第9話 先輩の気持ち

 美術部の静かな空間に、筆がキャンバスを擦る音が響いている。他の部員たちは、それぞれの作品に集中していた。けれど、僕だけは何も描けないでいた。


 目の前の真っ白な画布。それが、まるで僕の今の心を映し出しているようだった。


「全然ダメだ……。」


 ため息をつきながら筆を握りしめる。しかし、その手はかすかに震えている。


 頭の中を占めているのは、真白の告白、武田の気持ち、そして先輩と斉藤の姿――どれも僕の心をかき乱し続けていた。




「ずっと好きだった。」

「私じゃダメなの?」


 真白の言葉が、まるで耳元で囁かれているように何度も蘇る。


 彼女の真剣な表情、震える声、背を向けて歩き去る姿――それらすべてが、心に重くのしかかってくる。


「でも……武田の気持ちを考えたら……。」


 親友である武田を裏切ることになる。それだけは絶対にしたくないという気持ちが、僕を動けなくさせていた。




 そして、先輩の笑顔が頭に浮かぶ。


「俺がずっと憧れてた人……。」


 彼女が斉藤君と手を繋いで歩いていた光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。


「本当にただ遊んでいただけだよな……?」


 必死にそう思い込もうとする。でも、胸の奥で何かが否定する。


「もし……もし本当に付き合ってたら……?」


 その考えが頭をよぎるたび、胸がギュッと締め付けられるような感覚に襲われる。




「描かなきゃ……。」


 そう自分に言い聞かせて筆をキャンバスに近づけるが、手が止まる。


 描こうとするたびに、先輩の笑顔が浮かぶ。彼女の横には、いつも斉藤君の姿がいる。


「……無理だ。」


 筆を置き、肩を落とす。


 周りの部員たちはそれぞれの世界に没頭しているように見える。その光景が、まるで自分だけが取り残されているような感覚を増幅させた。




 ちらりと先輩の方を見ると、彼女は穏やかな表情で絵を描いていた。その姿はいつもと変わらない。


「先輩……。」


 憧れていたその背中。僕の中でずっと特別だったその存在が、今では遠く感じる。


 目を合わせることさえできなかった。彼女の視線が向けられた瞬間、全てが見透かされるようで怖かった。




「俺、どうしたいんだ……。」


 真白の告白にどう答えればいいのか。先輩の気持ちが本当はどうなのか。そして、斉藤君――あの男の真意。


 すべてが絡み合い、頭の中で止めどなく思考が巡る。


 自分が情けなくて仕方なかった。何もできない自分に苛立ち、けれど、どう動けばいいのかもわからない。



 見つめるだけの真っ白なキャンバス。それが、まるで僕の心を映しているようだった。


 何も描けない。何も形にならない。


「こんなはずじゃなかったのに……。」


 声に出すこともできないその思いが、胸の中で何度もこだました。






 風間が真っ白なキャンバスを前に動けずにいると、ふと背後から優しい声が聞こえた。


「風間君、大丈夫?」



 その声を聞いた瞬間、心臓が一瞬跳ねた。振り返ると、そこには先輩が心配そうに僕を見つめていた。


「え……あ、はい、大丈夫です。」


 慌てて作り笑いを浮かべたが、先輩の視線は鋭く、僕の内心を見透かすようだった。


「でも、顔色悪いよ。」


 先輩はさらに一歩近づいてきた。その近さに、僕の心拍数がさらに上がる。



「最近、元気ないように見えるけど……何かあった?」


 先輩の声は柔らかく、それでいて心配が滲んでいた。彼女の優しさに触れるたび、胸の奥が締め付けられる。


「本当に何でもないです。」


 なんとか答えたものの、声が掠れているのが自分でもわかった。


「風間君、無理しないで。」


 先輩はさらに顔を近づけて、僕の目をのぞき込むようにして言った。その瞳に映るのは、純粋な気遣いと優しさだった。




「熱とかないかな……。」


 そう言いながら、先輩がそっと僕の額に触れようと手を伸ばした。その動作があまりにも自然で、僕は一瞬何もできなかった。


 しかし、その手が触れる直前、反射的に僕はその手を振り払ってしまった。


「……っ!」


 先輩の動きが止まる。


「す、すみません!」


 すぐに謝ると、先輩は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んで首を横に振った。


「ううん、私の方こそごめんね。無理に触ろうとしちゃって……。」


 先輩の表情は申し訳なさそうで、それが余計に僕の胸を締め付けた。



「何やってるんだ、僕……。」


 先輩の優しさを受け入れることができない自分に苛立ちを感じた。それでも、彼女の近さが、彼女の温かさが、僕には耐えきれなかった。


「大丈夫だから……本当に……。」


 それ以上の言葉を口にする気力もなく、僕はただ下を向くしかなかった。



「無理しないでね。何かあったら、ちゃんと言ってほしいな。」


 先輩は少し離れて、その場を立ち去ろうとしたが、ふと立ち止まった。


「風間君、最近あまり笑ってない気がするよ。」


 そう言って、寂しげな笑みを浮かべた。


「無理に笑わなくていいけど……自分を大事にしてね。」


 その言葉が、胸の奥に重く響いた。



 先輩の背中を見送りながら、胸の中に大きな波が立つのを感じた。


「先輩の優しさが嬉しい……でも、それが苦しい。」


 彼女が見せる笑顔と気遣い。それは、僕が憧れていた先輩そのものだった。でも、その優しさが斉藤君にも向けられていると思うと、耐えきれないほどの悲しみが押し寄せてくる。


