第8話 真白の告白

 天井を見上げたまま、僕は深い夜の闇の中に漂っていた。


 布団の中で何度も寝返りを打つ。枕の位置を変え、目を閉じても、昨夜の光景がまぶたの裏に浮かび上がる。


 斉藤君と手を繋いで歩く先輩の姿、柔らかな笑顔。そのすべてが、胸をかきむしるような痛みをもたらしていた。


「どうして……。」


 小さく呟いた声は虚空に消えるだけで、答えが返ってくることはない。


 時計を見ると、針は夜中の2時を指していた。それでも眠気は訪れず、逆に胸の奥に広がる不安がますます重くのしかかる。


「斉藤って……一体何なんだよ。」


 豪邸、先輩の笑顔、斉藤君の言葉――すべてが繋がっているようで、何もわからない。頭の中でぐるぐると考えが巡り、気づけば空が白み始めていた。



 窓の外から差し込む朝の光が部屋を照らす。布団の中から顔を出すと、体が鉛のように重く感じられた。


「悠木、起きてる?」


 ドアの向こうから母の声が聞こえる。その優しい声が、今の僕には妙に遠く感じられた。


「うん、起きてるよ。」


 気力を振り絞って答えるが、声はひどく掠れていた。


 リビングに降りると、母がじっと僕の顔を見てきた。


「なんだか顔色悪いけど……大丈夫?」


「うん、別に何もないよ。」


 そう言いながら食卓に着くが、食欲は全く湧かなかった。箸を持つ手が止まり、ただぼんやりとお茶碗を見つめる。


「無理しないでね。学校休んでもいいんだから。」


 母の気遣いがありがたいと思う反面、それを受け入れる余裕すらなかった。


「大丈夫だよ。」


 それだけを口にして、僕は無理やり箸を進めた。






 朝の冷たい空気が、頬を刺すように感じる。いつもなら清々しいと感じるこの時間が、今日はただ重く、心にのしかかるようだった。


「……なんで、こんなことに。」


 足は自然と学校への道を進んでいるけれど、頭の中は昨夜の光景に囚われていた。


 先輩と斉藤君の姿。あの手を繋いで歩く二人の後ろ姿が、頭の中で何度も繰り返される。それを振り払おうとしても、まぶたの裏に焼き付いた映像は決して消えることがなかった。


