたかった。でも、真白の言葉に反論できる材料を持っていない自分がいた。


 僕は……本当に……。


 自分でも、その先の言葉が何なのかわからない。ただ、全身が震え、目の前の現実から逃げ出したい衝動だけが湧き上がってきた。



 真白は微かに唇を噛みしめていた。それは、泣きたくなる気持ちを必死に抑え込む仕草に見えた。


「……悠木のこと、本当に好きだったよ。」


 その言葉が、まるで遠いところから聞こえるように感じた。その声が震えているのを聞いても、僕は何も言えなかった。


「でも……それだけじゃどうにもならないんだよ。」


 彼女は俯き、拳を軽く握りしめていた。その肩がわずかに震えているのが見えた。



 僕は何もできなかった。言葉を返すことすらできない自分が、情けなくて仕方なかった。


 一方で、真白は静かに涙を堪えながら、自分の気持ちを押し殺している。その姿が、僕にとってどれだけ痛々しく見えたことか。


 僕が……僕がもっと早く……。


 心の中で何度も自分を責めた。でも、その言葉は声にはならず、ただ胸の中で渦巻くだけだった。



「ごめんね。好きだったよ。」


 真白のその言葉が、まるで遠い場所から聞こえるように感じた。


 胸の奥に鈍い痛みが広がる。その一言には、真白が抱えてきた想いの重さと、諦めのような悲壮感が込められていた。


 ……待って、真白。


 喉まで出かかったその言葉を、僕は飲み込んでしまった。全身が凍りつき、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。



 真白は小さく息を吐き、僕に背を向けた。その姿には、彼女の中に溢れる感情を抑え込むための静かな決意が感じられた。


「さよなら。」


 彼女の口から漏れたその一言が、静かな廊下に吸い込まれるように消えていく。


 歩き出した真白の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。その肩がかすかに震えているように見えるのは、気のせいだろうか。



 僕は……。


 言葉にならない声が喉の奥で詰まり、何も発することができない。


 僕がもっと早く答えていれば……。


 頭の中で何度もその思いが駆け巡る。けれど、それは今さらどうにもならない過去だとわかっていた。


 僕のせいだ……。


 胸の奥に渦巻く後悔が、全身を締め付ける。



 真白の背中が廊下の奥へと消えていくのを見つめながら、僕の中で何かが壊れる音がした。


 もう戻らない……。


 その現実が、胸に突き刺さる。先輩、真白、武田――大切だった全てが、自分の手の中からすり抜けていく感覚。


 何も……守れなかった。


 その言葉が、心の中で何度も反響する。



 真白が最後に見せた微笑み。その瞳には、どれだけの悲しみと諦めが隠されていたのかを思うと、胸が痛む。


 僕のせいで……。


 彼女はきっと、自分の感情を押し殺して、全てを終わらせる決断をしたのだろう。その決意の重さを思うと、僕は自分の無力さに打ちのめされた。



 足が震え、一歩も動けない。叫びたい気持ちを押し込めながら、ただ真白が去っていった方向を見つめる。


 ごめん……真白……。


 言葉にするには遅すぎるその想いが、胸の中で空しく響いた。



 廊下には静寂が戻った。それでも、その静けさは耳を刺すような痛みを伴っていた。


 一言呟いてみても、答えは何も見つからなかった。ただ、胸の中に広がる喪失感と後悔だけが、僕を覆い尽くしていった。




「そういうことだったのか。」


 その声が、廊下の静寂を切り裂いた。


 背後から聞こえたその声に、全身が震える。胸の奥が冷たく締め付けられるような感覚が広がる中、僕はゆっくりと振り返った。


 そこには、武田が立っていた。



 武田の目は僕を捉えて離さない。その表情には、深い悲しみと怒りが混ざり合い、そしてどこか憐れむような視線が浮かんでいた。


「……武田。」


 名前を呼んだつもりだったが、その声は掠れ、ほとんど聞こえないほど小さかった。


 武田は何も言わずに僕を見つめている。その沈黙が、僕の胸の奥をさらにえぐった。



「お前……最低だな。」


 その一言が放たれた瞬間、まるで鋭利な刃で胸を抉られたような痛みを感じた。

 理解したくない、でも理解せざるを得ない現実が、目の前に突きつけられていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る