「僕なんて……。」


 そんな自分の無力さが、さらに胸を締め付ける。




「ただ、一緒にいただけだ……。」


 心の中でそう繰り返す。


 先輩と斉藤君が手を繋いで歩いていたあの光景。それが、頭の中に何度も浮かんでは消える。そのたびに胸が苦しくなる。


 でも、僕は必死に否定し続けた。


「何もない。ただ遊びに行っただけなんだ。」

「たまたま、あのタイミングで一緒にいただけだろ。」


 声には出さず、心の中で繰り返す。


「先輩がそんな軽い人なわけない。斉藤君だって、ただ気軽に誘っただけだろう。」


 胸の奥から湧き上がる不安を押しつぶすように、都合のいい解釈を頭の中に並べていく。


「僕が勝手に勘違いしているだけだ。」


 そう思い込もうとする。


 でも、その光景の鮮明さが僕を苦しめる。先輩の柔らかな笑顔、斉藤君と並んで歩く姿――あれがただの友達同士のものだったと本当に言えるのだろうか。


「いや、そんなはずない。」


 すぐに否定する。


「先輩が僕に見せてくれた笑顔だって、他の誰にでも見せるものじゃない……はずだ。」


 自分でも薄っぺらい理屈だとわかっている。それでも、そう思い込むことでしか、この気持ちを抑えることができなかった。



「もし、先輩が斉藤と付き合ってたら……?」


 その考えが頭をよぎると、胸がギュッと締め付けられるような感覚に襲われた。


「いや、そんなことない。そんなこと、あってほしくない……。」


 でも、あの笑顔、あの手を繋ぐ姿が頭から離れない。


「先輩は、僕の知らないところで……。」


 その考えが、胸の奥に小さな亀裂を生じさせる。


「僕だって……。」


 心の中で呟いた。


「僕だって先輩のことが好きだったのに……。」


 だけど、僕は何も行動を起こさなかった。ただ、憧れるだけで、何も言えなかった。


「だから、僕が悪いんだ……。」


 そう自分を責める。それでも、この苦しさは消えない。


「きっと、あの時だけだ。これから先、そんなことはない。」


 無理やりにでも、自分に都合のいい未来を想像する。


「先輩は、斉藤なんかに本気じゃない。そうだ、僕の方が……。」


 その考えにすがることで、なんとか自分を保とうとする。


 でも、どれだけ都合のいい考えを積み上げても、胸の奥に沈んだ不安は決して消えない。


「僕にはどうすることもできない……。」


 その思いが、静かに、しかし確実に心を蝕んでいく。




 部室に静寂が戻ったかと思ったその時、先輩がふと顔を赤らめながら口を開いた。


「そういえば……この間の恋愛の話だけど。」


 その一言で、心臓が跳ねた。


「恋愛……?」


 思わず頭が混乱する。先輩の柔らかな声が、普段の何気ない会話と同じようでいて、どこか異質に感じられた。


 ……嫌な予感がする。


 胸の奥で小さな警鐘が鳴る。その音がどんどん大きくなっていくのを感じながら、僕は先輩の次の言葉を待つしかなかった。



「実はね……斉藤君に告白されて……。」


 その言葉が耳に届いた瞬間、時間が止まったように感じた。


「告白……?」


 頭の中でその言葉を反芻する。しかし、すぐに飲み込むことができない。


「それで……付き合うことになったの。」


 先輩が照れくさそうに笑いながら続けたその言葉が、鋭い刃となって胸を深く切り裂いた。


「付き合う……?」


 何度もその言葉が頭の中を巡る。理解したくない、でも理解せざるを得ない現実が僕を押しつぶしてくる。



 先輩は、そんな僕の内心には気づかない様子で、嬉しそうに話を続ける。


「本当はまだあまり広めちゃいけないんだけど……風間君には言っておこうと思って。」


 彼女の口調は穏やかで、そこには僕への信頼すら感じられる。けれど、その言葉が僕にとってどれだけ残酷なものか、先輩にはきっとわかっていない。


「斉藤君、すごく優しくてね……。」


 その後も彼女は、斉藤君との馴れ初めを楽しそうに語り続けた。


「きっかけは私の掲示されてた絵を見てて、話しかけられたんだ。それで話が弾んで……今度絵を教えてほしいって言われて……嬉しかったな。」


 一つ一つの言葉が、まるでナイフのように胸を抉る。

 先輩の声が遠くに聞こえる。

 胸の中で呟く。



「僕の方が、先に好きだったのに……。」




 その思いが胸の奥で叫び声を上げる。だけど、それを口にすることはできない。

 でも、俺は……何も行動しなかった。


 斉藤君は行動した。それだけの差。

 だから、俺が悪いんだ……。