「先輩が……斉藤と……。」


 その言葉を思うだけで、胸の奥に冷たい痛みが広がる。



「どうして先輩が斉藤と一緒に……。」


 何度も自分に問いかけるけれど、答えは出ない。


「斉藤って一体何なんだ……。」


 豪邸の前で笑っていた先輩。その笑顔が、どうしても僕には本当のものだとは思えなかった。いや、思いたくなかっただけかもしれない。


「先輩は俺にとって……。」


 その先を考えるのが怖かった。



 風が吹き抜け、枯れ葉が道を転がる音が耳に届く。その音さえも、どこか遠く感じられる。


「……俺は、何をしてるんだ。」


 ふと立ち止まって、自分の足元を見つめる。靴の先を見つめるその視線の先には、昨夜の記憶がちらつく。


「結局、何もできなかった……。」


 逃げるように走り去った自分。先輩が豪邸に消えていくのをただ見送ることしかできなかった無力さが、再び胸を締め付けた。



 通学路には、他の学生たちの楽しそうな声が響いている。でも、その声も僕には届かない。


「俺だけが、ここに取り残されてるみたいだ……。」


 その感覚が、ますます自分を孤立させていく。


「先輩……。」


 小さく名前を呟いてみても、言葉は冷たい空気に消えていくだけだった。



 気持ちを切り替えなければと思うのに、それができない。昨夜の光景が脳裏に蘇るたび、不安と焦燥感が押し寄せてくる。


「このままじゃ、俺……。」


 けれど、何をどうすればいいのかもわからない。ただ胸の中がざわざわと騒ぎ続け、思考がまとまらないまま、足だけが前へと進んでいく。



 そんな中、ふと耳に届いた明るい声に足が止まった。


「悠木、おはよう!」


 前方から駆け寄ってくる真白の姿が目に入る。その笑顔が、今の僕にはどこか遠い世界のもののように感じられた。


「……あぁ。」


 精一杯絞り出した声は、まるで別人のように掠れていた。



 真白は僕の顔を覗き込むと、驚いたような表情を浮かべた。


「ちょっと、何その顔!全然元気ないじゃん。」


 その言葉に返事をする気力も湧かない。僕と真白の間に広がる空気の違いが、余計に自分の気持ちを沈ませた。


「別に、何もないよ。」


 ただそれだけを返す。真白の明るさと、僕の心の暗さ――そのコントラストが、胸をさらに重くした。




 昼休みのチャイムが鳴り、教室内はいつもの賑やかな空気に包まれた。だが、僕の頭の中はどこかぼんやりしていて、そのざわめきも遠く感じた。


「悠木。」


 不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこには真白が立っていた。彼女の表情はいつもと違い、少し硬かった。


「ちょっと……校舎裏まで来てくれる?」


「校舎裏?」


「うん。話したいことがあるんだ。」


 その言葉に、胸がざわついた。真白の瞳にはどこか覚悟を決めたような色が宿っている。それが普段の彼女の明るい雰囲気とは違い、僕を不安にさせた。


「わかった。」


 何かを聞く余裕もなく、僕は彼女の後について歩き出した。



 校舎裏に着くと、そこは昼休みの喧騒が届かない静かな場所だった。外の光が斜めに差し込み、コンクリートの壁に淡い影を落としている。


 真白は僕の前に立つと、俯いて何も言わなかった。


「……話したいことって何?」


 僕がそう尋ねると、真白は一瞬だけ顔を上げ、また視線を落とした。


「……ちょっと待って。」


 そう言うと、小さく息を吸い込み、震えるような声で続けた。





 真白が校舎裏で口を開いたその瞬間、僕は彼女の表情に違和感を覚えた。いつもの無邪気な笑顔ではない。何か言いにくそうな、けれど決意を秘めたような表情だった。


「実はね……武田に告白されたの。」


「えっ……。」


 その言葉が耳に届いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


「武田が……?」


 その言葉が本当なのか確認するように、真白を見つめると、彼女は静かに頷いた。


「昨日、放課後に……言われたの。」



 昨日――その言葉に僕は心の中で驚愕する。


 昨日、武田は僕に真白のことが好きだと告白していた。その時、彼が見せた表情を思い出す。迷いながらも、自分の気持ちを伝えることを決めた勇気。その彼が、まさかこんなに早く行動を起こしていたなんて。


