第10話 次なる標的
美術室は、ひどく静かだった。
いつもなら先輩が軽く声をかけてくれたり、他の部員たちがキャンバスに向かいながら雑談したりする音が微かに聞こえていたはずだ。でも今は、その全てが消え去ったようだった。
……また、一人か。
部屋の中には僕だけ。外の遠くから聞こえてくる部活動の歓声も、この場所には届かない。窓から差し込む光が、机や椅子に影を落とし、それが部屋全体をさらに寂しく見せていた。
先輩がいない美術室は、どこか異様だった。
いつも、ここにいたのに。
先輩がキャンバスに向かい、筆を動かす音。その音が、この部屋にどれだけの活気を与えていたのか――今になって思い知らされる。
斉藤……。
その名前が頭をよぎる。理由はわかっている。先輩が来なくなったのは、あの男のせいだと。
胸の奥に、静かだが確実に広がる怒りが湧いてきた。
周りの誰も気づかない。僕がどれだけここで孤独を感じているのかなんて。
筆を持つ手が震える。絵を描こうとキャンバスに向かうけれど、何も浮かばない。ただ、無駄に時間が過ぎていくだけだった。
これで、何が楽しいんだよ……。
声に出すこともできないその思いが、心の奥で響く。
カチ、カチ――。
壁に掛けられた時計の音だけが、部屋の中に響いていた。
なんで僕は、こんなところにいるんだ。
自分に問いかけるたび、その答えが見つからない。先輩がいなくなり、真白ともぎくしゃくし、武田の気持ちにも応えられない。
僕は……何もできない。
その言葉が、胸の奥で重くのしかかる。
目の前には白いキャンバスがある。そこに描くべきものがあるはずなのに、何一つ形にならない。
ふと気づけば、筆が動き出していた。無意識のうちに描き始めたのは――先輩の姿だった。
……なんでだよ……。
僕はその絵をじっと見つめた。静かな美術室の中で、描かれた先輩の顔が、妙に僕を見返しているように感じた。
美術室の静けさが、まるで僕を押しつぶそうとしているようだった。
何か……変わらなきゃいけないのに。
頭ではわかっている。それでも、この空虚な静けさの中で、僕はただ時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。
静かな美術室で、一人。
描かれていくのは、無意識のうちに動かした筆が生み出す先輩の姿。けれど、完成することのないその絵を見つめるたび、胸の奥がざわつく。
何をやっているんだ、僕……。
自分を責める声が心の中で響く。その声は止めどなく増幅していき、やがて形のない怒りとなって僕の心を支配し始めた。
斉藤……。
その名前を頭の中で呟くたび、胸がざわつく。彼の笑顔、彼の余裕、彼の人気――すべてが僕にはないものだった。
思わず拳を握りしめる。自分の中で湧き上がるその問いかけが、さらに自己嫌悪を深めていく。
こんなことを考えている自分が、情けない……。
そう思えば思うほど、その感情から逃れられない自分がもどかしかった。
クラスの中心人物となった斉藤。誰もが彼を慕い、男女問わず彼の周りに集まっている。
僕は……ただの空気だ。
クラスの中で、自分の存在感のなさが嫌というほどわかる。誰かが笑うたび、その中心に斉藤がいる光景が浮かんでくる。
何で、あいつなんだよ。
自分には何もないという劣等感。それが、斉藤への嫉妬を際限なく膨らませていく。
僕の方が……ずっと先に好きだったのに。
心の中で何度もその言葉が響く。先輩にとって、僕の気持ちはただの「届かない声」だった。
斉藤は……行動しただけだ。
その現実が頭を支配する。自分が何もできなかったことへの後悔と、斉藤への憎しみに似た感情が交錯していく。
僕が悪いんだ……。
そう思うことで、少しでも自分を納得させようとする。だけど、その感情は消えるどころか、ますます深く沈んでいった。
僕は……誰にも勝てない。