 そう自分に言い聞かせようとするけれど、胸の中で湧き上がる悔しさと絶望感は消えることがない。




「おめでとうございます。」


 精一杯の作り笑いを浮かべながら、そう口にした。その言葉がどれほど薄っぺらいものか、自分自身でもわかっている。


 先輩は気づくことなく、笑顔を浮かべながら話を続ける。


「斉藤君って、本当に優しくてね。あと、すごく面白いんだよ!」


 彼女の言葉が続くたびに、僕の中の何かが崩れていくのがわかった。


 僕なんて……ただ見てるだけだった。


 その事実が、胸をさらに締め付ける。



 先輩が楽しそうに斉藤君の話をするたびに、胸の奥で痛みが広がる。


 聞きたくない……。


 そう思うけれど、耳を塞ぐこともできない。ただ、そこに座って聞き続けるしかなかった。僕の心なんて……先輩には関係ないんだ。


 そんな思いが、心の奥底で囁く。それが、さらに僕を追い詰めた。



 俺は……先輩の笑顔が好きだったのに……。

 でも、その笑顔が斉藤君にも向けられるものだと知ってしまった。


 俺の知らないところで……先輩は笑ってたんだ。


 その事実をどう受け止めればいいのか。胸の中で広がる空虚感に、押しつぶされそうになる。



「……すみません。」


 不意に立ち上がりそうになったが、先輩の視線が僕を釘付けにした。


「どうしたの?」


 その穏やかな声が、僕をますます苦しめる。


「何でもないです……本当に。」


 口から出た言葉は、自分でも信じられないくらい弱々しかった。



 先輩の言葉が続くたびに、胸の奥が焼け付くような痛みで満たされていく。


「斉藤君って、本当に優しくてね。それに……。」


 その声が耳に届くたび、心の中に鋭い針が突き刺さるような感覚に襲われる。


 これ以上、聞きたくない……。


 心の中で必死に叫ぶ。でも、その場を立ち去る勇気すら出てこない。



 椅子に座ったまま、全身が重く感じる。立ち上がって、逃げ出せばいい――頭ではそうわかっている。けれど、足はまるで地面に縫い付けられたように動かない。


 俺がここを離れたら、先輩に気を遣わせるだけだ……。


 そう思うと、逃げることすらできなくなった。


 でも……このままここにいたら……。


 心が壊れてしまいそうだった。



 先輩の声は、どこか楽しげで、斉藤君との馴れ初めを語るその姿は輝いているように見えた。


 先輩は幸せそうだ……。


 それを知れば知るほど、僕の心の中で何かが崩れていく。


 聞きたくない……!


 耳を塞ぎたかった。でも、先輩の優しさに背を向けることができなかった。

 俺には、こんなことを聞き続けるしかできないのか……。

 その無力感が、胸を締め付ける。



 ここじゃない、どこか遠くに行きたい。

 心の中で何度もそう呟く。


 部室のドアを開けて、廊下に飛び出して、走って帰りたかった。誰もいない場所に逃げ込んで、この胸の痛みを忘れたかった。


 でも……できない。


 その選択肢を自分で否定してしまう。

 ここに残ることでしか、僕には何もできないんだ。

 そんな自分の弱さが、さらに苦しみを増幅させる。



 先輩は、斉藤君の話を楽しそうに続けている。

 その笑顔が、まるで輝いて見える。


 僕の知らないところで……先輩は斉藤とこんな顔をしてたのか。


 その考えが頭に浮かぶたびに、心の中でざわざわとした不安と焦燥感が広がっていく。



 どうして……どうしてこんな場所にいるんだ、僕。


 先輩が話す声と、自分の心の声が交錯する。


 僕なんかいなくても、先輩は幸せになれるじゃないか……。


 そんな思いが胸を支配していく。それでも、ここを離れる勇気は湧かない。

 こんな気持ちになるくらいなら……いっそ僕なんか……。

 その思いが、胸の奥で静かに叫び続けている。


 涙をこらえながら、先輩の話を聞き続けるしかなかった。



 ……これで、僕の気持ちなんて完全に踏みにじられたんだろうな。


 僕の中にあった淡い希望すら、先輩の言葉一つ一つが壊していく。


 でも……これで終わりじゃない気がする。


 胸の奥に不安が湧き上がる。それが何なのかはわからない。ただ、このまま終わるわけがないという予感だけが、僕の心に重くのしかかる。



 先輩の声が、ますます遠く感じられる。

 それでも、その言葉は容赦なく僕の心に突き刺さる。

 胸の中に渦巻く絶望感と焦燥感が、僕を飲み込もうとしていた。

 それでも、この悪夢から逃れることはできない。

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