「そうだったんだ……。」


 口から出た言葉は自分でも驚くほど薄っぺらだった。親友が本気で告白したなら、それを喜ぶべきだ――そう頭では理解しているのに、胸の中で何かがざわめく。


「それで……どうだったの?」


 恐る恐る聞いてみた。



「……断ったよ。」


「えっ……なんで?」


 思わず問い返す。


「武田のこと、嫌いってわけじゃない。でも……。」


 真白は一瞬だけ目を伏せ、ためらうように言葉を続けた。


「他に好きな人がいるから。」


 その言葉が僕の胸を深く刺した。


「他に……好きな人……?」


 思考が止まる。誰なのか、なぜ武田ではないのか――その答えが気になりすぎて、体が動かない。




「誰……?」


 喉が詰まるような感覚の中で、その言葉を絞り出した。真白は一瞬困ったように笑った後、僕をじっと見つめた。


「悠木、ほんと鈍感だよね。」


 その言葉が何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。


「え……。」


 次の瞬間、真白が一歩近づいてきた。僕の目の前に立つと、何の前触れもなく僕の胸に飛び込んできた。




「……あんただよ、ばか。」





 その言葉が耳に入った瞬間、全身が凍りついた。


 頭の中で、先輩のこと、斉藤君のこと、武田のこと――すべてが混ざり合い、思考が崩れていく。


 真白は僕の胸に顔を埋めたまま、小さな声で続けた。


「ずっと前から好きだったのに……なんで気づかないの。」


 その言葉が、まっすぐ胸に突き刺さる。


「ずっと前から……。」


 その事実が、今の僕には重すぎた。





 耳元で囁かれたその言葉が、雷のように全身を駆け抜けた。


 一瞬、全身が硬直する。抱きしめられた感触、真白の温もり――それらが現実であることを信じたくない自分と、受け入れるべきだと囁く自分がせめぎ合っていた。



 声が震えている。泣いているのだろうか。それとも、僕への想いを伝えることで押し寄せてくる感情の波に耐えきれなくなっているのだろうか。


「……真白……。」


 名前を呼ぶだけで精一杯だった。



 僕の心は完全に混乱していた。


「真白が……俺を……?」


 ずっと「幼馴染」として接してきた彼女。いつも明るく、僕を元気づけてくれる存在。そんな真白が、僕にこんな想いを抱いていたなんて――考えたこともなかった。


「どうして……。」


 その言葉は自分自身に向けられていた。どうして僕は彼女の気持ちに気づけなかったのか。どうして彼女がこんなにも僕を真剣に見つめているのか。


「でも……武田の気持ちは……。」


 親友の顔が頭に浮かぶ。真白のことを「好きだ」と真剣に語った武田。その武田に、僕はどう応えればいいのか。


「先輩のことも……。」


 先輩への憧れも、胸の奥で燻り続けている。それが完全に消え去ったわけではないのに、目の前の真白の告白にどう応えればいいのかわからなかった。


「俺には……答えられない……。」


 胸の中で何度もそう呟いた。



 真白は僕に抱きついたまま、小さな声で続けた。


「ずっと一緒にいたから……私なんて、悠木にはただの幼馴染だって思ってたんだよ。でも……私は違うから。」


 彼女の声が、僕の胸に直接届いてくる。


「悠木が落ち込んでる時、元気がない時……いつもそばにいたかったのに。いつも悠木は遠いところばっかり見てた。」


 真白の声が震える。彼女の言葉の一つ一つが、僕の胸を深く刺してくる。


「ねえ、悠木……私じゃダメなの……?」





 真白が、僕の胸からそっと離れる。その瞳は涙で潤みながらも、真剣な光を宿していた。


「それで……悠木はどう思ってるの?」


 その問いかけが、まるで時間を止めたかのように響く。


 僕の心臓が大きく跳ねた。言葉が喉まで出かかるのに、何も出てこない。



「どう思ってるか……?」


 真白の問いが頭の中で何度も繰り返される。僕の心の中には、さまざまな感情がせめぎ合っていた。


「真白は……幼馴染だろ。」


 そう自分に言い聞かせようとする。だけど、胸の奥で真白の言葉がこだまする。


「ずっと好きだった。」

「私じゃダメなの?」


 その言葉を思い出すたび、心が締め付けられるような感覚に襲われる。


「でも、武田は……。」


 親友である武田の顔が浮かぶ。昨日、彼が真白への想いを語った時の真剣な表情。それを思うと、僕には何も言えなかった。


「それに……先輩……。」


 憧れ続けていた先輩の笑顔も脳裏に浮かぶ。彼女の存在が、僕にとってどれだけ大きなものだったかを思い出す。


