第5話 心の葛藤


 家の扉を閉めると、暗い廊下を通り抜け、自分の部屋に直行した。誰にも声をかけず、ただ無言のままドアを開け、力なく中へ入る。


 明かりをつけることもなく、僕はそのままベッドに倒れ込んだ。枕に顔を押し付けると、布の感触が冷たく、心が余計に沈むようだった。


「……はあ。」


 深いため息が、静まり返った部屋に吸い込まれる。



 今日の出来事が次々と思い出される。早川先輩の笑顔、楽しそうに電話をしていた声、そして斉藤君の名前。それらが胸の中で重なり合い、じわじわと痛みを広げていく。


「あの時……なんで言えなかったんだろう。」


 頭の中では何度も、自分が先輩に声をかけるべきだった場面を繰り返していた。連絡先を聞きたいと言おうと思っていたのに、結局何もできずに先輩の背中を見送ってしまった。


「ただ連絡先を交換して、遊びに行くだけ……それだけだろ。」


 自分にそう言い聞かせる。だけど、その声はどこか弱々しく、心に響かない。


「何も気にする必要なんてない。……それなのに。」


 枕を握りしめる手に力が入る。斉藤君のように自然に人と距離を縮められる自信が、僕にはない。それが悔しくてたまらなかった。



 斉藤君の言葉が頭の中で反響する。


「君の周りの人から探す。」


 彼の笑顔、穏やかでどこか怖さを感じさせるその表情が何度も浮かぶ。


「探す……って、一体何を。」


 意味がわからない。けれど、その言葉がずっと心に引っかかっている。


「斉藤正真……あいつは何者なんだ。」


 頭を抱えるようにしてベッドにうずくまる。彼の存在が、僕の日常を少しずつ変えている。それが良い変化ではない気がして、胸がざわついた。



 気づけば、頬を熱いものが流れていた。


「……なんで泣いてるんだよ。」


 自分に問いかけても答えは出ない。悔しさ、悲しみ、自己嫌悪――そのどれもが入り混じった涙が、枕に滲んでいく。


「……どうして俺は、こんなに弱いんだ。」


 声にならない嗚咽が喉を震わせる。暗闇の中、何度目かの涙が零れ落ちた。




 枕に顔を埋めたまま、心の中で何度も繰り返す後悔と自己嫌悪の声。静寂が支配する部屋の中で、時計の針の音すら遠く感じた。


 その時だった。


「悠木!ご飯だよ!いつまでこもってるの?」


 廊下越しに聞こえてきた姉の声が、部屋の沈黙を破った。


 その声はどこか呆れたようで、それでも心配する気持ちが隠しきれない優しさを含んでいる。


「早く来なさい!冷めちゃうでしょ!」


 扉の向こうからのその声に、僕は思わず顔を上げた。


「……姉ちゃん。」


 ぼんやりと呟きながら、自分の現実に引き戻される感覚があった。



 暗闇の中、ゆっくりと体を起こす。部屋の空気が妙に冷たく感じられたのは、明かりをつけずにいたせいかもしれない。


「……悩んでても、しょうがないか。」


 頭の中で繰り返していた後悔や不安が、少しずつ霧散していくのを感じた。悩む時間は、行動しなかった自分を責めるだけで、何も変えられない。


「よし……。」


 枕を握りしめていた手を離し、額に滲んだ汗を拭う。そしてベッドの端に腰を掛け、軽く背中を伸ばした。



「悠木!聞こえてるの?早く来なさい!」


 姉の声が再び響く。その声が、やけに心に沁みた。


 普段は少しお節介で、時に面倒に感じることもある姉だけれど、この家の中で誰よりも僕を見てくれている人だと気づいていた。




 立ち上がり、部屋の隅に置かれた鏡の前に立つ。暗闇の中に映る自分の顔は、どこか情けなく見えた。


 目の周りは赤く腫れ、涙の跡がくっきりと残っている。ぼさぼさの髪と、やつれたような顔。


「……本当に、情けないな。」


 苦笑しながら、ポケットから取り出したハンカチで顔を拭く。


「でも……これが今の俺なんだ。」


 自分に言い聞かせるように呟く。後悔しているだけでは何も変わらない。前を向かなければ、同じことを繰り返すだけだ。


「次は……勇気を出さなきゃな。」


 鏡に映る自分をじっと見つめながら、胸の中でそう決意した。





 ベッドに横になってから、何度目かの寝返りを打った。


 窓の外から月明かりが部屋に差し込み、天井にぼんやりと影を作っている。その光景を見つめながら、瞼を閉じることさえできない自分に苛立ちを覚えた。


「……眠れない。」


 時計を見ると、夜中の2時を過ぎていた。寝ようと思えば思うほど、心の中のざわつきが大きくなる。早川先輩の笑顔、斉藤君の名前、そして自分の無力さ。それらが頭の中で何度も反芻される。