斉藤は先輩を手に入れ、真白だってきっと彼の影響を受ける。そんな未来を想像するだけで、胸がざわつき、手が震えた。
僕がどれだけ頑張っても、あいつには勝てないんだ……。
その思いがぐるぐると頭を回り続ける。
こんなことを考える自分が……大嫌いだ。
劣等感、嫉妬、自己嫌悪――そのすべてが絡まり合い、僕の中で黒い塊となって渦を巻いている。
ふと、手元の筆を見る。キャンバスには描きかけの先輩の姿があった。
僕にとって、先輩は……。
声に出そうになったその言葉を、飲み込む。
絵を見ていると、胸の奥にこみ上げる感情をどうしていいかわからなくなり、気づけば手を伸ばしてその絵を握りしめていた。
……こんなもの……。
力を込めたその手が震える。
壊したい……でも、壊せない……。
その矛盾した感情が、僕をさらに追い詰めていく。
キャンバスの上に浮かび上がる先輩の姿は、あまりにも美しかった。
その優しい微笑み、繊細な仕草、どこか儚げな雰囲気――それらすべてが僕の理想そのものだった。
先輩……。
思わず名前を呟いてしまう。だけど、その声は部屋の静けさに吸い込まれ、自分の耳にも届かなかった。
描き終えた絵をじっと見つめる。
そこに描かれた先輩の姿は、僕が憧れ、想い続けた彼女そのものだ。でも、今の僕にはその絵がただの幻に見えた。
こんなの……現実じゃない。
心の中でそう呟く。キャンバスの中の先輩は、いつも僕を見守ってくれているような表情をしている。だけど、現実の先輩は――。
先輩は、もう僕のものじゃない。
自分の中でその言葉が響いた瞬間、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。
僕が勝手に好きでいただけだ……。
先輩は斉藤と一緒にいる。その事実が、僕と彼女の間に越えられない壁を作り出している。
目の前の絵が、嘲笑うように僕を見つめているように感じた。
僕には……届かないんだ。
そう思うと、心の中に何とも言えない虚しさが広がっていく。
こんな絵、意味がない……。
絵に描かれた先輩の笑顔。それが、現実の彼女とはまったく異なるものに見えてしまった。
こんなの……ただの僕のエゴだ。
手を伸ばし、キャンバスを握りしめる。紙がクシャッと音を立てて歪む。その感触が、胸の奥にあった怒りや悔しさを一瞬だけ和らげたような気がした。
壊せば楽になる……。
そう思いながら、力を込める。でも、次の瞬間、手が止まる。
……無理だ。
結局、僕には壊すことができなかった。
先輩への想いが……まだ消えてないから。
壊したい気持ちと、それを守りたい気持ちがせめぎ合い、胸の中で複雑に絡み合っていた。
目の前の絵を見つめながら、僕はただ静かにため息をついた。
この絵は……僕そのものだ。
先輩を想い続け、でも届かない現実に打ちのめされている自分。そのすべてが、このキャンバスに描かれている気がした。
だから壊せない。壊したら……僕が壊れる。
胸の奥で呟きながら、僕はそっと絵を元の場所に戻した。
キャンバスを見つめるうちに、涙が一粒、頬を伝って落ちた。それが絵の端を濡らす。
先輩……僕は……。
その言葉の続きを言うことはできなかった。絵の中の先輩は、ただ静かに僕を見つめ返してくるだけだった。
絵を握りしめた僕の手が震える。
こんなの……。
今にもキャンバスを叩きつけようとしたその瞬間、静まり返った美術室の扉が、不意にギィィッと音を立てて開いた。
「やぁ」
軽い声が室内に響き渡る。振り返ると、そこには斉藤が立っていた。
「……なんで、ここに……?」
咄嗟に言葉が出ない。
斉藤は扉を軽く閉めると、ゆっくりと美術室の中を見回した。その仕草は、まるで自分の家に初めて訪れた客が家具を見渡すかのような、余裕に満ちたものだった。
「いい場所だね、ここ。」
