第7話 信じたくない光景
別れ道に差し掛かったとき、武田は急に足を止めた。
「……どうした?」
僕が振り返ると、武田はその場で立ち尽くしたまま、何かを考えているようだった。彼の表情は硬く、普段の軽口を叩くような雰囲気とは明らかに違っていた。
「なあ、悠木。」
低い声で名前を呼ばれ、僕は少し緊張した。
「……何?」
「斎藤のことだけどさ……。」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥にざわりとした感覚が広がる。
武田はゆっくりと振り返り、僕の目をまっすぐに見据えた。
「斎藤には、気をつけろよ。」
「気をつけろ……?」
思わず聞き返すと、武田は少し視線を落としながら続けた。
「確証はねえんだけど、あいつ……なんか嫌な感じがするんだよ。」
嫌な感じ――その言葉が妙に胸に引っかかる。
「嫌な感じって……どういうこと?」
「上手く言えねえけどさ。あいつ、妙に周りの人間と距離を詰めるのが早すぎるだろ。」
武田の言葉に、斎藤君が転校初日に一瞬でクラスの中心になった光景が思い浮かぶ。
「あいつ、そういうのが自然にできるやつなんだろ?」
「そうかもしれない。でも……」
僕が口ごもると、武田は小さく息を吐いた。
「それだけじゃないんだよ。なんて言うか……あいつの目、時々冷たいんだよな。」
武田の言葉は、重く静かに響いた。その真剣な口調に、僕は返す言葉を失った。
「お前さ、親友として言っとくけど、あいつには深入りしない方がいい。」
「深入り……?」
「気づいてねえかもしれねえけど、斎藤ってお前の周りの人間にやけに近づいてるだろ。」
その言葉に、僕はハッとした。斎藤君と真白の親しげな様子、そして先輩との距離の近さ――すべてが頭の中に浮かび上がる。
「俺の思い過ごしかもしれねえ。でも……直感的に嫌な感じがするんだ。」
武田は少し歯切れ悪く言いながら、それでも真剣な目をしていた。
「だから、お前も気をつけてくれ。」
その言葉には、親友としての強い思いが込められていた。
武田の言葉が胸の中で何度も反響する。
「……斎藤が俺の周りに?」
考えれば考えるほど、斉藤君の存在が気にかかる。彼の言葉、笑顔、そしてあの時の「君の周りの人から探す」という発言――すべてが繋がり始めるような感覚があった。
「わかった。気をつけるよ。」
僕は静かに頷いた。それだけしか言えなかった。
武田は僕の言葉を聞くと、小さく頷きながら背を向けた。しかし、数歩進んだところで再び立ち止まり、振り返る。
「それからさ……もし何かあったら、すぐに言えよ。」
「……ありがとう。」
武田の背中を見送る僕の胸には、彼の言葉の意味が重くのしかかっていた。
夜道を一人で歩く中、武田の言葉が頭の中で反響し続けていた。
「斉藤には気をつけろ。」
その警告の意味を考えるたびに、胸の奥がざわざわと波立つ。
「……あいつが、何をするって言うんだ?」
考え込んでいると、ふと前方に人影が浮かび上がった。
街灯に照らされたその二人の姿を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
「……先輩?」
視界の先には、早川先輩と斉藤君が並んで歩いていた。街灯の下で、二人の影が寄り添うように重なっている。
それだけでも十分に衝撃だった。だが、さらに目を凝らすと、彼らが手を繋いでいることに気づいた。
「嘘だ……。」
声にならない言葉が漏れる。足元がふらつき、その場に立ち尽くすしかなかった。
先輩の笑顔が、あの憧れの存在が、斉藤君の隣で見せる親しげな表情――その光景が、どうしても受け入れられなかった。
「なんで……先輩が斉藤と……?」
胸の奥に冷たい何かが広がる。理解が追いつかない。
「見なかったことにしよう。」
心の中で何度もそう自分に言い聞かせた。足を止めて、ただその場から立ち去ればいいだけのはずだった。
だけど――
「……何を話しているんだろう。」
ふと、先輩の笑顔が目に浮かぶ。斉藤君の横で、楽しそうに話すその様子が、胸の奥に突き刺さる。
「どうして、斉藤なんだ?」
疑問が湧いてくる。先輩にとって斉藤君はどんな存在なのか。二人はどうしてこんなに親しげにしているのか――知りたくないはずなのに、その答えを求めるように足が動いてしまう。
「やめろ……やめるんだ。」
頭の中で警告の声が鳴り響く。それでも、体はその声に従わない。
「追ってどうするんだ……。」
冷たい夜風が頬を撫でる。足音を立てないように慎重に歩きながら、僕の中では激しい葛藤が繰り広げられていた。