「どうして……。」


 呟いても答えは出ない。ただ胸の奥がじわじわと締め付けられるような感覚が広がるだけだ。


 手元のスマホを見つめる。連絡帳には真白や武田の名前が並んでいる。でも、今この時間に相談できるわけもない。


「俺……何やってるんだろう。」


 自分への失望感と、答えの出ない不安が、さらに眠気を遠ざけていく。



 気づけば、部屋が明るくなっていた。眠った記憶はない。結局、いつの間にか意識を失っただけだったのだろう。


 目を覚まして鏡を見ると、目の下にはくっきりとクマができていた。頬の色も少し青白い。


「ひどいな、これ。」


 軽く自嘲気味に呟く。


 制服に着替えて家を出る頃には、どっと疲労感が押し寄せていた。










 朝の空気は澄んでいて少し冷たかった。夜中に何度も目を覚ましたせいで、体はだるく、頭も重い。僕は玄関を出て、ぼんやりと外の景色を眺めながら歩き出した。


 そんな時だった。


「悠木、おはよう!」


 少し遠くから、明るく元気な声が響いてくる。


 顔を上げると、真白がいつものように笑顔で手を振りながら近づいてきた。制服のスカートが軽く揺れ、彼女のショートカットの髪が朝日を浴びて輝いて見える。


「……やぁ。」


 無理やり声を出すものの、それは力のない挨拶だった。


 真白は僕の顔をじっと見つめると、眉をひそめて心配そうな表情を浮かべた。


「ちょっと、何その顔。すごいクマできてるじゃん!」


 彼女が一歩近づき、僕の顔を覗き込む。その距離の近さに、少しだけ居心地の悪さを感じた。


「……寝不足でさ。」


「寝不足?夜更かしでもしたの?」


「いや、まあ……色々あって。」


 そう答える僕の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。



「色々って何?言ってみなよ。」


 真白は軽い調子で問いかけてくる。だけど、その瞳には本気で心配している色が見え隠れしていた。


「別に、大したことじゃないよ。」


 適当に誤魔化そうとする僕を、彼女はじっと見つめていた。そして、少しだけ困ったような顔をした後、ふっと笑顔を浮かべた。


「何かあったら、なんでも言ってよね?」


 そう言うと、真白は僕の手を軽く握った。その手は小さくて温かく、僕の冷えた指先にじんわりとした安心感を伝えてくる。


「……ありがとう。」


 その一言を絞り出すのが精一杯だった。でも、彼女は満足そうに頷いた。



「それにしても、本当に何があったの?悠木がこんなに元気ないなんて珍しいし。」


 真白が少し体を揺らしながら話しかけてくる。彼女の声は相変わらず明るく、僕が抱えているモヤモヤとは正反対の空気をまとっていた。


「……まあ、そんな大したことじゃないから。」


 もう一度そう繰り返す。だけど、真白はあきらめる様子もなく、首を傾げながら言った。


「ねえ、悠木。私たち、家も隣同士だし、ずっと一緒じゃん?だからさ、困ったことがあったら言ってほしいんだよね。」


 彼女の言葉は軽い調子に見えたけれど、その奥には確かな温かさがあった。


「……ありがとう。」


 また同じ言葉を繰り返した。だけど、その言葉には少しだけ感謝の色が込められていた。




 学校の昇降口を抜けると、教室に向かう廊下はすでに賑やかな声で満ちていた。僕は人混みを避けるように歩きながら、自分の席へ向かう。


 席に着くとすぐ、隣から武田がじろりとこちらを見てきた。


「おい悠木、なんだその顔。寝てねえのか?」



 武田は机に肘をつきながら、軽く首をかしげて僕の顔を覗き込む。その目には、冗談半分の軽さと、真剣な洞察の鋭さが混じっていた。



「……まあ、ちょっとね。」


 曖昧に答えながら鞄を机の上に置く。だが、武田は納得しないようだった。


「ちょっとってレベルじゃねえだろ。そのクマ、化け物かってくらい深いぞ。」


「言い過ぎだろ……。」


 少し苦笑しながら返すが、武田は視線を外さない。



「で、何があった?」


 唐突にそう問いかけてくる。武田のストレートな物言いに、一瞬返答に詰まった。


「別に、なんでもないよ。」


「なんでもないやつがそんな顔するか?いいから言えよ。」


 武田の声には、どこか力強い説得力があった。彼は普段から口は悪いけれど、こういう時には妙に相手の心を突く。


「本当に大したことじゃないから。」


 もう一度そう繰り返すと、武田は小さく舌打ちをして背もたれに寄りかかった。


「お前がそう言うなら無理には聞かねえけど……真白には相談すんだろ?」


「えっ?」


 思わず武田を見つめる。彼は気まずそうに視線を逸らしながら、ぼそりと言った。


「だってお前、あいつには何でも話せる感じだろ。」


「……別に、そんなことないよ。」


 そう言ったものの、武田の言葉に少しだけ胸がチクリと痛んだ。真白と武田、どちらも僕の大切な友達だけれど、真白の方が話しやすいと思っているのかもしれない――その事実を思い知らされた気がした。



「おーい、悠木!」


 そこに、真白の明るい声が割って入った。彼女はクラスのドアを開けると、そのまま僕の席まで駆け寄ってくる。


「今日、放課後遊びに行こうよ!」


 いきなりの提案に、僕も武田も同時に「えっ?」と声を上げた。


「悠木、なんか最近元気ないからさ。気分転換した方がいいでしょ?武田も一緒に行こうよ!」


 真白はにこにこと笑顔を浮かべながら、武田の方にも声をかける。その笑顔に、僕たちは断る理由を失ったように感じた。


「いや、別に……そんな気分でもないし。」


 そう言ってみるものの、真白は全く気にする様子もなく続ける。


「だーめ!私が決めたんだから、絶対行くの!」


 武田が少し呆れたように肩をすくめて言った。


「真白、お前、強引すぎだろ。」


「いいのいいの!悠木のためだもん!」


 真白は得意げに笑い、僕と武田を交互に見つめた。


「じゃあ決まりね!放課後、みんなで出かけるよ!」


 その明るさに引っ張られるように、僕と武田は渋々ながら頷いた。



 真白の無邪気な明るさが、僕の中の重たい気持ちを少しだけ押し流していく。それでも、心の奥底にはまだ何かが引っかかっていた。


「……こんなふうに誘ってくれる人がいるって、ありがたいな。」


 真白や武田の存在に感謝しながら、僕はほんの少しだけ前向きになる気がした。

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