斉藤はまっすぐ歩みを進め、僕の目の前の椅子に腰を下ろす。その様子は、侵入者という意識など微塵も感じさせない。
斉藤は、教室の中央の椅子にゆっくりと腰を下ろし、足を組んで僕を見上げた。その表情には、挑発的な笑みが浮かんでいた。
「ここ、美術部以外立ち入り禁止だって知らないのか?」
僕は震える声を抑え込み、冷たく言い放った。
斉藤はその言葉を聞いても微動だにせず、目を細めながらニヤリと笑った。
「美術部以外立ち入り禁止か……。」
彼はわざとらしく考える仕草を見せたあと、僕をじっと見つめた。その視線が、まるで僕を試しているかのようで、居心地の悪さが募る。
「でもね、もうすぐ俺も美術部の一員になる予定なんだよ。」
「……は?」
予想外の言葉に、頭が真っ白になる。
「先輩が誘ってくれたんだ。『美術部に入れば?』ってさ。」
斉藤は肩をすくめ、当たり前のことを話しているかのように続けた。その表情には、余裕と自信が満ちている。
「まだ部活も決まってなかったし、絵をもっと上手くなりたいなって思ってさ。」
その声は軽やかで、どこか楽しそうですらあった。
「先輩が……?」
僕の口からその言葉が漏れる。先輩が斉藤を美術部に誘った――その事実が胸に突き刺さる。
「嘘だ……。」
心の中で否定しても、斉藤の話しぶりは揺るぎない。
僕が憧れてた先輩が……どうして、斉藤を……。
目の前の斉藤は、僕の困惑と動揺を楽しむように微笑んでいる。その余裕が、さらに僕を追い詰める。
「どうしたの?そんな顔して。」
斉藤がふっと笑いながら言った。
「そんなに早川先輩を取られたのが悔しい?」
その一言が、胸の奥でくすぶっていた感情を一気に燃え上がらせた。
「何……だと……?」
手に持っていた筆が滑り落ち、床にカランと音を立てて転がる。
「ふふっ、顔に書いてあるよ。嫉妬、ってやつ。」
斉藤の声には明らかな嘲笑が含まれていた。それが、僕の心をさらにかき乱す。
「先輩が言ってたよ。『斉藤君なら美術部にぴったりだね』ってさ。」
「……嘘だ。」
声が震える。自分でも驚くほど弱々しい声だった。
「本当さ。俺、先輩に褒められるとやっぱり嬉しいんだよね。」
斉藤はそう言いながら立ち上がり、ゆっくりと教室を歩き始めた。その足音が、美術室の静寂を切り裂くように響く。
斉藤が立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。その足音が、静まり返った美術室に重く響く。
「さてと……次は君の幼馴染かな?」
何気なく口にしたかのようなその一言。しかし、その言葉が耳に届いた瞬間、僕の心は凍りついた。
「……は?」
耳を疑った。何を言われたのか一瞬理解できず、斉藤を見つめ返す。
「次は……真白……?」
その名前が頭の中に浮かんだ瞬間、全身が硬直した。
「な、何言ってるんだ!」
僕は思わず声を上げた。美術室の静寂を切り裂くように、叫び声が反響する。
斉藤はその反応を楽しむかのように口元を歪め、軽く笑った。
「そんなに驚くことないだろ?幼馴染って、特別な存在だもんな。」
斉藤は僕の前で足を止め、顔を覗き込むようにして言葉を続けた。
「君にとって、真白ちゃんってどんな存在なの?」
その言葉が、挑発的で、どこか意味深に聞こえる。
「お前……何を考えてるんだ……。」
問いかけたいのに、喉が詰まって声が出ない。
斉藤の瞳が僕を射抜くように見つめてくる。その瞳の奥には、底知れない不気味さが潜んでいた。
「幼馴染っていいよな。いつも近くにいて、支えてくれてさ。」
斉藤は軽い調子で話し始める。その声が、どこか冷たく感じられる。
「それに、真白ちゃんって元気で可愛いしさ。……俺、ああいう子、好きなんだよね。」
斉藤がわざとらしく肩をすくめる。その動作が、僕の中の苛立ちをさらにかき乱す。
「やめろ……。」