「先輩が誰といても、それは先輩の自由だろ。」
そう自分に言い聞かせる。でも、胸の奥に燻る感情がそれを拒絶する。
「だけど……先輩が斉藤と一緒だなんて……。」
目を閉じても、二人が親しげに歩く光景がまぶたの裏に焼き付いて離れない。
「見なかったことにすれば、何も変わらない。」
頭ではわかっている。それなのに、体が止まらない。
「知りたくない。でも、見届けないと落ち着かない……。」
心の中で理性と感情がせめぎ合う。理性は「帰れ」と言い続け、感情は「もっと知りたい」と訴えてくる。
「……俺は、何をやってるんだ。」
その矛盾に気づいているのに、体は二人の背中を追う。遠くからでもわかる、先輩の柔らかな笑顔。その笑顔が、斉藤君の隣で輝いているのが悔しくてたまらなかった。
「ついていったところで、何も変わらない。」
そう思いながらも、足を止めることはできなかった。
「先輩が、斉藤と……?」
その光景を確認しないまま帰るのは耐えられなかった。目の前の事実を直視しない限り、自分の中の疑念がずっと消えない気がした。
「やめろ……やめるんだ……。」
自分に言い聞かせる言葉が、次第に弱々しくなる。心の中の声が次第にかき消され、足音だけが静かな夜道に響いていた。
気づけば、僕はさらに歩みを早めていた。二人の背中が少しずつ遠ざかる。
「知りたくない……でも、このままじゃ眠れない。」
自分の中の感情に飲み込まれそうになりながらも、僕はその背中を追い続けた。
やがて二人は、立派な門の前で立ち止まった。
「……ここが、斉藤の家……?」
遠くからその光景を見つめながら、僕は思わず息を呑んだ。
門の奥には、広大な庭と高い壁に囲まれた巨大な建物がそびえ立っている。白い外壁は夜の闇に映えて、どこか威圧感を感じさせる。
その建物は、僕の日常からあまりにもかけ離れた存在だった。
先輩と斉藤のやりとり
門の前で、斉藤君が先輩に何かを話している。笑顔で斉藤君を見上げる先輩の表情は、柔らかく穏やかだった。
「……そんな顔、僕には見せたことがないのに。」
胸の奥がきしむ。彼女が楽しそうに笑うたびに、その笑顔の意味を知りたくなる。それがどうしようもなく怖い。
斉藤君は片手で門を開けると、先輩を優しく誘うように中へと促した。
「どうして……。」
二人が見せる親密さが、頭では受け入れられず、心では否定したくてもできない現実として迫ってくる。
門が静かに閉じる音が夜に響く。その音は、僕にとって現実と夢の境界を切り離すような鋭さを持っていた。
「斉藤君の家……こんな場所に住んでるなんて。」
豪邸が放つ圧倒的な存在感が、斉藤君という人物の謎をさらに深めていく。この家の中で、彼はどんな生活をしているのか。そして、先輩がそこに足を踏み入れる理由とは何なのか。
考えれば考えるほど、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「先輩……どうしてこんなところに来たんだ。」
門の向こうで、二人が消えていったのがわかる。大きな家の中に吸い込まれるように姿を消したその光景が、まるで何かを奪い取られるような気分にさせる。
「俺の知らない世界に、先輩が……。」
その事実が、僕を深い絶望に追いやった。
足がその場から動かない。息を吸おうとしても、胸が重くてうまく呼吸ができない。
「……僕には、関係ないはずだろ……。」
自分にそう言い聞かせるが、頭の中では同じ言葉がぐるぐると反響する。
「先輩が、斉藤君と……。」
その言葉だけが、心の中で大きな音を立てて響き続ける。
豪邸の扉が閉じる音が、遠くから聞こえた。その音がまるで僕と先輩の間に決定的な壁を作ったように感じられた。
「僕には、先輩の世界は遠すぎる……。」
目の前の光景が、それを強く突きつけてくる。
視界がぼやけていく。涙が溢れ出していることに気づくのに、拭う気力も湧かない。
「こんなはずじゃなかったのに……。」
嗚咽を堪えるように口を押さえる。だけど、胸の奥から湧き上がる感情はとどまることを知らなかった。
「……ここにはいられない。」
僕はその場を飛び出した。足元がおぼつかなくても、とにかく遠くへ行きたかった。
街灯の明かりがぼんやりと流れる中、ただ無心で走り続けた。
「先輩が……斉藤君と……。」
何度もその言葉が胸を刺す。涙で視界が歪み、冷たい風が頬を切るように通り過ぎる。
豪邸の門が静かに閉まる音が耳に響いた瞬間、心臓が強く締め付けられた。音は小さいのに、その衝撃は爆音のように頭の中で鳴り響く。
「……終わった。」