「俺には……答えなんて出せない……。」


 心の中でそう呟くたびに、真白の瞳が僕を見つめる。



「……悠木?」


 真白の声が静かに耳に届く。その声には、不安と期待が入り混じっていた。


 だけど、僕は何も答えられなかった。


 口を開こうとするたびに、違う言葉が頭を巡る。


「もし真白の気持ちを受け入れたら、武田は……?」

「断れば、真白は……?」


 何を選んでも、誰かを傷つける――その事実が、僕の心を動けなくしていた。


「……。」


 沈黙だけが、僕と真白の間に広がっていく。




「それで……悠木はどう思ってるの?」


 真白の問いかけは、静かで真剣だった。その言葉が耳に届いた瞬間、僕は呼吸が浅くなるのを感じた。


 目の前の真白の瞳には、不安と期待、そして覚悟が入り混じった感情が宿っている。その視線に射抜かれるように、僕は息を呑んだ。


「どう思ってる……って。」


 自分の声が驚くほど小さく、震えていることに気づいた。


 風間の葛藤

「どう答えればいいんだ……。」


 心の中で叫びながら、頭の中では答えを探していた。でも、何を選んでもそれが正しいのかわからない。


「真白が俺を好きだなんて……。」


 信じられないという感情が、心の片隅でくすぶっている。これまでずっと「幼馴染」として接してきた彼女。そんな彼女の気持ちを、僕はまったく理解していなかった。


「武田の気持ちは……。」


 親友の顔が浮かぶ。彼の真剣な告白の言葉。それを裏切るようなことをしていいのか?


「先輩のことだって……。」


 憧れの存在である先輩。彼女への想いが完全に消えたわけではない。それなのに、目の前の真白にどう答えればいいのか。


「俺は……どうすればいいんだ。」


 心がぐちゃぐちゃになり、答えを見つけるどころか、考えることさえ難しくなっていく。




「悠木……?」


 真白が再び声をかけてくる。その声は、小さく震えていた。


 僕は視線を下げ、靴の先を見つめたまま動けなかった。


 言葉が続かない。


 真白は少しだけ顔を曇らせ、じっと僕を見つめている。その視線が痛いほどに突き刺さった。



「そっか……。」


 真白は小さく息を吐くと、微笑みを浮かべた。しかし、その笑顔はどこか力が入っていて、普段の彼女の無邪気なものとはまるで違った。


「ごめんね。こんなこと突然言われても困るよね。」


 彼女の声には、自分を納得させようとする気持ちと、隠しきれない寂しさが滲んでいた。その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられるように痛む。


「返事はすぐじゃなくてもいいから……。」


 真白は少しだけ視線を逸らし、続けた。


「でも、私の気持ちは本当だから。それだけはわかってほしい。」



「わかってほしい……。」


 その言葉が胸に響く。真白の本気の想い。それをどう受け止めればいいのか。


「俺には……その資格があるのか?」


 武田を裏切りたくないという気持ち。先輩への想いが消えない自分。それでも、真白の優しさと真剣さに、どう応えればいいのかがわからない。


「ごめん……。」


 僕の口から出たのは、それだけだった。



 真白は、少しだけ俯いた後、静かに背を向けた。その動作が、僕との距離をはっきりと感じさせるものだった。


「またね、悠木。」


 彼女の声は小さく、そして優しかった。でも、その優しさが、僕の胸をさらに締め付けた。



 真白の背中がゆっくりと遠ざかる。その一歩一歩が、僕にとって取り返しのつかないものを感じさせた。


「待って……。」


 心の中で叫ぶが、足は動かない。


「どうして……僕はこんなに情けないんだ。」


 目の前の真白の背中を追いかけることもできず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。



 真白の姿が完全に見えなくなった瞬間、足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。


「どうすればよかったんだ……。」


 武田の気持ち、真白の想い、そして先輩への憧れ――それらが複雑に絡み合い、僕の心を締め付ける。


「僕には……何もできない……。」


 膝の上に顔を埋めると、涙が頬を伝っていった。それは、自分の無力さと、真白の想いに応えられない情けなさが混じった涙だった。


「真白……ごめん……。」


 静かな校舎裏に、僕の嗚咽だけが響いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る