小さく呟く。でも、斉藤には届かない。
「母親を探している。」
「君の周りから探す。」
斉藤が以前口にしたその言葉が、頭の中で再生される。
「どういう意味なんだ……。」
理解したくない、考えたくない。それなのに、その言葉が斉藤の行動と重なり、胸の奥に冷たい恐怖を広げていく。
「真白を……巻き込むつもりなのか?」
その考えが頭をよぎると、全身に鳥肌が立った。
「俺さ、母親がいないんだよね。」
突然、斉藤が何気なくそう口にした。その言葉が、さらなる不安を掻き立てる。
「母親がいない……?」
その言葉の意味を飲み込む前に、斉藤が続けた。
「だからさ、母親みたいな人っていうか……優しくて、包み込んでくれるような人を探してるんだ。」
斉藤の声は穏やかだったけれど、その内容はどこか歪んでいた。
「君の周りには、そういう人が多そうだよね。」
その言葉が、鋭い刃のように胸を抉る。
「お前……真白に何をするつもりなんだ!」
喉から絞り出すように声を上げた。その声は震えていて、自分でも情けなくなるほどだった。
斉藤は肩をすくめ、何も答えずに微笑む。その笑顔が、さらに不気味さを際立たせる。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。ただ、ちょっと挨拶しに行きたいだけだからさ。」
その軽い言葉が、恐怖を倍増させた。
そして斉藤は、ゆっくりとした足取りで美術室の出口に向かった。その背中は、なぜか大きく見え、まるで僕の胸の中に残った不安を象徴しているようだった。
「じゃあ、またね。」
振り返ることなく、軽い口調でそう言い放つ。手をひらりと上げるその仕草が、どこか嘲笑的で腹立たしい。
扉が静かに閉まる音が響くと、教室には再び静寂が戻った。しかし、その静けさは重たく、息苦しいほどの圧迫感を伴っていた。
斉藤が去った後も、その言葉が頭の中でこだまし続けた。
「次は君の幼馴染かな?」
「真白ちゃん、いい子だよね。」
その一つ一つの言葉が、鋭利な刃のように胸を抉る。
何をするつもりなんだ……。
額から汗が滴り落ちるのを感じながら、僕は震える手を握りしめた。
斉藤はただの転校生じゃない……。
その確信が、胸の奥で形を成していく。彼の意図が何なのかはわからない。それでも、真白に何かが起こるという予感だけは、確実に感じ取れていた。
真白……。
その名前を呟くと同時に、胸がギュッと締め付けられるような感覚に襲われた。
元気で明るい、僕の幼馴染。いつも僕をからかいながらも、どこか気にかけてくれる存在。
真白は、僕にとって……。
その先の言葉が出てこない。けれど、胸の中で募る不安だけがどんどん膨れ上がっていく。
斉藤が真白に近づいている光景が頭に浮かぶ。その姿は、どこか現実味を帯びていて、否定することができなかった。
まさか……。
斉藤の口から語られた「母親を探している」という言葉。彼が真白に向けた興味深そうな視線。それらが結びついて、胸の奥で恐ろしいイメージが広がっていく。
絶対に……そんなことさせない。
自分に言い聞かせるように呟いたけれど、その言葉は虚しく教室の中に溶けて消えていった。
美術室には僕一人だけが残されていた。その静けさが、孤独感をさらに強調する。
僕に……何ができるんだ?
心の中で問いかけても、明確な答えが出てこない。ただ、真白を守りたいという気持ちだけが胸の中で渦巻いていた。
斉藤の背中が去る時の余裕、あの嘲笑。それが不安をさらに煽り、僕を押しつぶしそうになる。
「僕が……真白を守らなきゃ……。」
絞り出すように呟いた言葉には、決意というよりも不安と焦りが混ざり合っていた。
斉藤の言葉が示す真意。その不気味さに、僕はただ震えるしかなかった。
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