そう呟いた自分の声が、まるで他人のもののように冷たく聞こえた。
目の前の門の向こうには、僕が手の届かない世界が広がっている。そこに先輩がいる。そして、隣には斉藤君がいる。
「なんで……なんでだよ。」
声に出してみても、その答えが返ってくることはない。
頭の中では、先輩の笑顔が何度もフラッシュバックする。斉藤君と一緒に歩いていた姿、穏やかに微笑みながら話していた表情――そのすべてが胸を鋭く刺す。
「先輩……どうして。」
喉が詰まるような感覚に襲われる。息を吸おうとしても、うまく空気が入ってこない。
「……苦しい。」
胸の奥から、何かが湧き上がってくる。それは悲しみとも悔しさともつかない、重く冷たい感情だった。
「僕は……何をしてるんだ。」
足元がふらつき、視界がぐるぐると回る。今この場に立ち尽くしている自分が情けなくて、どこかへ逃げ出したい衝動に駆られる。
「僕なんか……先輩の隣に立つ資格なんてない。」
その考えが、頭の中を支配していく。斉藤君の隣で笑っている先輩の姿が、あまりにも遠いものに感じられる。
気づけば、頬を涙が伝っていた。その涙は静かに流れ続け、止まる気配がない。
「俺……どうすればいいんだよ……。」
声が震える。言葉にするたび、心の中の崩壊が加速していくのがわかる。
地面に力が入らず、膝が震えた。
ついに足が耐えきれなくなり、その場に膝をついた。冷たい地面の感触が、妙に現実感を伴っている。
「俺……もうダメだ……。」
絞り出すように呟いた声は、夜の闇に溶けていった。
視界に映るのは、先輩が消えていった豪邸の門だけ。その門が、僕と先輩の間に決定的な壁を作っているように感じられた。
「先輩……。」
その名前を呟いた途端、胸の奥から感情が溢れ出す。嗚咽が止まらない。
「なんで……俺じゃダメなんだ。」
地面を拳で叩くが、何も変わらない。むしろ、その音が無力さを際立たせるだけだった。
もう立ち上がる気力さえなかった。ただ、膝をついたまま涙を流し続ける。
「……こんなはずじゃなかったのに。」
泣きじゃくる声は夜風に流され、消えていく。それでも、心の中の痛みは増すばかりだった。
気づけば、僕の足は地面を蹴っていた。
「ここにいちゃダメだ……!」
頭の中で叫ぶように呟きながら、ただ前に進むことだけを考えていた。豪邸の門、先輩と斉藤の姿――それらすべてがこの場に残る限り、僕の心を締め付け続ける。
「逃げなきゃ……!」
脈拍が異常に早い。息は荒れ、肺が空気を求めて悲鳴を上げている。それでも、足は止まらなかった。
冷たい夜風が顔に突き刺さる。涙が頬を伝い、それが風に吹かれてさらに冷たくなる。視界はぼやけ、目に映るのは暗い夜道とぼんやりとした街灯の光だけ。
「苦しい……息が……。」
胸が押しつぶされるような痛みが広がる。呼吸が浅くなり、頭がクラクラと揺れる。それでも、僕の足は止まらなかった。
「もっと……遠くへ……。」
その一心で走り続ける。どれだけ走ればこの苦しさから逃れられるのか、答えはない。それでも、止まることは考えられなかった。
「先輩が……斉藤と……。」
頭の中で何度もその言葉がこだまする。そのたびに胸の奥が熱くなり、涙が次々と溢れてくる。
「俺じゃ……ダメなのか……。」
その事実を突きつけられるたびに、心が音を立てて崩れていく。
「なんで……どうして……!」
喉の奥から嗚咽が漏れる。誰もいない夜道にその声が反響し、自分の情けなさをさらに痛感させる。
無我夢中の先にあるのは――
どこを走っているのかもわからない。暗い影とぼんやりとした光だけが目の前に続いている。
「逃げたい……全部忘れたい……。」
胸の中の叫びが足を動かす。頭はぼんやりしているのに、感情だけが明確に自分を突き動かしている。
足元が危うくなるたびに転びそうになる。それでも、手をつくこともせず、ただ前を向いて走り続けた。
足が急に重くなり、ついには体が言うことを聞かなくなる。
「……無理だ……もう……。」
膝が折れ、アスファルトの冷たい地面に崩れ落ちた。息は荒く、胸の中で心臓が暴れるように脈を打つ。
「なんで……僕は……。」
それ以上言葉にならなかった。ただ、涙が頬を流れ続ける。
静まり返った夜の中、僕の嗚咽だけが響いている。膝を抱え込むようにして、ただ涙が止まるのを待つしかなかった。
「……先輩……。」
その名前を呟いた瞬間、再び感情が溢れ出す。心が壊れるような感覚に襲われ、僕はただ泣き続けた。
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